野口英世








































野口 英世

Noguchi Hideyo.jpg
生誕
1876年11月9日[1][2]
日本の旗 日本 福島県耶麻郡三ッ和村
(現:耶麻郡猪苗代町)[1][2]
死没
(1928-05-21) 1928年5月21日(51歳没)
Flag of the Gold Coast (1877–1957).svg 英領ゴールド・コースト
(現: ガーナの旗ガーナ共和国 アクラ)
国籍
日本の旗 日本
研究分野
細菌学
研究機関
ロックフェラー医学研究所
出身校
済生学舎(日本医科大学の前身。ただし、野口が学んだ当時は「医術開業試験予備校」と言うべき存在。また、野口の在校期間は数カ月に過ぎない)
主な業績
黄熱病、梅毒等の研究
主な受賞歴
正五位
勲二等旭日重光章

プロジェクト:人物伝

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日[1] - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の医師、細菌学者。福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)[1][2]出身。


高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(現在の日本医科大学)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手の職に就き、研究者としての名声を得てからロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。


栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。


妻はメリー・ロレッタ・ダージス。




目次






  • 1 年譜


    • 1.1 名誉称号授与歴


    • 1.2 受賞歴




  • 2 人物


    • 2.1 評価


    • 2.2 逸話


      • 2.2.1 両親と生家


      • 2.2.2 異性関係


      • 2.2.3 血脇守之助との関係


      • 2.2.4 医学者として


      • 2.2.5 在米生活




    • 2.3 野口英世語録




  • 3 後世への影響


  • 4 系譜


  • 5 主要論文


  • 6 野口英世を扱った作品


  • 7 脚注


    • 7.1 注釈


    • 7.2 出典




  • 8 参考文献


  • 9 関連項目


    • 9.1 関連人物




  • 10 外部リンク





年譜




野口英世と母シカ
(野口英世記念館蔵)



1876年(明治9年)

11月9日 - 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれ、清作(せいさく)と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名した)[注 1]

1878年(明治11年)4月

清作は1歳の時に囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負う[注 2]

1883年(明治16年)

三ッ和小学校に入学[注 3]。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される[注 4]。小学校の頃は、左手に大火傷をしていたので、「てんぼう」と言われていじめられていた。

1889年(明治22年)4月

猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する[注 5]

1892年(明治25年)10月

左手の障害を嘆く清作の作文が小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、清作の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。清作はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなった。

1893年(明治26年)

3月 - 清作は猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。細菌学を知ったのもこの頃であったという。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(東京歯科大学の前身)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う。

1896年(明治29年)

9月 - 清作は小林らから40円もの大金を借りて上京し、医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。その結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学では合格不可能であったため、医術開業試験予備校の済生学舎(日本医科大学の前身)へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功し[注 6]、済世学舎に通うことが可能となった。済生学舎の近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。

1897年(明治30年)

臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。その結果、打診が可能になり、10月、後期試験にも合格。21歳で医師免許を取得した。医師免許は取得したものの、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から臨床医の道を断念し、基礎医学研究者の道を歩むことを決心する。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。

1898年(明治31年)

10月 - 順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める[注 7]。研究に携わることはなかったが、語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。同年8月、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意する。郷里の小林に相談した結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた[注 8]。本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、英世は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した。

1899年(明治32年)

4月 - 伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。

5月 - 伝染病研究所の蔵書が、英世経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚した。英世はこの事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となる。

9月 - 横浜港に入港した“亜米利加丸”の船内でペスト患者を発見・診断した。

10月 - 検疫官補の仕事ぶりが認められ、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省から要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。清国では牛荘を中心に一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受けて残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大学・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得ることはできなかった。

1900年(明治33年)

6月 - 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化。

7月 - 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷。小林に留学資金の融通を要請するも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否される。再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻る。

12月5日 - 箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航[注 9]。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル[要曖昧さ回避]博士からも絶賛され、英世はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなる[注 10]

1901年(明治34年)


ロックフェラー医学研究所が設立される。この研究所の設立にあたっては、フレクスナーが組織構成を任されていた。

キューバの眼科医カルロス・フィンレーとアメリカの軍医、ウォルター・リード大佐が人体実験により黄熱が蚊により伝染することを突き止める。また黄熱患者の血清を細菌濾過器に通過させることにより、黄熱病病原体が血液中にあり、それが濾過性のウイルスであることを証明する(英世は後年の南米での黄熱研究でこの証明を受け入れていない)。

1903年(明治36年)

10月 - フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続け、物理学者アーレニウス・マドセンとの連名でいくつかの論文を執筆する。

1904年(明治37年)

10月 - アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。

1905年(明治38年)

血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄。

1911年(明治44年)

8月 - 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなる(ただし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功した者がいない。試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は英世の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)。[注 11]京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、医学博士の学位を授与される[3]

4月10日 - 34歳で、同じ年のアメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚する。妻との間に子供はなく、養子縁組の時期など、詳細は不明だが甥(姉・イヌの長男)を養子にしたとされ、夫人は福島の義姉に仕送りを欠かさなかったと言う。妻は戦後間もない1947年に71歳で亡くなり、姉のイヌも明治、大正、昭和の激動の時代を生き、1963年、90歳の天寿を全うした。

1913年(大正2年)

梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表(ただし、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)。

1914年(大正3年)

4月 ‐ 東京大学より理学博士の学位を授与される[4]。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。

1915年(大正4年)

9月5日 - 英世は年老いた母との再会を果たすため、15年振りに日本に帰国する。帝国学士院より恩賜賞を授けられる[5]。また、この際にワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉・井戸泰の研究および伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察している。この帰国の時、恩師の小林栄と血脇守之助、古くからの親友の八子弥壽平には懐中時計を贈っている。10月には、母、小林先生と共に、講演旅行をし、三重、大阪、京都などを見物する。11月4日に日本を離れる。以後、英世は日本に帰国していない。2度目のノーベル医学賞候補となった。

1918年(大正7年)

6月 - 英世はロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。その頃に開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。英世に黄熱の臨床経験はなかったが、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後(日数については諸説あり)には病原体を特定することに成功し、これをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる(ただし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。後年アフリカの研究で英世は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている)。この成果により、英世はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がった。このとき、英世の母のシカがスペインかぜにより11月10日に65歳で死去している。

1919年(大正8年)

12月 - 黄熱病の研究と撲滅のための医師団としてロックフェラー医学研究所からメキシコへ派遣。

1920年(大正9年)

4月 - ペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与。リマ市滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。

1923年(大正12年)

7月 - 英世の父・佐代助が72歳で死去した。

11月 - 日本の帝国学士院会員となる。

ジャマイカ・キングストン「熱帯病会議」で鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行う。ここでキューバの研究医アグラモンテから黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うのみではないかと指摘を受ける。会議後アグラモンテを招き、自らの研究結果を見せて説得を試みる。

1924年(大正13年)

7月 - アフリカ・セネガルにて黄熱病が発生。イギリス、フランスの研究施設より野口ワクチンが効果を見せずイクテロイデスが発見されない旨の報告を受ける。ロックフェラー国際衛生局がナイジェリアのラゴスに黄熱病対策組織として医学研究所本部を設置し、英世の部下であるイギリス出身の医学者エイドリアン・ストークス博士を派遣するも同様の研究結果となる。

1926年(大正15年)

ペルー疣とオロヤ熱が同一病原であることは1885年にペルーの医学生、ダニエル・アルシデス・カリオンが証明していたが、アメリカの学会の一部で否定されていた。これを病原であるバルトネージャ菌分離と猿による実験で証明し、論争に終止符を打つ。

南アフリカ出身の医学者マックス・タイラー[注 12]らが、黄熱ウイルスの単離に成功。黄熱病についての野口説(イクテロイデスが病原であること)を反証する。

1927年(昭和2年)


トラコーマ病原体を発表する(ただし、後年クラミジアが発見され否定される)。

ロックフェラー医学研究所ラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で9月に死亡。

10月23日 - アフリカへ黄熱病研究のため出張。

11月16日 - 英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない英世に対し、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部からは病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続く。

12月26日 - ウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受け、血液を採取に行く。

1928年(昭和3年)

1月2日 - 英世自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し、入院(ただし、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられる)。

1月7日 - 回復し退院、研究を再開する。

3月末、フレクスナー宛にイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出す。秘書への手紙に濾過性微生物(ウイルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定。

4月 - フレクスナー宛にアメリカで研究を継続したいため、5月19日にアクラを発つと打電。

5月11日 - ラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調が悪化する。

5月13日 - 黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、英世は(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度罹患したのを不可思議に思いながら)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされている。

5月16日 - 回復し、空腹を訴える程食欲も戻る。その旨はフレクスナーにも打電される。

5月18日 - 病状が再度悪化。

5月21日 - 昼頃、病室で死去。51歳だった。英世の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、英世の死因が黄熱病であることが確認された(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)。

6月15日 - アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。



名誉称号授与歴



  • 1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士

  • 1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授

  • 1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士

  • 1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士

  • 1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士



受賞歴



  • 1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)

  • 1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)

  • 1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章

  • 1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)

  • 1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)

  • 1925年(大正15年)12月15日 - 正五位[6]

  • 同年 - コーベル賞牌

  • 1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス)



人物


英世は貧しい農家に生まれ、1歳で左手に大火傷を負ったハンディキャップを克服してほぼ独学のみで医師となり、さらには細菌学者として世界的な名声を得た。21世紀の現在に至るまで、日本では子供向けの偉人伝が多数刊行され続けており、医学研究者としては非常に知名度が高い。2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっている。


趣味は浪花節、将棋、囲碁、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンには英世自身が設計した別荘があり、油絵の多くはここで描かれた(画家でもある堀市郎に師事)。


アメリカ合衆国・ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館入り口には、ロックフェラーとロシア人彫刻家カニョンコフが制作した英世の胸像がある。この胸像はロックフェラー財団からの贈呈により、福島県の猪苗代町にある野口英世記念館と東京都にある野口英世記念会館にも設置されている。また長野県佐久市にある川村吾蔵記念館には彫塑家川村吾蔵が制作した英世の胸像がある。さらに東京、上野恩賜公園の国立科学博物館前にも英世の銅像がある。



評価


英世は細菌学の研究者として著名であるが、研究スタイルは膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。想定される実験パターンを全て完璧に実行し、なおかつその作業は驚異的なスピードと正確さをもって行われた。この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では英世を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。この評価は英世本人も少なからず気にしていたようで、英世は晩年になってから同僚に「自分のような古いスタイルの研究者は、不要になる時代がもうすぐ来るだろう」と語っていたと伝えられている。1919年春、訪米した知人の医師・畑嘉聞に「十分とはいえない段階の論文であっても研究所に急かされ、結果、発表したものが賞賛されて責任が圧し掛かり内心、忸怩たる気持ちになるが、その賞賛の声を発奮材料に研究に打ち込む」といった旨を明かしている。現在でも評価が高い研究は、顕微鏡観察による病理学・血清学的研究である。


英世の最初の業績は、蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関するもので、血管の内皮にもたらされた傷害により出血と浮腫が引き起こされる機構についての最初の詳細な病理学的記述である。これは、その後のガラガラヘビ蛇毒の血清をヤギで作製することの基礎研究につながった。


細菌学の分野では、梅毒スピロヘータを運動失調症、関節障害に至る末期神経梅毒患者(脊髄癆)の脳標本で発見したことが著名である(抗生剤の大量投与が必要であり、多発性硬化症、脊髄変性症との鑑別が重要である)。当時の顕微鏡で数万枚にもおよぶ病理組織標本の観察により確認に至ったもので、神経性疾患と感染症との関連を明らかにした最初期の業績として評価が特に高い[7]。1920年代、精神科病棟での入院患者の半数が第3期以降の梅毒患者であり、その原因を明らかにしたことが評価される。


また、サシチョウバエにより媒介されるペルー疣(四肢に数センチに達する疣ができる)と溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱が同じカリオン氏病(バルトネラ症)であることを証明した[8]。これについては1885年ペルーの医学生ダニエル・カリオン(英語版)が、それまでペルーの医師の間で唱えられてきた説を自らの身体を実験体として示したものであり、ペルー国内では認められたものの、アメリカのハーバード大学により否定されていた。英世の業績はカリオンの報告を科学的に証明したもので、その成否についてハーバード大学と大変な議論を経た後に英世の成果が正しいとされた。このため南アメリカでの英世の評価は高く、同地域の後進の医学研究者への影響は大きい。


他には、血清学的ヘルペドモナド HERPETOMONADS とリーシュマニア LEISHMANIAS の分類(1926年サイエンス誌)などがある。


一方で、のちに否定された研究業績として挙げられるのが病原性梅毒スピロヘータの純粋培養[注 11]と黄熱病の研究[注 13]である。急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病病原体、黄熱病病原体等の発見特定の業績に関しても、のちにウイルスが病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。これは、英世の研究時期において、濾過性病原体としてのウイルスの存在はすでに示唆されており、光学顕微鏡下で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったことが考えられる。また、発表された200本あまりの論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備も指摘されている[9]


前記の通り、英世はノーベル賞に何度も推薦を受けているが、英世自身は1926年のノーベル医学・生理学賞に、バクテリオファージ研究者であるフェリックス・デレーユを推薦している[10][注 14]











































































研究内容 年度 成果 現代の評価
蛇毒の血清学的研究 1900年(明治33年) -- 蛇毒の最初期の血清学的研究として評価されている
梅毒スピロヘータの純粋培養 1911年(明治44年) -- ほぼ否定(詳細は上記記事および脚注[注 11]を参照:継代培養された野口株からは病原性が喪失していたこと、非病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は前例があること、英世の報告した培養条件である完全無酸素下では病原性梅毒スピロヘータは増殖しないことなどが問題点である)
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見 1913年(大正2年) -- 進行性麻痺・脊髄癆が梅毒の進行例であることを証明したもので、評価されている
梅毒スピロヘータの感染実験による梅毒の再現 1913年(大正2年) -- 進行性麻痺患者の脳組織からウサギへの感染実験により麻痺を再現した。梅毒の進行期の病態を生物学的に証明したものとして、評価されている
小児麻痺病原体特定 1913年(大正2年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
狂犬病病原体特定 1913年(大正2年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
南米・黄熱病病原体特定 1918年(大正7年) ワクチンにより南米でのワイル病流行が収束 稲田龍吉によってすでに日本で同定されていたワイル病の病原体と、英世が報告したスピロヘータが血清学的に同一であることが、のちの黄熱病ウイルス発見者のマックス・タイラーの研究によって明らかにされた。黄熱病の病原体の報告としては誤りであったが、南米でのワイル病病原体を初めて発見したとして評価される。
ペルー疣とオロヤ熱が同じカリオン氏病の症状であることを証明 1926年(大正15年) -- 評価されている(カリオンの自らを犠牲にした実験の評価は当時のアメリカなど一部で懐疑的な見解があった)。
熱帯リーシュマニア症の研究 1927年(昭和2年) -- 培養技術、血清学的研究および形態的記述が評価されている。
トラコーマ病原体特定 1927年(昭和2年) -- 別病原体(クラミジア)が判明し否定される。
アフリカ・黄熱病原体特定(未発表) 1928年(昭和3年) -- 英世の秘書宛書簡に、黄熱病原体が濾過性(ウイルス)である旨の記述がある。


逸話



両親と生家


英世の父の佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、佐代助本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。後年、英世が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの英世の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも佐代助から受け継いだ才能であったと言われている。
ただし英世は、酒好き放蕩好きな浪費家という佐代助の欠点をも受け継いでいるが、伝記では伏せられることが多い。


英世の母のシカは農作業のかたわらで副業として産婆を営むようになる。1899年、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、シカは文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。英世は渡米後、母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。これは母親が大変字が下手な事を考慮して送ったものである。前記の通り、英世の母のシカはもともと文字の読み書きができず、正式な産婆の免許を取得するために苦労して一から読み書きを学んだ事情がある。1912年にシカが英世に宛てて書いた手紙が1通現存しており、当て字の漢字(「勉強」を「べん京」)が混じったり、会津弁の表現・発音がそのまま出たりした(共通語なら「に」と書く助詞を「さ」、「え」となる箇所を「い(イ)」と書いたり、「写真」を「さしん」と書くなど)文章に、筆記の苦労がうかがわれる内容となっている[11]。一度の帰国は母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。


少年期の英世は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川のほとりでの以下ような口論があった旨、姉の野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」(野口英世記念会「野口英世-少年期」)



異性関係


英世は会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年(明治32年)清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には英世と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで、下宿の主婦に依頼して以降の面会を拒否した。その後、山内は1902年(明治35年)に20歳で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚。会津若松で三省堂医院を開業する。英世は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚したことを知り、「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊地に送っている。英世が日本に帰郷した際の記念写真には山内の姿がある。


渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の英世の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、英世は自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、英世からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。



血脇守之助との関係


英世は貧乏育ちのためか金銭感覚が疎く、金遣いが荒かったことが知られる。留学前に血脇守之助からもらった当時500円という大金を遊興で使い切ってしまった時には、血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったといわれる。それでも血脇は英世の才能を信じて金貸しへ行き、英世のために再び留学資金を準備した。このことに英世は涙を流したと言われている。1922年(大正11年)、血脇がアメリカを訪れたとき、英世は大喜びして何日間も朝から夜まで付きっきりで案内してまわった。血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまで会わせた。別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言ったが、英世は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいか知れません」と言葉を返した。



医学者として


フレクスナーに渡した履歴書には1893年(明治26年)5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨が記載されている。実際には1893年(明治26年)には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎にも、僅か数か月しか通っていない。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった(もっとも済生学舎は当時、「東京専門学校済生学舎」と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。ただし半年で卒業しているので3年も在籍はしていない。またMDは医師免許と同義語であり、医学博士Ph.D.とは異なる。現在でも日本の医師は、医学士BMBSであっても米国ではMDと称している)。1927年(昭和2年)に友人の堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために英世が大学を卒業していないことを語ったところ憤慨し、電報で取り消しを求めた。


英世がロックフェラー研究所に勤めていた頃、日本からの留学生と一緒に住んでいた時期がある。1年ほどの月日が経ったある日の夜、英世は留学生に「君もここへ来てから色々と勉強したことだろう。そろそろ論文を発表したらどうだい」と勧めたが、「英語が拙いため書けない」と拒まれてしまう。すると、「それならば、君が日本語で話したことを、僕が英文に直してあげよう」と言って、共同で執筆することにした。完成後、英世は「すぐにポストへ出して来なさい」と申告したが、留学生は「流石にもう遅いから明日にしましょう」と言い返した。これに対して英世は、「それでは駄目だ。今すぐ入れてきなさい。君と同じ研究を誰かがやっているかもしれないんだ。もし1日でも発表が遅れたら、君の発表じゃなくなってしまう。全てが無駄になるんだ」と強く言い聞かせた。留学生は強く感銘を受け、暗い夜道を走って論文を提出し、無事に帰国したという。



在米生活


ニューヨークでの将棋の相手は絵の師でもある写真家の堀市郎であり、囲碁の相手は彫塑家の川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。


1904年(明治37年)、英世が24歳の時に作家の星新一の父である事業家星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。のちにお互いが千円紙幣の肖像に採用されることになる。


台湾医学界の重鎮であった杜聡明が京都大学の学生時代、ニューヨーク、ロックフェラー研究所にいる英世を訪ねた。研究所の食堂で英世と杜が日本語で歓談していると、食堂内に米国人が入ってきた。その途端、英世はさっと会話を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、「これが真の国際マナーであり、国際人というものか」と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている(「中国名医列伝」・中公新書)。





野口英世語録



  • 志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)

  • 人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。

  • 努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。

  • 絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。

  • 人は能力だけではこの世に立つことはできない。能力と共に徳義を持つことが必要である。

  • 模倣から出発して独創にまで伸びてゆくのが、日本人の優れた性質である。それは逞しい能力でもある。


  • ナポレオンは三時間しか寝なかった(口語)

  • 偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ(口語)

  • 教えに来たのではありません。習いに来たのです。(ブラジルを訪れた時)

  • 自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。

  • 私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきた。


  • 学問は一種のギャンブルである。


  • 障害者であることは、学問においては問題にならない。

  • 名誉のためなら危ない橋でも渡る。

  • 過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ。

  • 忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)

  • 英雄却相親(星一との写真に添え書き)

  • 人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである。

  • まて己 咲かで散りなば 何が梅(順天堂医院の助手の頃に詠んだもの)

  • 正直であることが最高の手段だ。



後世への影響




野口英世の像(上野公園)




野口英世記念会館



  • 「偉人伝」としては、戦前からよく取上げられる人物であった。

  • 野口英世記念医学賞 - 財団法人野口英世記念会が優れた医学研究に贈る賞(1957年創設)[12]

  • 2004年11月1日に発行された千円紙幣(日本銀行券E券)の肖像画になっている。

  • 2004年9月13日、野口英世の出身地に因んで、福島県耶麻郡猪苗代町の翁島郵便局が野口英世の里郵便局[13]と改称された。


  • 野口英世アフリカ賞 - 日本で開催されるアフリカ開発会議で表彰される賞。医学者が主な受賞対象となる。



系譜


  • 野口家

清太郎━━岩吉==善之助(渡部氏)==佐代助(小檜山氏)━━清作(英世)


  • 戸田純子(埼玉県立皆野高等学校教諭。戦国時代の連歌師である猪苗代兼載を研究している)によると、父である佐代助の実家「小檜山氏」は、猪苗代兼載にゆかりがある家柄[14]


主要論文



  • サイモン・フレキス子ル、野口英世、蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 細菌學雜誌 1902年 1902巻 76号 p.193-222, doi:10.14828/jsb1895.1902.193

  • サイモン・フレキス子ル、野口英世、【原著】蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 順天堂医学 1902年 M35巻 352号 p.259-290, doi:10.14789/pjmj.M35.259

  • 野口英世、黄熱病病原ニ關スル研究 実験医学雑誌 1919年 3巻 1号 p.59-60, doi:10.3412/jsb1917.3.1_59



野口英世を扱った作品



  • 野口英世 - 大日本雄弁会講談社の絵本。


  • 遠き落日(渡辺淳一) - 小説。後に映画化。


  • ノグチの母 野口英世物語(新藤兼人) - 小説。


  • 人間野口英世(池田貞武) - 小説。

  • 帰国(渡辺祐一) - 小説。


  • 野口英世最後のたたかい(中山達郎) - ノンフィクション。


  • Dr.NOGUCHI(むつ利之) - 漫画(全17巻)。

  • 野口英世(馬場正男・浜野卓也) - ポプラ社の伝記。


  • 野口英世の少年時代 - 映画


この他、児童向けの伝記や学習漫画などにも取り上げられている。



脚注


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注釈





  1. ^ 野口家は代々貧農の家系であった。清作の母のシカは勤勉で真面目な性格であり、その性格が清作にも受け継がれたと言われる。一方、母の奉公先の二瓶家の紹介で婿入りした父の佐代助は、酒好きの怠け者で野口家の貧困に拍車をかけていたと言われ、清作の放蕩で多額の借金を重ねる悪癖は父親譲りであったとも言われている。しかし、父・佐代助は寺子屋に通って読み書きを習得しており、25年間にわたって逓送人(郵便配達人)を務めていた。また妻のシカは「おとっつあは天神様を背負ってきたんだべ」と言っており、清作の師・小林栄は著書の『博士の父』の中で「多くの人は父(佐代助)が酒飲みで家人に難儀をさせたことを悪く言うが、それではあまりにも気の毒だと思う。父上は決して悪い人ではない。まことにさっぱりとした良い人で無邪気な人である。手先の器用な人で、農業などしても巧者な人であった。」と評している(http://www.minyu-net.com/serial/isei/isei34.html 野口英世の父・佐代助])。


  2. ^ この当時、医者といえば内科的漢方医が主流で、また農村においては医療と法術祈祷の境界も明確ならざる認識であり、祈祷師による医学的根拠のない民間治療に頼る以外に方法はなく、その結果、清作の左手の指は癒着してしまった。また、明治政府は新しく医師免許法を敷き西洋医を都市部へ導入しようとしていた段階で、三ッ和村には外科手術が可能な西洋医はおらず、仮にいたとしても野口家の経済状態では治療費を払うこともできなかったと思われる。また、たとえ治療費を払えるだけの経済力が野口家にあったとしても、当時の医療技術では、清作の左手を元通りにできるような治療が可能であったとは考えにくい。


  3. ^ 当時、義務教育制度はなかったが、小学校の学費は無料で、しかも小学校は野口家の向かい、母のシカが奉公していた二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は公式に学務委員を務めていた。当時、多くの学童が一里〜二里の道程を歩いて学校に通っていた状況に鑑みると、清作が勉学を行うには恵まれた環境であったと言える。


  4. ^ 当時、半数以上の学童が様々な事情で退学していく中、家の手伝いなどで勉強が疎かになり落第したこともあったものの、上級生の時の成績は優秀で小学校卒業時の成績は首席であった。


  5. ^ 当時、高等小学校に通うことができたのは一部の裕福な家庭の子息だけであったが、小林は清作のために自ら学費を援助しており、当時の清作に対する小林の期待の大きさがうかがえる。また、清作自身も母や小林らの期待によく応え、高等小学校でも体操以外の成績はすべて首席であった。清作は左手が不自由なために、体操だけは苦手であったと言われている。また、現存する清作の4年間の成績表の体操の項目には点数が入っておらず、体操は学業評価の対象ではなかったと考えられる。なお、清作は右手で箸を持ちながら左手で弁当箱を持つことができなかったため、清作が学校に持って行く弁当は箸を使わずに右手だけで食べられるよう、いつも握り飯だったと言われている。


  6. ^ 清作に15円を全額渡すと即座に放蕩してしまい、学費が払えなくなることが分かったため、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すようになったという逸話がある。


  7. ^ 伝染病研究所では学閥により冷遇されており、後に清作が研究所を辞めてアメリカへ渡る原因になったと言われるが、所長の北里柴三郎はその後も清作に対して便宜を図っており、また清作もアメリカから北里に宛てて多くの論文を送っていることから、清作と北里の関係は険悪であったとは考えにくく、この説に疑問を唱える意見もある。もともと、伝染病研究所は北里と帝国大学医学部との対立を発端として設立されており、研究所内における学閥的な風潮はそれほど強くはなかったと思われる。ただし、当時の研究員が平均28歳前後で大学を卒業し入所していた事情を考慮すると、22歳で紹介入所した清作が若輩扱いされていたのは年功序列的に致し方のない面もある。また、清作は当時、研究所勤務と同時に順天堂の雑誌編集と高山高等歯科医学院の講師も継続兼務しており、研究のための十分な時間を確保できず、研究所に在籍した8ヶ月の間に清作は一切研究に関わることはできなかったため、研究所内においては医学者としての実績・評価はない。


  8. ^ 「当世書生気質」が発刊されたのは1885年(明治18年)であり、当時まだ9歳であった英世の年齢を考慮しても主人公の名前と野口清作との間に直接の関係はない。しかし、逍遙は後に「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったと知り、光栄に思う」との旨を語っている。


  9. ^ 斉藤ます子との結婚を前提とした婚約持参金の他に、小林夫人が内職で作った金、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどが使い果たされてしまった。結局、出航直前に血脇が高利貸しから借りた300円の金が渡航費となった。


  10. ^ ミッチェル博士はもともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいたが、ミッチェル博士は英世の作成した論文を読んで、「私と父が親子二代にわたって取り組んできた長年の研究が、一人の日本人青年の協力によってようやく完成を迎えた」と賞賛し、研究の成果はミッチェル・フレクスナー・英世の連名で正式に学会で発表された。

  11. ^ abc同時期に同じ研究室で仕事をしていたハンス・ジンサー(Hans Zinsser)は、英世の方法により繰り返し純粋培養された野口株が病原性を失い、非病原性の梅毒スピロヘータの混入により変成した可能性があると報告した。((a) Zinsser, H.; Hopkins, J. G.; Gilbert R. "NOTES ON THE CULTIVATION OF TREPONEMA PALLIDUM" J. Exp. Med. 1915, 21(3), 213-221. (b) Zinsser, H.; Hopkins, J. G. "ANTIBODY FORMING AGAINST TREPONEMA PALLIDUM-AGGLUTINATION" J. Exp. Med. 1915, 21(6), 576-582.)。一方、英世の報告に遅れて単離されたニコルズI株は、純粋培養には失敗したものの病原性を有し(Nichols, H. J.; Hough, W. H. "Demonstration of Sprochaeta pallida in the cerebrospinal fluid from a patient with nervous relapse following the use of salvarsan" J. Am. Med. Assoc. 1913, 60, 108-110.)、生きた動物の睾丸を介して継代培養されて来た。試験管内でのニコルズI株の培養は、1981年にハワード・フィールドスティールらによって成功が報告され、別のグループによって独立に追試されたが、死んだウサギの睾丸の組織を培地としており、現在でも完全な純粋培養の報告例はない((a) Fieldsteel, A. H.; Cox, D. L.; Moeckli, R. A. "Cultivation of Virulent Treponema pallidum in Tissue Culture" Infect. Immun. 1981, 32(2), 908-915.(b) Norris, S. J. "In Vitro Cultivation of Treponema pallidum: Independent Confirmation" Infect. Immun. 1982, 36(1), 437-439. )。今日野口株として保存されている標本の遺伝子の型は、病原性のTreponema pallidumではなく、非病原性のTreponema refrigensという別種のものであり、両者ともに1905年にドイツのフリッツ・シャウディン(Fritz Schaudinn)とエーリヒ・ホフマン(Erich Hoffmann)らのグループによって梅毒患者から単離と新種記載を報告された梅毒スピロヘータである。非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema refrigensと、英世本人が1912年に新種記載と純粋培養を報告した別の非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema phagedenis (Noguchi, T. "PURE CULTIVATION OF SPIROCHÆTA PHAGEDENIS (NEW SPECIES), A SPIRAL ORGANISM FOUND IN PHAGEDENIC LESIONS ON HUMAN EXTERNAL GENITALIA" J. Exp. Med. 1912, 16(3), 216-268.)とは、英世の純粋培養の報告と前後して他に5例の純粋培養が報告されており、英世が最初ではない。また一般に非病原性梅毒スピロヘータを含むトレポネマ属は嫌気性細菌であり、英世も病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には酸素の完全な除去が必須であると強調し、独自の酸素除去の実験項を含めて論文に報告したが、後に病原性梅毒スピロヘータであるTreponema pallidumがトレポネマ属としては例外的に酸素を必要とする微好気性細菌であることが判明し、フィールドスティールらのニコルズI株の試験管培養も1.5%の酸素濃度下で成功しており、病原性梅毒スピロヘータの培養には酸素濃度のコントロールが重要であった。英世が報告した方法では病原性梅毒スピロヘータの増殖が困難であることから、現在では英世は病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には成功していなかったと考えられている。


  12. ^ 1930年に黄熱ワクチンを完成させ、1951年にその功績でノーベル医学賞を受賞する。


  13. ^ 英世の業績の中では黄熱病の研究が一般的には有名だが、現在、南アメリカの「黄熱病」で英世が発見したと報告した病原菌「レプトスピラ・イクテロイデス」は、黄熱病と類似した黄疸、発熱をきたすワイル病(黄疸出血性レプトスピラ症)の病原体と同一であることが黄熱病ウイルスの発見およびワクチンの開発によりノーベル賞を受賞したマックス・タイラー博士により示された。また死去直前の秘書宛書簡にて英世は黄熱病原が濾過性病原体であることを認めている。1920年の論文(LEPTOSPIRA ICTEROIDES AND YELLOW FEVER、アメリカ科学アカデミー紀要PNAS 1920 Mar;6(3):110-1.)において英世は結論において「But until the finding of Leptospira icteroides is confirmed by the investigation of cases of yellow fever in still other places, its standing as the inciting agent of yellow fever will have to be regarded as not yet certainly established.(「しかし、Leptospira icteroidesの発見はさらに他の場所において黄熱の症例の調査によって確認されるまで、その黄熱病の原因としてのその地位は確実に確立されたものと見なすべきものではない」)」と述べている。またこの前後にThe journal of experimental medicineにおいて黄熱病の論文を発表している。この中で南アメリカ、アフリカの黄熱病の差異に関する直接的記載は明らかではなく、当時の研究状況などをふまえ、今後英世の黄熱病の業績に関しては科学史上十分に検討され客観的な記載が必要であろう。なおこのレプトスピラは1914年に稲田龍吉によって日本黄疸出血性スピロヘーター症の病原体として発見され1918年のエクアドルにおける英世の発見は正確には南アメリカの黄疸出血性レプトスピラ症の再発見およびワクチンの作製の可能性といえるかもしれない。


  14. ^ これは英世による唯一のノーベル賞推薦であった。




出典




  1. ^ abcd野口英世記念財団

  2. ^ abc会津若松市 野口英世について


  3. ^ 『官報』第8302号、明治44年2月27日、pp.672-673


  4. ^ 『官報』第632号、大正3年9月8日、p.163


  5. ^ 帝国学士院編『授賞審査要旨 大正4年』帝国学士院、1915年、pp.1-4 国立国会図書館デジタルコレクション


  6. ^ 『官報』第4030号「叙任及辞令」1926年2月2日。


  7. ^ (a) Noguchi, H.; Moore, J. W. "A DEMONSTRAION OF TREPONEMA PALLIDUM IN THE BRAIN IN CASES OF GENERAL PARALYSIS" J. Exp. Med. 1913, 17(2), 232-238. (b) Noguchi, H. "The Transmission of treponema pallidum from the brains of paretics to the rabbit" J. Am. Med. Assoc. 1913, 61, 85.


  8. ^ 1926年 - 1928年サイエンス誌数編を含む17編


  9. ^ 『背信の科学者たち』、Noguchi and His Patrons


  10. ^ Hideyo Noguchi - Nomination Database(ノーベル財団)


  11. ^ 図書館だより 第148号 - 福島県立図書館(2004年8月6日)


  12. ^ 野口英世記念医学賞


  13. ^ 野口英世の里郵便局


  14. ^ 戸田純子(埼玉県立皆野高等学校教諭) (2009年10月7日). “野口英世の父・佐代助 ”天才”の血受け継ぐ人物?”. 福島民友. 2018年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月20日閲覧。




参考文献



  • 『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』 山本厚子 山手書房新社 ISBN 4841300430 (1992年)

  • 『野口英世の妻』飯沼信子 新人物往来社 ISBN 4404018940 (1992年)

  • 『遠き落日』 ISBN 4041307147、ISBN 4041307155 (角川文庫) - 渡辺淳一による伝記的小説

  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 化学同人 ISBN 475980160X (1988年)

  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 講談社 ISBN 4062575353 (2006年) - 上の書籍の新書版

  • 『正伝 野口英世』北篤 毎日新聞社 ISBN 9784620316154 (2003年)

  • "Noguchi and His Patrons" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press, ISBN 0838623476 (1980年)

  • 『朝日選書389 野口英世 』 中山茂著 朝日新聞社 ISBN 4022594896 (1989年)

  • 『医聖 野口英世を育てた人々』小桧山六郎 福島民友新聞社 ISBN 978-4897577043 (2008年)

  • 『野口英世―少年期』野口英世記念会 (1980年)

  • 『当世書生気質』坪内 逍遙 岩波文庫 ISBN 978-4003100424

  • 『野口英世 [改稿]』小泉 丹 岩波新書 (1939年)

  • 『野口英世』イザベル・R・プレセット著、翻訳 中井久夫、枡矢好弘 星和書店 ISBN 4791101545 (1987年2月)

  • 宮島幹之助、野口英世君逝く 細菌學雜誌 1928年 1928巻 387号 p.a1-a3, doi:10.14828/jsb1895.1928.387_a1



関連項目















  • 済生学舎

  • 日本医科大学

  • ペンシルベニア大学

  • 野口英世記念館

  • 猪苗代氏

  • 細菌学

  • 梅毒

  • 黄熱病

  • 福島県

  • 火傷

  • 野口英世青春通り



関連人物



  • 小林栄

  • 渡部鼎

  • 血脇守之助

  • サイモン・フレクスナー

  • 星一

  • 石塚三郎

  • 川村吾蔵

  • 長谷川泰

  • 北里柴三郎

  • ジョン・ロックフェラー


  • イサム・ノグチ - イサムの父・米次郎と親交があり、若い頃のイサムに芸術の道へ進む事を薦めている。名字は同じだが親戚関係はない[1]。

  • 岡田満

  • 藤生金六

  • 藤沢武夫

  • Hiro T.A Sheene

  • 中島知久平



外部リンク



  • 野口英世記念館

  • 会津若松市 野口英世

  • 米国財団法人 野口医学研究所

  • 野口英世|近代日本人の肖像

  • 横浜市 野口英世記念公園内 旧細菌検査室

  • 野口英世記念会館

  • 野口英世の里郵便局

  • 野口英世青春館・会津壹番館

  • みんゆうNet 野口英世の父・野口佐代助について











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