マリリン・モンロー



























































マリリン・モンロー
Marilyn Monroe

Marilyn Monroe
『ナイアガラ』(1953年)の一場面

本名
ノーマ・ジーン・モーテンソン
Norma Jeane Mortenson
ノーマ・ジーン・ベイカー
Norma Jeane Baker
マリリン・モンロー
Marilyn Monroe
生年月日
(1926-06-01) 1926年6月1日
没年月日
(1962-08-05) 1962年8月5日(36歳没)
出生地
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
死没地
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ブレントウッド
国籍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業
女優
ジャンル
映画
活動期間
1947年 - 1962年
配偶者
ジム・ドハティ
ジョー・ディマジオ
アーサー・ミラー
公式サイト
http://marilynmonroe.com/










モンローの出生証明書


マリリン・モンローMarilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国の女優、モデルである。典型的な「ブロンド・ボムシェル(英語版)」("Blonde bombshell", 「金髪美女」)」役を演じたことで有名な彼女は、1950年代で最も人気のあるセックスシンボルの1人であり、セクシャリティに対する時代の態度を象徴していた。彼女は1962年に予期せぬ死(英語版)を迎えるまで、わずか10年ほどの花形役者(英語版)だったが、彼女の映画は2億ドルの収入を得た[1]。彼女は引き続き大衆文化のアイコンとみなされている[2]


ロサンゼルスで生まれ育ったモンローは、幼少期のほとんどを里親と孤児院で過ごし、16歳で結婚した。戦時中、1944年に工場で働いていたが、第1映画部隊の写真家に紹介され、ピンナップモデル(英語版)としてキャリアに成功した。その後、20世紀フォックス(1946年 - 47年)とコロンビア映画(1948年)と短期間の映画契約を結んだ。マイナー映画での役割を果たした後、1951年にフォックスと新たな契約を結んだ。次の2年間、彼女は『素晴らしき哉、定年!(英語版)』と『モンキー・ビジネス』を含むいくつかの喜劇、そして『熱い夜の疼き(英語版)』『ノックは無用』といったドラマ映画に出演。モンローは、スターになる前にヌード写真を撮っていたことが判明したが、彼女の経歴にダメージを与えることはなく、むしろ彼女の映画に対する関心が高まった。


1953年までに、モンローは、彼女の性的魅力に焦点を当てたノワール『ナイアガラ』と、『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』の3つの映画で主役を演じ、「頭の悪い金髪女性(英語版)」("Dumb blonde")というスターイメージを確立。ハリウッドの最も有名なスターの1人となった。彼女は彼女のキャリアを通じてパブリックイメージの創造と管理に重要な役割を果たしてきたが、同じ型の役ばかりを割り当て(英語版)十分な賃金を支払わないスタジオに不満を抱いていた。彼女は映画プロジェクトを拒否して1954年に一時的に休業したが、彼女のキャリア最大の興行収入を上げた映画の1つ『七年目の浮気』でスターの地位を取り戻した。


スタジオが依然として契約変更を嫌がっていたとき、モンローは1954年後半に映画制作会社を設立した。彼女はそれをマリリン・モンロー・プロダクション(MMP)と名付けた。彼女は1955年に、アクターズ・スタジオでメソッド演技法を学び始めた。1955年後半、フォックスは彼女と新しい契約を結び、彼女に多くの支配権とより多くの給料を与えた。1956年、『バス停留所』は批評家に称賛され、MMP最初の独立企画である『王子と踊子』の演技でゴールデン・グローブ賞主演女優賞の候補となった。1961年公開の『荒馬と女』が遺作となった。


モンローの悩ましい私生活は大きな注目を集め、ハリウッド女優になってから野球のスター選手だったジョー・ディマジオと劇作家のアーサー・ミラーと二度の結婚をしている。一方で、彼女は薬物乱用、うつ病、不安に悩まされていた。1962年8月5日、彼女はロサンゼルスの自宅でバルビタールの過剰投与により36歳で死亡。モンローの死には、陰謀論が提唱されている。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 生い立ち


    • 1.2 最初の結婚


    • 1.3 ハリウッドへ


    • 1.4 女優になる


    • 1.5 トップスターになる


    • 1.6 ケネディ兄弟との不倫


    • 1.7 死と波紋


    • 1.8 葬儀




  • 2 ゴールデングローブ賞


  • 3 エピソード


  • 4 出演作品


  • 5 歌手として


    • 5.1 映画の中で歌ったもの


    • 5.2 その他の歌




  • 6 関連作品


  • 7 マリリン・モンローの再来といわれている人物


  • 8 脚注・出典


  • 9 参考文献


  • 10 関連項目


  • 11 外部リンク





経歴



生い立ち


モンローは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医師が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:エドワード・モーテンソン、母:グラディス・モンロー、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンソンと記載されており、彼女の本男性が本当の父親であるという説もある[3]。両親は1928年に離婚している[4][5]。後年大人になったノーマがギフォードに電話したことがあるが、会うことは拒否されている。なお、母グラディスはノーマが出生後ほどなくして、ノーマの姓をモーテンソンからベイカーへ届出変更をしており[6]、モンローは自己紹介するときは自分の名はノーマ・ジーン・ベイカーだと名乗っている。またモンローは、1956年2月23日ニューヨーク州裁判所から、本名をマリリン・モンローへ変えてよいとの決定を得た[6]。そのため、アーサー・ミラーと結婚したときの本名はマリリン・モンロー・ミラーであった。


ノーマという本名の由来は、映画好きな母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウに由来する。母グラディス・ベイカー(旧姓モンロー)は「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。


日本語訳されている評伝のなかには、マリリンは孤児だったと記されているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。またマリリンには父親違いの7つ年上の姉が居る。姉とは女優になってからも気にかけていて、手紙をやりとりし互いに訪ね合うほど親交があった。その姉はマリリンの葬儀に参列している。ジョー・ディマジオと共に葬儀の準備にあたり、マリリンの死装束を選んだのも他ならぬこの姉であった[7]


マリリンの母親は大手映画製作会社のRKOでフィルムカッターの仕事をしていたが、精神病を患ったため、母親の親友であったグレース・マッキー(後に結婚してGoddard「ゴダード」)がマリリンの保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えなかった。



最初の結婚


第二次世界大戦下の1942年、16歳のときに半年で高校を中退しグレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き始めた。



ハリウッドへ




19歳の頃の雑誌『YANK』に掲載されたもの


第二次世界大戦の1945年の19歳の誕生日を迎えて間もなくのこと、工場で働いていた時に陸軍から取材に派遣された報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出され、写真を撮られる。この写真が陸軍の機関誌『ヤンク』に掲載されたことを機にハリウッドへの道をたどることになる。


コノバーにそのネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズにカバーガールになることをすすめられ、モンローは工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募した。モデルの基礎教程を終えたノーマの初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンであった。


やがて新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合い、モデルとしての才能を発見される。この年、二人で長い撮影旅行に出かけている。ド・ディーンズはマリリン・モンローになる前のノーマ・ジーンの初々しい姿をカメラに収めた。その後、髪をゴールデン・ブロンドに染めたセクシーなピンナップが売りものの雑誌に写真が掲載されるようになる。



女優になる


1946年、20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し「マリリン・モンロー」という芸名で契約を結んだ。マリリンの名は1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来している。なお夫のジムはモデル業に理解を示さず結婚から4年で離婚。


1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまった。しかし、彼女は女優への夢を諦めきれずコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。コロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまったために、その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探し続けた。生活が苦しく家賃や車の月賦が払えなかったためにカレンダーのヌードモデルになった(写真家トム・ケリー(英語版)撮影の『ゴールデン・ドリーム』と呼ばれる作品で有名)。しかしこのことが後にスキャンダルを巻き起こすことになる。



トップスターになる




『紳士は金髪がお好き』(1953年)の一場面




マリリン・モンローと2番目の夫ジョー・ディマジオ(右)(1954年)。ディマジオは離婚後もモンローを一途に愛し、晩年は頼ってきた彼女の心の支えとなった




ケネディ大統領の誕生日祝賀会の後にケネディ兄弟と話すモンロー(1962年5月19日)
右奥は歌手のハリー・ベラフォンテ夫妻。話しているのはコメディアンのジャック・ベニー。右最手前は大統領補佐官アーサー・シュレジンジャー


1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。


1954年1月14日、かつてメジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だったジョー・ディマジオとサンフランシスコ市庁舎で結婚。2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空のボーイング377で日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。


夫妻は3週間日本に滞在[8][9]。東京、静岡、福岡、広島、大阪とまわり、ディマジオが福岡で松竹と国鉄の選抜選手[8]、広島で広島カープ、大阪で阪神タイガースの野球指導を行った[8][9][10][11]。福岡までは二人は仲睦まじかったが、広島県総合球場でディマジオがカープ選手に打撃指導を行った際、球場には絶対に来てはいけないと念を押していたモンローが同球場を訪れ、ディマジオそっちのけでファンが殺到した[8][10][12]。ディマジオがモンローを叱責したことが離婚の原因ともいわれる[8][10]


新婚旅行中に朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローに断る理由はなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。モンローはヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで駐屯地を回り、多くの兵士たちを前にして歌った。


1955年に、関係が悪化していたディマジオと離婚した。結婚生活は9か月しか続かなかった。その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。


1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授のラルフ・グリーンソンによる精神分析を受け続けた。また、アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性パーソナリティ障害と診断されたが、正確なところは分からない。この頃流産を経験した。



ケネディ兄弟との不倫


1961年にミラーと離婚したが、この離婚に先立つ1959年頃から、ケネディの妹の夫で俳優のピーター・ローフォードやフランク・シナトラの紹介で、前年に大統領となったジョン・F・ケネディと肉体関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどの多数の証言により明らかにされている[13]。また、ジョンの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとも関係があったとも囁かれたことがある[14]


同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演したクラーク・ゲーブルが撮影終了後に急死したことも重なり、不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した元夫ディマジオが彼女を支えた。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。『女房は生きていた』の主役は結局降ろされた(『女房は生きていた』は、翌1963年にドリス・デイ主演で公開された)。


なおジョン・F・ケネディとモンローとの関係は、ケネディがサム・ジアンカーナらマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合った上に、ジアンカーナが2人の関係を知っており、このことをマフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対する取引に使おうとしていたことを憂慮したFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ロバートに忠告したことでこの年に終焉を迎えた[15]


しかしながらモンローは、その関係が終焉を迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティ(司会はローフォード)に、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデートゥーユー」を歌い、「いつ引退しても悔いはない」とケネディに言わしめた(ハッピーバースデー・ミスタープレジデントも参照)。


なお、この際にケネディとモンローの性的関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、誕生日パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席した[16]。なお、ケネディはモンローの死の1年3ヶ月後の翌年11月に凶弾に倒れている。



死と波紋




遺体が発見されたモンローの家(1992年)


1962年8月5日、ロサンゼルス郊外のブレントウッドにある自宅の寝室で全裸で死亡している所をメイドが発見した。36歳だった。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。


ドラッグ・オーバードースであるとの声もある[17] 上、「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」との根拠に欠ける仮説も唱えられたが、2000年代に入りFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、モンローとそりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていたことが分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、「モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいった」という仮説は成立しなくなることが分かった。


1980年前後以降は自殺説は影を潜め、モンローの死後間もない時期から存在していた何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、またモンローが遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、FBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した夜の電話の通話記録[18] には電話局からは同時刻の通話記録はなく、部屋からはモンローの日記(赤い手帳)が消えていた。そのため電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主がモンローの死に関わっていたとする主張がある[19]。「急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れた」という説もある。


なお、ケネディ大統領と1950年代より不倫関係にあったこと、さらにケネディ大統領の弟であり当時の司法長官だったロバートとも不倫関係にあったことが上記のように死後複数の証言から暴露された[20] 上に、お互いを紹介したのが、ケネディの大統領選挙の際の支援者でマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナと関係の深いシナトラであったことや、これらの関係を知ったFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ケネディとモンローのみならず、ケネディとマフィアの関係についても度々忠告していたことが、この謀殺説を後押ししている。またこれらの不倫の事実が死後に公にならないように、モンローが常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けるために謀殺後に密かに処分したという説もある。



葬儀


葬儀はモンローの死の3日後、8月8日にハリウッドにあるウエストウッド教会にて執り行われた。式はディマジオが取り仕切り、参列者は生前にモンローの世話などをしていたごく一部の関係者など約30名の小規模な葬儀であった。マスコミは一切シャットアウトされ、ハリウッドの映画関係者は1名も呼出しはなかった。


その後、モンローの遺体は故郷へ搬送された。墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。




モンローの墓


モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口恒富である。


ディマジオは離婚後もモンローを一途に愛し、変わらぬ友情で彼女を支え続けた。モンローの晩年は2人は多くの時間を過ごし、亡くなる数日前には2人が再婚の約束をしていたという双方の関係者からの複数証言が残っている[21][22]。そして、モンローの葬儀時には彼女の遺体を前に「愛している」と声をかけ続け、涙を流したと伝えられている[21][22]。ディマジオは自身が亡くなるまでモンローについてのコメントは控えた。「ある女性誌が、貴方が話してくれたら5万ドル払うと言っているが」と尋ねられた時も「世の中には金にかえられないものがある。それは愛の思い出だ」と即座に答えた。また、モンローの死後20年にわたって週3回、彼女の墓に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)を送り続けた[23]。これはディマジオの亡き後もファンクラブなどのボランティアの手で続けられている。1978年のMLBオールスターゲームの日本向け衛星中継で一緒にマイクの前に並んだ伊東一雄は「マリリンほど素晴らしい女性はいなかった…」とディマジオがポツリと漏らしていたのを耳にしている[24]。1999年3月8日に肺がんで亡くなる数日前に友人に語った最期の言葉は「死んだら、マリリンのところへいける」だった[25]



ゴールデングローブ賞



受賞


1954年 ヘンリエッタ賞:


1960年 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門):『お熱いのがお好き』


1962年 ヘンリエッタ賞:

ノミネート


1957年 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門):『バス停留所』



エピソード




手型を残すモンローとジェーン・ラッセル 1953年6月26日グローマンズ・チャイニーズ・シアター





帝国ホテルに滞在中のディマジオ(左)とモンローを案内する犬丸一郎(後方)(1954年2月)




『王子と踊子』(1957年)の一場面







  • 最初の夫ジム・ドハティが、ロッキード航空の製造会社で整備工をしていたとき、同僚に、後に俳優になったロバート・ミッチャムがいた[26]。ミッチャムは映画『帰らざる河』でモンローと共演。ドハティがノーマ・ジーンの作った愛妻弁当を職場に持ってきたことがある、とミッチャムは2人の新婚当時の様子を証言している。

  • 陸軍報道部員デビッド・コノバーを取材に派遣した当時の上司は、ロナルド・レーガンであった。後年モンローは、ディナーの席でたまたま隣に座った俳優レーガンと言葉を交わしている[27]

  • モンローのデビューにあたり20世紀フォックスは、モンローのプロフィールで年齢を2歳サバを読んで発表していた。そのため映画解説者の淀川長治も、「彼女は34歳で亡くなりました」と、『日曜洋画劇場』の解説で言ったことがある。


  • グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭に、『紳士は金髪がお好き』で共演したジェーン・ラッセルと共に、手型・靴型・サインを残したのは、1953年6月26日のことであった。ジェーンがうつぶせになって胸を、モンローが座ってお尻の跡をつけようとのモンローの提案は受け入れられなかった。サインの「Marilyn」の「i」の点にダイヤモンドを使ったらどうかとの提案には、結局模造ダイヤを使うことになったが、観光客が削っていってしまった[28]

  • 1954年2月1日、新婚旅行で来日したモンローであったが体調をくずしてしまう。予定されていた記者会見も顔見せ程度でキャンセルされ(翌日に延期された)、早々と帝国ホテル2階244号室にひきこもった。長旅で疲労困憊、胃痙攣もおこしていた。医者が呼ばれ、痛み止めの注射をしようとしたがモンローはこれを拒否。それではと治療のために呼ばれたのが、「指圧の心は母心」で有名な浪越徳治郎であった[29]。浪越は全裸のモンローに指圧を施した[30]。指圧のおかげで生気を取り戻したモンローは、ホテルの外で、顔を一目みるまでは帰らないぞと待っている群衆の期待にこたえ、バルコニーから手を振った。

  • 記者の「夜は何を着て寝るのか」との質問に「シャネルの5番よ」と答えたエピソードはあまりにも有名で、後にシャネルのテレビコマーシャルでも使用された。

  • モンローに戒名をつけた人がいる。1973年8月5日に東京都世田谷区の大吉寺本堂でモンロー13回忌の法要が営まれ、住職で作家の寺内大吉が経をあげ、モンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた[31]

  • モンローが眠る墓所ウエストウッド・メモリアルパークには、モンローと関係のあった人たちも眠っている。モンローの葬儀を取り仕切っていたジョー・ディマジオが、ノーマ・ジーンの育ての親であるグレース・ゴダードとアナ・ロウアーがこの墓地に埋葬されていることを知って、モンローの墓所にこの墓地を選んだといわれている。これを機にこれ以降多くの芸能人の墓所としてこの墓地が選ばれるようになった。

  • 1985年9月23日ロサンゼルス市警は、当時の捜査資料を公表した。この中で、他殺説を裏付ける証拠はなく、ダリル・ゲイツ署長も記者会見で「明らかに自殺といえる」と述べた。この日、公表された捜査資料は全132ページ、厚さにして1cm強。モンローの関係捜査資料は死亡時から約10年間、非公開書類として保管された後、1973年に廃棄されたが、当時の捜査担当官故タッド・ブラウンが個人的にその写しを保管していた。今回の公表資料はそれをコピーしたものという。資料はトーマス・ノグチ・ロサンゼルス郡検視局検視官(当時)による解剖所見のほか、関係者の事情聴取記録やモンローの死亡前後の電話通話記録など。モンローの死については一時、他殺説が流れたことから、同市警も再捜査した。この再捜査記録も今回含まれているが、他殺説を証拠立てる資料は見当たらない、と結論づけた[32]

  • イギリスの大衆紙『ピープル』は、1990年7月2日の紙面で、モンローに隠し子がいたと報じた。同紙は1面に「マリリン・モンローに英国育ちの隠された子がいた!」と大見出し、中面の1ページ全体を使ってこの情報を伝えた。同紙によれば、モンローの元恋人で米国人作家のテッド・ジョーダンが出版する著書『マリリン・モンローの秘められた生活』の中で記しているもので、モンローが1947年、21歳のときに生んだ子で、相手は当時交際のあったミュージシャンとのこと。子どもの名はナンシーといい、すぐ養女にだされ、養父が英国人だったため、イギリスのサウサンプトンに移され育てられた。虐待を受けたため17歳で家出。豪州に渡り、南太平洋の島々を転々とし、現在は豪州タスマニア島で、地道に宗教活動をしていて、苦心の末ナンシーに会ったというジョーダンによれば、唇と脚線美は母親そっくりだという[33]。(モンローは、「十代のときに子どもを産んだことがある」と親しかった友人ジーン・カーメンに打ち明けている)[34]。一方で、検死を行ったトーマス野口は、モンローが「出産した痕跡はない」と証言している[35])。

  • 「生まれつき左足が6本指で、手術で治した」という俗説があるが、これは誤りである。詳細は多指症#多指(趾)症の人物の項を参照。

  • モンローと親交のあった作家トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』のヒロインは、カポーティがモンローをイメージして書いたものといわれる。しかしオードリー・ヘプバーンを主役に映画化された。


  • 2004年には希少万年筆ブランドとして知られるクローネから、彼女をモチーフとした万年筆『マリリン・モンロー』が世界限定288本、税込808,000円で発売された。


  • 2008年3月31日ロサンゼルス連邦地方裁判所は、マリリン・モンローの写真を使用したTシャツを製造販売した企業と、彼女の遺産管理団体の間で争われていた彼女の肖像権についての裁判で、マリリン・モンローはカリフォルニア州民ではなくニューヨーク州民であり、同州の法律によって1962年の死亡と同時に彼女の肖像権は消滅したと判決を下した。彼女はニューヨーク市内にアパートを所有しており、そこを永住先としていたのが判決の理由となった。なお彼女の出生地であるカリフォルニア州の法律では肖像権は本人の死後100年は残る。その後アメリカの上訴裁判所は、2012年8月末、モンローのパブリシティ権は存在しないとの判決を下した[36]

  • モンローの埋葬室の真上の区画が2009年8月24日にオークションにかけられ、一旦は460万2,100ドル(約4億3,000万円)で落札されたが、落札者(日本人)がすぐに辞退を申し出たため、新たにインターネットオークションにかけられたが、入札者なしで、現在も買い手は見つかっていない[37]。2009年時点で、モンローの「上にいる」のは、23年前に81歳で亡くなった実業家リチャード・ポンチャー(Richard Poncher)だが、夫人のエルシー・ポンチャー(Elsie Poncher)が夫を別の区画に移すためオークションに出した。理由は、ビバリーヒルズにある160万ドル(約1億5,000万円)相当の自宅のローンを完済したいからだという。この墓は、実業家として成功していたリチャードが、モンローの夫だったジョー・ディマジオから1954年に買い取ったもので、リチャードはもうひとつ上の区画も購入してあったため、エルシーはそこに夫を移すという。成人向け娯楽雑誌『PLAYBOY』の創始者ヒュー・ヘフナーは「モンローのそばで永眠したい」と1992年に7万5,000ドル(約710万円)でモンローの左真横の区画を購入している。その上の区画もまだ空いており、25万ドル(約2,400万円)で販売中だという[38]

  • モンローの胸部を含むエックス線写真3枚が、2010年6月27日、ラスベガスのホテル「プラネット・ハリウッド・リゾート・アンド・カジノ」でオークションにかけられ、胸部エックス線写真は2万5,000ドル、横から写したものなど2枚はそれぞれ1万ドルで落札された。写真はモンローが1954年11月に、カリフォルニア州ロサンゼルスのシーダーズ・オブ・レバノン病院で診察を受けた際に撮影されたもので、担当した医師の夫人が保管していたもの。モンローは当時、子宮内膜症に苦しんでおり、この治療のために通っていた。子宮の状態を検査するため、胸部や骨盤を撮影した際のもの。またこの時期は、夫のジョー・ディマジオと離婚して2週間後の時期でもあった[39]

  • 2011年6月18日ハリウッドスターゆかりの品々を一堂に集めたオークションが、アメリカ・ロサンゼルスで開かれ、映画『七年目の浮気』で地下鉄の通風口の上に立ったモンローのスカートが大きくめくれる有名なシーンで使われた白いホルターネックのドレスが、460万ドル(約3億7,000万円)の高値で落札された。このドレスは女優のデビー・レイノルズが所有していたもので、ドレスの価格は事前予想の180~200万ドルを大きく上回った。他に『紳士は金髪がお好き』の真っ赤なスパンコールのドレスが120万ドル(約9,600万円)、『帰らざる河』の酒場の衣装が51万ドル(約4,000万円)で落札された。

  • 2011年7月15日アメリカ・イリノイ州シカゴの目抜き通りに、高さ約8メートルの巨大マリリン像が出現した。制作したのはアメリカで著名な彫刻家セワード・ジョンソン(アメリカの大企業ジョンソン・エンド・ジョンソンの創業者の孫)。像はその後移設され、現在はカリフォルニア州パームスプリングスに設置されている。



出演作品








































































































































































公開年 邦題
原題
役名 備考
1947 Dangerous Years エヴィー(ウェイトレス)
1948
嵐の園
Scudda Hoo! Scudda Hay!
ベティ クレジットなし
レディース・オブ・ザ・コーラス
Ladies of the Chorus
ペギー・マーティン
1949 ラヴ・ハッピー
Love Happy
Grunion's Client
1950
彼女は二挺拳銃
A Ticket to Tomahawk
クララ クレジットなし

アスファルト・ジャングル
The Asphalt Jungle
アンジェラ・フィンレイ

イヴの総て
All About Eve
カズウェル
The Fireball ポリー
Right Cross ダスキー・ルドゥー クレジットなし
1951
ふるさと物語
Home Town Story
アイリス・マーティン
素晴らしき哉、定年!
As Young as You Feel
ハリエット
恋愛アパート
Love Nest
ボビー・スティーヴンス
結婚しましょう
Let's Make It Legal
ジョイス・マナリング
1952 熱い夜の疼き
Clash by Night
ペギー
結婚協奏曲
We're Not Married!
アナベル・ジョーンズ・ノリス

ノックは無用
Don't Bother to Knock
ネル・フォーブス

人生模様
O. Henry's Full House
街娼

モンキー・ビジネス
Monkey Business
ミス・ロイス・ローレル
1953
ナイアガラ
Niagara
ローズ・ルーミス

紳士は金髪がお好き
Gentlemen Prefer Blondes
ローレライ・リー

百万長者と結婚する方法
How to Marry a Millionaire
ポーラ・デベヴォア
1954
帰らざる河
River of No Return
ケイ・ウェストン

ショウほど素敵な商売はない
There's No Business Like Show Business
ヴィッキー・パーカー
1955
七年目の浮気
The Seven Year Itch
ブロンド美女
1956
バス停留所
Bus Stop
チェリー
1957
王子と踊子
The Prince and the Showgirl
エルシー・マリーナ
1959
お熱いのがお好き
Some Like It Hot
シュガー・ケーン・コワルチェック
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門) 受賞
1960
恋をしましょう
Let's Make Love
アマンダ・デル
1961
荒馬と女
The Misfits
ロズリン・ターベル


歌手として



映画の中で歌ったもの



  • 『Ladies of the Chorus』より

    • Every Baby Needs a Da-Da-Daddy(ベビーにはパパが必要)

    • Anyone Can See I Love You(私の恋はどなたにもお見通し)



  • 『ナイアガラ』より
    • Kiss(キス)


  • 『紳士は金髪がお好き』より

    • Diamonds Are a Girl's Best Friend(ダイヤは女の最良の友)

    • Two Little Girls from Little Rock(リトルロックから来た娘)

    • When Love Goes Wrong(恋にしくじったら)

    • Bye Bye Baby(バイ・バイ・ベイビー)



  • 『帰らざる河』より

    • The River of No Return(帰らざる河)

    • I'm Gonna File My Claim(請求書にためとくわ ※素訳 登記しとくわ)

    • One Silver Dollar(一枚の銀貨)

    • Down in the Meadow(牧場で)



  • 『ショウほど素敵な商売はない』より

    • After You Get What You Want, You Don't Want It(気ままなあなた)

    • Heat Wave(ヒート・ウェーブ)

    • Lazy(もの憂さ)

    • A Man Chases a Girl(男は女を追いかける)



  • 『バス停留所』より
    • That Old Black Magic(恋という魔術)


  • 『お熱いのがお好き』より

    • I'm Through with Love(恋はおしまい)

    • I Wanna Be Loved by You(あなたに愛されたいの)

    • Running Wild(ランニング・ワイルド)



  • 『恋をしましょう』より

    • Let's Make Love(恋をしましょう)

    • Incurably Romantic(とってもロマンティック)

    • Specialization(スペシャリゼイション)

    • My Heart Belongs to Daddy(私の心はパパのもの)





その他の歌



  • Do It Again(ドゥ・イット・アゲイン)

  • A Fine Romance(ファイン・ロマンス)

  • You'd be Surprised(驚かないでね)

  • She Acts Like a Woman Should(女のお手本)

  • Some Like It Hot(お熱いのがお好き)
    • 映画の中ではインストルメント・バージョンが使われていて歌はない。これは同映画公開時にPR用に歌ったもの。


  • Happy Birthday,Mr.President(ハッピーバースデー・ミスタープレジデント)
    • 1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョン・F・ケネディ大統領誕生パーティで歌ったもの。




関連作品



  • 映画『マリリンとアインシュタイン』(Insignificance、1985、米):監督 ニコラス・ローグ、出演:テレサ・ラッセル、ゲイリー・ビジー、トニー・カーティス

  • 映画『ノーマ・ジーンとマリリン』(Norma Jean and Marilyn、1996、米):監督 ティム・フェイウェル、出演:アシュレイ・ジャッド、ミラ・ソルヴィノ、ジョシュ・チャールズ、ピーター・ドブソン

  • 映画『マリリン 7日間の恋』(My Week with Marilyn、2011、米)監督 サイモン・カーティス、出演:ミシェル・ウィリアムズ、ケネス・ブラナー

  • 映画『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』(Love, Marilyn、2013、米・仏)監督リズ・ガルバス

  • ノンフィクション『マリリン・モンローの真実』(アンソニー・サマーズ)



マリリン・モンローの再来といわれている人物


セクシーなブロンド美女が現れるとその人物を「マリリン・モンローの再来」ということがある。




  • マドンナ(口元のホクロの位置が同じだったためによく言われていた)[40]


  • アンナ・ニコル・スミス(マリリン・モンローの人生そのものに憧れて「マリリン・モンローの様な死に方をしたい」と発言しており、実際に謎の多い最期を迎えている)[41]


  • スカーレット・ヨハンソン[42]


  • エヴァ・ハーツィゴヴァ(『1990年代のマリリン・モンロー』と称された)[43]



脚注・出典


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  1. ^ Hertel, Howard; Heff, Don (1962年8月6日). “Marilyn Monroe Dies; Pills Blamed”. Los Angeles Times (Tribune Publishing). http://www.latimes.com/local/obituaries/archives/la-me-marilyn-monroe-19620806-story.html 2015年9月23日閲覧。 


  2. ^
    Chapman 2001, pp. 542–543; Hall 2006, p. 468.



  3. ^ アンソニー・サマーズ『マリリン・モンローの真実(上)』、28頁、中田耕治訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>、1988年7月


  4. ^ L.A.County Hall of Records Case No. D-53720, 05MAR1927.


  5. ^ AP (1981年2月13日). “Mortensen's Death and documents”. New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D02E1DC1639F930A25751C0A967948260 2010年3月2日閲覧。 

  6. ^ ab English版wikipedia 


  7. ^ 『マリリン・モンロー わが妹マリリン』バーニース・ベイカー・ミラクル/モナ・ラエ・ミラクル共、大沢満里子訳、メディアックス、初版1997年8月

  8. ^ abcde#佐山171-190頁

  9. ^ abきょうはDONな日 - 日本テレビ 1962年8月5日 マリリン・モンローが亡くなった日

  10. ^ abc西本恵 「絶世の美女マリリン・モンロー、広島総合球場に現る。『スロー』『スロー』『ブーン』のアメリカ流指導に耳を傾ける。」『広島カープ昔話・裏話 じゃけえカ−プが好きなんよ』 トーク出版、2008年、222 - 227頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 9784904014073。



  11. ^ 2014年01月14日(火) - 今日は何の日? - CDJournal.com 、マリリン・モンロー来日時の足取り


  12. ^ 広島県営グランドを歩くモンロー(サンデー毎日、1980年8月17日 巻頭グラビア)。、カープ写真パネル展、みんなで語ろう民放史. 泣き笑いスポーツアナ奮戦記 -カープを追い続けた地方局- 山中 善和 (RCC)


  13. ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』 348頁、ジェイムズ スパダ、広瀬順弘訳、読売新聞社刊 1992年


  14. ^ 『JFKの寝室 ケネディとジャクリーンの封印された性』370頁、クリストファー・アンダーソン著、戸根田由紀恵訳、徳間書店、1997年


  15. ^ 『マフィアとケネディ一族』 266頁、ジョン・H・デイヴィス著、市雄貴訳、朝日新聞社、1994年


  16. ^ 「マリリン・モンローとケネディ兄弟の貴重な写真が公に」2010年6月2日 CNN Archived 2010年6月8日, at the Wayback Machine.


  17. ^ アンソニー・サマーズ 『マリリン・モンローの真実(下)』 、250・254頁、中田耕治訳、扶桑社〈扶桑社ミステリー〉、初版1988年7月。ISBN 978-4594003166


  18. ^ 『マフィアとケネディ一族』P.268 ジョン・H・デイヴィス著、市雄貴訳 朝日新聞社刊 1994年


  19. ^ ロバート・スレイツァー 『マリリン・モンロー他殺の証明』 仙名紀訳 朝日新聞社 1993年、314頁。ISBN 978-4022565730


  20. ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊 1992年

  21. ^ ab“1999年3月8日「ジョー・ディマジオ選手が亡くなった日」”. DON!特集. 2013年12月24日閲覧。

  22. ^ ab“Joe Directs Marilyn’s Funeral”. PBS.org. 2013年12月24日閲覧。


  23. ^ “マリリン・モンローとジョー・ディマジオ”. 福岡県立図書館ホームページ. 2013年12月24日閲覧。


  24. ^ 伊東一雄. メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事. サンケイスポーツ. p. 418. 


  25. ^ “Report: DiMaggio's Final Words”. ABC News.go.com. 2013年12月24日閲覧。


  26. ^ 『中田耕治コレクション1. マリリン・モンロー論考』、194頁、青弓社、1991年10月


  27. ^ アンソニー・サマーズ『マリリン・モンローの真実(上)』、268頁、中田耕治訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>、1988年7月


  28. ^ フウス・ライテルス編、『モンロー・トーク』、46頁、関美冬訳、河出書房新社・アップリンク発行、初版1992年4月10日


  29. ^ #佐山101頁


  30. ^ 浪越徳治郎 『自分でできる3分間指圧:快食・快眠・快便の健康法』 実業之日本社、1967年


  31. ^ 詩人・白石かずこの作家・寺内大吉とのインタビュー記事「鞠利院不滅美色悶浪大姉はアメリカ民主主義の匂いがした」、小学館の雑誌『サライ』、4巻10号/通巻65号(1992年5月)、30-31頁より。


  32. ^ 1985年9月25日付け「サンケイスポーツ」閲覧 "死因はやはり自殺"


  33. ^ 1990年7月3日付け「日刊スポーツ」1面閲覧 "英紙報道 元恋人が暴露 モンローに娘がいた"


  34. ^ アンソニー・サマーズ『マリリン・モンローの真実(上)』 、456頁、中田耕治訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>、1988年7月


  35. ^ 『追憶マリリン・モンロー』、36頁、井上篤夫、集英社文庫、初版2001年8月


  36. ^ cinematoday. “モンローに肖像権なし”. 2012年9月5日閲覧。


  37. ^ 2009年11月3日米国メディア報道・AFP等配信


  38. ^ マリリン・モンローの納骨室の真上、4億3000万円で落札 2009年08月25日 AFPBB


  39. ^ 2010年6月28日ロイター発


  40. ^ OnGen. “マドンナ特集”. 2008年9月29日閲覧。


  41. ^ J-CAST. “資産550億円ベビィ!DNAパパは「死んでも離さない」”. 2008年9月29日閲覧。


  42. ^ 『THE BIG ISSUE JAPAN 59号』より


  43. ^ X BRAND. “輝きを取り戻したスーパーモデルたちの謎に迫る!”. 2008年9月29日閲覧。




参考文献




  • 亀井俊介 『マリリン・モンロー』 岩波新書、初版1987年7月。ISBN 4004203813

  • 亀井俊介 『アメリカでいちばん美しい人-マリリン・モンローの文化史』 岩波書店、2004年12月。ISBN 400022025X

  • 亀井俊介編 『「セックス・シンボル」から「女神」へ-マリリン・モンローの世界』 昭和堂、2010年1月。ISBN 4812209560、写真多数

  • アンソニー・サマーズ 『マリリン・モンローの真実 (上下)』 中田耕治訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>、1988年7月

  • 『中田耕治コレクション1. マリリン・モンロー論考』、青弓社、1991年

  • ドナルド・スポト 『マリリン・モンロー最後の真実』 小沢瑞穂・真崎義博訳、光文社 1993年10月。ISBN 4334960707&ISBN 4334960715

  • 佐山和夫 『ディマジオとモンロー ー運命を決めた日本での二十四日間』 河出書房新社、1995年12月。
    ISBN 4-309-01027-X。


  • 田村千穂『マリリン・モンローと原節子』(筑摩選書)、2015年

  • 髙野てるみ『マリリン・モンロー 魅せる女の言葉』PHP文庫、2017年11月、ISBN 978-4569767765

  • ミシェル・シュネデール『マリリン・モンローの最期を知る男』(長島良三訳)河出書房新社刊



関連項目








  • 向井真理子 - 日本語吹き替えにおけるマリリン・モンローの専属声優

  • モンロー (小惑星)



外部リンク




  • 公式ウェブサイト(英語)


  • マリリン・モンロー - allcinema


  • マリリン・モンロー - KINENOTE


  • Marilyn Monroe - インターネット・ムービー・データベース(英語)


  • Marilyn Monroe - Discogs


  • Marilyn Monroe - Find a Grave


  • Marilyn Monroe - TCM Movie Database(英語)







先代:

なし


プレイメイト

1953年12月


次代:

マージー・ハリソン









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