野口茂樹
























































野口 茂樹
基本情報
国籍
日本の旗 日本
出身地
愛媛県東予市(現:西条市)
生年月日
(1974-05-13) 1974年5月13日(44歳)
身長
体重

179 cm
88 kg
選手情報
投球・打席
左投左打
ポジション
投手
プロ入り
1992年 ドラフト3位
初出場
NPB / 1994年8月25日
最終出場
NPB / 2007年8月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴




  • 愛媛県立丹原高等学校


  • 中日ドラゴンズ (1993 - 2005)


  • 読売ジャイアンツ (2006 - 2008)


  • 三重スリーアローズ (2011)




コーチ・監督歴



  • NPOルーキーズ



野口 茂樹(のぐち しげき、1974年5月13日 - )は、愛媛県東予市(現:西条市)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球指導者。現在は球界を離れ名古屋で会社員に転身している。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 プロ入り前


    • 1.2 中日時代


    • 1.3 巨人時代


    • 1.4 巨人退団後


    • 1.5 独立リーグ時代


    • 1.6 引退後




  • 2 出演番組


  • 3 詳細情報


    • 3.1 年度別投手成績


    • 3.2 タイトル


    • 3.3 表彰


    • 3.4 記録


    • 3.5 独立リーグでの投手成績


    • 3.6 背番号




  • 4 脚注


  • 5 関連項目


  • 6 外部リンク





経歴



プロ入り前






東予東中3年の平成元年、愛媛県中学総体で優勝。準々決勝から決勝まで3試合連続で完封した。四国総体では伊野中(高知)と香東中(香川)に敗れ、4位に終わる。[1]
平成2年、地元の愛媛県立丹原高等学校に入学。甲子園常連高から入学の誘いがあったものの、競争をするのは嫌だという理由で全て断っていた[2]。2年次の平成3年夏、全国高校野球選手権愛媛大会では3回戦で前年の覇者・松山商業を破りベスト8に進出。初戦の弓削戦から準々決勝の新居浜西戦までの4試合32イニングスで40奪三振の大会新記録を樹立した。[3]
3年次の平成4年春の県大会で東予地区予選の新居浜南戦で8回参考記録ながらノーヒットノーランを達成。準決勝の八幡浜戦では、5回から7回までの9人連続を含む19奪三振を記録した。決勝でも、新居浜東から先発全員の14三振を奪い、チームを初優勝に導いた。しかし、センバツ帰りの松山商業とのチャレンジマッチでは、2回途中に肘の痛みを訴えて降板。3-9で敗れた。
甲子園出場の期待がかかった高校3年夏の県大会では3回戦で、のちに日本ハムに進んだ今井圭吾擁する愛媛県立伊予高等学校と対戦。延長10回の熱戦の末投げ勝ちベスト4に進んだが、またしても松山商業に敗れ甲子園出場はならなかった。
1992年のドラフトで中日ドラゴンズから3位指名を受けて入団した。



中日時代


1年目の1993年は一軍登板はなく、2年目の1994年は1A・セントラルバレー・ロッキーズに野球留学し、同年8月25日の対広島戦でプロ初登板。1995年5月4日の対横浜戦では延長11回無失点の力投を見せた。


1996年、開幕ローテーションに入ったものの勝ち星が挙げられず4月末にはローテーションからも外され二軍落ちした。7月からまた先発復帰し7月11日にはプロ初完投勝利を記録、8月11日の東京ドームでの対巨人戦では四死球を6個与えながらもノーヒットノーランを達成(リードした捕手は矢野輝弘)。プロ初完封勝利をノーヒットノーランで飾り5勝全てを完投で挙げた。8月31日ナゴヤ球場での巨人戦で相手の四番落合博満に死球を与え、骨折させた。


1997年は肩の怪我の影響でシーズンの大半を2軍で過ごし、8月から1軍のローテーションに復帰出来たものの未勝利に終わった。


1998年はこの年投手コーチに就任した宮田征典の指導により、課題であったコントロールが飛躍的に改善しチーム最多タイとなる14勝(9敗)を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得。8月30日の対ヤクルト戦では、延長12回・203球を投げた。なお、この日の野口を最後に現在まで1試合で200球以上投げた人はいない(野口以降に最も球数を投げたのは、2006年8月25日に有銘兼久(東北楽天)が千葉ロッテ戦で投げた188球が最多である)。


1999年のシーズンでは19勝7敗の成績を残し、リーグ優勝に貢献。リーグMVPに輝く。10月10日の対ヤクルト戦で、20勝をかけて先発し9回途中まで無失点に抑えるも、打線の援護に恵まれず0-1のサヨナラ負けを喫する。19勝したものの、当時ルーキーの上原浩治が20勝したため最多勝利を獲得できなかった。日本シリーズでは第1戦と第5戦に登板するが、打線の援護なさや福留孝介と自身の失策もあり、第5戦は6失点(自責点は0)でいずれも敗戦投手となり1勝4敗でダイエーに敗退。


2000年は初めて開幕投手を務めるも前年のような投球ができず、9勝11敗の成績で終わった。


しかし、翌2001年には2度目の最優秀防御率のタイトルと初の最多奪三振を獲得する。完投数も初めて2桁(11完投)に到達。4試合連続無四球完投勝利(日本タイ記録)を達成。12勝9敗の成績を残し、完封も5回を記録した。12月に長年バッテリーを組んでいた中村武志が横浜に移籍。(中村武志が中日の正捕手を務めていた頃、ヒーローインタビューでの決まり文句は「中村さんのおかげです」だった。)


2002年は相性抜群の中村の代わりに正捕手を務めた谷繁元信との相性の悪さや、怪我の影響もあり2勝にとどまった。


2003年のシーズンは開幕第3戦で初先発するも5回を持たず降板する。その後は谷繁、柳沢裕一、中野栄一と捕手をローテーションする作戦を取り、好投することもあったが突如打ち込まれるなど好不調の波が激しく、防御率は4点台中盤だった。ギリギリで規定投球回に達し高い奪三振率を記録し、9勝11敗の成績だった。シーズン終了後に10年近く住んでいた選手寮を退寮した。


2004年8月7日の広島市民球場における対広島戦で初回1死を取っただけで5失点KOされ、その試合中に2軍行きを通告され新幹線で名古屋に強制送還された。それ以降登板機会が減って一軍と二軍を行ったり来たりすることになり、結局シーズンは17試合で4勝8敗・防御率5.65に終わり、日本シリーズは登板機会がなかった。


2005年は6月9日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で完封でシーズン1勝目を挙げるものの、シーズンを通して成績は低調で13試合の登板で3勝6敗・防御率4.00の成績に終わった。シーズンオフにFA権を行使し、結果的に11月17日2年契約・年俸1億円で巨人に移籍。それに伴う人的補償として小田幸平が中日に移籍することになった。また、野口は中日では生え抜き初のFAで国内移籍をした選手となった。



巨人時代


2006年は内海哲也や高橋尚成、野口同様新加入したジェレミー・パウエルらが開幕ローテーション、1軍入りを果たしたため2軍スタートとなった。エース上原浩治や高橋尚成らの故障で5月14日の西武ライオンズ戦に移籍後初登板初先発し、味方が初回に1点を先制したが初回に5失点した。結果的に3回5失点でマウンドを降りた(チームがその後追いついたため負けはつかなかった)。この試合で2軍落ちとなり、先発陣のゲーリー・グローバーの離脱や高橋尚成の抑え転向で先発陣に空きができても登板できず、わずか1試合の登板に終わった。


2007年は開幕ローテーション入りこそ逃したものの、リリーフとして開幕1軍入りし、5月1日に古巣である対中日戦で移籍後初勝利を挙げる。その後もリリーフの一角として存在感を示していたが、徐々に打ち込まれるようになり8月中旬に1軍登録を抹消された。全てリリーフでの登板で31試合登板、防御率は4.30に終わった。契約更改では年俸1億円から75%減俸の2500万円となった。これは巨人史上当時最大、日本球界全体でも当時3位となる減俸率である(金額は推定)。


2008年は先発では内海や、ヤクルトから移籍してきたセス・グライシンガーらの活躍、中継ぎでも山口鉄也、越智大祐らの活躍もあり、ルーキーイヤー以来の1軍登板無しに終わり、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。



巨人退団後


12球団合同トライアウトには参加せず、東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受け、鉄平を含む打者5人と対戦。全員を打ち取るも直球のスピードが出ず、合格には至らなかった。その後、12月23日には同じ巨人から自由契約になった門倉健とともにシカゴ・カブスのトライアウトを受けた。


2009年2月12日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約で合意したと報道されたが、契約前のメディカルチェックで左肘に異常が見られたため、契約を破棄された[4]


巨人退団後は株式会社オーガニッククルーの顧問を務める傍ら、「Future's Baseball Academy」のメインアドバイザーを務めていた。



独立リーグ時代


一方で左肘の手術とリハビリを続け、実戦参加の目処が立ったため、2011年5月、四国アイランドリーグplusの三重スリーアローズの練習に参加し、19日に入団が発表された[5]。同月24日に入団会見を行い、背番号を中日時代と同じ「47」とした。同年シーズン終了後、スリーアローズ解散に伴い退団[6]。12球団合同トライアウトを受験した[7]が、打者5人に対し2四球と結果を残すことが出来ず、どこの球団からも誘いが無く、引退を決意した。



引退後


2012年より、愛知県常滑市に拠点を置くNPO法人の社会人野球チーム「NPOルーキーズ」のコーチに就任[8]。2013年は選手兼任選手としてプレーした。さらに、東海ラジオ放送の野球解説者も務めた。


将来は妻の両親が経営する焼き鳥店を継ぐ予定であるとされていたが[9]、現在は2014年2月に入社した石黒体育施設株式会社(本社:名古屋市、スポーツ施設・大規模集会施設の建設・メンテナンス)の営業社員となったが、その石黒体育施設株式会社も小松辰雄が顧問(アドバイザー)就任となったと同時に退社した。[10]。中日ドラゴンズが主催する少年野球スクールの講師も務めている。2017年に愛知県西尾市にあるカミヤ電機株式会社に入社したことが、オフィシャルホームページ内のブログで発表された。



出演番組




  • 東海ラジオ ガッツナイター - ゲスト解説


  • バース・デイ(2012年10月14日・2015年7月4日、TBS)


  • 情報フレッシュ便 さらさらサラダ(2012年11月15日、NHK名古屋放送局)



詳細情報



年度別投手成績











































































































































































































































































































































































































































































































W
H
I
P

1994

中日
8 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 45 10.2 5 1 10 0 0 11 0 0 3 3 2.53 1.41

1995
30 19 1 0 0 3 10 2 -- .231 564 125.2 114 21 83 2 2 110 3 0 72 67 4.80 1.57

1996
21 18 5 2 0 5 5 0 -- .500 487 114.1 104 15 52 2 2 88 4 0 47 41 3.23 1.36

1997
11 7 0 0 0 0 1 0 -- .000 179 37.0 46 2 21 0 3 14 2 0 29 27 6.57 1.81

1998
27 27 6 1 0 14 9 0 -- .609 802 192.0 174 10 63 4 5 134 8 0 59 50 2.34 1.23

1999
29 29 7 4 0 19 7 0 -- .731 870 203.2 202 13 67 3 5 145 6 0 68 60 2.65 1.32

2000
33 27 4 1 0 9 11 0 -- .450 764 173.0 200 20 58 3 2 128 9 0 99 89 4.63 1.49

2001
26 26 11 5 5 12 9 0 -- .571 765 193.2 167 7 28 1 2 187 1 0 62 53 2.46
1.01

2002
5 5 0 0 0 2 1 0 -- .667 118 27.0 24 6 13 1 1 12 1 0 15 15 5.00 1.37

2003
29 26 1 0 0 9 11 0 -- .450 641 146.1 154 12 59 0 9 146 3 0 80 74 4.55 1.46

2004
17 15 1 1 0 4 8 0 -- .333 360 78.0 106 13 27 3 1 61 1 0 51 49 5.65 1.71

2005
13 13 1 1 0 3 6 0 0 .333 300 72.0 71 8 26 1 4 57 3 0 33 32 4.00 1.35

2006

巨人
1 1 0 0 0 0 0 0 0 ---- 16 3.0 7 0 1 0 0 1 1 0 5 3 9.00 2.67

2007
31 0 0 0 0 1 1 0 4 .500 144 29.1 34 4 20 2 3 28 0 0 15 14 4.30 1.84
通算:14年
281 214 37 15 5 81 79 2 4 .506 6055 1405.2 1408 132 528 22 39 1122 42 0 638 577 3.69 1.38

  • 各年度の太字はリーグ最高


タイトル


NPB



  • 最優秀防御率:2回 (1998年、2001年)


  • 最多奪三振:1回 (2001年)



表彰


NPB



  • MVP:1回 (1999年)


  • ゴールデングラブ賞:1回 (2001年)


  • 月間MVP:4回 (1999年7月、1999年9月、2001年4月、2001年5月)


  • 最優秀バッテリー賞:1回 (2001年、捕手:中村武志)


  • IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (2001年)

  • 優秀JCB・MEP賞:2回 (1999年、2001年)


  • JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2001年5月)



記録


NPB初記録


  • 初登板・初先発登板:1994年8月25日、対広島東洋カープ20回戦(ナゴヤ球場)、3回3失点

  • 初奪三振:同上、1回表に緒方孝市から

  • 初勝利:1995年5月17日、対広島東洋カープ6回戦(ナゴヤ球場)、6回1/3を4失点

  • 初セーブ:1995年6月15日、対ヤクルトスワローズ9回戦(ナゴヤ球場)、6回表に2番手で救援登板・完了、4回1失点

  • 初完投:1995年8月16日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)、8回4失点で敗戦投手

  • 初完投勝利:1996年7月12日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤ球場)、9回5失点(自責点1)

  • 初完封勝利:1996年8月11日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム) ※史上64人目のノーヒットノーラン

  • 初ホールド:2007年4月21日、対阪神タイガース5回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に2番手で救援登板、1回1/3を1失点


NPB節目の記録


  • 1000投球回数:2001年8月12日、対阪神タイガース21回戦(ナゴヤドーム)、8回表2死目に今岡誠を遊撃ゴロで達成 ※史上290人目

  • 1000奪三振:2004年5月29日、対阪神タイガース11回戦(ナゴヤドーム)、5回表に杉山直久から ※史上111人目


NPBその他の記録


  • 継投による1イニング4奪三振:1996年8月17日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤ球場)、4回表に野口がケビン・マース・高波文一・山田勝彦(振逃)から、後続の遠藤政隆が和田豊から ※史上初(2012年終了現在でも史上唯一、1イニング4奪三振自体は史上4度目)

  • 1試合16奪三振:2001年5月24日、対阪神タイガース10回戦(石川県立野球場) ※セ・リーグ記録


  • オールスターゲーム出場:3回 (1998年 - 1999年、2001年)



独立リーグでの投手成績


以下の数値は四国アイランドリーグplusウェブサイト掲載の各シーズン選手成績による[11]











































































































2011

三重
2.63 10 1 4 0 3 0 0 61.2 251 54 3 47 12 6 22 18
通算:1年
2.63 10 1 4 0 3 0 0 61.2 251 54 3 47 12 6 22 18


背番号




  • 57 (1993年 - 1994年)


  • 47 (1995年 - 2005年、2011年)


  • 31 (2006年)


  • 46 (2007年 - 2008年)



脚注





  1. ^ 愛媛の野球100年史 P1446 愛媛新聞社


  2. ^ 立たされたり丸刈りにされたり…野口茂樹 6勝目は大記録 スポニチ 野球 日めくりプロ野球 2011年8月11日


  3. ^ 愛媛の野球100年史 P1486 愛媛新聞社


  4. ^ “野口、大リーグの契約不成立 身体検査の結果受け”. 47NEWS (2009年2月19日). 2011年5月19日閲覧。


  5. ^ “元中日の野口、三重入り=野球・四国アイランドリーグ”. 時事通信 (2011年5月19日). 2011年5月19日閲覧。


  6. ^ “退団選手のお知らせ”. 三重スリーアローズ オフィシャルブログ (2011年10月25日). 2011年10月26日閲覧。


  7. ^ “野口 トライアウト挑戦 独立L三重解散…あきらめない”. 中日スポーツ (2011年11月11日). 2011年11月11日閲覧。


  8. ^ “元中日の野口氏、コーチに=NPO法人「ルーキーズ」-社会人野球”. 時事ドットコム (2012年2月9日). 2012年2月9日閲覧。


  9. ^ 中日スポーツ2012年2月9日号より


  10. ^ 石黒体育施設株式会社-会社概要


  11. ^ 記録2011年 - 四国アイランドリーグplus




関連項目



  • 愛媛県出身の人物一覧

  • 中日ドラゴンズの選手一覧

  • 読売ジャイアンツの選手一覧

  • 日本人のマイナーリーグ選手一覧

  • 三重スリーアローズの選手一覧

  • ノーヒットノーラン達成者一覧



外部リンク




  • 個人年度別成績 野口茂樹 - NPB.jp 日本野球機構

  • 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)



  • J-Athleteplus マネジメント選手 野口茂樹

  • 野口茂樹 - 野菜と身体 オーガニッククルー BLOG COMMUNITY









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