オーストリア
- オーストリア共和国
- Republik Österreich
(国旗)
(国章)
- 国の標語:不明
国歌:Land der Berge, Land am Strome(ドイツ語)
山岳の国、大河の国
公用語
ドイツ語
首都
ウィーン
最大の都市
ウィーン
- 政府
連邦大統領
アレクサンダー・ファン・デア・ベレン
連邦首相
セバスティアン・クルツ
- 面積
総計
83,870km2(112位)
水面積率
1.7%
- 人口
総計(2017年)
8,794,267[1]人(96位)
人口密度
104人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)
2,822億[2]ユーロ (€)
- GDP (MER)
合計(2007年)
4,153億[2]ドル(22位)
- GDP (PPP)
合計(2008年)
3,285億[2]ドル(35位)
1人あたり
39,634[2]ドル
- 成立[3]
オーストリア辺境伯国
976年
オーストリア公国
1156年
オーストリア大公国
1453年
オーストリア帝国
1804年
オーストリア=ハンガリー帝国
1867年
第一共和国
1918年
アンシュルス(ドイツによる併合)
1938年
第二共和国
1945年以降
オーストリア国家条約(連合軍の軍政より独立)
1955年5月15日調印/同年7月27日発効
通貨
ユーロ (€) (EUR) [4][5]
時間帯
UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1
AT / AUT
ccTLD
.at
国際電話番号
43
^ Bevölkerung zu Quartalsbeginn seit 2002 nach Bundesland|1 - Statistik Austria
- ^ abcdIMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
^ ハプスブルク帝国の崩壊後、現在の国土領域における共和政体(第一共和国)の建国は1918年11月12日である。
^ 1999年以前の通貨はオーストリア・シリング。
^ オーストリアのユーロ硬貨も参照。
オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、ドイツ語: Republik Österreich、バイエルン語: Republik Östareich)、通称、オーストリアは、ヨーロッパに存在する連邦共和制国家である。首都は音楽の都といわれたウィーン。
ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。
目次
1 概要
2 国名
2.1 由来と「狭義のオーストリア」
2.2 オーストリア家との関係
2.3 オーストラリアとの混同
2.4 オーストリー表記
3 歴史
3.1 ボヘミアがバーベンベルクを継承
3.2 教会のハプスブルク包囲網
3.3 イタリア政策が結婚政策となるまで
3.4 ヴェストファーレン条約という審判
3.5 マリア・テレジアと二元主義
3.6 神聖ローマ帝国の解体とウィーン体制
3.7 第一次世界大戦と共和制への移行
3.8 ファシズムからアンシュルスへ
3.9 第二次大戦後
4 政治
4.1 国際関係
4.2 軍事
4.3 行政区分
4.4 オーストリアの地方名
4.5 主要都市
5 地理
5.1 気候
6 経済
6.1 金融
7 交通
7.1 鉄道
7.2 航空
8 国民
8.1 民族
8.2 言語
8.3 宗教
8.4 婚姻
9 文化
9.1 食文化
9.2 音楽
9.2.1 クラシック音楽
9.3 文学
9.4 世界遺産
9.5 祝祭日
10 スポーツ
11 著名な出身者
12 脚注
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
概要
中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツに併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国化により現在につづく体制となった。
音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。
本項では主に1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前についてはオーストリアの歴史、ハプスブルク君主国、オーストリア公国、オーストリア大公国、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、第一共和国 (オーストリア)、アンシュルス、連合軍軍政期 (オーストリア) を参照。
国名
正式名称は Republik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ)。
通称 Österreich(エースターライヒ)['ø:stəraiç] [1]。Ö は正確には日本語の「エ」ではなく「オ」と「エ」の中間のような音[øː]だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習があるほか、日本人には「ウ(ー)」のように聴こえることもある。
公式の英語表記は Republic of Austria。通称 Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国。通称オーストリア。漢字表記では墺太利または澳地利(略表記:墺)と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記はエースタ(ー)ライヒ、エスタ(ー)ライヒ、または舞台ドイツ語的表記によるエステ(ル)ライヒであり、専門書や各種サイトなどで使用されている。
由来と「狭義のオーストリア」
国名の Österreich は、ドイツ語で「東の国」という意味である。フランク王国のころにオストマルク(「東方辺境領」)が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する(デンマーク(Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。
狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領であり、現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク司教領やケルンテン地方、シュタイアーマルク地方、チロル地方は含まれない。オーストリア大公を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」と呼ぶようになり、時代が下るにつれ、同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになった。1804年のオーストリア帝国の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されなかった。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるが、これは一地方の名前(あるいはオーストリア家というかつての王家の通称)を国名に使用したことになる。
現在のオーストリアの行政区画ではかつてのオーストリア大公領は上オーストリア州、下オーストリア州に分割継承されている。
ドイツ語のエスターライヒの reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でも Frankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。「reich」には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。
なお隣国のチェコ語では Rakousko / Rakúsko と呼ぶが、これは国境の地域の名前に由来している。
オーストリア家との関係
オーストリアを統治してきたハプスブルク家およびハプスブルク=ロートリンゲン家は「オーストリア家(独: Haus Österreich, 西: Casa de Austria, 仏: Maison d'Autriche, 英: House of Austria)」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、マリー=アントワネット・ドートリシュ)。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、フランスのルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g. カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ)を使用している。
オーストラリアとの混同
オーストリア(Austria)はしばしばオーストラリア(Australia)と間違われるが、オーストラリアはラテン語で「南の地」に由来し、オーストリアとは語源的にも無関係である。しかし、綴りや発音が似ているため、多くの国でオーストリアとオーストラリアが混同されることがある。
日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている[2]。
2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース鳥ア」、オーストラリアを「オース虎リア」と覚える様に呼びかけている。
両国名の混同は日本だけではなく英語圏の国にも広く見られ、聞き取りにくい場合は "European" (ヨーロッパのオーストリア)が付け加えられる場合がある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルーのシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA (オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。
なお、フランス語圏においてはオーストラリアをAustralie(オストラリ)、オーストリアをAutriche(オトリシュ)と表すためこのような問題はない。
オーストリー表記
2006年10月に、駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した[3]。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。
発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。
しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した[4]。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。
その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している[5]。
大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断った上で
- オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる
- マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する
- 「オーストリーワイン」がその成功例である
などと述べるにとどまっている[6]。
日本では雑誌『軍事研究』がオーストリーの表記を一部で用いている。
歴史
ボヘミアがバーベンベルクを継承
ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域には様々なケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた[7]。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[7]。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった[8]。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した[8]。
10-11世紀に神聖ローマ帝国は帝国教会政策を採ったが、11世紀後半から12世紀にかけて叙任権闘争で皇帝は敗北した。
1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[9] 。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[9] 。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[10]。
教会のハプスブルク包囲網
ザルツブルクはザルツブルク大司教領(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェンが領主となった。ザルツブルクにはオーストリア最古の修道院聖ペーター僧院教会があり、古来からバイエルンと関係が深い。アギロルフィング家のテオド公がザルツブルクを寄進していたのである。バイエルン公はその後も一貫して教会建設に好意的で、ザルツブルクの教会に莫大な土地を与えた。1290年、アルブレヒト1世がエンス渓谷の所有権と諸権利を巡ってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公、サヴォイア公、ザルツブルク、アクイレイア、コンスタンツの聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟の諸都市、およびスイス誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランスを範にとり財政改革をやることになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世はモルガルテンの戦いに敗れてフランスに接近した。[11]
西方では1309年アヴィニョン捕囚でフランスが神聖ローマと国境を接した。
イタリア政策が結婚政策となるまで
フリードリヒ3世の死後一世紀余りの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。
1349年フランスがドーフィネを獲得し、ハプスブルクとの緊張を深め後の教会大分裂に発展した。1358年にハプスブルクはオーストリア大公(オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下におかれた。「チロル伯領」の首都は、1418年にメラーノに移転し、ついでインスブルックに移った。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得してゆく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。
ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも領地を獲得し始める。1477年、フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国のマリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した[12][13]。彼の子のフィリップ美公はカスティーリャとアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、更にその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした[12][13]。
ヴェストファーレン条約という審判
皇帝カール5世の治世におけるアントウェルペンは、コスモポリタンとしてポルトガルやセビリアと結びつき、二度の活況を享受した。ポルトガルはアフリカの、セビリアはアンティル諸島の貿易窓口となった。
1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死した後、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[14]。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。これは二国間紛争のようでいて、教皇庁にとっては旧東ローマ帝国を奪還するのに、フランスとハプスブルクとのいずれが尖兵にふさわしいかという政治問題でもあった。そこでカール5世はカトリックへ接近していった(宗教改革#シュマルカルデン戦争)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。このときにアントウェルペンの隣でネーデルラントがスペイン領となった。1565年、スペイン領フロリダでユグノー植民を殺す事件が起こった。そしてオランダ独立戦争に発展した。トルコとの長い戦争(Langer Türkenkrieg)は三十年戦争に影響したが、いずれも東ローマの回収を伏線とする点ではオランダ独立戦争と並行・連動するものであった。1648年にヴェストファーレン条約が結ばれて、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。
マリア・テレジアと二元主義
レオポルト1世 (1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年のウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世)[15] に続く一連の戦役(大トルコ戦争、1683年 - 1699年)の結果締結された1699年のカルロヴィッツ条約によりオーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国・スラヴォニアを獲得した。カール6世(1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711–1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに領土と権威を明け渡してしまった。
1731年、ザルツブルク大司教領(1278年 - 1803年)のザルツブルク大司教フィルミアン男爵レオポルト・アントン・エロイテリウス(在位:1727年 - 1744年)によるプロテスタント迫害(de:Salzburger Exulanten)が始まり、2万人と云われる人口流出が起った。多くのプロテスタントを受け入れたプロイセンが大国として擡頭することになった。このザルツブルク追放を題材にして、ゲーテは『ヘルマンとドロテーア』を書いた。
カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。ウェストファリア条約で過酷な経済制裁を受けていたアントウェルペンが復興した(ベルギー#オーストリア再び)。プロイセン領となったシュレージエンを巡って再び七年戦争(1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。二元主義というのは政体というよりも宗教対立というべきもので、プロイセン経済はオランダのそれと共通してユグノーが台頭せしめたのである。オーストリアはプロイセン、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割(1772年と1795年)に加わった。
神聖ローマ帝国の解体とウィーン体制
フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の[16]1804年、オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における四つの列強国の一つと認められた(ウィーン体制)。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦がつくられる。1818年のアーヘン会議でザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトがウィーン財界に列した。1822年にはハプスブルク家から彼を含むロスチャイルド5兄弟全員に男爵位が送られた。彼らにより現在のオーストリア北部鉄道が建設された。政治と連携したロスチャイルドをふくむ財界の力で、ウィーンからプラハ・ドレスデン・ベルリンを経由してハンブルクまでが鉄道で結ばれていった。
未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争の為にドイツは統一国家を目指した[17]1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一は大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦の何れかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年にフランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦いシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。だが、オーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年に普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦い[17] で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった[18][19]。
1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した[20]。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、更にはイタリア人、ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。
この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。例えばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告(Reichsgesetzblatt)は8言語で発行され、全ての民族は各自の言語の学校で学べ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対に他の民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。オーストリアはイタリア統一運動の終盤からフランスへある程度接近せざるをえなかった。
帝国郵便が17世紀パール家(Paar)に譲ったオーストリア事業は1816年国有化された。
もう一つの郵便制度がオスマン帝国との外交チャンネルとして開拓されていた。オーストリアはチューリップ時代のはじめからイスタンブールに弁理公使を常駐させていた。そして、友好国のイスタンブール駐在大使についても通信文の郵送を請け負った。1746年、マリア・テレジアがウィーンとイスタンブール間で月一回の定期郵送を命じた。1748年イスタンブールとイズミルにオーストリア郵便局が設立された(オスマン帝国最初の郵便局)。1788-91年の交戦中は郵便が停止されたが、戦後まもなく復活し、新たにアナトリア、エジプト、クレタ、ドナウ周辺にも郵便局が開設された。[21]
1910年、オスマン帝国に置かれていたオーストリア郵便局は28も存在した。このうち国有郵便局は7つにすぎず、残りはオーストリア・ロイド汽船会社(Österreichischer Lloyd)の郵便局であった。汽船会社の親会社はロイド・アウストリアコ(Lloyd Austoriaco)という調査・出版会社で、1833年トリエステに設立されてからイギリスの海上保険に関する情報を発信していた。汽船会社は第二部門として、1836年にブルック(Karl Ludwig von Bruck)の計画とザーロモン・ロートシルトの資本参加で発足した。1837年、汽船会社はオーストリア政府と郵便契約を結び、レバント各地への海上郵便輸送を担当の上、収益の八割を約束された。そして汽船会社は自社の代理店として郵便局を設置したのである。[22][21]
1874年万国郵便連合の創設に関する条約を討議する第一回郵便会議(ベルン)において、オスマン帝国は外国郵便局の追放を目指すと宣言した。1884年にオスマン帝国は大ブルガリア公国と郵便協定を結び、イスタンブールとヴァルナ間の郵袋をブルガリア郵便に引受させるという通達を諸国に発信した。こうしてスタートしたオスマン独自の汽船郵便であったが、オーストリア・ロイド汽船との熾烈な競争にあえなく敗れた。オスマン帝国は1890年代以降に憲兵を使うなどして外国郵便の営業を妨害したので、万国郵便連合での発言力を失ってしまった。[21]
1908年10月、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。その直後からオーストリア・ロイド汽船は荷揚げボイコットの標的となった。それは11月末に過激なものとなった。ロイド船で輸送されたバトゥミ宛て貨物をフランス籍の船が積み替えようとした際に、オスマン役人がフランス汽船会社の代理店に現れ、積み替えを行えば黒海のオスマン領内の全港に向けて、フランスの船をボイコットするよう打電すると警告した。脅しに屈した会社は、ロイド船の貨物を再び積み戻した。[21]
第一次世界大戦と共和制への移行
19世紀末からオスマン債務管理局をめぐり、債権国間の対立は海溝のごとく深まっていった。1914年にフランツ・フェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、紛争は第一次世界大戦に発展した。セルビアは露仏同盟の影響下にある国である。豚戦争のときオーストリアがセルビアに差別関税を導入したのは、フランス資本のシュナイダー・クルーゾからではなくオーストリア資本のシュコダ財閥から兵器を輸入させるためであった[23]。セルビアは財政管理を受けながら第一次バルカン戦争を勝ち抜いた。1914年にはシュルンベルジェが進出していた。
4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び事実上の降伏をした。
第一次世界大戦の降伏直後にオーストリア革命が起こり、皇帝カール1世は「国事不関与」を宣言して共和制(ドイツ=オーストリア共和国)に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉した。
1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、その他の領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の1/4程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった[24]。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。
戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ、1925年から1929年には経済はやや上向いて来たが、そこへ世界恐慌が起きて1931年クレディタンシュタルトが倒産した。
ファシズムからアンシュルスへ
1933年にキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)[25][26]。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた[27]。対立が高まり内戦(2月内乱)となる[25][26][28]
内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し[29][28]、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス党のクーデターが起こり暗殺された[30][31]。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した[32]。3月13日にアンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。このときオーストリア・レンダーバンクが他行を吸収合併し経営を拡大したが、レンダーバンクはドレスナー銀行と事実上の資本提携関係にあった。
オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオーストリアをオストマルク州とし[32]、1942年にアルペン・ドナウ帝国大管区と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日、ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し[33] 、4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は260,000人[34] 、ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は65,000人に上っている[35]。
第二次大戦後
ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領されオーストリア連合国委員会によって管理された(連合軍軍政期)[36]。1943年のモスクワ宣言の時から予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり[33]、ドイツ同様に分断される恐れがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた[37]。
冷戦の影響を受け数年かかった交渉の末に1955年5月15日、占領4カ国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言した[38]。1995年欧州連合へ加盟したので[39]、間接的な憲法改正は加えられている[38]。この軌道修正は経済的な対外依存を背景としている[40]。
第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年及び1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党に党員に平等に分配されるというものである[41]。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある[42]。1945年以降、単独政権は1966年-1970年(国民党)と1970年-1983年(社会党)だけで、他の期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)の何れかになっている。
1970-1983年の社会党政権における経済政策は概ね自由化を進める方向で動いた。為替管理は1946年から外為法でオーストリア国立銀行へ委任されているが、ニクソン・ショックでは国際決済において資本移動を制限するなどした。1974年に(変動為替相場制と互恵主義を前提として)オーストリア・シリングをあらゆる通貨と売買取引ができるようにした。1975年に資本移動制限は緩和された。外国法人による直接投資も外国機関投資家による間接投資も再自由化されたのである。1981年、非居住者による不動産取得も再び自由化された[43]。
このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきたクルト・ヴァルトハイムが、1986年に大統領となった。合衆国とは対立したが、自国資本で機関化されてゆく東欧諸国を足場に中華人民共和国を国連に加盟させてグローバル化に寄与した。
政治
政体は連邦共和制。議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか絶対拒否権を行使できない。国家元首の連邦大統領 (Bundespräsident) は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とする連邦会議 (Bundesversammlung) で行われる。連邦会議は非常設の連邦機関で、この他に任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認がある。連邦政府の首班は連邦首相 (Bundeskanzler)。連邦政府 (Bundesregierung) は国民議会における内閣不信任案の可決か、大統領による罷免でしか交代することはない。
政党には、中道右派のオーストリア国民党 (ÖVP)・中道左派のオーストリア社会民主党(SPÖ, 旧オーストリア社会党、1945-91)・極右のオーストリア自由党 (FPÖ)・同党から分かれて成立したオーストリア未来同盟(BZÖ, 自由党の主要議員はこちらに移動した)・環境保護を掲げる緑の党がある。
2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右派(自由党→オーストリア未来同盟)との連立政権が解消され、中道左派・社会民主党と国民党の大連立に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右派の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右派は第一共和国時代のキリスト教社会党・オーストリア社会民主労働党・ドイツ民族主義派(諸政党…「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「護国団」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。
国際関係
オーストリア共和国は第二次世界大戦後の連合国による占領を経て、1955年に永世中立を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。
欧州経済共同体に対抗するために結成された欧州自由貿易連合には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の欧州連合加盟に伴い脱退した。
加盟した欧州連合においては軍事面についても統合がすすめられており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論がおこっている。
歴史的、地理的に中欧・東欧や西バルカンの国と関係が深く、クロアチアなどの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。トルコの欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは1869年に日墺修好通商航海条約を締結して以来友好な関係である。特に音楽方面での交流が盛んである。第一次世界大戦では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った
[44]。
2011年に隣国のリヒテンシュタインがシェンゲン協定に加盟したことより、周囲の国家が全て同協定の加盟国となり、国境管理を行っていない。
軍事
国軍として陸軍および空軍が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6ヶ月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は連邦大統領であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。北大西洋条約機構には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。
行政区分
9つの州が存在する。このように8つの州とウィーンから成るために、9角形の硬貨が発行されたことがある[45]。なお、9角形とは言っても、辺は直線ではなく曲線、すなわち、曲線多角形の硬貨である。
名称 | 人口(人) | 州都/主府/本部 | 備考 |
---|---|---|---|
ブルゲンラント州 Burgenland | 277,569 | アイゼンシュタット Eisenstadt | |
ケルンテン州 Kärnten | 559,404 | クラーゲンフルト Klagenfurt | |
ニーダーエスターライヒ州 Niederösterreich | 1,545,804 | ザンクト・ペルテン St. Pölten | |
オーバーエスターライヒ州 Oberösterreich | 1,376,797 | リンツ Linz | |
ザルツブルク州 Salzburg | 515,327 | ザルツブルク Salzburg | |
シュタイアーマルク州 Steiermark | 1,183,303 | グラーツ Graz | |
チロル州 Tirol | 673,504 | インスブルック Innsbruck | |
フォアアールベルク州 Vorarlberg | 372,791 | ブレゲンツ Bregenz | |
ウィーン Wien | 1,550,123 |
オーストリアの地方名
- アルプス山脈
- ドナウ川
- イン川
- ライタ川
- ボーデン湖
- ノイジートラー湖
ザルツカンマーグート Salzkammergut
ウィーンの森 Wienerwald
ヴァッハウ渓谷 Wachau
- グロスグロックナー山
主要都市
都市 | 州 | 人口(2006) | |
---|---|---|---|
1 | ウィーン | 1,680,266 | |
2 | グラーツ | シュタイアーマルク州 | 252,852 |
3 | リンツ | オーバーエスターライヒ州 | 188,968 |
4 | ザルツブルク | ザルツブルク州 | 150,269 |
5 | インスブルック | チロル州 | 117,916 |
6 | クラーゲンフルト | ケルンテン州 | 92,404 |
- アイゼンシュタット
- クレムス
- ザンクト・ペルテン
- シュタイアー
- バーデン
- バート・イシュル
- ゼーフェルト
- ハルシュタット
- ハル
- ブラウナウ
- ブレゲンツ
- マリアツェル
- メルク
- リエンツ
地理
国土面積は日本の北海道とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈、同山麓、カルパチア盆地 (パンノニア低地) 、ウィーン盆地、北部山地 (ボヘミア高地) に分けられる。アルプスが国土の62%を占め、海抜500m以下は全土の32%に過ぎない。最高地点はグロースグロックナー山 (標高3798m) である。アルプスの水を集めドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する国際河川がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。
気候
気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。
経済
年の1人当たりGDPは世界第10位に位置し、経済的に豊かな国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州の自動車産業、オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んである。失業率は他の欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつある。オーストリアにとって日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つAKGは、クラシック愛好者を中心に日本でも有名である。
1986年にクルト・ヴァルトハイムが大統領となると、西ドイツマルク類似の安定かつ若干高利回りのシリング債券・株式は外国機関投資家の注目するところとなり、オーストリアへ大量の外貨が流入した。オーストリアの資本市場は瞬く間に機関化された。機関投資家へ流動性を提供する公開市場操作が重視されるようになった。機関投資家のスワップ取引も同様であった。結果として、オーストリアの資本市場では投資信託をふくむ証券化(直接金融化)の発達が促進された。官民そろってユーロ債の発行規模を増した。オーストリアの対外金融債務は1200億シリング相当額を超え、全金融債務の20%程度になった。グローバル化の結果、オーストリア全銀行の総資産に占める外貨債券・債務の割合がともに約24%になり、大きく対外依存度を高めた[40]。
退職年金ファンドは1987年末に残高252億シリングを記録した。これは全国総ファンド残高687億シリングの36.7%を占める。ユーロ債は円債が1981年以降毎年発行されており、1985年以降の発行額は1000億円超である。狭い国内市場での債券発行は、クラウディング・アウトがおきないように、資本市場委員会の審議を経て大蔵大臣の許可を得る必要があった。外債は当然に制限された。民間大手保険会社は債券市場の発展に貢献している[46]。
そして1993年、巨大な国有コンツェルン(ÖIAG)が民営化=機関化された。
オーストリアの加盟した欧州連合も、ドイツ再統一から勢いを得て、欧州委員会の諮問委員会から機関化されていった。
機関化を受けてプロポルツも変容した。社会党は中立政策を支持し(反機関化)、一方、国民党は欧州連合安全保障体制との一体化を主張している(機関化支持)。国民党の議員の中にはNATO加入すら否定しない意見もある。実際にオーストリアは欧州連合の共通外交・安全保障政策に加わっており、いわゆるピーターズバーグ・アジェンダ(平和維持と平和創造を含む)に参加して、NATOの「平和のためのパートナーシップ」のメンバーになっている。これらに伴い憲法が改正されている。
- オーストリアの企業一覧
金融
オーストリア銀行、エルステ銀行、ライフアイゼンバンク、BAWAG、フォルクスバンクが主要銀行である。
交通
鉄道
ÖBB(オーストリア国鉄)が主要幹線を網羅しており、山岳部では、登山列車なども運行している。ウィーンでは地下鉄やSバーン、路面電車なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。
航空
ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。ウィーン国際空港では、ドイツ語の案内放送の後、英語で案内放送がある。
国民
民族
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「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかしオーストリア民族はいない。国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス(de:Hellmut Andics)がオーストリア帝国を評したものであるが、実際にいまのオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなくオーストリア人という概念はきわめて新しい。
ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっており雑多であるが、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。
オーストリア人はドイツ人に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。元々オーストリアはプロイセン、バイエルン等と同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人はバイエルン族である。)、しかも12~19世紀の間、オーストリア大公家であるハプスブルク家がドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の帝位やドイツ連邦議長国の座を独占していた。そのため、「ブランデンブルク辺境伯」の名のように前近代までは欧州の「周辺」地域として位置づけられてきた新興のプロイセンなどより、むしろオーストリアこそドイツ民族の本流であるという考え方が、20世紀前半までは残っていた。国籍論議が起こったモーツァルトの書簡には「私たちドイツ人は」「ドイツ人として私は」といった文言が多く用いられている。形骸化していたとはいえ神聖ローマ帝国が長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊によって、オーストリアの国土が民族ドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずにドイツへの合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗ってさえいたし、国家の歌詞にはドイツ人の国という言葉が1930年代まで残っていた。しかし、この民族自決論を逆手に取ったオーストリア人ヒトラーの行為に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。特にヒトラーの生地、かつての大ドイツ帝国の中心地でありながら、合併後はかつてのアルザス・ロレーヌのように「遅れて加わったドイツ」扱いされた屈辱も大きかった。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外した小ドイツ主義のビスマルク体制の方が歴史的例外なのであってヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし実際は両国民とも悪夢のようなナチス時代の記憶から分離のほうが望ましいと考えており、ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、東ドイツ、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるの意識が育ち、さらにはエスニシティにおいてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一、欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。
「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「ドイツ語を話す人」というニュアンスが強い。ゲルマン民族が西進しフランク王国を立てたのち、西部や南部でラテン語との同化を選択した勢力(フランス人、イタリア人、スペイン人の一部の先祖となる)には加わらず、元々のゲルマン語を守り続けてた東フランク人が「ドイッチュ」(古来は民衆を意味した。当初ラテン語が支配階層のみで使われたため)の名でドイツ人の先祖となったためである。その後、ドイツ語は英語やフランス語と違い、ほとんど他民族では母語化しなかったため、言語と民族概念とが不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ~」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られるが、これらの名称も今日となってはドイツ人の街と解釈するのかドイツ語の街と解釈するのかは微妙である。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を“ドイツ人”と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、少数民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代におけるブルゲンラント州、ケルンテン州でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。
今日ウィーン市内では、ドイツ国歌を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし、元をただせば現在のドイツ国歌は、ハイドンが神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世を讃えるために作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』の歌詞を替えたものであり、19世紀後半にはオーストリア帝国の国歌となっていた。ナポレオン戦争における神聖ローマ帝国の勝利と帝国の権威維持を祈願して当曲が作られた当時はオーストリア国家は存在せず、アウステルリッツの戦いに敗戦してローマ帝位を辞するまでフランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったので、両国共通のルーツを持つ歌ともいえる(ちなみに先代のハプスブルク家当主は1999年まで欧州議会議員を、ドイツ選出でつとめた)。しかし、外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは、国歌のメロディではなく、政治的には外国であるドイツを「わが祖国」と連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。
もっとも、現在のドイツ民族主義者たちに、かつてのように統一国家の樹立を掲げている者はほとんどいない。特にオーストリア側においてはなおのことであり、ともにEU域内に入った現在そうする意味は少ない(ただし合併ではなく現オーストリアの国名を「ドイツ・オーストリア共和国」に戻す主張は右派に根強い)。いわば民族の文化的、精神的結束を重んじるものであり、それだけにイタリアの南チロル、フランスのアルザスなど、隣国のドイツ系住民地域への影響、EU内でのドイツ語コミューンの形成を不安視する声もある。EUに囲まれた未加盟国であり、長らく独・仏・伊3民族の共存国家として平穏を保ってきた(しかもドイツ系が圧倒的に多い)スイスにおいても同様である。
ブルゲンラント州は1918年まではハンガリー王国側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。ケルンテン州にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代における調査によれば1~2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にもかなりの外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。
外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くがトルコ人と旧ユーゴスラビア諸国出身者である。
言語
ドイツ語が公用語であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部等と同じ上部ドイツ語(Oberdeutsch)系の方言(オーストリアドイツ語)である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの(スイスドイツ語に近い)を除き、バイエルンと同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語である。オーストリアでは、テレビ、ラジオの放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。
またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。
東オーストリアの方言では
- -l
- Mädl(Mädchen)
- nの後にlがくる場合、nがdになる:Pfandl(< Pfann(e) フライパン)、Mandl(< Mann 人、男性)
- -erl
- Kipferl
- Ein Momenterl (少々お待ちください)
となる。
南部のケルンテン州にはスロベニア人も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったハンガリー・チェコ・イタリアなどの諸国の言語の影響が残っていると言われている。
また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在する他、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるので注意が必要である。
Kategorie:Österreichische Sprache - オーストリアのドイツ語に関するリンク集。
宗教
宗教は、5,530,000人(66.0 %)がローマ・カトリックに属している(2009年)。プロテスタントのうち310,097人(3.7 %)がルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に、14,000人(0.165%)が改革派のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。515,914人(6.2 %)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、ユダヤ教もいる。
婚姻
婚姻の際、2013年までは、原則として「夫または妻の氏(その決定がない場合は夫の氏)を称する(同氏)。自己の氏を後置することもできる[47]」とされていた。しかし2013年4月以降、婚前に特に手続きしないかぎり原則として婚前の氏を保持する(夫婦別姓が原則)、と変更された[48][49]。これまで通りの選択も可能であるが、その場合婚前に手続きが必要となる。また、別姓での結婚において夫婦が子の姓について合意できない場合は母の姓となる規定がある[50]。これには母子家庭以外でも子が母の姓を名乗るケースを認めることで、親子関係と姓で婚外子だと分からないようにするという、婚外子差別をなくす意味合いがある[50]。2019年1月1日より同性結婚が可能になった[51][52]。
文化
食文化
音楽
オーストリア人の音楽文化への態度は保守的と評されたのも、今は昔の話であり、傑出した作曲家が若手の世代からデビューすることも増えてきた。近年ではキプロスやポーランドといった国の出身の者がオーストリアへ市民権を移し、オーストリア人によって積極的に評価され優れた作品を生むものも存在する。クラシック音楽のみならず、即興音楽やテクノ、エレクトロニカなどのジャンルに於いても、未来をになう人材を輩出中である。また、国が芸術家を支援する態度も充実しており、才能があればすぐ委嘱がくるとまで言われている。インターネットラジオも、充実度が高い。
クラシック音楽
オーストリアからは多くの作曲家・演奏家を輩出し、ドイツ圏全体として圧倒的に世界一のクラシック音楽大国として知られ(オペラですら本場イメージの強いイタリアの4倍の上演数を誇っている)、名門オーケストラや国立歌劇場、音楽学校を擁する首都ウィーンは「音楽の都」と呼ばれている。作曲家人気調査などでは上位三傑はドイツのベートーヴェン、J・S・バッハにオーストリアのモーツァルトが加わるのが常であり、十傑でもブルックナー、シューベルト、マーラーといったオーストリア出身者に、ドイツ出身のブラームス(以上7人のうちウィーン生まれはシューベルトのみだが、バッハを除く全員が後半生までには活動の本拠をウィーンに置いていた。ただしマーラーのみは作品初演拠点はドイツが中心だった)らが入る状況である。実際には18世紀半ばまではイタリアやフランスの方がどちらかといえば音楽先進国であり(例えば、モーツァルトのオペラの大半は、台詞がイタリア語で書かれている)、音楽大国ドイツ・オーストリアの歴史は18世紀後半にウィーン古典派の台頭とともに急速に形成されたものではある(今日音楽の父とまで呼ばれるバッハは生前は国際的な知名度は低く、同時代のヘンデルはイギリスが拠点だった)が、現況として愛好されているクラシック音楽としてはやはりずば抜けた割合を占めていることは事実である。19世紀にはウィンナ・ワルツが隆盛を極め、「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世などが活躍した。演奏家については、ナチスの迫害によってユダヤ系を中心に人材が流出してしまったことなどから急速に人材が乏しくなったが、最近は回復傾向にある。音楽家についてはオーストリアの作曲家を参照。[独自研究?]
オペラ・オペレッタ
- ウィーン国立歌劇場
- ウィーン・フォルクスオーパー
- 演奏団体
- ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
- ウィーン交響楽団
- ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
- ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団
- 祝祭上演
- ザルツブルク音楽祭
- ザルツブルク復活祭音楽祭
- ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭
- ザルツブルク国際モーツァルト週間
- ブレゲンツ音楽祭
文学
この節の加筆が望まれています。 |
世界遺産
ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件存在する。さらにハンガリーにまたがって1件の文化遺産が登録されている。詳細は、オーストリアの世界遺産を参照。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Neujahr | |
1月6日 | 公現祭 | Heilige Drei Könige | |
移動祝日 | 復活祭の日曜日 | Ostersonntag | |
移動祝日 | 復活祭の月曜日 | Ostermontag | |
5月1日 | メーデー | Tag der Arbeit | |
移動祝日 | 主の昇天 | Christi Himmelfahrt | 復活祭から40日目の木曜日 |
移動祝日 | 聖霊降臨祭 | Pfingstsonntag | |
移動祝日 | 聖霊降臨祭の月曜日 | Pfingstmontag | |
移動祝日 | 聖体の祝日 | Fronleichnam | 聖霊降臨祭から12日目の木曜日 |
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12月24日 | クリスマスイブ | Heilig Abend (Weihnachten) | |
12月25日 | クリスマス | Christtag | |
12月26日 | 聖ステファノの祝日 | Stefanitag | |
スポーツ
冬季オリンピックで数多くのメダルを獲得することから分かるように、オーストリアでもその寒冷な気候と山がちな地形を利用したウィンタースポーツが盛んに行われている。中でもアルペンスキーは絶大な人気を誇り、冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得しているヘルマン・マイヤーは国民的スターでもある。2006-07年シーズンでは男女計12種目のうち実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。
ライフル射撃競技とクロスカントリースキーを組み合わせたバイアスロンの強豪国でもあり、国際スキー連盟とは独立している国際バイアスロン連合は、その本部をオーストリアのザルツブルクに置いている。
またノルディックスキーも人気が高く、ノルウェー、フィンランド、ドイツなどとともに強豪国として名高い。アンドレアス・ゴルトベルガー(ジャンプ 1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、フェリックス・ゴットヴァルト(ノルディック複合 2001年FIS・W杯総合優勝)、トーマス・モルゲンシュテルン(ジャンプ 2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年では2006年トリノオリンピックのジャンプ競技で金メダルを獲得している。
モータースポーツも盛んに行われ、国内でのF1開催は26回に上る。
伝統的にサッカーの人気が高く、イギリスを除くヨーロッパ大陸では最も古い歴史を誇るプロリーグであるオーストリア・ブンデスリーガ(1部)を筆頭にサッカーリーグは9部まである。1部のレッドブル・ザルツブルクには、日本の南野拓実が在籍している。(2016年現在)
オーストリアの最高峰リーグであるオーストリア・ブンデスリーガをステップアップとしてサッカーのブランドネーションに移籍する選手が多く、毎年のようにドイツ・ブンデスリーガやイタリア・セリエAに移籍する選手が数多く輩出されている。
2008年にはUEFA欧州選手権2008をスイスと共同で開催した。オーストリア代表チームはドイツやクロアチアを相手に善戦したもののグループリーグで敗退を喫した。
自転車ロードレースでは、ゲオルク・トーチニヒがツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアといった世界最高峰のレースで活躍した。現在はベルンハルト・アイゼルなどが知られている。オーストリア最大のステージレース(複数の日数にわたって行われるレース)「エースターライヒ・ルントファールト」はUCIヨーロッパツアーのHC(超級)という高いカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。
積雪の多い気候ゆえ、卓球やハンドボール、アイスホッケー、柔道などの室内スポーツの競技人口も多い。
著名な出身者
ウィーンでは、オーストリア・ハンガリー各地の出身者が活躍した。
(参照:オーストリア=ハンガリー帝国、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド(ガリツィア)、スロベニア、クロアチア、ルーマニア、ブコビナ、イタリア(南チロル))
脚注
^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. p. 604. ISBN 978-3-411-04066-7.
^ 「産経新聞」2006年11月20日号
^ Österreich 日本語表音表記 の変更について(リンク切れ)
^ ペーター・モーザー駐日オーストリア大使によるプレス・ステートメント 「オーストリアの公式日本語表記変わらず」(リンク切れ)
^ オーストリアが16歳から選挙権
^ オーストリア大使館商務部ホームページ
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- ^ abcd藤由順子 『ハプスブルク・オスマン両帝国の外交交渉』 南窓社 2003年 第2章 オスマン帝国における外国郵便局撤廃に関する考察
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^ 『オーストリアの金融・資本市場』 59-64、96-98頁
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^ "Change of Name", The Austrian Foreign Ministry Worldwide.
^ "Namensänderung im Zusammenhang mit einer Eheschließung", Amstswege leicht gemacht, Bundeskanzleramt, Österreich
- ^ ab「夫婦別姓、海外の実情は 家族の一体感は? 親子で違う姓、不便?」、朝日新聞、2016年5月26日。[リンク切れ]
^ Distinction between marriage and registered partnership violates ban on discrimination
^ “Austria: Same-Sex Couples Allowed to Get Married Starting January 2019”. Library of Congress (2017年12月12日). 2019年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月25日閲覧。
^ de:Feiertage in Österreich を参照
参考文献
Brook-Shepherd, Gordon (1998). The Austrians: a thousand-year odyssey. New York: Carroll & Graf Publishers, Inc. ISBN 0786705205.
Johnson, Lonnie (1989). Introducing Austria: a short history. Riverside, Calif.: Ariadne Press. ISBN 0929497031.
Schulze, Hagen (1996). States, nations, and nationalism: from the Middle Ages to the present. Cambridge, Mass.: Blackwell. ISBN 0631209336.
関連項目
- オーストリア関係記事の一覧
- オーストリア君主一覧
- ハプスブルク家
- ハプスブルク君主国
- 神聖ローマ帝国
- オーストリア帝国
- 神聖同盟
- 東方問題
- オーストリア=ハンガリー帝国
- オットー・フォン・ハプスブルク
- 連邦大統領 (オーストリア)
- 連邦首相 (オーストリア)
- 南チロル
- 軍服 (オーストリア)
- オーストリア (小惑星)
- サウンド・オブ・ミュージック
外部リンク
- 政府
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