鶴岡一人


































































鶴岡 一人

O'Doul and Tsuruoka 1949.JPG
1949年、来日したサンフランシスコ・シールズ監督のフランク・オドールと握手をする鶴岡

基本情報
国籍
日本の旗 日本
出身地
広島県呉市[※ 1]
生年月日
(1916-07-27) 1916年7月27日
没年月日
(2000-03-07) 2000年3月7日(83歳没)
身長
体重

173 cm
68 kg
選手情報
投球・打席
右投右打
ポジション
三塁手、二塁手、一塁手、外野手
プロ入り
1939年
初出場
1939年3月28日
最終出場
1952年8月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴




  • 広島県立広島商業学校

  • 法政大学


  • 南海軍
    グレートリング
    南海ホークス (1939, 1946 - 1952)




監督歴



  • グレートリング
    南海ホークス (1946 - 1968)




野球殿堂(日本)


Empty Star.svgEmpty Star.svgEmpty Star.svg殿堂表彰者Empty Star.svgEmpty Star.svgEmpty Star.svg

選出年
1965年
選出方法
競技者表彰

鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身[1] のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)[2]」。


愛称は鶴岡親分ツルさん。初代「ミスターホークス」「ドン鶴岡」とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。


一軍監督として通算1773勝を挙げた実績から、プロ野球史上最多勝監督[3]としても知られる。また、勝率.609は歴代監督の中でも唯一の6割超えである。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 現役時代


    • 1.2 選手兼任監督時代


    • 1.3 南海監督時代


      • 1.3.1 選手の獲得、発掘


      • 1.3.2 データ野球のはしりと精神主義


      • 1.3.3 大阪球場建設


      • 1.3.4 勇退に至るまで




    • 1.4 監督勇退後


    • 1.5 野村との確執


    • 1.6 晩年




  • 2 家族


  • 3 詳細情報


    • 3.1 年度別打撃成績


    • 3.2 年度別投手成績


    • 3.3 年度別監督成績


    • 3.4 タイトル


    • 3.5 表彰


    • 3.6 記録


    • 3.7 背番号


    • 3.8 登録名




  • 4 著書


  • 5 参考文献


  • 6 脚注


    • 6.1 注釈


    • 6.2 出典




  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





経歴



現役時代


一年先輩である浜崎忠治(浜崎真二の弟)と仲間になったことがきっかけで野球を始める。同学年の藤村富美男とは呉市内の隣の小学校で、当時からのライバルだった。鶴岡は広島県立広島商業高校へ進学し、1931年に遊撃手として第8回選抜中等学校野球大会で全国制覇を達成、同年中には選抜優勝校の特典として、主催の大阪毎日新聞社からアメリカ遠征を与えられ、高校やノンプロチームと対戦した。カリフォルニア州サンタマリアで対戦したハイスクールには、戦後に親交を結ぶことになる日系2世のキャピー原田がおり、原田は「印象に残る、とてもうまいプレーヤーだった」と後に振り返っている[4][5][6][※ 2]。1933年の第10回選抜中等学校野球大会はエース兼4番打者としてベスト4まで進出した。


法政大学進学後はすぐレギュラーを務め、華麗な三塁守備は「東京六大学史上最高」とも言われ、法政大学の連覇に貢献するなど、花形選手・主将として活躍した[7]。新聞の「法政 鶴岡」という見出しの大きさは、この頃に始まった職業野球の球団名の活字の10倍はあったという[8]。リーグ通算88試合出場、331打数99安打、打率.299・2本塁打・56打点で、首位打者1回。


1939年に法政大学を卒業と同時に、創立初年度の南海軍へ三顧の礼をもって迎えられ、入団[7][8][9][※ 3]。これを知った法政大学野球部OB会は、「卒業と同時に職業野球に入るとは何事か。『野球芸人』になるつもりか。母校の恥だ。(鶴岡を)除名せよ」との声が出た[10]。鶴岡にプロ入りを決断させたのは、「(軍隊に)取られたら生きて帰れるかわからない。それ(徴兵)までは好きな野球をやりたい」という思いだった[9]。同様の理由で川上哲治もプロ入りしており、「徴兵=戦死」という暗い予想が無ければ、見下さされていたプロ野球界には人材が集まらなかった可能性が高い。このように、プロ野球史は「戦争による抑圧」という陰惨な時代を迎えようとしていたが、皮肉な結果論として、戦争がプロ野球界へ貢献した側面もあった[9]


南海軍へ入団した鶴岡は、その卓越した統率力から新人にも関わらず主将に抜擢され[11]、「3番・三塁手」として同年に本塁打王を獲得、放った10本塁打は戦前の最多記録である。鶴岡の守備方法「ノーステップ・スロー」は法政大学在籍時代に肩を痛めたため、極端な前進守備から素早く送球する方法を選んだためである[12]。鶴岡の人気は「職業野球選手中の随一」と言われ、当時は珍しかった女性の野球ファンも増やした。東京六大学のスター選手がプロ入りすることで、プロ野球界全体、選手個人の人気を共に広げていく、その先駆けが鶴岡である[8]


そんな鶴岡にも、1940年に召集令状が届く。鶴岡は陸軍高射砲連隊へ入隊し、5年間もの長きに渡って従軍[13]、日本内地を転々とした後、1945年8月の終戦直前には神風特別攻撃隊の出撃地となった鹿児島県知覧町(現・南九州市)の陸軍知覧航空隊機関砲中隊長を務め、低空で飛んでくるグラマンを撃ち落とした[13][14]。この時に中隊長として200名の部下を率いた経験が、後の「指揮官哲学」を生んだと言われている[15]。1944年に結婚、同時に妻の家へ婿入りし、「山本 一人」へ改姓した[16]



選手兼任監督時代


1946年に復員し、29歳で監督就任を要請され、同年から1952年まで選手兼任監督を務める。戦後の混乱期の中で、野球のみならず選手の生活の面倒まで世話していたことから「鶴岡親分」と呼ばれて慕われた[17][※ 4]。その様子は、鶴岡が放棄試合をしたにも関わらず、人徳に考慮して罰金を免除すると言われるほどだったという。また、有望選手の獲得も上手かったが、無名選手を中百舌鳥球場で徹底的に鍛え上げ、名選手に育て上げる手腕がそれ以上に長けていた[2]。さらに、選手のプロ意識を向上させるために発言した「グラウンドには“ゼニ”が落ちている。人が2倍練習してたら3倍やれ。3倍してたら4倍やれ。“ゼニ”が欲しけりゃ練習せえ」という名言は大変有名で[18][19]、この「グラウンドにはゼニが〜」の部分は、野球漫画「グラゼニ」のタイトルの元になった[20][21]


このように、鶴岡は現代野球に直結する様々な手を打ってきた[22][23]。大阪タイガースの「ダイナマイト打線」に対抗できる決め手はないかと考え、「足にスランプはないから」という理由で[11]、俊足かつ野球をよく知る選手を集め[14][11]、1946年は1番・安井亀和、2番・河西俊雄、3番・田川豊の「俊足トリオ」で塁を掻き回し、4番・鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖[24][25]」で、読売ジャイアンツを1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を南海(当時は「グレートリング」)の初優勝で飾った。このとき鶴岡(山本)は30歳であり、優勝監督として史上最年少である。この年は選手としても打点王に輝き、MVPを初めて獲得している。


1948年は選手兼任監督ながら青田昇(読売ジャイアンツ)、小鶴誠(大映ユニオンズ)と三つ巴の首位打者争いを繰り広げたが、最終打席に敬遠で歩かされたことで、青田と6毛差の3位に終わった。しかし、チームは2年ぶりに優勝して2度目となるMVPに選出された。


1949年には現在の育成枠の先駆けともいえる[22]ファームを創設[22]、狭き門に600名もの応募者が殺到した[22]。1951年に創設した南海土建野球部は近年増えるプロ野球二軍チームと社会人チームの交流試合の先駆けと言える。この年はチームとしてリーグ優勝を果たし[※ 5]、選手としても3度目のMVPを獲得した。日本プロ野球史上、「優勝監督でMVP」を達成したのは鶴岡のほかに若林忠志(阪神タイガース、1944年・1947年)と野村克也(南海、1973年)の2人だけだが、鶴岡はその中で最も多くこの栄誉を手にしている。


1952年はリーグ連続優勝を達成したが、監督業に専念するため、この年限りで現役を引退した。



南海監督時代




南海監督時代の鶴岡(1955年)


1953年から専任監督となった鶴岡は、1968年までの通算23年間もの長きにわたって指揮官を務め、優勝11回・日本シリーズも2回制覇している。日本シリーズでは読売ジャイアンツに1951年 - 1953年、1955年、1961年、1965年、1966年と敗れたが、1959年には4連勝で日本一に輝き、「涙の御堂筋パレード」ではリーグ分裂後としては初めて、大阪に日本一の優勝旗を掲げた[26](御堂筋パレードについては1959年の日本シリーズ参照)。さらに1964年は、阪神タイガースを下して日本一となった。


同一球団の監督として指揮を執った期間は日本プロ野球史上最長、史上最多の1773勝(1140敗81分)、最高勝率.609を記録した(300試合以上を経験した監督で唯一の6割超え)。特に1950年に「パシフィック・リーグ」となってから辞任するまでの19年間では、優勝:9回(うち日本一2回)、2位:9回、3位以下は僅か1回(1967年の4位)だけ、2位に終わったシーズンもそのうち5シーズンは首位と1ゲーム差以内という驚異的な成績で、南海ホークスの黄金時代を築いた名監督である。なかには「南海(ホークス)を語ることは鶴岡を語ることであり、鶴岡を語ることは南海(ホークス)を語ることである」とも言われる[2][17]。南海50年の歴史の中で鶴岡一人の占めた存在は大きいものがあった[27]


開幕から連敗続きだった1962年には「指揮官が悪いと部隊は全滅する」との言葉を残して休養[28]、同年8月から復帰した。



選手の獲得、発掘


テスト生の時から岡本伊三美・広瀬叔功・野村克也・森中千香良、無名だった飯田徳治・森下整鎮・皆川睦雄・村上雅則・国貞泰汎を育て、大学のスター選手だった蔭山和夫・杉浦忠・大沢啓二・穴吹義雄・渡辺泰輔[29]、外国人選手ではキャピー原田を通じてジョー・スタンカ・バディ・ピート・ケント・ハドリなど優秀な外国人選手を入団させ[6][※ 6]、強い結束で「常勝南海軍」の時代を築いた。個々やチームの戦力を的確に把握し、常に新しい才能を入れることで「100万ドルの内野陣」や、西鉄ライオンズなどに対抗するための大型打線「400フィート打線」などを形成した[22][23][30]。これらの選手獲得は鶴岡のコネ、友人からの紹介を主としていたが、鶴岡は1960年頃から各地区に常駐のスカウトを置き、各地の有力選手を積極的に獲得しようと考えた[31]。東海地区の担当スカウトとして鶴岡が抜擢したのが三重県出身の伊藤四郎で[31]、これらはプロ野球最初のスカウト制度の確立ともいわれる[32][33]


自らの人脈をフルに生かした情報網を築き、選手発掘にも精力的に動き[※ 7]、稲尾和久・広岡達朗・長嶋茂雄・山本一義・長池徳士・柴田勲・高田繁・田淵幸一[※ 8]、山本浩二にはプロ入り前から目をつけ、特に長嶋・柴田については入団契約直前までこぎつけた。長嶋は大沢を介して南海入りがほぼ決定し、「オレは南海にお世話になるつもり。お前も一緒に行こうと、長嶋は杉浦を勧誘していた[34]。また、広岡は鶴岡の前で「お世話になります」と言ったという[35]


しかし、柴田は30回以上も柴田家に足を運んだものの別所毅彦の横槍でさらわれたと言い[36]、山本一義は池田勇人に邪魔され[37][38]、稲尾の場合は、稲尾の父親が嫌っていた金融業を営んでいた後援会の会長が、南海入りを勧めたのが仇となったと言われている[39]


長池、山本は高校時代に入団テストを行い、「投手としては無理」と二人に法政大学進学の労をとったもので、長池はプロ野球ドラフト会議実施が一年遅れていたら南海入りしていた。長池は尊敬する鶴岡から一字を頂戴して息子を「徳人」と命名したとも話している[40]。高田繁も大阪体育大学浪商高等学校在学時に「南海に世話になりたい」と話していたが、鶴岡は「お前は身体が小さいから大学へ行く方がいい」と言ったと言われる[41][42]。鶴岡は豪気な性格ながら人が良いため、土壇場でどんでん返しに遭い、何度も悔し涙を流していたという[43]



データ野球のはしりと精神主義


「尾張メモ」で知られる元毎日新聞記者の尾張久次を1954年にプロ野球初の専属スコアラーとして採用し、メジャーリーグにも無かった世界初の「データ野球」[44]を導入したことでも知られる[22][33][45][46][47]


1959年の日本シリーズにおける対読売ジャイアンツ戦において、大沢啓二の外野守備がことごとくピンチを救ったことが語られ、これは巨人の各打者のデータによって一球ごとに捕手・野村からサインを出して守備位置を変えるという、それまでの野球に例を見ない作戦が実ったものと言われた[22][28]。これをきっかけに「スコアラー」の存在がマスコミに大きく取り上げられ[※ 9]、野村克也のID野球は鶴岡が導入した「尾張メモ」が手本[23]だと述べている。


日本に於けるサインプレーの起源は諸説あるといわれるが[48]、起源説もある三原脩や水原茂の頃は、まだサインの種類も少なく単純だった[48]。複雑な「ブロックサイン」を創り上げたのは「尾張メモ」を源とする鶴岡と言われ[48]、細かく難しい南海のサインプレーは、中日、広島、阪急、近鉄、阪神などに広がっていった[48]


三原脩は「西鉄の監督を引き受けて間もないころ、鶴岡君の“こまぎれ交代”にずいぶん泣かされた。この戦法の先覚者は鶴岡君だった。南海と試合をすると、鶴岡監督は目まぐるしく投手をかえてきた。下手投げが出てきたと思うと、次は左投手が現れる。打者がようやく目がなれてきたと思うとき、今度は右が出てくるというぐあいで、スイスイと目先を変えられてしまう。強力な投打の力を持つチームには、こういう作戦はあまり必要でないが、最初西鉄は戦力が充分でなかったからこれにやられた。なんとか対抗策がないものかと考え抜いたすえ思いついたのが、影武者を使う“当て馬作戦”(偵察オーダー)である(三原脩#采配)。これでひとまず、こっちが先手をとることができた。これはいわば一時的な受け身に過ぎなかったが、四つに組んで南海に勝つためには、どんな投手が次々に現れようと、打者自身の力でハネ返す強力打線を作り上げなくてはならない。こうして作り上げたのが、西鉄黄金時代の中西、豊田、大下、関口らの強力打線だった」と述べている[49]


鶴岡は小学校長だった義父から「(部下には)必ず敵がいる。敵がいないと、指導者として勉強をしなくなる」と指導者としての心得を教わっていた。しかし鶴岡は「味方と敵が半々では指導者落第、7対3にできれば立派だ」という考えを持っていた。出場機会が少ない選手が大きく固まらないように注意を払い、愛情を持ったしかり方を工夫した。「23年間の監督生活は、5対5を6対4に、さらに7対3にするための努力の日々だった」と振り返っている[50]


育成枠に常駐スカウト、専属スコアラーの導入、卓越した外国人管理術[51][52]など、鶴岡は球界の近代化に大きく寄与した人物である[31]。鶴岡といえば「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、むしろその逆で、データ野球推進など今を先取りした新しさ、義理と人情の古めかしさと、鶴岡の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げた[22]


一方で野村克也は様々な自著で、鶴岡の野球を、軍隊のやり方をそのまま持ち込んだ「精神野球」の権化であるとし、「精神野球」を「気合だけでやる野球」「結果オーライの野球」などと言い換えて批判している。


また、事あるごとに「連帯責任」や「営倉に入れるぞ」などという軍隊用語が出て、現役時代は辟易していたとも語っている。


自身の配球によって、相手打者に打たれてしまった際も、「バカたれ」と怒鳴るだけで、何も教えてくれなかったという。怒鳴られるのを覚悟で、どのような配球をすれば良かったのかを聞いても「自分で勉強せぇ」と言われ、途方に暮れたという。技術や情報の伝授、教育などとは無縁の世界であったとし、それでも南海が黄金時代を築くことができたのは、家父長制の父親のような存在感に、選手が逆らわずについていったからだとしている。ただ野村は「例え親分であっても絶対と思わずに『なぜ?』と問い返してしまう私のような存在は、煙たかったのだろうと今では思う。」と、そう思ったであろう自身に対する鶴岡の思いも述べている。


また鶴岡は、恭順な選手を可愛がる傾向が強かったと、野村が鶴岡宅に正月の挨拶に行った時の出来事を例にしてそう著述している。


ただ、そんな野村も鶴岡の野球を全て否定しているわけではない。鶴岡に一度だけ褒められた際には、ますますやる気が湧いてきたと語っている。また前述の「データ野球」や、野村の指導者としての態度は、鶴岡の影響を受けていることも、自身で認めている。


こうした鶴岡の手法は、上記の言葉に由来する「ゼニの取れる野球」に加え、後には「がめつい野球」とも称されることとなる[53][※ 10]。この間、1957年に妻が死去し、翌年再婚したことから、1959年のシーズンより鶴岡姓に戻っている。



大阪球場建設


本拠地として使用する大阪スタヂアム(大阪球場)の建設に、南海・松浦竹松代表と共に尽力[26][54][55]し、同球場は生涯にわたって交流を持ったキャピー原田を通じて、GHQ経済科学局長のウィリアム・マーカットに建設許可を下させたものだった[54][4]。球界ではゼネラルマネージャーと言えば根本陸夫が語られることが多いが、編成や契約金などの細やかなバランスにも関わった鶴岡は、松木謙治郎・三原脩と共に実質的GMの先駆とされる[8][56]



勇退に至るまで


1965年11月13日に、鶴岡は記者会見で監督勇退を正式に表明した。一人の人間がいつまでも同じ球団の監督をしていては発展は望めないと考えての決断だったが、後任に指名したヘッドコーチの蔭山和夫が4日後に急死する悲劇が起きた。勇退を表明した鶴岡には東京オリオンズ、サンケイ・スワローズから監督就任の要請があり、蔭山が死亡した当日に両球団のオーナーと面会して球団を決定する予定だった。鶴岡は蔭山の急死を受けて、選手会長兼主将の野村克也をはじめとする選手たちなどの懇願もあって勇退を撤回、改めて南海と3年契約を結んだ[57])。その後、鶴岡は3年契約が切れた1968年オフまで監督を務め、後任の飯田徳治にバトンタッチした。


日本プロ野球史上、複数球団が勝率(もしくは勝利数)1位となったケースでのプレーオフが行われたことは一度もないが、鶴岡は監督初年度の1946年と最終年度の1968年の2度、プレーオフ寸前となったケースを体験している。しかし前者が拾い物の優勝だったのとは逆に、後者は最終戦で力尽きる、といった対称的な結果となった。この最終戦が、鶴岡にとっての最後の指揮となった。



監督勇退後


蔭山和夫の急死を受け、1968年まで南海ホークスの監督を務めた鶴岡は、監督勇退後もその手腕を買われて他球団から監督就任を要請された。同じ関西を本拠地とする阪神タイガースから藤本定義の後任監督として要請があったが、交渉の席で鶴岡が球団組織に対して言及すると阪神側が及び腰となり決裂、1969年にも再び監督就任要請があったが、やはり鶴岡が就任するとフロント主導の構図が崩れることを恐れ、「青年監督ブーム」もあって決裂した[58]。その後、1970年に近鉄バファローズから三原脩の後任として要請があったが、「三原さんが近鉄ナインにどんな野球を教えたか興味あるが、一年間監督業を務める体力が無い」として辞退した。同年にはヤクルトアトムズが8月20日に監督の別所毅彦が解任され週刊ベースボールに「別所ついに退陣! 次期監督に鶴岡確実」と報じられ[59]、監督就任が噂されたが、就任のための条件が一致しなかった[60]


1969年から死去するまで、NHKの野球解説者[61]、スポーツニッポンの野球評論家を務め、その後も川上哲治と共に球界の首領として並び称される存在であった[62][63]



野村との確執


1977年、鶴岡との対立を伝えられていた野村克也が、公私混同を理由に南海ホークス監督を解任された[64][※ 11]。この時の記者会見で野村が「鶴岡元老にぶっ飛ばされた。野球の世界に政治があるとは知らなかった」と発言する[64][65]など確執が表面化し、これにマスメディアが飛びつき、南海の「お家騒動」に発展した[64]。鶴岡は監督人事への関与を全否定し[64]、南海は野村に謝罪を求めた[64]。これを受けて野村は鶴岡に謝罪し、球団はそれを受け入れたが、野村は陥れられたという考えを捨てておらず、鶴岡本人が直接動いたわけではないにしても、鶴岡を支持する者や野村を恨む人たちが、プライベートな問題を理由に野村を解任したという解釈を未だに大きく変えていない[64]。この騒動により江夏豊・柏原純一など、野村を慕う主力選手が球団に対して激しく抗議、次々に退団・移籍する事態を招いた[66]。野村解任後の南海は急速に弱体化し、親会社の消極的な球団運営もあって最下位が指定席となるなどの低迷を続け、1988年オフに球団がダイエーへ売却された。


尾張久次は、自身の推測として真偽のほどは吝かではないことと前置きした上で、「野村が選手兼任監督に就任した1970年、ヘッドコーチのドン・ブレイザーは妥当にしてもその他の一軍コーチに旧南海OBが誰もいない組閣をしてOBを激怒させたのが遠因」と述べている[67]。鶴岡自身は、内心では野村を終始評価しており[47]、野村が1993年にヤクルトスワローズを日本一に導いて正力松太郎賞を獲得した時も、鶴岡は選考委員として野村を推薦している[47]。そもそも、南海に入団してから2年間で二軍暮らしを続けていた野村の素質を見抜き、一軍の正捕手に抜擢したのも鶴岡である。野村解任事件についても、監督時代後期から内縁関係だった野村沙知代が采配に介入し、選手を罵倒するなどの行為を続け[47]、それを排除することが出来なかったために、野村に全く非が無い訳ではない。なお、鶴岡は野村解任人事に関与していなかったとして球団に抗議し、オーナーの川勝傳が謝罪している。また、野村の「ぶっ飛ばされた」発言も自身の勘違いだったと釈明した[68]


また鶴岡は、褒めた方が伸びると判断して接した杉浦忠に対して、広瀬叔功や野村については図太い性格だと思いこみ、敢えて「怒られ役」扱いとして厳しく接したが、実際は野村が繊細な性格だったと気付くのが遅く、結果的に行き違いが生じてしまったと晩年述懐している。[要出典]。鶴岡は広瀬の結婚式に出席した一方[※ 12]、野村と球団後援会副会長の娘だった前夫人との結婚式への出席については、ある事情から結婚に反対した経緯もあり見合わせている[69]。ただし、鶴岡自身が野村を軽視していたと受け取ることもできる行動をしていたのは事実で、有名なエピソードとして、蔭山和夫の急死後に監督復帰を願うために広瀬、杉浦と野村が鶴岡の自宅へ訪問した際も、鶴岡は「何が『三冠王』や。何が『本塁打王』や。ちゃんちゃらおかしいわい。本当に(チームに)貢献したのは杉浦だけや」と言い放ったという。


野村は鶴岡の葬儀に参列しておらず、花輪も寄せなかったため[47]、これを確執の深さと見る向きもあるが、実際にはなんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」への記述を自ら断るなど、解任時の経緯から「南海」と距離を置く姿勢をとっていたことから[※ 13]野村が参列や献花を遠慮したと言われる。また後日、マスコミを避けて遺族の元に弔問したという説があるが、真偽は不明である)[要出典](ただし、野村の行動に対して大沢啓二は「恩知らず」と切り捨て[65]野村とバッテリーを組んだ杉浦も「過去のことは水に流し、悔い改めたらどうなんだ」と苦言を呈している)[要出典]


しかし近年の著書・雑誌インタビューなどでは、テスト生として採用されたこと、戦力として見出してもらったことなどについて、鶴岡の眼力や指導力を肯定的に記すようになっている[64]。永井良和は、野村がヤクルト、阪神、社会人シダックス、楽天と監督を続けていくうち、鶴岡の手腕に対する評価の変化につながったのではないかと推察している[64]。「自分の場合、何と言っても鶴岡さんだった。オレが選手を褒めないのは鶴岡さんの影響。あの人も直接、選手を褒めることなんてなかったよ」[※ 14]」と話したり、2008年に刊行した著書「あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由」(角川書店)では「恩師」と明記するなど、鶴岡への感謝の念がにじむ[65]。「Sports Graphic Number 722」の2009年11月号では、「誰しも監督になるまで何人か仕えてきた監督がいるわけですが、意識しているかは別として誰か一人の監督の影響が強く出るものなんです。(中略)そのあたりは、(私の場合は)やっぱり鶴岡さんでしょうね」と話している。関係がおかしくなったのは次期監督として「野村」の名前が挙がるようになってからで、野村自身も「(南海ホークスに)テスト生として入団して中心選手まで行ったわけだから『野村を育成した』という意味では自慢の種のはずなんですが、鶴岡さんとしては先に杉浦、広瀬に後任をやらせたかったんでしょう。私は嫌われていた」と話す。ただ、「ベースボールマガジン」1999年夏号に掲載された蔭山和夫急死騒動の記事については、鶴岡は野村を「蔭山に次ぐ第二候補」とし、選手兼任も止む無しと考えていたとの記述があり、鶴岡が野村の監督就任に根本的に反対していたとは言い切れない面もある。また、『南海ホークスがあったころ』にも鶴岡は野村を飯田徳治の後任として考えていたが、就任時期が早まったと記述されている。


前述のように、野村が選手を褒めないのも鶴岡の影響で、鶴岡は他チームの選手は褒めても自軍の選手はなかなか褒めなかったという。野村自身によると鶴岡に褒められたのは、3年目にマスコミからハワイキャンプの収穫を聞かれて「野村に使える目処が立ったこと」と書かれた新聞を読んだことと、本塁打王を獲得した4年目に大阪スタヂアムの通路ですれ違った際に「お前、ようやったなぁ」と言われた2回だけだというが、野村は本当に大きな自信になったといい、「それでいいんです。こうやって(現在も)覚えてるくらいですから。監督はやたらと選手を褒めまくったらいかん。言葉の値打ちが下がります」と話している[70][※ 15]。東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めている2009年9月6日の対北海道日本ハムファイターズ戦の試合前、「言葉は力なんだよ。いまオレがこうしてある(長くプロ野球に携われ、監督も務めていられる)のも、南海3年目の鶴岡監督の一言(「野村に使える目処が立ったこと」)があったからなんや。鶴岡監督はとにかく人を褒めないことで有名な人だったが、4年目のある日に(本塁打王を獲得して)「おまえ、ようやったな」と言ってくれた。褒めない人のそういう一言は重みがある」とほぼ同じ話をしている[71][72]。このことに関して野村以外では、岡本伊三美が自身のプロ野球人生を振り返った著書の題名に、鶴岡に言われた言葉「岡本、少しは野球 面白ぅなってきたか」を採っている[73]。佐々木信也は1970年頃、鶴岡に「野村の一番いいところは何ですか」と質問したら、鶴岡は少し考えてから「自分に生活の場を与えてくれているプロ野球界に対して、感謝の気持ちを忘れないことやな」と答え、ほかの言葉を期待していたので意外な感じがしたと話している[74]



晩年


鶴岡は少年野球の国際交流にも尽力し、1967年に「リトルホークス(現・ジュニアホークス)」を創設した[75][76]。1970年には、大阪スタヂアムを本拠地とするボーイズリーグの創設にも尽力した[77]。当時は、少年野球が使用するグラウンドにプロ野球の本拠地球場を使用することは非常に珍しく、画期的なことだった。ボーイズリーグは多くの逸材を輩出し、日本野球のレベルアップに大いに貢献した[78]


監督在任中の1965年に野球殿堂入りを果たしたほか、1991年にはプロ野球選手初の叙勲(勲四等旭日小綬章)を授与された。


2000年3月7日、20世紀最後のシーズンを前に動脈血栓症による心不全のため、亡くなった。3月8・9日、大阪の本願寺津村別院(北御堂)で行われた鶴岡の通夜・告別式には各界から3000人以上が参列した[79]。9日の告別式では大勢の南海電気鉄道社員が御堂筋の南海本社から大阪スタヂアム跡にずらりと整列し、鶴岡の棺を乗せた車を黙礼で送った。告別式の弔辞では、杉浦忠が「親分、ここから御堂筋が見えますか」と、鶴岡への追悼の言葉を述べた。


鶴岡の出身地に近い呉市スポーツ会館(呉市二河野球場に隣接)には「鶴岡一人記念展示室」が設けられており、ゆかりの品が納められている。



家族


上記の通り、最初の妻は1957年に失った。その後まもなく南海電鉄の広報誌に掲載された私設応援団長のインタビューには「日本シリーズに勝って御堂筋をパレードすることが亡くなられた奥さんへの最もよい手向けになる」との発言があり、1959年にその悲願を達成して御堂筋パレードに向かう前には再婚した妻から「お父さん、パレードを見せてあげてください」と先妻の位牌を渡されたという話が鶴岡の著書『南海ホークスとともに』に記されている[80]


長男(最初の妻との間の子)は常勝PL学園の礎を築き、法政大学監督や近鉄スカウトなどを務め、現在はマリナーズスカウトを務める鶴岡泰(山本泰)。泰は法政大学卒業時の1967年のドラフトで南海から指名されたが、父から猛反対されプロ入りは断念した。このとき法政野球部にいた江本孟紀によれば、泰の打撃力特に変化球打ちの能力は抜きん出ており、少なくとも選手の能力としては父親の鶴岡を超えるものがあった。その上であえてプロ入りをさせなかった鶴岡の父親としての態度について「親は子供に苦労をさせたくないものだ」と江本は評している[※ 16][81]。次男・秀樹はPL学園高校野球部OB会長で、ミズノ常務取締役。


このほか、最初の妻との間にもうけた長女を、1949年に散歩中に南海電車の線路に立ち入る事故により1歳7か月で亡くしている。このとき長女を連れていた鶴岡の母親も、事故の心労から翌年他界した。



詳細情報



年度別打撃成績


























































































































































































































































































































O
P
S

1939

南海
グレートリング
南海
92 397 330 54 94 13 9 10 155 55 21 -- 0 1 64 -- 2 24 -- .285 .403 .470 .873

1946
104 461 388 75 122 23 8 4 173 95 32 8 1 -- 71 -- 1 13 -- .314 .422 .446 .868

1947
118 511 428 64 118 20 4 10 176 65 16 9 3 -- 79 -- 1 24 -- .276 .390 .411 .801

1948
125 519 449 65 137 28 3 8 195 68 23 4 0 -- 69 -- 1 22 -- .305 .399 .434 .833

1949
114 487 425 71 123 23 2 17 201 77 15 4 0 -- 59 -- 3 30 -- .289 .380 .473 .853

1950
55 161 140 25 40 7 2 5 66 25 5 0 0 -- 20 -- 1 11 5 .286 .379 .471 .850

1951
91 366 338 44 105 21 1 2 134 58 19 4 0 -- 27 -- 1 11 10 .311 .363 .396 .760

1952
55 204 183 35 51 10 1 5 78 24 12 3 1 -- 20 -- 0 11 5 .279 .350 .426 .776
通算:8年
754 3106 2681 433 790 145 30 61 1178 467 143 32 5 1 409 -- 10 146 20 .295 .390 .439 .829


  • 各年度の太字はリーグ最高

  • 南海(南海軍)は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更



年度別投手成績











































































































































W
H
I
P

1947

南海
1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 4 1.0 2 1 0 0 0 0 0 0 1 1 9.00 2.00
通算:1年
1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 4 1.0 2 1 0 0 0 0 0 0 1 1 9.00 2.00


年度別監督成績






























































































































































































































































































































































年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率

年齢

1946年

グレートリング
南海
1位 105 65 38 2 .631 -- 24 .273 3.08 30歳

1947年
3位 119 59 55 5 .518 19.0 24 .231 2.39 31歳

1948年
1位 140 87 49 4 .640 -- 45 .255 2.18 32歳

1949年
4位 135 67 67 1 .500 18.5 90 .270 3.95 33歳

1950年
2位 120 66 49 5 .574 15.0 88 .279 3.38 34歳

1951年
1位 104 72 24 8 .750 -- 48 .276 2.40 35歳

1952年
1位 121 76 44 1 .633 -- 83 .268 2.84 36歳

1953年
1位 120 71 48 1 .597 -- 61 .265 3.02 37歳

1954年
2位 140 91 49 0 .650 0.5 82 .250 2.50 38歳

1955年
1位 143 99 41 3 .707 -- 90 .249 2.61 39歳

1956年
2位 154 96 52 6 .643 0.5 68 .250 2.23 40歳

1957年
2位 132 78 53 1 .595 7.0 98 .252 2.68 41歳

1958年
2位 130 77 48 5 .612 1.0 93 .248 2.53 42歳

1959年
1位 134 88 42 4 .677 -- 90 .265 2.44 43歳

1960年
2位 136 78 52 6 .600 4.0 103 .247 2.88 44歳

1961年
1位 140 85 49 6 .629 -- 117 .262 2.96 45歳

1962年
2位 133 73 57 3 .562 5.0 119 .253 3.27 46歳

1963年
2位 150 85 61 4 .582 1.0 184 .256 2.70 47歳

1964年
1位 150 84 63 3 .571 -- 144 .259 3.12 48歳

1965年
1位 140 88 49 3 .642 -- 153 .255 2.80 49歳

1966年
1位 133 79 51 3 .608 -- 108 .245 2.59 50歳

1967年
4位 133 64 66 3 .492 11.0 108 .235 3.04 51歳

1968年
2位 136 79 51 6 .608 1.0 127 .243 2.92 52歳
通算:23年
2994 1773 1140 81 .609 Aクラス22回、Bクラス1回


  • グレートリングは、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更

  • 23年連続同一チーム監督、通算1773勝はともに歴代1位



※1 順位の太字は日本一

※2 1958年から1960年、1962年、1966年から1996年までは130試合制

※3 1961年、1965年は140試合制

※4 1963年から1964年までは150試合制



タイトル




  • 本塁打王:1回 (1939年)


  • 打点王:1回 (1946年)



表彰




  • MVP:3回 (1946年、1948年、1951年)


  • ベストナイン:1回 (二塁手部門:1951年)


  • 野球殿堂競技者表彰 (1965年)


  • 勲四等旭日小綬章 (1991年)


  • 従五位 (2000年)



記録



  • オールスターゲーム出場:2回 (1951年、1952年)


背番号




  • 5 (1939年)


  • 1 (1946年)


  • 30 (1947年 - 1965年)


  • 31 (1966年 - 1968年)



登録名




  • 鶴岡 一人 (つるおか かずと、1939年、1959年 - 1968年)


  • 山本 一人 (やまもと かずと、1946年 - 1958年)



著書


  • 『御堂筋の凱歌 栄光と血涙のプロ野球史』、ベースボールマガジン社、1983年


参考文献




  • 大和球士『真説 日本野球史』、ベースボール・マガジン社

  • 尾張久次 『「尾張メモ」の全貌』 講談社、1984年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 4-06-132119-6。

  • 近藤唯之 『プロ野球監督列伝』 新潮社、1984年。

  • 別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年12月

  • 神田順治『野球殿堂物語』ベースボール・マガジン社1992年9月

  • 鶴岡一人追悼記念制作委員会 『野球を愛した男 鶴岡一人の生涯』 日本少年野球連盟・報知新聞大阪本社、2000年。

  • 『広商野球部百年史』広商野球部百年史編集委員会、2000年11月

  • 『プロ野球人国記 中国編』ベースボール・マガジン社、2004年4月

  • 『野球殿堂2007』野球体育博物館、2007年4月

  • 永井良和 『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』 ソフトバンククリエイティブ、2008年。
    ISBN 9784797348972。



脚注


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注釈





  1. ^ 鶴岡は日本経済新聞社の連載『私の履歴書』でも「私は大正五年七月二十七日、呉市東二河通六丁目で生まれた」(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』、日本経済新聞社、2007年、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 つるおか かずと |日本経済新聞出版社))と書いている他、『御堂筋の凱歌』(奥付)や、『わしの野球』(206頁)といった鶴岡の自著全てで「広島県呉市生まれ」と書いている。またボーイズリーグの公式ホームページでも「呉市の生まれ」と話している(鶴岡一人記念大会 | 財団法人日本少年野球連盟 | ボーイズリーグ)。呉市にある「鶴岡一人記念展示室」内の略歴でも「呉市生まれ」と記載(呉市スポーツ会館、鶴岡一人記念展示室・鶴岡一人略歴)。一部の文献に「山口県出身」、あるいは「山口県大島郡生まれ」などと書かれた物があるが、山口県大島は両親の出身地(『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』12、13頁)ではあるが、鶴岡一人自身は広島県呉市の生まれ育ちであるため、生活実態を出身地の基準とすればこれは誤りとなる。ただし、鶴岡自身の本籍が両親と同じ山口県のままであるかどうかは不明である(大相撲の番付では、生活実態のない本籍地や父親の出身地などを力士自身の出身地として届け出る例もあるため)。


  2. ^ この海外遠征は、主催新聞同士の競争から、選抜優勝チームを夏の全国中等学校野球選手権大会に出させないための方策であった。原田の回想は著書『太平洋のかけ橋』からの引用。


  3. ^ 現在では当たり前となっている「大学出身」選手のプロ入りもこの当時は存在したが、多くは大学を中退、あるいは卒業後に必ず一度は実業団を経由しており、大学を卒業してそのままプロ入りした者は誰もいなかった(別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年、62頁)。


  4. ^ 「鶴岡親分」の名付け親は別所毅彦である(近藤唯之『プロ野球監督列伝』、103頁)。


  5. ^ 1950年から2リーグ制、南海ホークスはパシフィック・リーグに所属。


  6. ^ 坂井保之は「鶴岡氏は外国人選手のハンドリングでも、傑出した手腕を発揮した(中略)鶴岡氏の教えをいつも頭の中に置くようにしてきた。おかげで、延べにして40名ほどの外国人選手を出し入れしたが、トラブルらしいトラブルは遭遇しないで来た」などと話している(坂井保之『波瀾 興亡の球譜 失われたライオンズ史を求めて』160-16頁ベースボール・マガジン社、1995年 ISBN 4-583-03258-7 )。


  7. ^ 南海が地方に遠征に行くと鶴岡は一番早く起きて、地元の高校球児の品定めをやっていたという(豊田泰光『プロ野球を殺すのはだれだ』ベースボール・マガジン、2009年、139頁)。


  8. ^ 田淵の最初の結婚は鶴岡夫妻が媒酌(週刊サンケイ 1981年2月19日号、168頁)。


  9. ^ これに関して大沢は著書『球道無頼』(講談社、1996年)において独自の判断で動いたと記している。また、スポニチアネックスの記事でも同様の見解を述べているほか、同記事ではメモの指示したシフトと大沢の動きが異なることも指摘されている(職業野球人・大沢啓二4.尾張メモ)。大沢の著書『OBたちの挑戦X』74-75頁では「オレからすれば(スコアラーのデータは)それほどのものだとは思わなかった」「日本シリーズで大胆に守備位置を変えてプレーすることが出来たのは鶴岡さんの教え」「マスコミは色んなことを言ったが、オレはプロとして何をすれば良いのか考え、実行しただけ。初代親分(鶴岡)の教えを忠実に守っただけ」などと話している。


  10. ^ 「がめつい」という言葉はもともと関西にはなく、菊田一夫が執筆して1959年に初演された戯曲『がめつい奴』での造語とされる(同項目参照)。また、鶴岡の著書において「グラウンドにゼニが落ちている」という言葉は、監督在任中に刊行した『南海ホークスとともに』(1962年)では前面に出ていないという指摘がある(『南海ホークスがあったころ』P180)。鶴岡は監督退任後の1969年に『ゼニになる野球』という著書(永井正義との共著)を刊行した。


  11. ^ これより以前の1975年オフにも公私混同は球団内で問題となり、当時の球団社長が大沢へ非公式に監督就任を打診していたという。(スポニチアネックス・大沢啓二、第1回-13・日本ハム監督就任)


  12. ^ 鶴岡は選手の結婚式に出席にすることはほとんどなく、広瀬については例外だった。


  13. ^ 南海電鉄とは距離を置く一方で、福岡ソフトバンクホークスの現経営陣や現場には比較的良好な関係を持ち、2010年代以降にはホークスOBとして球団関連のイベントに参加・協力することがある。


  14. ^ 監督通算試合が2995試合となって、この部門では鶴岡を越えた2008年7月9日の発言(スポーツニッポン、2008年7月10日面)


  15. ^ 同様の記述(スポーツニッポン、2008年7月10日、4面)、【タイガース血風録 猛虎水滸伝】野村と木戸 ハワイC意外な共通点、【二十歳のころ 野村克也氏(3)】ハワイで門限破り鶴岡監督からビンタ


  16. ^ ドラフト指名自体が泰のプロ入りを断念させるための手段だった。




出典





  1. ^ 『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』、日本経済新聞社、2007年、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 つるおか かずと |日本経済新聞出版社)。

  2. ^ abc日刊スポーツ連載《LEGEND伝説》栄枯盛衰〜消滅球団の光と影⑥(南海編①)2010年4月6日5面


  3. ^ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 鶴岡一人

  4. ^ ab【タイガース血風録 猛虎水滸伝】サンケイスポーツ、2009年6月3日。


  5. ^ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P51 - 52。

  6. ^ abジーン・スタンカ・池井優『熱投スタンカを憶えてますか』中央公論新社、1985年、109-112、175-176頁

  7. ^ ab#尾張、138-142頁

  8. ^ abcd#ホークスの70年、38-47、110頁

  9. ^ abc井上章一『阪神タイガースの正体』、太田出版、2001年、200-204頁


  10. ^ 別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988」、62頁

  11. ^ abc新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』 246-247頁、講談社、1999年 ISBN 4062645211


  12. ^ 『日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち』、ベースボール・マガジン社、2013年、100-101頁

  13. ^ ab#監督列伝、106-107頁。

  14. ^ ab「さらば!南海ホークス」、71頁


  15. ^ 「さらば!南海ホークス」、74頁


  16. ^ 鶴岡一人が養子となり「山本一人」であった時 サインは「山本」と書いていたか

  17. ^ ab「さらば!南海ホークス」、10、74頁


  18. ^ NHKアーカイブス NHK映像ファイル あの人に会いたい


  19. ^ 【スポーツ異聞】 名将・鶴岡一人は言った…「グラウンドには銭が落ちている」 神聖な職場を「賭場」にした残念な選手たち


  20. ^ 「名将の言葉に見る美学、哲学」週刊ベースボール、2013年9月30日号、30頁


  21. ^ 東京スポーツ・2013年2月6日付「マネー金言珍言」

  22. ^ abcdefgh日刊スポーツ連載《LEGEND伝説》栄枯盛衰〜消滅球団の光と影⑧(南海編③)2010年4月8日7面

  23. ^ abc#鶴岡一人の生涯、42-52頁。


  24. ^ 別所毅彦『剛球唸る!』ベースボール・マガジン社、55頁


  25. ^ 別所毅彦『勝て 男なら』有紀書房、106頁

  26. ^ ab【大阪の20世紀】(18)南海ホークスと大阪球場 巨人に圧勝「御堂筋パレード」


  27. ^ 「さらば!南海ホークス」、10、94頁

  28. ^ ab「さらば!南海ホークス」、106頁


  29. ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(6)』ベースボール・マガジン社、1987年、144頁、145頁


  30. ^ 「さらば!南海ホークス」、96、130頁

  31. ^ abc『野球小僧』2011年6月号、白夜書房、144頁


  32. ^ 「さらば!南海ホークス」、96頁

  33. ^ ab親分のダミ声Column No.107 (2004/12/22デイリースポーツ掲載分) 島村俊治


  34. ^ 1・くたばれジャイアンツ~59年・日本シリーズ~(野球) スポニチ [リンク切れ]、時事ドットコム:プロ野球「もしも、もしも・・・の物語」 - 時事通信社 長嶋茂雄〔1〕、杉浦忠『僕の愛した野球』、海鳥社、1995年、122-126頁、「さらば!南海ホークス」、102頁


  35. ^ 「さらば!南海ホークス」、102頁


  36. ^ 東京スポーツ・2010年8月13日、17日付「柴田勲 怪盗紳士の告白」、別所毅彦『勝て 男なら』有紀書房、75頁-78頁、『プロ野球史再発掘(6)』112頁-114頁


  37. ^ 【1960年代の3選手】山本 一義(やまもと・かずよし)(71) - 中国新聞


  38. ^ CONNOTE-ものづくり名手名言 第16回-


  39. ^ 阿部牧郎『われらのプロ野球』1996年、中央公論社、133頁


  40. ^ 永井正義『勇者たち=人物阪急球団史=』1978年、現代企画室、255頁-258頁


  41. ^ 「週刊朝日」1981年12月4日号28頁


  42. ^ スポーツニッポン、2011年7月8日、「高田繁 我が道(8)」


  43. ^ #尾張、138-142頁


  44. ^ #尾張、69頁。


  45. ^ 時事ドットコム:波乱万丈 野村克也【3】、野村克也、『あぁ、監督』 角川書店、2009年、77、78、106頁、『野球を愛した男 鶴岡一人の生涯』日本少年野球連盟、2000年8月、42頁、「さらば!南海ホークス」、20、93、96頁


  46. ^ 大沢啓二『OBたちの挑戦X』、マガジンハウス、2001年、73-75頁

  47. ^ abcde石埜三千穂「因縁渦巻く天敵たち・恩師も天敵に!?野村克也の愛憎にまみれた野球人生」『プロ野球情念の天敵対決』宝島社〈別冊宝島1517〉、2008年、100-101頁。ISBN 978-4-7966-6289-5。

  48. ^ abcd戸部良也「名将と日本プロ野球〈サイン〉黎明期」『野球小僧』2012年8月号、白夜書房、134-139頁。


  49. ^ 三原脩 『勝つ 戦いにおける“ツキ”と“ヨミ”の研究』 サンケイ新聞社、1973年、114-116頁。


  50. ^ 田口晃也 (2007年8月23日). “今日のノート 指導者の心得”. 読売新聞: p. 14 


  51. ^ #鶴岡一人の生涯、58頁。


  52. ^ 『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第三巻』、文藝春秋、1988年、169、170頁(外人選手は「鬼畜米英」か 深田祐介)


  53. ^ 「さらば!南海ホークス」、95頁

  54. ^ ab#鶴岡一人の生涯、79頁。


  55. ^ キャピー原田『太平洋のかけ橋 戦後・野球復活の裏面史』ベースボール・マガジン社、1980年、71頁、72頁、「さらば!南海ホークス」、80、81頁


  56. ^ 豊田泰光『星野仙一の「GM型」常勝革命』159-160頁 講談社、2003年 ISBN 4062120739


  57. ^ 一度もグラウンドに立つことなく去った蔭山監督


  58. ^ サンケイスポーツ内コラム「猛虎水滸伝(310)」、2010年4月6日


  59. ^ 記録の周辺 47年前のヤクルト16連敗を振り返るとIZa


  60. ^ 徳永喜男著『ヤクルトスワローズ球団史』、ベースボールマガジン社、P198


  61. ^ Newsletter Vol.17 / No.2 コラム/博覧・博楽(23)島村俊治 - ニュースレター|公益財団法人野球殿堂博物館


  62. ^ 野村克也『あぁ、監督』、96-99頁


  63. ^ 東京スポーツ、2010年6月8日、3面

  64. ^ abcdefgh#ホークスの70年、169-175頁。

  65. ^ abc鈴木良治「真剣勝負の世界に秘められた驚愕の真実を解き放つ!・天敵にまつわる知られざる裏事情 鶴岡一人×野村克也 無視・賞賛・非難の元祖は鶴岡だった!!」『プロ野球情念の天敵対決』宝島社〈別冊宝島1517〉、2008年、16-17頁。ISBN 978-4-7966-6289-5。


  66. ^ スポニチアネックス・日めくりプロ野球、一体何が?野村克也監督兼任捕手、電話で解任通告


  67. ^ #尾張、157-158頁


  68. ^ 日本経済新聞『私の履歴書・鶴岡一人』1984年4月


  69. ^ #鶴岡一人の生涯、51頁。


  70. ^ Sports Graphic Number 722、2009年2月19日、31-32頁


  71. ^ 文藝春秋 2009年11月号、308頁


  72. ^ 野村の著書『あぁ、監督』 角川書店、2009年、77、78頁に似た内容の記述。


  73. ^ 岡本伊三美 (2011). 岡本、少しは野球 面白ぅなってきたか―名将・鶴岡一人に学んだこと. SIC. ISBN 978-4904955079. 


  74. ^ 週刊朝日 1981年12月4日号、185頁


  75. ^ 大阪南海ボーイズ|チームページ


  76. ^ スポーツ報知、2007年8月21日、6面


  77. ^ #鶴岡一人の生涯、12-13頁。


  78. ^ 手束仁『プロ野球「もしも」読本』イーストプレス、2012年、60-61頁


  79. ^ #鶴岡一人の生涯、10頁。


  80. ^ 『南海ホークスがあったころ』P78,80 - 81


  81. ^ 時事ドットコム:プロ野球2世代写真展 「野球一族」いにしえ編 鶴岡一人、山本泰(親子)




関連項目



  • 広島県出身の人物一覧

  • 法政大学の人物一覧

  • 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

  • グラゼニ



外部リンク




  • 個人年度別成績 山本一人 - NPB.jp 日本野球機構

  • 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 鶴岡一人

  • 鶴岡一人 - NHK人物録











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