大阪大学医学部附属病院
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大阪大学医学部附属病院 | |
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情報 | |
英語名称 | Osaka University Hospital |
前身 | 大阪帝国大学医学部附属医院 |
標榜診療科 | 循環器科、内科、心臓血管外科、外科、小児外科、眼科、耳鼻咽喉科、整形外科、皮膚科、形成外科、精神科、神経科、脳神経外科、麻酔科、産科、婦人科、小児科、泌尿器科、放射線科、放射線診断科、神経内科、呼吸器科、消化器科、呼吸器外科 |
許可病床数 | 1076床 精神病床:52床 |
機能評価 | 一般500床以上:Ver6.0 |
開設者 | 国立大学法人大阪大学 |
管理者 | 吉川秀樹(病院長) |
開設年月日 | 1869年 |
所在地 | 〒565-0871 大阪府吹田市山田丘2番15号 |
位置 | 北緯34度49分9.9秒 東経135度31分42.2秒 |
二次医療圏 | 豊能 |
PJ 医療機関 |
大阪大学医学部附属病院(おおさかだいがくいがくぶふぞくびょういん)は、大阪府吹田市にある大阪大学医学部附属の大学病院。緒方洪庵が開いた適塾をその源流とする。大阪大学吹田キャンパスに位置する。通称は阪大病院(はんだいびょういん)で、広くこう呼ばれている。
目次
1 概要
2 診療科・部門
2.1 内科系科診療部門
2.2 外科系科診療部門
2.3 感覚・皮膚・運動系科診療部門
2.4 脳神経精神科診療部門
2.5 女性・母子・泌尿生殖科診療部門
2.6 放射線科診療部門
2.7 専門外来
2.8 中央診療施設
2.9 薬剤部
2.10 看護部
2.11 医療技術部
2.12 未来医療開発部
2.13 その他
3 研究機関
4 特殊救急部(現、高度救命救急センター)
5 臓器移植
6 ドクターヘリ
7 沿革
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
概要
病床数:1,076床
医員数:医師316人、専攻医134人、研修医72人- 職員数:2,122人(医師を含む)
- 1日当り通院患者:2,524人
- 所在地:大阪府吹田市山田丘2番15号(大阪大学吹田キャンパス)
- アクセス
大阪モノレール「阪大病院前駅」
近鉄バス(JR茨木駅、阪急茨木市駅から)・阪急バス(千里中央駅・北千里駅・阪急山田から)「阪大医学部病院前」
- 階数:地上14階、地階
2015年(平成27年)8月7日、厚生労働省より、国際水準の臨床研究等の中心的役割を担う国内の中核病院として、「臨床研究中核病院」に認定された[1]。
診療科・部門
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研究機関
未来医療センター
特殊救急部(現、高度救命救急センター)
1966年当時は、日本では内科学や外科学などのように救急医学がなかったために、救急医療システムが整備されていなかった。その中で大阪は万国博の開催や高度経済成長期に伴って交通事故が増加し救急患者のたらい回しが問題となっていた。そこで大阪府と大阪大学が協力して、1967年(昭和42年)8月に日本で初めての救急救命室として大阪大学医学部附属病院に「特殊救急部(災害外科)」が発足した。当時、救急診療は各診療科や当直医の裁量で行われていたために、多発外傷のような複数科にまたがる救命医療を専門的に行う診療科が存在しなかったため、特殊救急部では胸腹部外傷や広範囲熱傷といった重症の外科系救急医療を手術・入院も含めた診療を自部門で完結して実施していた。
当時、特殊救急部の責任者であった杉本侃が第73回の日本外科学会総会で救急医療の必要性を訴え、外傷外科学の出版と日本救急医学会を旗揚げする。これをきっかけに1977年に救命救急システムが法制化されて、特殊救急部をモデルとして全国に救命救急センターが設置された。大阪大学付属病院の特殊救急部も2000年に改組されて救命救急センターとなり、さらに2001年には高度救命救急センターの認可を受けた。
臓器移植
臓器移植の分野においては、心臓、肺、心肺、膵臓、小腸の全ての脳死臓器移植の保険施設として認定され、また生体肺移植も高度先進医療として認可されている、国内唯一の病院である。
また、臓器移植法施行後、国内初のの脳死心臓移植(1999年)、国内初の心肺同時移植(2009年)が行われた病院でもある。
ドクターヘリ
2008年1月16日から、大阪府内で唯一のドクターヘリの基地病院となっている。約70km離れた府最南端の岬町までも20分で到着可能となった。ヘリには高度救命救急センターに所属する医師7人、看護師9人が交代で搭乗することになっており、運航時間は午前8時から日没まで。なお機材は、ストレッチャー1台、人工呼吸器などの医療機器を積んだユーロコプターEC135を使用している。なお、ドクターヘリの運航はヒラタ学園航空事業本部が受託。
沿革
吹田キャンパスに移転する前は、中之島北側対岸の福島1丁目(旧町名:堂島浜通)にあった。福島1丁目の跡地は再開発され、大阪中之島合同庁舎が2001年に竣工、「ほたるまち」と名付けられた街区に朝日放送の新社屋などの施設やマンションが2008年に竣工した。
1838年(天保9年):緒方洪庵が津村東之町(現在の大阪市中央区瓦町三丁目)に蘭学塾(適塾)を開く。
1869年(明治2年):政府直轄仮病院を大阪上本町の大福寺内に設置。7月、鈴木町代官屋敷跡に大阪府病院が完成し仮病院を移転。11月、大阪府医学校病院を開設。
1872年(明治5年):大阪医学校病院を廃止。
1873年(明治6年):大阪府により西本願寺津村別院(北御堂)内に大阪府病院を開設。
1879年(明治12年):中之島の常安町に新築。大阪公立病院と改称。
1880年(明治13年):府立大阪病院と改称。府立大阪医学校設立。
1903年(明治36年):大阪府立高等医学校病院と改称。
1915年(大正4年):府立大阪医科大学病院と改称。
1917年(大正6年):病室から出火、火災により病院は全焼。
1919年(大正8年) 大阪医科大学病院と改称(大学令に準拠の旧制大学となる)。
1924年(大正13年):堂島浜通に新築病院が竣工し移転。10月、大阪医科大学附属医院と改称。
1931年(昭和6年):大阪帝国大学医学部附属医院に改組。
1932年(昭和7年):待兼山に石橋分院を開院(「神経性患者、慢性疾患または各種疾病の回復期にあるもの、その他郊外に転地を要するもののため」)。
1944年(昭和19年):石橋分院を閉鎖。
1947年(昭和22年):7月、石橋分院を内科・外科・精神科・眼科・産婦人科で再開院。9月、大阪帝国大学医学部附属医院を大阪大学医学部附属医院に改組。
1949年(昭和24年):大阪大学医学部附属病院と改称。
1953年(昭和28年):診療科から歯科を分離し、大阪大学歯学部附属病院が設置される。
1967年(昭和42年):8月、日本全国に救命救急センターが設置されるきっかけとなる特殊救急部を設置する。
1968年(昭和43年):3月、石橋分院を閉鎖。(病院建物は医療技術短期大学部本館を経て、現在は大阪大学総合学術博物館修学館展示場(待兼山修学館)として改装。)
1993年(平成5年):現在地(吹田キャンパス)に新築移転。微生物病研究所附属病院と統合。同年9月には、移転の様子を撮影したドキュメンタリーテレビ番組『巨大病院が動いた!阪大病院移転』が朝日放送(ABCテレビ)で制作・放映された。- 1999年3月1日 日本国内で臓器移植法施行後、初の脳死心臓移植
2000年:特殊救急部を救命救急センターとする。
2001年:救命救急センターが高度救命救急センターに指定される。
2002年4月1日 未来医療センターを設置
2007年 多剤耐性緑膿菌の院内感染
2008年 全国で13機目となるドクターヘリの基地病院になった。- 2008年8月14日 日本国内で初の低侵襲手術法(NOTES)を臨床導入
- 2009年1月17日 国内初の心肺同時移植を実施
- 2010年 本格的な電子カルテシステムを導入
- 2013年 同病院麻酔科の男性医師が、手術用鎮痛剤として用いられる麻薬の一種であるフェンタニルを無断で持ち出し、自ら使用していたことが判明。同病院からは懲戒解雇処分[2]。
脚注
^ 臨床研究中核病院について(厚生労働省)
^ 医療用麻薬:麻酔科医が自分に使用 阪大病院が懲戒解雇 毎日新聞 2013年9月7日
関連項目
- 大阪大学
- 適塾
- 大阪大学歯学部附属病院
- 国立循環器病センター
白い巨塔 - 舞台である「浪速大学医学部附属病院」は当病院がモデルとなっている(1978年版ドラマの第1話冒頭でも福島時代の当病院の外観映像が登場している)。- 愛と死をみつめて
- 緑風会病院
- ほたるまち
外部リンク
- 大阪大学医学部附属病院
- 大阪大学医学部附属病院・未来医療センター
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