楊得志
楊 得志 | |
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生誕 | 1911年 湖南省 醴陵県 |
死没 | 1994年10月25日 北京 |
所属組織 | 中国人民解放軍陸軍 |
軍歴 | 1928 - 1994 |
最終階級 | 上将 |
楊得志 | |
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「三楊」1960年 楊勇(左)楊成武(中)楊得志(右) | |
各種表記 | |
繁体字: | 楊得志 |
簡体字: | 杨得志 |
拼音: | Yáng Dézhì |
和名表記: | よう とくし |
発音転記: | ヤン ドゥーヂー |
楊 得志(よう とくし)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍の上将。
国防部副部長、総参謀長等の要職を歴任。中央軍事委員会委員(副秘書長)。楊成武、楊勇と共に人民解放軍の三楊と称された。
目次
1 経歴
2 著書
3 脚注
4 外部リンク
経歴
1928年2月、工農革命軍に入隊し、同年10月、中国共産党に入党。1930年から、中国工農紅軍第4軍第11師の排(小隊)長、連(中隊)長、第45師管理科科長、第93団(連隊)団長、紅1軍団第1団第1団団長、副師長、第2師師長を歴任。中央ソビエト区の対「囲剿」と長征に参加。長征途中、「十七勇士」を組織して強行渡河を行い、後続部隊のための進路を開拓した。1937年、抗日軍政大学に入校。
日中戦争勃発後、八路軍第115師第685団団長となり、平型関の戦闘において、日本軍の板垣師団に打撃を与えた。1938年2月、部隊を率いて呂梁山区に進入し、晋西南抗日根据地を建設した。その後、第344旅副旅長、代理旅長となり、約100人を率いて滑県で第689団と会合し、扈全禄の部隊に対して勝利を収めた。事後、平漢路東、漳河以南、衛河両岸に抗日根据地を開設した。1939年春、冀魯豫支隊支隊長となり、冀魯豫地区で遊撃戦を展開した。1940年、八路軍第2縦隊司令員、冀魯予軍区司令員。1944年4月、延安に戻り、陝甘寧晋綏連防軍教導第1旅旅長に任命され、黄河の水防、延安の防衛を担任した。
国共内戦時、晋冀魯豫軍区第1縦隊司令員、晋察冀軍区第1、第2縦隊司令員、晋察冀野戦軍司令員、華北軍区第2兵団(後に人民解放軍第19兵団に改称)司令員を歴任。
中華人民共和国建国後、第19兵団司令員兼陝西軍区司令員に任命。朝鮮戦争時は、中国人民志願軍第19兵団司令員、志願軍副司令員、司令員となった。1955年、上将の階級を授与。その後、人民解放軍軍事学院戦役系主任を経て、1955年に済南軍区司令員に就任。1974年1月2日、武漢軍区司令員に異動[1]。昆明軍区司令員、国防部副部長、総参謀長、中国共産党中央軍事委員会副秘書長、中華人民共和国中央軍事委員会委員等を歴任。
第1回~第3回国防委員会委員。中共第8回候補中央委員、第9回・第10回中央委員、第11回中央委員、中央書記処書記、第12回、政治局委員。
1994年10月25日、北京で死去。
著書
- 「楊得志回顧録」
脚注
^ http://d-arch.ide.go.jp/browse/html/1974/104/1974104DIA.html
外部リンク
中央人民政府HP内の経歴(簡体字)
楊得志網上記念館(簡体字)
中国人民解放軍
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