葉剣英
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中華人民共和国の政治家 叶剑英 Yè Jiànyīng | |
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生年月日 | 1897年4月28日 |
出生地 | 清、広東省梅県 |
没年月日 | 1986年10月22日 |
死没地 | 北京市 |
所属政党 | 中国共産党 |
称号 | 中華人民共和国元帥 |
親族 | 葉選平(長男) |
第3代全国人民代表大会常務委員長 | |
在任期間 | 1978年3月5日 - 1983年6月18日 |
国家主席 | 廃止 |
第3代国防部長 | |
内閣 | 周恩来内閣 華国鋒内閣 |
在任期間 | 1975年1月 - 1978年3月 |
国家主席 | 廃止 |
葉 剣英(よう けんえい[1]、1897年4月28日 - 1986年10月22日、元の名は宜偉、字は滄白)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中国人民解放軍の創立者の一人で、中華人民共和国元帥。国防部長や全国人民代表大会常務委員会委員長、中国共産党中央軍事委員会副主席兼秘書長、中国共産党中央委員会副主席などの要職を歴任。また、1975年1月から1983年6月の間は全人代常務委員会が国家元首の権能を果たしていたので、全人代常務委員長として在任中、彼が中華人民共和国の国家元首格であった。
目次
1 生涯
1.1 日中戦争
1.2 国共内戦
1.3 建国後
1.4 文化大革命
1.5 文化大革命後
2 家族と私生活
3 年譜
4 ニセ葉剣英事件
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
生涯
1897年4月28日、広東省梅県雁洋堡下虎形村の客家の豪商の家に生まれる。父は葉鉆祥、母は陳秀雲。
1917年、雲南陸軍講武学校に入学し、朱徳の影響を受ける。卒業後、黄埔軍官学校で教官生活を送り、ここで周恩来と出会う。1927年に中国共産党に入党した。同年の南昌起義に参加し、敗北すると香港に逃亡。その後、モスクワ中山大学で軍事科学を学んだ。
1932年に中国に戻り、中華ソビエト共和国に参加、演劇学校の校長を務めるなどした。張国涛の指揮下、第四軍の参謀長となり、長征においては、劉伯承を補佐し長江の渡河を指揮、1935年に毛沢東と張国涛とが対立した際には毛沢東を支持した。1936年以降は西安、南京、そして最終的に重慶における中国国民党との連絡将校として、周恩来とともに活躍した。
日中戦争
1937年7月、日中戦争が勃発。翌8月、蒋介石が南京で国防会議を召集、葉剣英は周恩来、朱徳と共に参加する。紅軍が国民革命軍第八路軍に改編されると、葉剣英は国民政府から国民革命軍中将の階級を授与され、八路軍参謀長に任命された。 10月、八路軍駐南京代表。1937年から1941年にかけて、中共中央長江局委員、南方局常務委員。1939年2月、国民党南岳遊撃幹部訓練班を創設し、その副教育長に任ぜられ、遊撃戦術を教育した。1940年3月、重慶で召集された全国参謀長会議に出席した際、「作戦と摩擦問題」と称する大演説を行い、「舌戦群儒」と称された。
1941年2月、延安に戻り、中国共産党中央革命軍事委員会(後の中国共産党中央軍事委員会)参謀長兼第18集団軍参謀長に任命。11月、中央教育委員会委員、軍事学院副院長を兼任。1945年夏、第7回党大会で中央委員に選出。
国共内戦
対日戦勝後は、国民党との交渉に参加した。1945年12月、周恩来が率いる代表団に加わり、重慶で停戦交渉を行い、政治協商会議に出席した。1946年1月、北平(北京)に移り、軍事調処執行部中共代表となり、国民党やアメリカ代表と停戦協議を行った。
1947年2月、延安に戻る。翌3月、晋西北に移り、中共中央後方委員会書記に任命された。7月から9月にかけて開催された全国土地会議に出席し、軍事問題を報告。12月、米脂県で召集された会議に出席して土地問題を討論した。1948年5月、華北軍政大学校長兼政治委員に任命。
建国後
中華人民共和国建国後の1949年10月初め、陳賡と共に広東戦役を指揮し、14日に広州を解放した。その後、広東省党委員会書記、広東省人民政府主席兼広州市長、中南軍政委員会副主席、華南軍区司令員、中南軍区司令員代行、中共中央中南局書記代理などを務め、華南地域における勢力を確立する。1950年2月、海南島戦役の計画を立案し、5月1日に海南島を解放した。
1954年6月、北京に戻り、中央人民政府人民革命軍事委員会副主席となる。同年9月、中華人民共和国憲法の制定により政府機構が再編されると、葉剣英は中華人民共和国国防委員会副主席に就任。中国人民解放軍武装力量監察部部長などを歴任した。1955年4月、訓練総監部部長代理となり、全軍の軍事訓練を主管した。同年9月、中華人民共和国元帥の階級を授与される。序列は十大元帥のうち10位。11月、遼東半島方面軍の対上陸演習を統裁。
1956年9月、第8回党大会において中央委員に再選。12月、中国軍事代表団を率いて、ビルマ、ソ連、インド、ポーランドを訪問。
1958年3月、軍事科学院創設の命を受け、同院院長兼政治委員に任命。同年、高等軍事学院院長を兼任。1959年9月、党中央軍事委員会常務委員。1960年、中央軍事委員会軍事訓練・軍事学術研究委員会主任。1963年12月、郭興福教学法を全軍に広め、毛沢東と中央軍事委員会から賞賛された。1965年、第4期全国政治協商会議副主席。1966年1月、中央軍事委員会副主席。5月、党中央書記処書記・中央軍事委員会秘書長。8月、第8期第11回中央委員会全体会議において、党中央政治局委員に当選。
文化大革命
文化大革命の時期に一時、迫害をこうむるが、党中央軍事委員会副主席兼秘書長の職を維持した。1971年に林彪が失脚すると、国防部長の役割を実質的に代行するようになり[2]、人民解放軍における最重要人物の一人となる。1973年8月の10全大会において政治局委員、政治局常務委員、および党副主席の1人に選出され、党内序列第5位に昇格した[3]。1975年1月の第4期全国人民代表大会第1回会議において、不在であった国防部長に任命された。
1976年9月に毛沢東が死去したときには、軍長老派で唯一政治局常務委員を務め、党副主席の要職にあった。党第一副主席で毛沢東の後継者とされていた華国鋒を支援して、李先念、汪東興等とともに江青ら四人組追放を実質的に指導。文化大革命の終焉に大きな役割を果たした。
文化大革命後
1977年、李先念、陳雲、王震らとともに鄧小平の復活に尽力。華国鋒失脚後も胡耀邦政権下で党副主席、政治局常務委員として留任。1978年から1983年6月までは全国人民代表大会常務委員会委員長として、中華人民共和国の国家元首格の地位にあった。
全人代常務委員長を退任した直後の1983年6月20日、新設された中華人民共和国中央軍事委員会副主席に選出され、党と国家の軍事委員会副主席を兼ね、軍に影響力を発揮した。1985年9月の第12期4中全会において、病気を理由に党中央委員、中央政治局委員、同常務委員から引退したが[4]、引き続き中央軍事委員会副主席職には留まった[5]。1986年10月22日、北京で死去した。
毛沢東は葉剣英について、以下の対聯を贈っている。
諸葛一生唯謹慎
呂端大事不糊塗
家族と私生活
葉剣英は多くの女性遍歴を持っていた事で知られている[6]。
若くして郷里で見合い結婚をしたが、子供はいなかった[7]。1924年初頭、広州にいる間に、医療従事者だった馮華と結婚した。同年11月に長男・葉選平が誕生し、続いて長女・葉楚梅が誕生した。1927年、広州にいる間に曽憲植と結婚[7]、1938年に次男・葉選寧が誕生。1937年には延安で長征女性幹部の危拱之と結婚したが、二人の間に子供はいなかった。1940年、重慶にいる間に呉博と結婚[7]。1948年末、北京良郷にいる時、華北軍政大学の学生だった李剛と結婚し、息子・葉選廉、娘・葉文珊を儲けたが、1955年に二人は離婚した[7]。
1955年より後は、葉は正式に婚姻していなかった。周囲には三人の女性がいて、身辺の世話をしていた。彼女達の名前は明らかになっておらず、葉との間に子供がいたかどうかも分かっていない[8]。
羅瑞卿の子である羅宇の回顧録によると、1956年、北戴河にいる時に、葉が看護師の女性と関係を持ったために、葉の別の女が全裸で海に身を投げて自殺を図った。警衛所によって阻止されたが、北戴河では大騒ぎになったという[9]。
妻は美女が多かったので、葉は巷で“花帥”と呼ばれた。
葉剣英が広東省に築いた強力な地盤は、長男の葉選平(広東省長や全国政治協商会議副主席などを歴任)が引き継いでいる。また、長女の葉楚梅は、国務院副総理や国務委員等を歴任した鄒家華に嫁いだ。
年譜
1897年4月28日 広東省梅県雁洋堡下虎形村に生まれる。
1926年 国民革命軍第二師団長、後に第四軍参謀長に任ぜられる。
1941年 中央革命軍事委員会参謀長。
1955年 朱徳、彭徳懐らとともに中華人民共和国元帥に列せられる。いわゆる“十大元帥”。
1966年 中国共産党中央政治局委員。中国共産党中央軍事委員会副主席(1985年まで)。
1974年 - 1982年 中国共産党中央委員会副主席。
1978年 - 1983年 全国人民代表大会常務委員会委員長(この時期、国家主席制度が廃されていたため、中華人民共和国の元首)。
1982年 - 1985年9月 中国共産党中央政治局常務委員。
1983年 - 1985年9月 中華人民共和国中央軍事委員会副主席。
1986年10月22日 北京にて死去。
ニセ葉剣英事件
2007年2月6日、東京地方検察庁は「華僑の大物・葉剣英」を自称する北海道出身の63歳の男を詐欺罪の容疑で逮捕した。[10]。
この男は1995年に東京で経営していた貸金業でトラブルを起こして、廃業。その頃からこの男は「自分は華僑の大物である。世界の華僑マネーを自在に使える」と騙るようになった。その頃から「葉剣英」の名刺を銀座のクラブで配るなどして「葉剣英」としての知名度を上げ、そう知られるようになった。
その後沖縄県に移り、農業団体の理事を務める。そして「琉球から日本へ。日本から世界へ」のスローガンのもと沖縄県に70の農業団体を設立し、東京に「アグリ・アジア連合」という団体を設立した。設立記念パーティには衆議院議員(当時)の金子善次郎など多数の政治家があつまったほか、農林水産大臣のビデオでの祝辞なども披露された。このように「華僑の大物、葉剣英」に成りすますことに成功した結果、この男は4億円ほどの現金を詐取したという。
脚注
^ 「ようけんえい」は慣用音で、中国学の研究者は「しょうけんえい」と読むことが多い[要出典]が、これは漢字の反切にもとづくものである。集韻の失渉切の葉に「県なり、また姓なり」とあり、諸橋轍次「大漢和辞典」でも姓を「セフ」とする。両書ともに現代音では「しょう」となる。しかしながら、藤堂明保『漢和大字典』では「葉」の項に、「今では、人名も地名も『ヨウ』と読む。」との注釈があり、高島俊男は、著書において「『葉(しょう)』という姓は、中国では宋代からYè(日本語音写音「ヨウ」)と発音されるようになり、今では歴史上の人物を含めYèと発音する。日本では古くからの呼び方が残っていて、だいたい19世紀末くらいまでの人は「しょう(セフ)」と言っている」(大意 『「馮」姓漫談』-漢字検定のアホらしさ: ISBN 978-4-89772-252-8 収録)旨記述している。
^ アジア経済研究所(1973年)、129ページ。
^ アジア経済研究所(1974年)、138ページ。
^ 平松(1989年)、145ページ
^ 胡耀邦総書記が葉剣英を党軍委副主席からも引退させようと試みた政治闘争の存在が指摘されている。平松(1989年)、144-146ページ。
^ 三菱総合研究所編『中国最高指導者 WHO'S WHO[1996年新版]』蒼蒼社
- ^ abcd『叶剑英传』編写組 葉剣英伝 当代中国出版社 2006年
^ 孔慶東『脍炙英雄』北京 中国文联出版社 2012年
^ 羅宇『告别总参谋部——罗宇回忆录』ニューヨーク 開放出版社 2015年
^ “現代産業情報”. http://www.gendaisangyojoho.co.jp/cgi-bin/backnumber.cgi?NO=570&BODY=16language=J 2013年10月17日閲覧。
参考文献
平松茂雄『鄧小平の軍事改革』勁草書房、1989年- アジア経済研究所「ポスト文革路線への歩み - 1972の中国」『アジア動向年報1972』アジア経済研究所、1973年
- アジア経済研究所「新たな潮流形成への挑戦 - 1973年の中国」『アジア動向年報1973』アジア経済研究所、1974年
関連項目
- インドシナ戦争
外部リンク
葉剣英記念館(中国共産党党史人物記念館)
中華人民共和国
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