小沢一郎









































































日本の旗 日本の政治家
小沢 一郎
おざわ いちろう


Ichiro Ozawa cropped 2 Yoshitaka Kimoto and Ichiro Ozawa 20010718 colorized.png

2001年7月18日、北海道での
第19回参議院議員通常選挙の応援演説にて(59歳)

生年月日
(1942-05-24) 1942年5月24日(76歳)
出生地
日本の旗 日本 東京府東京市
出身校
慶應義塾大学経済学部卒業
日本大学大学院法学研究科中途退学
現職
自由党共同代表
所属政党
(自由民主党[注 1]→)
(新生党→)
(新進党→)
(自由党→)
(民主党→)
(国民の生活が第一→)
(日本未来の党→)
(生活の党→)
(生活の党と山本太郎となかまたち→)
自由党
称号
経済学士
(慶應義塾大学・1967年)
名誉政治学博士
(国民大学校・2014年)
親族
荒木儀助(祖父)
小沢佐重喜(父)
公式サイト
■小沢一郎ウェブサイト■




日本の旗 第34代 自治大臣
第44代 国家公安委員会委員長

内閣
第2次中曾根第2次改造内閣
在任期間
1985年12月28日 - 1986年7月22日




日本の旗 衆議院議員

選挙区
(旧岩手2区→)
(岩手4区→)
岩手3区
当選回数
17回
在任期間
1969年12月28日 - 現職
テンプレートを表示

小沢 一郎(おざわ いちろう、1942年〈昭和17年〉5月24日 - )は、日本の政治家。自由党所属の衆議院議員(17期)、自由党共同代表。閣僚として、自治大臣(第34代)、国家公安委員会委員長(第44代)を歴任。党務においては、自由民主党幹事長(第26代)、新生党代表幹事(初代)、新進党党首(第2代)、自由党党首(初代)、民主党代表代行、民主党代表(第6代)、民主党幹事長(第9代)、国民の生活が第一代表(初代)、生活の党代表(第2代)などを歴任した。




目次






  • 1 来歴


    • 1.1 生い立ち


    • 1.2 学生時代


    • 1.3 自由民主党時代


      • 1.3.1 若手・中堅議員時代


      • 1.3.2 竹下派時代


      • 1.3.3 竹下派分裂、羽田派結成




    • 1.4 非自民連立政権成立


    • 1.5 新進党時代


    • 1.6 自由党時代


      • 1.6.1 結党・与党復帰


      • 1.6.2 分裂




    • 1.7 民主党時代


      • 1.7.1 民由合併


      • 1.7.2 党代表


        • 1.7.2.1 統一地方選、参院選での躍進


        • 1.7.2.2 ねじれ国会




      • 1.7.3 党代表代行から幹事長へ


      • 1.7.4 党代表選再立候補


      • 1.7.5 党員資格停止と離党




    • 1.8 「国民の生活が第一」から「日本未来の党」、「生活の党」、「生活の党と山本太郎となかまたち」、「自由党」へ




  • 2 主張


    • 2.1 国会・選挙対策


    • 2.2 改憲論(創憲論)


    • 2.3 皇室


    • 2.4 憲法解釈


    • 2.5 外交、防衛政策


    • 2.6 法務


    • 2.7 選挙制度


    • 2.8 経済、財政政策


      • 2.8.1 税制


      • 2.8.2 貿易・通商




    • 2.9 行政改革


    • 2.10 福祉・労働政策


    • 2.11 原発・エネルギー政策


    • 2.12 教育政策


    • 2.13 農業政策


    • 2.14 他党、支持母体との関係


    • 2.15 小沢が導入したシステム




  • 3 小沢グループ


  • 4 人物


    • 4.1 人物評


    • 4.2 健康


    • 4.3 信条


    • 4.4 自民党離党


    • 4.5 宗教観・文明観


    • 4.6 囲碁


    • 4.7 インターネット


    • 4.8 バラエティ番組




  • 5 エピソード


    • 5.1 田中角栄


    • 5.2 愛犬


    • 5.3 韓国をめぐるエピソード


    • 5.4 米国、中国との国際交流


    • 5.5 語録


    • 5.6 拉致問題に関する発言


    • 5.7 アメリカ人・英国人に対する発言


    • 5.8 その他の発言




  • 6 政治資金


    • 6.1 2009年から2011年の小沢関連の刑事訴訟


    • 6.2 労働保険未加入




  • 7 所属議員連盟


  • 8 役職


  • 9 政歴


  • 10 選挙歴


  • 11 栄典


  • 12 家族・親族


    • 12.1 小沢家


    • 12.2 親戚




  • 13 著作


    • 13.1 単著


    • 13.2 共著


    • 13.3 論文




  • 14 注釈


  • 15 出典


  • 16 参考文献


  • 17 関連文献


  • 18 関連項目


    • 18.1 人物




  • 19 外部リンク





来歴



生い立ち


岩手県出身の弁護士・政治家小沢佐重喜の長男として東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に生まれた。父・佐重喜は当時東京府会議員をしていた[1]。母・みちは元千葉県議会議員荒木儀助の四女である[注 2]。父は44歳、母は42歳と、両親が高齢になってから生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという[1]。本籍地は岩手県奥州市(旧水沢市)水沢袋町。


3歳になる頃、東京大空襲を逃れるため、小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢に疎開した[2]



学生時代


水沢市立水沢小学校(現在の奥州市立水沢小学校)を経て、水沢市立常盤中学校(現在の奥州市立東水沢中学校)の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。


東京都立小石川高等学校卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学する。大学時代のニックネームは、“おとうちゃん”。身体が大きく寡黙でどことなく落ち着いた風貌を漂わせていたことからこのニックネームがつけられたという[3]。入学当初から経済学よりは法律の勉強に熱心で、法律関係の授業を熱心に聴講していたという[4]


1967年(昭和42年)春に、大学を卒業する。弁護士を目指すために日本大学大学院法学研究科で法律を学ぶ[5][注 3]


1968年(昭和43年)5月8日、父・佐重喜が心不全で急逝[6]、これをきっかけに弁護士になることを断念した[7]



自由民主党時代



若手・中堅議員時代





田中角栄(左)と


1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆議院選挙に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、佐藤栄作→田中角栄派(周山会→七日会・木曜クラブ)に所属し、田中の薫陶を受けた。この頃派内の若手議員の世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係の始まりとなった[8]。当時は大学紛争が激しく、田中の肝煎りの大学運営臨時措置法案が政局の焦点となったような世情であり、また紛争時代の大学院に在籍した代議士は当時希少であったこともあり、当初の小沢は文教族を目指していた。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌を患い、一時は声が出なくなり政界引退も考えたというが、手術で完治している。


衆院議員2期目だった1973年に田中角栄の後援をしていた新潟県の建設会社福田組会長・福田正の長女である和子と結婚した[9]
1982年(昭和57年)に自民党総務局長(現在でいう選挙対策委員長)に就任する。1983年(昭和58年)の第13回参議院選挙で(初の厳正拘束名簿式)比例区での順位付けを担当した際、「現職優先」を主張した中曽根らに対し、党員党友の集め具合や後援会の規模などのデータを駆使し、20位以内に新人を9人送り込む筋論を押し通した。その後行われた旧京都2区の2人欠員による衆院補選に際し、執行部内では2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占めていたが、小沢は 2人擁立論を主張、谷垣禎一と野中広務の新人2人を擁立し、絶妙な票割りで2人とも当選。首相の中曽根に「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛された。


その後衆議院議院運営委員長を務めるが、当時の慣例に従わずに退任後に入閣できず齟齬をきたす。これは田中が中曽根に入閣しないよう働きかけたものと見られている。騒動の後1985年(昭和60年)に第2次中曽根再改造内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。当時43歳だったが、初当選から16年を経ており、同期当選者の中では比較的遅い入閣だった。同年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成し、2年後の1987年(昭和62年)に経世会として独立した。



竹下派時代


竹下派内では先輩の小渕恵三・橋本龍太郎らとともに竹下派七奉行の一人に数えられ、竹下の総裁就任に奔走した。同年発足した竹下内閣では内閣官房副長官に就任した。消費税導入など税制改革を巡る国会審議の目処がたたない中、「事実上の国対委員長」と呼ばれるほどに野党対策に尽力し、民社党を審議・採決に応じさせることに成功した。こうして党内での評価を高めるとともに、この時期は竹下内閣における日米間の建設市場開放協議や、宇野内閣における電気通信協議といった困難な交渉を取りまとめたことで、米政府関係者にも「タフ・ネゴシエーター」として名を知られるようになった。なお、宇野内閣期に経世会の事務総長に就任している。


竹下派、特に金丸の意向によって1989年8月に第1次海部内閣が成立した際、金丸の推薦により47歳の若さで党幹事長に就任した。金丸・竹下とともに、政権の実質的な実力者となり、ねじれ国会下で公明党など野党とのパイプを駆使して国会対策にあたった。リクルート事件後初の総選挙で苦戦が予想された1990年(平成2年)の第39回衆議院選挙を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集めて勝利した。同年8月、湾岸戦争が勃発すると、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣することを模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省や、ハト派である海部俊樹首相の慎重論を抑え、法案を提出させた(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立する)[10]


この頃は「ミスター外圧」などと呼ばれたマイケル・アマコスト駐日大使が、首相である海部を飛び越えて小沢(や金丸)と直接協議することが常態化しており、アマコストは海部より小沢と会った回数のほうが多いとも言われた[11]。日米構造協議でも大蔵省の強い反対にもかかわらず、公共投資を10年間で430兆円とすることで妥結したが[12]、これも金丸・小沢・アマコストの3者が政府に先立って金額に到るまで協議し、すでに話をつけていたという[13]。同年9月、金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。また大韓民国の盧泰愚大統領が来日した際には、党役員会で戦争責任問題における共同声明や天皇談話の内容に関し「これ以上何を謝ればいいんだ。」と謝罪を明文化することを拒絶したとも取れる発言したと報道された。


自衛隊海外派遣のような懸案を抱える中、ねじれ国会のもとで政権運営を行うためには野党の協力が必要であるため、国対族の金丸のつてで小沢は公明党と民社党に接近する。両党との協力の一環として、第12回統一地方選挙における東京都知事選挙で、自民党東京都総支部連合会が推す現職の鈴木俊一に代わり、新人の磯村尚徳を擁立する。しかし粕谷茂をはじめ、当時の自民党都連幹部が鈴木を支援したこともあり、90万票近い大差で敗北した。なお、この都知事選公示直前に出馬に意欲的であったアントニオ猪木と会談して出馬を断念させたが、多額の金銭が動いたと一部メディアに報じられた。小沢が指揮した統一地方選挙全体では自民党の勝利であったものの、小沢は海部に自ら申し出て、都知事選の責任を取り党幹事長を辞任した。この辞任は公明党・民社党に義理を立てた形にもなり、自公民路線の維持に寄与し、また後の非自民連立政権におけるワン・ワン・ライスの伏線ともなった。


幹事長辞任の直後、経世会会長代行に就任した。会長の金丸、派閥オーナーの竹下とともに「金竹小」体制で最大派閥の経世会をリードし、引き続き海部政権の実力者であり続けた。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、首相再登板を狙う竹下との確執を深める。この年の6月、狭心症で倒れて日本医科大学付属病院に入院、40日余りの療養生活を送った[注 4]


同年、首相の海部は政治改革法案が国会で審議未了で廃案となったことを受け、マスコミに対して「重大な決意で臨む」と発言。これは衆議院の解散を示唆する発言であることが明らかだったため、党内反主流派の反発を招いた。加えて党内主流派として海部を支えていた竹下派の小沢も、マスコミの前で「(海部は)何を言うちょるの」と発言した。海部は党内基盤が脆弱だったが支持率は高かったため、解散権行使をめぐる神経戦をマスコミを媒介して行うことで世論の支持を得ようとしたとみられるが、これが裏目に出てほどなく首相職の辞任を表明することとなった(「海部おろし」参照)。この際、金丸が小沢に対し総裁選に出馬して首相後継を狙うよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病(狭心症、心筋梗塞のため日本医大病院に入院した。)を理由にこれを固辞したとされる。のちに小沢は「首相になりたいのであれば、この時になっていた」とたびたび発言している。


最大派閥の経世会が独自の総裁候補を立てた場合には宮沢派・三塚派・渡辺派は「三派連合」で対抗する構えを見せていたが、独自候補を立てないことが明らかになると一転し、三派がそれぞれ経世会の支持を求めて争うようになった。10月10日、経世会が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、渡辺美智雄、三塚博らと自身の個人事務所でそれぞれ面談した(いわゆる「小沢面接」)。当時は竹下派の支持が事実上次の総裁を決定する状況にあり、当選回数あるいは年齢で上回る派閥の領袖たる総裁候補を自分の事務所に呼びつけ、次期首相を品定めするかのような振る舞いは傲慢であると批判されるとともに、当時の竹下派の権勢を物語るものと捉えられ、今日に至るまで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられている(平野貞夫によれば、当日ホテルの会場が満室でどこも予約できず、推薦する側の小沢の側から訪問するのも筋が違うため、小沢の事務所で面談することになったという)[14]。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した。1991年(平成3年)の青森県知事選挙では六ヶ所再処理工場誘致を巡り、激しい反対運動の中で行われ、劣勢と言われていた北村正哉候補の支援を党幹事長として頭越しに行い、関係者への締め付けにあたり、北村当選に大きく貢献した[15]



竹下派分裂、羽田派結成


1992年(平成4年)、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も1993年(平成5年)2月17日に証人喚問を受けている)。後継会長に小沢は、金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す竹下、橋本、梶山静六らと対立した。衆議院は数が拮抗していたが、参議院は竹下自らが関与して小渕支持を決定した[16]。この結果として後継会長は小渕に内定した。小沢はこれを受け入れず、羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。


宮沢改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には、派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は、主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。


こうした中で小沢は、5月20日に著書『日本改造計画』を発表した(店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめたものであるが、ここで提示された軍事面も含めた積極的な国際貢献、新自由主義的な経済改革、政権交代可能な二大政党制を可能とする政治改革といった主張は、1990年代以降の政治課題の多くを先取りしたものだった。



非自民連立政権成立


1993年(平成5年)6月18日、野党から宮沢内閣不信任案が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。新生党代表幹事時代には番記者との懇談会やぶら下がり取材を断り、記者クラブに属さない国外メディアや週刊誌記者も含めた記者会見を報道機関との接点とする。その後、事実でないとする記事を書いた報道機関を記者会見から締め出したため、公党の指導者は無条件で取材に応じるべきとするジャーナリズムからの批判を招いた。


7月18日、第40回衆院議選挙において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出された)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。


細川政権下で小沢は、内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、官邸主導の政治を目論む内閣官房長官の武村正義と激しく対立した。


1994年(平成6年)、小沢と大蔵事務次官の斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会・さきがけ・民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、武村外しを目的とした内閣改造を目論むも頓挫、政権の主導権を奪われた武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、突然辞意を表明した。


細川の首相辞任を受けて、小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫した。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年(平成6年)4月25日の首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となった。


羽田内閣は1994年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念、6月25日に内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。


小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年(平成6年)6月29日、自民党は内閣総理大臣指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、高志会・「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために小沢の剛腕が必要とされ、大きな動きにはならなかった。



新進党時代


1994年(平成6年)9月28日、日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。


1995年(平成7年)7月、第17回参議院選挙で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。羽田との決裂は決定的となり、党内に更なる亀裂を生じた。


1996年(平成8年)10月20日に第41回衆議院選挙が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で創価学会の支援を期待し公明党系の議員を優遇したため、選挙地盤の弱い若手の新党ブーム世代の議員が多数落選した。


総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和・岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。


1997年(平成9年)、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。


12月18日の党首選挙で、小沢は鹿野を破り再選した。この党首選に先立ち、公明が次期参議院選挙を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求した。12月27日に小沢は旧公明党の参議院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌のうちに終わった。



自由党時代



結党・与党復帰


1998年(平成10年)1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆議院議員42名、参議院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。


同年7月12日の第18回参議院選挙では苦戦必至と思われていたが、小沢人気もあり、比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参議院選挙後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参議院では自民党の小渕恵三を抑え、菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより、野党共闘はほころびを見せた。


1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始した。小沢は党としては国政選挙を遥かに上回る広告宣伝費を使って、自身の顔写真を用いたポスター数十万枚を全国の街頭に貼り張り巡らし、テレビでも自身の顔写真を全面に押し出したモノクロのCMを連日放映して連立交渉を優位に進め、ビル・クリントンアメリカ大統領訪日直前の同年11月19日、自民党との連立政権について小渕と合意書を交した[17]


1999年(平成11年)1月14日には正式に自自連立政権が発足し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に、衆議院議員定数20の削減、閣僚ポストの削減、およびイギリス型内閣や二大政党制を目指すとして、政府委員制度の廃止と政務次官制から副大臣・政務官制への移行と、党首討論設置を含む国会改革を自民党に呑ませた。また、同年発刊された『文藝春秋』9月特別号に「日本国憲法改正試案」を寄稿し、自らの改憲論について語っている[18]


1999年10月、公明党が政権に入り、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため(野中らは公明を引っ張るために、自由党と連立を組んだという事情もあった)、政権内部での自由党の存在感は必然的に低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。中曽根康弘、亀井静香等は小沢の復党を認める方針であったが、党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし、小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と応酬し、両者は2000年(平成12年)4月1日に会談するが、合意に達せず結局連立を解消した。直後に小渕は脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した。



分裂





2008年7月18日、北海道での第19回参議院議員通常選挙の応援演説にて


自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、野田毅・二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党は、政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、自由党はこれを拒否した。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。


2000年(平成12年)6月25日の分裂直後に行われた第42回衆議院選挙で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、過去に小沢と対立した旧新進党や、旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は良好とは言い難かった。


2001年(平成13年)1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。なお、この塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営される。


同年7月29日の第19回参議院選挙では、自民党に小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手県選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。



民主党時代




ポスター



民由合併


2002年(平成14年)、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は鳩山由紀夫(当時民主党代表)からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと、及び民主党内の小沢に対する拒否反応のために頓挫した(なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた)。鳩山辞任後に党代表に選出された菅直人によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した[19]


自由党と民主党の合併の直前に、自由党は小沢の関連団体であり、側近の平野貞夫が会計責任者を務める改革国民会議に対して13億6816万円の寄付を行った。うち5億6096万円が税金を原資とする政党助成金であった。菅は当時事態を把握し「小沢にしてやられた」と周囲に漏らしていたが、円満に合併するために表沙汰にはしなかった。後にこの行為は問題視され、政党助成金法改正案として議論された[20]


2003年(平成15年)9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は一兵卒になると宣言して無役となった。11月9日の第43回衆議院選挙で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得、11月27日に小沢は代表代行に就任した。民由合併後、小沢が最初に提携したのが社民党出身者で構成する民主党の派閥・新政局懇談会率いる横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした(横路が国政復帰した1996年の衆議院選挙でも、北海道1区において小沢の甥・小野健太郎が新進党新人として出馬し横路と戦う予定だったが、非自民・野党同士で共闘し、町村信孝の北海道5区へ選挙区変更し、5区では旧民主党は不戦敗となった)。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが、失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。


当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北地方出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。


2004年(平成16年)5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に、小沢が内定したが、直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年(昭和61年)以前に未加入だったとして、代表就任を辞退した(結局、岡田克也が後任代表となった)。2004年7月11日に行われた第20回参議院選挙の後、岡田の要請により党副代表に就任した。


2005年(平成17年)9月11日、第44回衆議院選挙で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞して6日後に行われた党代表選挙にも立候補しなかった。立候補しなかった理由には、政権の座が遠のいたことの他に、同年7月3日に投開票が行われた東京都議会議員選挙の結果次第で、岡田を代表辞任に追い込む党内クーデターを鳩山と画策していたとする一部マスコミ報道も影響したとみられている。岡田の後任代表に選出された前原誠司は、小沢に党代表代行への就任を依頼したが、小沢はこれを固辞した。



党代表






2006年(平成18年)3月31日に前原が、「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、4月7日の民主党代表選挙で小沢は119票を獲得して菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた[注 5]


代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。小沢は政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。また、国会対応では前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。


4月23日、メール問題での逆風下にあった衆議院千葉7区補欠選挙で、僅差ながら勝利した。半年後の9月12日の民主党代表選に小沢は無投票で再選した。9月25日、臨時党大会で正式に代表に再任した。その後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。



統一地方選、参院選での躍進

2007年(平成19年)4月8日に統一地方選挙(前半)が行われ、地元・岩手県の知事選挙で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が当選。岩手県議会議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。


4月22日に行われた統一地方選挙(後半)では、市町村議会選挙で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。


7月29日に行われた、第21回参議院選挙で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。



ねじれ国会




2009年5月12日、ロシア首相ウラジーミル・プーチン(右)と


この参議院選挙の結果を受けて、国会は野党である民主党が参議院の議事の主導権を握るねじれ国会の状態となった。


8月8日には、11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題について小沢は、アフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した[21]。首相の安倍晋三は事態を打開すべく、小沢との直接会談を検討したが実現せず、自身の体調の悪化などもあり、9月12日に辞任を表明した。結局、テロ特措法は安倍内閣総辞職の影響もあり、期限の延長ができずに失効した。


安倍の後任を決める内閣総理大臣指名選挙が9月25日に行われ、参議院で決選投票の末に福田康夫(自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。衆議院で指名された福田が衆議院の優越規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。


2007年11月2日、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があったため、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け11月6日代表続投を表明、11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された(詳細は大連立構想 (日本 2007) を参照)。


その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案(新テロ特措法)に対する議決が行われ、民主党が多数を占める参議院では反対多数で否決されたが、2008年(平成20年)1月11日に衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。


続く2008年1月18日に召集された第169回国会は、ガソリン税等の暫定税率の10年間の延長を訴える与党と、暫定税率廃止を主張する野党が真っ向から対立し、ガソリン国会とも呼ばれた。2月29日、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席の中で強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と与党を批判し[22]、共産党を除く野党は予算委員会を欠席して国会は空転した。日本銀行総裁人事でも財務省、大蔵省の事務次官経験者である武藤敏郎・田波耕治の総裁就任が相次いで参議院で不同意となり、結果として白川方明が総裁に就任した。ガソリンなどの暫定税率はこれらの影響で、3月中に延長法案の参議院での採決が出来ず、4月1日で自動車重量税を除く暫定税率が一旦廃止されたのち、衆議院の再可決により1カ月後に復活する事態となった。


2008年9月22日、民主党代表選に小沢は無投票で3選した。


2009年(平成21年)5月11日、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任した。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共にトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫を支持した。



党代表代行から幹事長へ





2009年(平成21年)8月30日、ラフォーレ六本木の民主党開票センターにて民主党代表の鳩山由紀夫(左)と小沢(右)


5月17日、後継の代表となった鳩山由紀夫の要請を受け、選挙担当の代表代行に就任した。菅直人が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は5年ぶりとなる[23][24][25]


第45回衆議院選挙で政権交代を果たした後の9月3日、鳩山が小沢に幹事長就任を要請し、受け入れる意向を表明した。小沢の幹事長就任については、鳩山の掲げる「政策決定の内閣への一元化」に反して政府と与党の「権力の二重構造」となり、政策面で小沢の影響を排除できなくなるとの見方が出たが、これについて鳩山は「幹事長は党務だ。政策の決定は政府でやると確認した」と述べた[26][27][28]


2009年(平成21年)9月15日の民主党両院議員総会において、小沢は正式に幹事長に就任した[29]


2010年(平成22年)1月、東京地検特捜部は政治資金規正法違反容疑で、小沢の秘書を務めた石川知裕衆議院議員や小沢一郎の秘書である大久保隆規とほか1人を逮捕し、2月に3人を起訴した。起訴状では20億円を超す虚偽記載であり、政治資金規正法の虚偽記載罪では過去最大の金額となった。一方で小沢は嫌疑不十分、不起訴処分となった。以降9月までに小沢の起訴相当議決と不起訴処分を2度繰り返す。


6月1日、鳩山由紀夫と進退を協議する場において、辞意を表明した鳩山に共に幹事長を辞するよう促され、翌6月2日に幹事長を辞任する意向を表明した[30]



党代表選再立候補


鳩山の後継として民主党の代表、総理大臣に就任した菅直人は、小沢・鳩山代表時代のマニフェストの見直しや小沢と距離を置く議員の要職での起用など、「脱小沢」路線に舵を切った。しかし、2010年(平成22年)7月11日の第22回参議院選挙で民主党は現有議席を割り込む敗北を喫し、来たる民主党代表選挙にて、菅の対抗馬として小沢を擁立すべきとの声が党内の一部で上がった。


途中で現職の菅直人に候補を一本化するなどの動きもあったが、小沢は最終的に出馬を決断し、現職の総理大臣である菅直人と一騎討ちで対決、党内を完全に二分する大激戦となった。鳩山由紀夫、羽田孜が小沢支持を打ち出す一方、かつて小沢の盟友と呼ばれた石井一、渡部恒三が菅支持に回った(参議院議長の西岡武夫は民主党籍が残っていたが、完全中立、棄権に回ることを表明した)。


結果は党員・サポーター票で大差をつけられたことや、小沢支持を表明した羽田グループや鳩山グループの造反などが響いて敗北したが、国会議員票では菅と拮抗する支持を得るなど、引き続き党内で一定の影響力を保持し続けるとの見方もあった。実際、小沢自由党は民主党と合併しなければ衆議院でも1桁政党になると囁かれていたが、合併によって民主党内に小沢チルドレンと呼ばれる若手を中心に確固とした基盤を築いていた。




党員資格停止と離党


2010年10月に陸山会事件で検察審査会によって起訴議決され、2011年(平成23年)1月に強制起訴された。


2011年2月22日、小沢一郎が刑事被告人になったことを受けて民主党常任幹事会が提起した「強制起訴による裁判の判決確定まで党員資格停止」とする処分を、民主党倫理委員会は小沢からの弁明を聴取し、その処分は追認する手続きを経て、民主党常任幹事会はその処分を決定した[31]


3月1日に小沢は、「通常の起訴とは異なる」などとして党員資格停止処分を不服とし、民主党常任幹事会に申し立てたが、7月に民主党倫理委員会に却下処分が民主党常任幹事会で了承され、党員資格停止処分が決定した。このため、小沢は代表選の立候補資格および投票権を失った。


2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生した際には、地元である岩手県が被災したと知り「今からでもいい。一刻も早く飛んでいきたい」と述べ[32]、即座に現地入りを検討した。しかし救護活動の真っ最中に現地入りすれば、警護などで被災者に迷惑をかけることが懸念されたため断念した[32][注 6]。代わりに、岩手県知事ら地元の地方公共団体の職員らに連絡を取り合うなど連携し、その情報を中央省庁など政府関係者に伝え調整を図るなど、政府と自治体との調整役として活動する[32]。2011年3月28日、震災後初めて岩手県を訪問し、山田正彦ら同席のもと[34]、岩手県庁にて岩手県知事の達増拓也と会談した[34]。達増に対して、小沢は「(国が)莫大な予算を投じないと復興できない」[34]と主張するなど、復興に対して国の支援の必要性を力説するとともに、自ら政府に対して支援を働きかける考えを示した[34]


2011年5月には、東日本大震災や福島第一原子力発電所事故に対する菅政権の対応を不満として、鳩山由紀夫らとともに自民党など野党が提出した内閣不信任案に賛成する意向を示し、小沢一郎事務所に小沢を支持する国会議員71人が集まるなど倒閣の動き(菅おろし)を活発化させた。なお、内閣不信任案に対しては菅から「辞任の言質」を取ったことを理由に小沢自身は欠席を決め、小沢グループとしては自主投票とすることとなった。この行動により、再び民主党執行部から3カ月の党員資格停止の処分を受けている。


2011年8月の菅退陣に伴う民主党代表選挙では、各候補者が投票権のない小沢に支援を要請、「小沢詣で」と大きく注目された。その際、次期代表による処分の扱いも争点となった。2009年衆議院選挙の公約の修正反対の立場から、鳩山由紀夫と連携を取りながら小沢グループとして海江田万里を支援したが、海江田は決選投票で野田佳彦に敗れ、小沢の党内における求心力低下が指摘された[35]。2011年8月30日の衆議院の内閣総理大臣指名選挙では、刑事被告人ながら1票を獲得した[36]


9月10日、日本大学理事会において、古賀誠の後任として日本大学理事に選任される[37]


2012年(平成24年)1月3日、震災の被害が大きかった岩手県の沿岸部を訪れた[38]


2012年4月、東京地方裁判所の第一審で陸山会事件に関する無罪の判決が言い渡された[39]


2012年3月31日、消費税増税法案が閣議決定されたことについて「増税の前にやるべきことがある」と批判した[40]。衆議院本会議における社会保障・税一体改革関連法案の採決では、反対票を投じた[41]


同年7月2日、上記の理由により、同調する議員50人と民主党に離党届を提出した[42]。翌3日、民主党は社会保障・税一体改革関連法案採決での反対及び離党届提出が反党行為に当たるとし、小沢ら37人を除籍処分とする方針を決定した[43][44]。最終的に、同月9日に開催された臨時常任理事会で、衆議院で消費税増税法案に反対した小沢を含む、37人の議員の除籍処分が原案通りに確定した[45]



「国民の生活が第一」から「日本未来の党」、「生活の党」、「生活の党と山本太郎となかまたち」、「自由党」へ


2012年(平成24年)7月11日、小沢はグループ議員とともに新党・国民の生活が第一を結党し、代表に就任した。新党の綱領は「自立と共生」で脱原発と反増税を掲げる。一方で、それまで一貫して小沢と行動を共にしてきた岩手の地方議員及び後援団体の大規模な離脱が表面化した。


同年11月12日、東京高等裁判所で一審を支持、同月19日に上告が断念されたことで、陸山会事件における小沢の無罪が確定した[39]


11月、国民の生活が第一を解党し、日本未来の党へ合流した上で自身は党職に就かないことを表明した。


直後の第46回衆議院選挙において、日本未来の党は61議席から9議席と大幅に議席を減らした。小沢は小選挙区のみで出馬し当選したが、岩手にある4区のうち、未来が議席を獲得したのは小沢の4区のみであった。小選挙区制度導入以降、2区を除いてすべての選挙区を一貫して小沢の所属政党の候補者が当選してきた中で、初めて小沢の地元での影響力の衰えが指摘された選挙となった。


12月、総選挙の惨敗を受けて、小沢系議員と未来の党代表の嘉田由紀子らとの対立が表面化した。嘉田らが離党する形で生活の党に改称し、側近の森裕子が代表に就任した。


2013年(平成25年)1月25日、森裕子に代わって小沢が生活の党代表に就任した。同年7月21日に行われた第23回参議院選挙において、森裕子を始め公認した全員が落選し、さらに地元である岩手県では小沢と袂を分かった平野達男が当選した。


2014年12月に施行された第47回衆議院議員総選挙の結果、生活の党は政党要件を失った。しかし、12月26日に無所属の参議院議員山本太郎が入党し、政党要件と政党交付金の受給要件を満たした。また、党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改めた[46][47]


2016年10月12日、記者会見で政党名を生活の党と山本太郎となかまたちから自由党に変更することを発表した[48]



主張


羽田・小沢派を立ち上げた時期に発表した最初の著作である「日本改造計画」では抜本的な経済規制の撤廃を主張し、グランド・キャニオンに柵が無いことを例に上げ、それが自己責任というものであるとして、戦後日本の護送船団方式から転換することを主張した。しかし、新進党党首選ではウルグアイ・ラウンド対策として3兆円の農業補助支出を公約するなど、「大きな政府」的な立場も示した。また、民主党・自由党合併以降は旧社民党議員との融合を進めた。


改憲論者であり[49]、1999年の「日本国憲法改正試案」では独自の改憲案を示していた[18]。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策(国連中心主義)を主張している。また国連平和維持活動については、自衛隊とは別個の専業組織を設置して参加させるべきであると一貫して主張している。



国会・選挙対策


自著『日本改造計画』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、野党時代には、与党が議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否をたびたび行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。


小沢はドブ板選挙を重視しており、自身に近い若手議員に対して「国会に居てもしょうがない[50][51]」「党政策調査会の会議に出ても有権者には評価されない。地元を回るように」と語ることもあり、国会審議や政策調査研究よりも選挙対策のほうが重要であるとの見解を示している[52]。小沢自身も頻繁に国会を欠席していると指摘されている[53]


2016年1月に安倍内閣の甘利明が届け出の必要のない20万円以下のパーティー券を大量に買わせていた報道を受け辞任した問題について、小沢は「政治資金の流れは1円単位までオープンにすれば、いいのです。どこから献金をもらおうが、どこに使おうが、それを判断するのは国民なのだから、オープンにすればいい。それが私の政治資金規正法の考え方です。収支がはっきり、国民にわかるように透明化することが重要だということです」と述べた[54]



改憲論(創憲論)


「憲法改正試案」では以下のように述べている[18]



憲法無効論


サンフランシスコ講和条約で独立国として承認されたことを契機に、占領下に制定された憲法は無効であると宣言した佐々木惣一や大石義雄と同様に新しい憲法を制定すべきであったと主張している。護憲派学者宮澤俊義の主張に反対し憲法改正論議を支援している。

参議院改革論

衆議院と参議院がほぼ同等の権限をもっており、共に選挙によって選ばれることになっているので必然的に参議院まで政党化し、本来の二院制度の機能分担が停止していることを挙げ、参議院についてはイギリスのような「権力なき貴族院」の導入を志向する。この場合の「貴族院」議員は選挙によって選出されるのではなく、諸分野における業績のある人物に対して一代限りの爵位や栄典を与え、また衆議院議員を一定期間務めた者も終身の貴族院議員とし、彼ら(小沢自身も含む)による大所高所からの議論を期待するという[55]

憲法裁判所の創設


裁判の進行が遅いことを例に挙げ、訴訟法を改正し、ドイツ・フランス・イタリアなどに導入されている憲法訴訟だけを扱う一審制の裁判所新設を主張する。人選は国会あるいは内閣が指名し、私学助成金記載部分の第89条を改正し、地方分権基本法を制定して、東京一極集中を分散させるとしている。


憲法無効論(自主憲法論)を主張しているため、日本国憲法の改正規定による改憲を主張しているわけではなく、民主党の党是である創憲を主張している。


こうした考えは今でも大筋では変わっていない。2017年にも日本国憲法について「法律論から言えば無効です。民法にも、強制下で結んだ契約は無効だとはっきり書いてある。これは万国共通の考え方だ。」との認識を前提にしたうえで安倍内閣による改憲については「悪い子供が権力をおもちゃに使って改憲の火遊びをしているから日本の前途が不安になる」と評価している[56]



皇室




  • 2009年(平成21年)12月12日韓国ソウルの 国民大学校での講演で、江上波夫の現在の中国東北部の騎馬民族が朝鮮半島において土着化した後、日本に渡り、大和朝廷を作った」という騎馬民族征服王朝説を紹介した後[57]、皇室について、朝鮮半島南部の権力者が海を渡って奈良で政権を樹立したとの説を披露し、「日本の歴史専門家に江上先生という方がおられます。この先生は日本国家の起源について騎馬民族征服説を強く主張された方でもあります。江上先生の説によれば朝鮮半島南部、今の韓国に該当しますが、この地域の権力者が多分海を渡って九州地域に到着し、三重県に定着してから、今の奈良県に入って奈良盆地で政権を樹立しました。これは日本の神話にも出てきますが、まさに神武天皇の東征という初代天皇の話ですが、江上先生はそのような説を主に主張されたんです」「さらに強く話してしまえば私は日本に帰れないかも知れないので、ここではこの程度にしておきます。多分歴史的な事実であろうかと思っています」などと述べ、天皇の訪韓については「韓国民が受け入れて歓迎すれば可能である」と語った[58][59][60][注 7]。ただし、日本政府は2009年9月に李明博大統領に天皇訪韓を要請された際に「天皇が政治にかかわる行動はできないと憲法で規定されている」と返答している[60]

  • 2009年、中国共産党の次期総書記に内定していた習近平政治局常務委員(当時)が12月に訪日する際、鳩山政権と中国政府は天皇との会談を前提した。しかし、訪日の詳細な日程が決まらないため、皇室への国事行為の依頼は1か月以上前に行うという慣行(1か月ルール)に間に合わず、外務省や宮内庁も困窮する事態となった。中国政府は天皇の健康問題もあるためやむなしという方向に傾き、民主党内でも無理筋との雰囲気が大勢を占め始めた中で、12月10日から国会議員だけで143人(総勢600人超)の訪中団を率いて訪中する予定だった小沢は[62]、12月8日になってから、首相であった鳩山に「会見はやらないとだめだ」、「何をやっとるのか」、「ゴチャゴチャやっとらんで早くせい」と電話で伝えたとされる[63][64]。抗弁した羽毛田信吾宮内庁長官に対しては、「公務員の立場で内閣に反対するならば辞表を出してから意見を言うべきである」旨を述べた[65]。この小沢による要請に対しては、宮内庁、与野党、マスコミから「天皇の政治利用」との批判が寄せられた[66]。また、同年同月の天皇誕生日には事前に小沢の邸宅を下調べした右翼が小沢邸に大挙して押し寄せ、年が明けても列を成した街宣車による抗議が続いた[67]。この街宣抗議はすさまじく、夫人が家を出て行くきっかけとなったと言われる。

  • 2014年2月11日、建国記念の日にちなみ日韓関係に言及して、天皇が語ったとの根拠で「桓武天皇のお后は朝鮮半島の百済の王女様とのことだ」との発言した。しかし、天皇の発言は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」であり、后については語っていない[68]



憲法解釈



内閣法制局の廃止

2003年には内閣法制局廃止法案を提出[69]。内閣法制局について「憲法解釈を確立する権限はない。その任にあるのは内閣だ」としており、2009年(平成21年)には、次期通常国会で国会法の改正を行い、内閣法制局長官の国会答弁を認めないものとするとしている[69][70]。朝日新聞などからは「官僚批判の名を借りて、憲法の解釈を変えてしまおうという思惑では」「法の番人」封じではないかとの危惧がなされている[69]

憲法9条

「専守防衛」に徹し、憲法前文の平和主義と憲法9条の第1項と第2項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。自衛隊は国防に専念させる。なお、自衛権は、個別的であれ集団的であれ、我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。

自衛隊の海外派遣

小沢は国際治安支援部隊に対しては容認しており、ダルフール紛争への部隊の参加、国際治安支援部隊(ISAF)への参加など国連中心主義(憲法は国連より下位に位置)を強調した。ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている[71]

集団的自衛権と集団安全保障


イラク戦争型 (集団的自衛権の行使)‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する有志連合国軍(OEF)への参加は憲法違反だとし、テロ対策特別措置法の延長にも反対した。


横田喜三郎の憲法解釈[72]と積極的・能動的平和主義の観点[73]から湾岸戦争型多国籍軍(集団安全保障に基づく武力行使)、国連が承認した国連軍の参加には賛成。

天皇

1999年当時の論文[18]において、天皇を国家元首として明記すべきとの主張 に対し、現憲法の文章のままでも「国家元首が天皇であることは疑うべくもない」「天皇は国家元首と位置づけられている」と述べている。


天皇特例会見問題について、2009年12月14日の記者会見で記者の質問に対し「君も少し憲法をもう一度読み直しなさい、天皇陛下の国事行為・行動は国民の代表である内閣・政府の助言と承認で行う事なんですよ」という表現を行った[74]が、15日に共産党の志位和夫委員長から記者団に対し「憲法で定める天皇の国事行為の中に、外国の要人と会う事は含まれていません。小沢さんこそ憲法をよく読むべきだ」と反論される[75]



外交、防衛政策



基本姿勢

世界各国、特に中国、韓国をはじめアジア諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した。具体的には、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、政府開発援助(ODA)の抜本的見直し等。2009年(平成21年)2月24日には「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ…あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う…米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と述べた[76]

2009年12月、国会会期中に国会議員143名を含む民主党員626名を引率して訪中した。

沖縄米軍


2010年(平成22年)9月3日、沖縄について「海兵隊の実戦部隊はいらない」と発言し、防衛省のみならず民主党内からも、台湾や朝鮮半島有事に対応できない、「(日米合意の見直しと)疑念を持たれる可能性がある」と批判された[77]


A級戦犯、BC級戦犯、靖国神社

1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」、「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」、「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」、「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」などの発言があった。

また、2008年2月21日の朝鮮日報からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。

核武装

日本には数千発の核兵器を製造する能力がある(2002年)ものの、軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない(2006年)。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。

周辺事態法について

2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。


北朝鮮拉致について

「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と述べたと報道された[78]

領土問題

「われわれが与党になったら領土問題にケリをつける」「例えば、尖閣諸島は歴史的に見ても日本の固有の領土だ。それを明確にさせる。自公政権のように弥縫策で先送りすることはしない」と述べ、領土問題の速やかな解決を宣言している[79]。また、2008年7月15日には、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した[80]

チベットと中華人民共和国


2008年のチベット騒乱の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した[81]

防衛庁の省への昇格

防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。ただし、民主党内に反対の声があったため衆議院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議は欠席した。



法務




憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案

与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。




司法

自身の長年にわたる政治資金規正法違反事件(後述)を扱っている検察審査会について、「素人が判断できるようなことなのか」と、制度改変を迫る姿勢を示している[82]



民法

選択的夫婦別姓制度導入について、福島瑞穂の質問に対し、「基本的に賛成である」と述べた[83]。一方、2014年の朝日新聞による調査では、「どちらとも言えない」としていた[84]が、2017年の同調査では、「どちらかといえば賛成」としている[85]



選挙制度


小選挙区制



永住外国人の地方参政権

旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべきと主張している[86]。外国人参政権の獲得を目的に在日本大韓民国民団から支援の言葉を貰い、小沢もそれに謝意を表明し「帰化した韓国系」の投票を期待しているとの発言をしている[87]



経済、財政政策


『日本改造計画』で小さな政府路線を標榜し90年代以降の新自由主義的な構造改革の先駆け。しかし民主党代表となってからはその路線を急転させ、「行き過ぎた市場主義」の修正と「国民の生活が第一」というスローガンを前面に打ち出した。


2010年の民主党代表選挙を控えた9月1日には、国有財産を資産担保証券化すれば日本はまだまだ200兆円ぐらいの国債を発行できると主張し[88]、同日夜のNHK ニュースウオッチ9に出演した際には、MCの大越健介のインタビューに「200兆円の資産担保証券では毎年数兆円の金利収入が国庫に入ってくるっちゅう試算もある」との踏み込んだ発言を行った。しかし、それはデフォルトとなった場合に国有財産が差し押えられることを意味する上に、資産を担保にしても金利は証券を発行した側(実質的に政府)が支払うことに変わりはなく、小沢が何を意味して言ったものか理解困難だったためマスコミには総じて無視された[88](海江田万里が小沢案を支持しており、元々が海江田のアドバイスとも言われている[89])。



税制



消費税、年金制度改革

『日本改造計画』では消費税の10%への引き上げと所得税の半減が持論で、細川政権でも国民福祉税構想をぶち上げたが、新進党時代の後半からは消費税論議を封印した。年金の特定財源化を行い、すべての年金を一元化する。1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。消費税は5%に維持するが、その税収はすべて全額を福祉目的化し、基礎年金に割り当てる。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があったが、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。

暫定税率

民主党による政権交代前は道路特定財源の一般財源化を行い、揮発油税(ガソリン税)の暫定税率を廃止すると主張していた。2008年3月28日にはこれに関して「暫定税率を延長する必要はなく、国民生活のために還元をしたほうが良い」と主張した[90]。廃止に伴う地方財政への影響に関しては、道路特定財源の内で地方へ行くと予定されているのは9000億円であるが、そのうち市町村分の3000億円には手当てが必要であるとの見解を示し、その手当てを一般会計・特別会計の余剰金の利用や無駄の削減で市町村分へ配分することは可能だとした[91]

しかし、政権交代後の2009年には、党に寄せられた陳情を踏まえ、政府の2010年度予算への反映を求める「重点要望」の中で衆院選マニフェストで廃止を掲げたガソリン税などの暫定税率は「維持する」と転換し[92]、菅政権以降、社会保障・税一体改革などでマニフェスト遵守を訴える姿勢と矛盾しているとの批判を受けることもある[93]



貿易・通商


徹底した自由貿易論者であり、「北東アジアから東南アジア、最終的には全世界まで広げたフリートレード(自由貿易)を実現する」ことが夢であると明言している[94]



環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)


環太平洋戦略的経済連携協定については、慎重な姿勢をとっている。記者会見にて「自由貿易には賛成だが、弱い産業部門は突然、『関税撤廃だ、自由競争だ』となったら成り立たなくなる。国民生活を守る対策が取られないうちにやるのは早計だ」[95]と発言し、拙速な参加に懸念を表明している。また、環太平洋戦略的経済連携協定の適用分野が広範囲に及ぶことに言及し「TPP(に参加した場合の影響)は農林水産業の話だけではない。むしろ(米国などの)メーンの狙いは他の分野にある」[96]と指摘するなど、農林水産業以外にも影響が及ぶとしている。2011年(平成23年)10月20日には、民主党の執行部役員である三井辨雄・鈴木克昌らに対して、環太平洋戦略的経済連携協定への参加交渉について慎重な対応をとるよう要請した[97][98]。野田佳彦が環太平洋戦略的経済連携協定の交渉参加を表明した際には、「国内の体制がきちんと整備できるのか」[99]「対等な交渉をして国民の利益を守れるのだろうか」[99]などの疑問を口にしている。

2011年10月、『朝日新聞』が「小沢氏、TPPに前向き」[100]との見出しを掲げるなど、一部報道機関にて小沢が環太平洋戦略的経済連携協定に積極的だと報じられた際には、小沢事務所側がツイッターにて「一部紙面等で『TPPについて「小沢氏前向き」』と報じられておりますが、それは誤りです」[101]と投稿し、一連の報道を否定する一幕もあった。



行政改革



地方分権


中央集権体制から地方主権体制への移行を主張し、市町村の300程度への集約による地方分権を提言している。中央政府の権限は外交・治安などに限定し、個別補助金は官僚支配を生み利権の温床となるため廃止し、自主財源として一括交付し財源・権限を地方に移譲することが地域経済の活性化につながるとしている。[要出典]

公務員改革

幹部職員の内閣一元管理し、公務員に対しては、スト権の付与と守秘義務違反の軽減と政官接触を自由化するとし、特殊法人、独立行政法人、特別会計の見直しを主張している。[要出典]



福祉・労働政策




格差是正

社会的格差を是正する。子育て支援をし、親と同居している世帯に対して「親手当」、子供がいる世帯に対して「子ども手当」を交付する。管理職は自由競争だが、非管理職は終身雇用にする[注 8]。労働法は長期安定雇用を基本とするべき。挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度を拡充する。

移民政策

自民党と財界一部に「移民受け入れ」を検討する動きがある事を受け、「まったくダメだ。現在でも『奴隷労働』と言われる非正規労働者の問題が深刻なのに。発展途上国から単純労働者を受け入れることは、一種の奴隷制度ではないか。治安問題を心配する声もあるが、それ以前に、そういう形での移民受け入れは人間の尊厳に対する冒涜であり、人道的にとても認められない。」と述べ、与党の移民政策を批判した[79]



原発・エネルギー政策



民主党代表在任時

小沢が2006年に民主党代表に就任した後、原子力発電を「過渡的エネルギー」と結党以来から位置づけていた同党のエネルギー政策が転換し、恒久的エネルギーとして原発を積極的に推進するという見解に修正された[102][103]

福島第一原子力発電所事故に関して


福島第一原子力発電所事故発生後の2011年4月30日夜、十数人の国会議員と港区赤坂の南欧料理店で会食した際、「福島第一原発は安定していない。爆発しないようにしているだけで放射線を垂れ流している。根本的な対策を取らなければ大変なことになる。決死隊を送り込んで完全に抑え込まなければならない。政治が決断することだ[104]」との自論を述べた。その一方で同年5月6日午前には外房の漁業の風評被害解消を目的として、側近議員と一緒に千葉県いすみ市沖でアジやイサキを釣り、それを刺身にして食べて魚の安全をアピールした[105]

民主党離党後

2012年7月の「国民の生活が第一」結党の際には、脱原発を政策の柱として掲げ、10年後をめどに原発の全廃を目指すとした[106]



教育政策


与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。教育予算は先進国中低位の現状を是正し引き上げる。5歳から高校まで義務教育を広げる。すべての国民に高等教育の機会を与えるため、奨学金制度を拡充する。教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させ、争議権を認めない。



農業政策


基本的に自由貿易推進の立場でありFTA(自由貿易協定)推進。わが国の安全保障を確保するためには現在39%[107]に低下している食料自給率を他の先進国並みに高める。農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について戸別所得補償制度を導入する。トレーサビリティ制度の拡充と加工食品の原材料も含めた原産地表示の義務づけを行い、食の安全を確保する。



他党、支持母体との関係



選挙協力

思想的には保守であるが[要出典]、自公政権打倒のためには共産党を含めた全野党による選挙協力も辞さないことを表明した[108]。社会党の社公民路線以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第1党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の反共主義者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「第三の道」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。

大連立

2007年末に取り沙汰された大連立騒動(大連立構想 (日本 2007))では、民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で民主党のマニフェストを実現して、実績と政権担当能力を示す必要があると主張した。大連立構想が立ち消えになった後は自民党との対決姿勢を強め、選挙による政権交代を目指している。



小沢が導入したシステム


小沢が政界で導入したシステム(法案等)。



小選挙区制

本人曰く、政権交代可能な二大政党制を実現するために導入した。

党首討論


自由民主党幹事長時代に尽力。法案を通した。


記者クラブ制度の撤廃

一般記者会見をフリージャーナリストにも開放し、上杉隆らが自由に取材している。


このほか、政治倫理審査会も「自分が作った」と述べているとされる[109]



小沢グループ




人物



人物評


結党に関与した政党が解党や分裂することが多く、「壊し屋」と評されている[110]。2012年の第46回衆議院議員総選挙直前に嘉田由紀子を党首に擁立して急きょ立ち上げた日本未来の党が内輪揉めにより、わずか1か月で 「生活の党」に衣替した件が、5回目であると報道された[110]


池上彰によると、説明する努力に欠け、側近が離れる一因であるとも指摘されているという[111]。渡部恒三は「小沢君の周りからいつも人が離れていくのは人間性のせいだ。小沢君が「五+五=七だ」と言った時、「いいえ、五+五=十ですよ」と言い返す相手とは付き合わなくなる。ずけずけ言い返したりコントロールできるのは僕だけだった。新しい党を作る時は小沢君が必要だ。しかし党が出来ていれば小沢君は邪魔になる。その繰り返しだ」と評している[112]。小沢から離反した者として、杉山憲夫・熊谷弘・船田元・岡田克也・二階俊博・野田毅・小池百合子・西川太一郎・高橋嘉信・渡辺秀央・大江康弘・西村眞悟・藤井裕久・中塚一宏・階猛・黄川田徹・平野達男らが挙げられる。


田中秀征は、小沢一郎の口の堅さを評価していた。細川内閣の組閣名簿発表前にNHKの記者が来て、「社会党の6人の名前以外の閣僚の名前を一人でいいから教えてくれ」と頼まれる。大蔵大臣になる予定の藤井裕久が大蔵委員会の仲間で親しかった田中に、「暇になったから、昔の大蔵委員会の仲間で集まろう」と言いに来て、「この人、大蔵大臣になること知らないんだ」と驚き、小沢一郎の側近だった山口敏夫が、「松永信雄の外務大臣は絶対ダメだ」と羽田孜が就任するのを知らずに言いに来た[113]


小沢と協力関係にあるものの、生活の党に加わらなかった(離党した)者として、河村たかし(減税日本代表、未来の党には参加)、山田正彦(みどりの風に所属、同党解党後無所属)、外山斎(河野談話撤回を主張するなど、生活の党内最右派。2012年の衆院選で鞍替え出馬するも落選)、三宅雪子(現在無所属)等がいる。



健康


初当選直後に甲状腺癌を患ったことを明らかにしているが、手術で完治した。しかし竹下派会長代行として海部政権の実質的な実力者であった1991年夏に心臓病で入院して以来、心臓を巡る健康不安が絶えない。当時病名は狭心症と発表されたが、入院期間が42日にも及んだことから心筋梗塞だったのではという憶測もある。その後は健康管理のため、早朝に30分ほどの散歩をすることを日課とし、好んでいた煙草は一切やめ、アルコールは日本酒を3合までに控え、昼食後約2時間の休息を欠かさない[114]。ただ、こうした制限が政治活動に影響を及ぼすこともあり、批判や憶測を呼ぶこともあった。2008年10月6日から13日まで風邪で入院、同月23日に予定されていたインドのシン首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルし、シン首相との会談は鳩山幹事長が代理を務めた[115]。第171回国会(会期2009年1月5日 - 6月3日)では、2月末までに11回開かれた衆院本会議のうち4回欠席している[114]



信条


田中角榮を「オヤジ」として慕い、政治のイロハと人生の薫陶を受けたと語る。それは「どぶ板」とも言われる、人口密度の低い農村部から始め有権者の家を一戸一戸回っていく地道な選挙活動を決して怠らない事をオヤジから学んだという。歴史上の人物では、福澤諭吉を日本文明の祖として尊敬し、勝海舟や坂本龍馬にも一定の理解を寄せ、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家・人物としては大久保利通を目指していると述べた[116]。戦前歴代内閣総理大臣で尊敬する人物は原敬である。また、司馬遼太郎の小説を愛読している。漫画では弘兼憲史『加治隆介の議』やジョージ秋山『浮浪雲』のファンで、特に『浮浪雲』では「選・小沢一郎あちきの浮浪(はぐれ)雲傑作十選」という本も出版されている。



自民党離党






小沢が自民党を離党した際には、「談合政治」と言われる旧来型政治の打破と、イギリスやアメリカのような二大政党制を創りたいという明確なビジョンがあったという。小選挙区制を導入すれば同じ選挙区から自民党と社会党の政治家が選ばれるということが無くなるためであった。小沢は、自ら進んで自民党を離党したのでは無く、既得権益を持った一部の議員に追い出されたのだと述べている。当時の自民党竹下派では、国際貢献や小選挙区制度を巡り激しい対立があり、そうした政策対立ともからんだ竹下派の跡目争いで小沢・羽田グループが小渕恵三らに破れたことが、小沢の離党の背景にある。もっとも小沢自身は1993年の宮沢内閣不信任に賛成票を投じた後も離党する気はなく、党内改革を行うつもりであったが、不信任案には反対した武村らが率先して離党したことが引き金となった。



宗教観・文明観


自民党幹事長時代、与野党逆転国会を乗り切るために公明党と協力関係を築いた。細川連立政権でも市川雄一と一・一ラインを敷き、政権運営の主導権を握ろうとした。しかし新進党時代は党に参加していた公明と対立し同党解党の原因の一つとなった。


2009年の民主党政権誕生後は、公明党・創価学会との連携を窺わせる言動をしばしばとっている。2010年(平成22年)2月26日に小沢が輿石東参議院議員会長と共に創価学会幹部と会談したことが報じられたが、3月3日の記者会見でそれを否定した。しかし、学会に対するスタンスは菅直人や仙谷由人のような創価学会批判派の急先鋒とは一線を画している[117][118]


2009年11月10日、姫井由美子らをともなって高野山・金剛峰寺を訪問し、当時の全日本仏教会会長で高野山真言宗の松長有慶管長と会談した際、キリスト教とイスラム教が共に排他的であると断じ、「(排他的な)キリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのもの」と批判すると同時に、「仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという、非常に心の広い度量の大きい宗教・哲学」だと述べた[119][120][121]


この発言に対し、日本キリスト教連合会(山北宣久委員長)は翌11月11日、発言の撤回を求めて小沢宛の抗議文を民主党本部に送付した[122]。小沢は11月16日の記者会見で「宗教論と文明論を言った」「(仏教は他の宗教と)基本的な考え方が違うということを言っている」と説明した[123]


2010年8月、小沢は都内での公演で、アメリカ人がオバマ大統領を選出したことを賞賛する発言をしたが、その一方で、「米国人は単細胞」と述べた。この件は前述したキリスト教についての差別発言とともに、アメリカで報道された[124][125]



囲碁


囲碁の腕前はアマ六段で、政界最強とも評されている。依田紀基の指導を受けているとされる。


政界には、小沢より高段のアマ七段をもつ与謝野馨がいる。与謝野もまた、数年前まで小沢に碁の指導をしていた(かたちを変えた師弟関係)。


小沢は、囲碁普及を目的として日本棋院週刊碁特別企画のイベントでたびたび公開対局をしている。そのイベントで2007年10月28日、ANAインターコンチネンタルホテル東京・囲碁サロン「Ranca」にて、与謝野馨と対決した[注 9]。互先コミ6目半、師与謝野が黒を握り、2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した[注 10]。また、12月29日、同所で開催された同イベントで作家の渡辺淳一と対決し、小差ながらも勝利した。


プロとも何度も対局している[注 11]。民主党政権奪取前は小川誠子、依田紀基ら多数。



  • 2009年11月24日、フジテレビのイベント「お台場オトナPARK2009 - お台場碁番街」 - 台湾出身の女流本因坊、謝依旻(当時20歳)- 3子置き[注 12] - 小沢敗北 [注 13]

  • 2009年12月12日、韓国 - 韓国囲碁界のタイトル王・チョ薫鉉九段 - 4子置き - 小沢勝利

  • 2010年1月10日 民主党青年局主催「成人の日イベント」 - 名人井山裕太(奇しくも20歳の成人) - 3子置き - ジゴ(ドロー)[126]

  • 2014年1月16日 ニコニコ動画のイベント「ニコファーレ - 第1回囲碁電王戦」 - コンピュータ囲碁ソフト・Zen - 小沢敗北



インターネット



ニコニコ動画


ニコニコ動画などのインターネットメディアについては、好意的な発言を行っている。新聞やテレビなど既存のメディアは編集して報道する点を指摘したうえで、インターネットメディアなら生の声が国民に伝わりやすいと評価している。


2007年(平成19年)7月、第21回参議院議員通常選挙の直前にニコニコ動画へ出演し、話題となった。その後も2008年(平成20年)11月や2009年(平成21年)元旦に「1万人ネット会見」を行った。また、2008年9月から公式動画コーナー「小沢一郎チャンネル」を開設した。2010年9月には、民主党代表選挙への立候補に際して、ニコニコ動画の番組に出演した。

ツイッター


ツイッターには興味を示すものの、操作が難しいことを理由にアカウントの開設には至っていない。ただ、ツイッターでは小沢を名乗るアカウントが後を絶たず、上杉隆らの取材により成りすましアカウントであることが明らかになっている。ニコニコ動画の番組に出演した際、上杉から成りすましが横行していると知らされ、小沢本人が苦笑する場面もあった[127]。しかしその数日後、成りすましアカウントのツイートを真に受けたTBSが小沢がツイッターを始めたと誤報してしまい、直後に謝罪する騒動も発生した[128][129]。小沢に成りすましたアカウントの中には、9000人以上のフォロワーを集めるアカウントまで出現している[130]

また、ニコニコ動画の番組内にて、小沢は事務所スタッフにツイッターの操作を習得させることを示唆していた。2010年9月10日、ツイッターに小沢一郎事務所の公式アカウントが開設された[131]。ただし、小沢個人としてのアカウントではなく、あくまで事務所のアカウントのため、小沢本人ではなく事務所のスタッフのツイートが投稿されている。同日のツイートでは「現在、小沢一郎『本人』は公式Twitterアカウントを取得しておりません。なりすましにご注意ください」[132]と呼びかけている。



バラエティ番組



ソレダメ!〜あなたの常識は非常識!?〜(テレビ東京)に(2017年7月5日放送分)出演しバラエティ番組初出演となった[133]


エピソード



田中角栄




  • 田中角栄の長男である正法(1947年、5歳で死亡)と小沢が同じ1942年生まれであったため、田中は小沢を息子のように可愛がったとされた。それに対して小沢も角栄を慕い、田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。同時に角栄の娘、田中眞紀子との関係もよく(真紀子も小沢を兄のような存在だと認識している)、旧竹下派の中では唯一田中家から許されているため、命日には田中家を訪問した。そのため親交が深く眞紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。

  • かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、「第二の角福戦争」と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無く、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の田中真紀子元外相の方が注目され、これが真の「第二の角福戦争」であるという見方もあった。



愛犬


  • 2006年4月の衆議院千葉7区補欠選挙で党の広告に柴犬の「もも」を起用。「もも」は小沢や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢によれば当時の小沢の飼い犬であった柴犬「ちび」と似ているという。2007年10月、「ちび」を失った小沢は涙を流し号泣した。2008年、新たに柴犬の子犬2匹を飼い始め、毛並みの色から「クロ」、「チャイ」と名付けた[134]


韓国をめぐるエピソード




  • 1999年(平成11年)4月に韓国を訪問した際、同月18日に日本の党幹部・閣僚クラスの政治家としては初めて(当時)となる、ソウルにある金九[135]・尹奉吉・李奉昌・白貞基といった、抗日テロリストの墓地を参拝した。この事に関して、東亜日報は「新しい韓日関係のため韓国に近づこうとする努力の一環として評価している」と報じ、文化日報は「極右保守的なカラーを薄めるための高度の計算だとの指摘もある」と述べた。

  • 日本の政治家として初めて韓国人秘書を正式に受け入れた[136]。2000年に登用された韓国人女性である金淑賢は国際担当秘書を務めており、海外の要人との会談時には通訳をしていた[136]。また、金は日本の政界に従事するという関係から、駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っていた[136]。この韓国人秘書は2007年7月に韓国政府の女性部主催の「世界韓民族女性ネットワーク」に日本側代表として参加している[137]。この団体は、欧米各国で慰安婦に関する日本政府への抗議デモや集会を700回以上行っている[138]。なおこの女性は小沢の秘書を務める傍ら東京大学の博士号を取得し、2008年(平成20年)5月に秘書を離職した後は大学院の教員に就任している[139]

  • 小沢は、韓国人の一部が領有権を主張し、韓国資本に土地が買収されている問題が発生している対馬について、前連合会長の笹森清に「どう思うか?」との質問をし、笹森が「私は対馬のことを心配している。ウォン経済に買い占められそうだ」と答えると、小沢は「今は絶好のチャンスだ。円高だから(韓国領の)済州島を買っちまえ」と山田正彦衆議院議員のパーティーで行ったあいさつで語ったことが報道機関によって伝えられた[140]、小沢自身はこの発言の存在を否定している[141]


  • 2012年8月30日、韓国の『東亜日報』は、小沢が2009年12月に民主党代表として訪韓した際、李明博大統領に「私が総理大臣になれば竹島の領有権を放棄する。ただし、島根県漁民の漁業権を保証して欲しい。」と非公式に述べたとされ、大統領は関心を示さなかったと会談に加わった韓国側の外交筋が2012年8月末明らかにしたと報じた[142][143]。小沢は「私は記者会見などで尖閣諸島と竹島はわが国固有の領土であるということを何度も申し上げている」として、報道内容を否定した[144]。また8月31日、朝日新聞デジタルは韓国大統領府が「東亜日報の報道は誤りで事実無根。大統領府として確認した。」と国民の生活が第一の東祥三幹事長に連絡したと報じた[145]



米国、中国との国際交流


  • 小沢は、日米、日中の交流が世界の平和と安定に不可欠と考えて、政治家としての公的な仕事とは別に自分のライフワークとして草の根レベルの国際交流活動を続けた。米国とは1990年に「ジョン万次郎の会」を立ち上げ、1992年に財団法人ジョン万次郎ホイットフールド記念国際草の根交流センターを設立した。2001年、日本に関心の高いシカゴ市の特定中学校の生徒を毎年20人程度日本に招待した。中国とは、1986年に第1回長城計画が中華全国青年連合会の協力を得て開催され、青年指導者、大学生を毎年数十名招待した。国際交流活動は、実施団体とともに小沢事務所が担当したため、複数の外国人の大学院留学生が事務所で働いていた。


語録



  • 「私の亡父も票田こそ残してくれたが、遺産はなかった」1983年(昭和58年)1月20日産経新聞[146]

  • 「公約は膏薬(こうやく)。張り替えれば効き目がでる」[147]

  • 「記者会見は"公共の"サービス」[148]

  • 「給油活動延長の法案は、憲法違反」(2008年、同法案の衆院再議決を欠席したことについて)」[149]

  • 「日本がもたもたして在日韓国人の地方参政権を認めないのは遺憾だ」(2008年、韓国の李明博大統領との会談で)[150]

  • 「私は、日米同盟がなによりも大事であるということをずーっと以前から、最初から唱えてきたひとりでありますと。」 (2009年2月17日クリントン国務長官との会談後のインタビューで)[151]

  • 「政治の細かいことを知る必要はない。自分たちの1票で政権を代えることができる。それだけを分かってもらえたらいい」(2008年10月19日 インターネットのテレビ番組にて)[152]

  • 「僕は選挙担当だから。選挙以外のことは駄目」[153]

  • 「担ぐミコシは軽くてパーがいい。担ぎ手の思うがままに動く」。首相時代の海部俊樹を指したものと誤解されることがあり、海部自身も後年の回想録で自分を指した発言であると誤解しているが[154]、実際には1982年の自民党総裁選で田中派が中曽根康弘を支持した際のオフレコ発言である。1994年になって政治記者の田崎史郎が発表した記事によって、初めて明らかになり、話題となった[155][156]。なお、側近の平野貞夫は海部政権時代の1990年に自身が新聞記者に発した言葉が誤って伝わったと2008年になって主張しているが[157]、前述のとおり「担ぐミコシは〜」発言の記事を発表した田崎のオフレコメモでは1982年の小沢発言と明記されており、「おれたちは党だけでなく、内閣をとるつもりで、中曽根を選んだ」と中曽根を名指しした台詞まである。

  • 「私は人民解放軍の野戦軍司令官として頑張っている」2009年12月10日北京市内の人民大会堂で胡錦涛軍委主席との会談において。[158]

  • 「日本国民として謝罪しなければならない歴史的事実だ」(2009年12月12日韓国ソウル, 国民大学校講演で日本の韓国植民地支配に触れ)[159]

  • 「天皇陛下も '桓武天皇の生母は百済の王女だった' と認めている」(2009年12月12日韓国ソウル, 国民大学校講演)[160]

  • 「内閣の一部局の一役人が内閣の方針についてどうこう言うなら、辞表を提出してから言うべきだ」2009年12月14日天皇と中国の習近平副主席の会見をめぐり、政治利用にあたるのではないかとの懸念を表明した羽毛田信吾宮内庁長官について[161]

  • 「党務を預かる幹事長は、選挙戦に勝つこと。党の支持率は関係ない」「(支持率低下を)全然心配しておりません。新聞、テレビの世論調査、当たったことないよ、ほとんど」2010年4月12日党本部記者会見にて、各報道機関の世論調査で党や内閣の支持率が低下していることについて[162]



拉致問題に関する発言


2009年3月2日付産経新聞朝刊1面における「民主党解剖1」の記事中において、小沢が、2月上旬、都内で開かれた民主党議員と支持者による会合において「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と発言したことが報じられた。


この記事を受けて、救う会には、電話やメールで問合せが殺到し、救う会では、西岡力会長代行が「小沢民主党代表発言は事実なのか」と題するコメント[163]を発表した。


これに対して民主党は、民主党幹事長代理から産経新聞社編集局長と政治部長宛に「記事は『事実無根の報道』」[164]として記事の訂正と謝罪を求め、3月4日中に回答することを要請した。


この要請に対して、産経新聞政治部長は、3月4日、文書で民主党幹事長代理宛に「正当な取材の結果得られたもので、かつ裏づけもとれているもの」という旨を回答[165]しているが、これに対する民主党の反論は全く行われていない。



アメリカ人・英国人に対する発言


2010年(平成22年)8月25日の「小沢一郎政治塾」の講演で、米国観を語り、「米国人は好きだが、どうも単細胞なところがあってだめだ」と述べた[166]


米国のオバマ大統領について「絶対、黒人大統領はあり得ないと思っていた社会で、黒人大統領が誕生した。黒人が出たら暗殺されるといううわささえ以前にはあったが、この危機にあたって変化を強調したオバマ氏を選んだ」と指摘[166]


「決して米国人は利口だと思っていないが、民主主義、危機にあたって国民の意思による選択がきちんと実行されていることを非常に高く評価している」と強調した[166]


また、小沢氏は「政界でも官界でも財界でも、精神の荒廃、日本人の劣化が急速に進んでいる」と問題提起[167]


第2次世界大戦を舞台にした映画「戦場にかける橋」に登場する英国人捕虜の規律正しさを紹介し、英国を「さんざん悪いことをして紳士面しているから好きではない」としながらも「祖国のために戦う軍隊も、自分たちの意思で(作った)という意識がある。自分たち自身の社会であり、国であるという民主主義の基本の意識が徹底している」と評価した[166]



その他の発言


2016年9月26日の第192回臨時国会で衆参両院本会議での安倍晋三総理大臣が所信表明演説を行った際、自民党議員が一斉に安倍へ拍手を送ったことに対し、「異様な光景だ。今までも日本の議会では見られないと思うし、北朝鮮か中国共産党大会みたいなアレで、ちょっとますます不安に感じた」と述べた[168]



政治資金



2009年から2011年の小沢関連の刑事訴訟



2009年3月3日に小沢一郎の公設秘書である陸山会会計責任者である大久保隆規と西松建設社長の國澤幹雄が政治資金規正法違反で検察に逮捕、起訴された。


当時民主党代表だった小沢は秘書が起訴された責任問題について違法性を否定しつつ検察の捜査を批判し、党代表続投を表明。しかし、この問題における党内の動揺を受け、5月11日に小沢は民主党代表を辞任した。


2010年1月、石川知裕衆議院議員を含め小沢一郎の秘書3人が検察によって政治資金規正法違反容疑で逮捕され、2月に起訴された。小沢本人に関しては嫌疑不十分により不起訴処分となった。


当時民主党幹事長だった小沢は秘書が起訴された責任問題について違法性を否定しつつ検察の捜査を批判し、党幹事長続投を表明。しかし、4月に検察審査会が1回目の起訴相当議決をし、検察が不起訴としても2回目の起訴相当になった場合、小沢一郎が強制起訴になることから、民主党内の動揺が広がった。6月に鳩山由紀夫首相が民主党の政治とカネに決着をつけるべきとして辞意表明をしたことを受け、小沢も民主党幹事長を辞任した。


2010年10月、小沢一郎に対して検察審査会が2回目の起訴相当議決をし、2011年1月に強制起訴された。このことを受け、民主党から裁判の判決確定まで無期限の党員資格停止処分を受けた。


この政治資金規正法違反の内容(4億円の記載年度が違うこと)については、小沢本人の裁判において、検察被告双方の証人として出廷した弥永真生筑波大教授が「実務上は(05年1月の)登記に合わせるのが原則だ」と述べ、虚偽記入にはあたらないとする小沢被告側の主張を支持しており[169]、またその4億円の原資については、小沢側から「『湯島の自宅を売却して深沢の自宅を購入した差額を積み立ててあったものを平成元年11月に引き出したもの』と『家族名義の口座から引き出したもの(平成9年12月と平成14年4月)』が手持ちの資金として元赤坂の事務所の金庫にあり、その中から用立てた」旨の説明がされている[170]



労働保険未加入


2009年3月3日、小沢の事務所が雇用しているアルバイトや私設秘書について、労働保険に未加入であると報道された。同事務所は産経新聞に「少なくとも3、4年は未加入になっており、かなりの人数分の未納保険料を納付することになる」と説明。今後、過去の雇用状況を調べた上で労働局に届け出る予定としているが、労働保険未加入発覚時のペナルティは発覚時の前年度と前々年度分の保険料と、10%の追徴金のみであり、未加入分の多くは問責されないこととなる。産経新聞によると、同事務所では小沢の初当選以来、「正規の秘書」以外は届け出ていない可能性もあり、対象者は数百人規模になるという[171]。また、産経新聞によると、「両党とも派遣社員などの労働保険未加入を批判していながら、党首自らの事務所で同様の問題を抱えていたことになる。」としている[171]


2009年9月25日、未納保険料を支払う際に必要な「算定基礎調査書」が、7月末現在で「不存在」だったことから、平成18・19年度分の保険料の納付が未だに済んでいないことが産経新聞で報じられる。平成18年度の未納分と課徴金の納付については、7月中旬で時効となった。小沢事務所側は「(西松建設の違法献金事件の)捜査で経理書類をすべて押収され、未納分の調査や手続きに必要な書類がなく、総選挙の日程が重なったこともあり、手続きに時間がかかっている」と釈明した。検察に押収された書類については、返還やコピーを求めることができるが、同事務所は申請の有無については産経新聞に回答していない[172]



所属議員連盟



  • 憲法調査推進議員連盟[173]

  • 民主党東北議員団連盟

  • 民主党日英議員連盟


  • 国際観光産業振興議員連盟(最高顧問)


  • 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(顧問)


  • 北京オリンピックを支援する議員の会(顧問)

  • みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会



役職


  • 一般財団法人東京芸術財団理事[174]


政歴



  • 昭和44年 12月 自民党で衆議院議員 初当選

  • 昭和47年 11月 衆議院議員 当選(2期)

  • 昭和50年 12月 〜 昭和51年9月 科学技術政務次官

  • 昭和51年

    • 12月 衆議院議員 当選(3期)

    • 12月 〜 昭和52年11月 建設政務次官



  • 昭和53年

    • 1月 〜 昭和53年12月 自民党 政調科学技術部会長

    • 12月 〜 昭和56年12月 自民党 政調水産部会長



  • 昭和54年

    • 3月 〜 昭和57年2月 自民党 岩手県連合会 会長

    • 10月 衆議院議員 当選(4期)



  • 昭和55年 6月 衆議院議員 当選(5期)

  • 昭和56年 12月 〜 昭和57年11月 自民党 政務調査会 副会長

  • 昭和58年

    • 12月 衆議院議員 当選(6期)

    • 12月 〜 昭和60年12月 議院運営委員長



  • 昭和60年 12月 〜 昭和61年6月 自治大臣 国家公安委員長

  • 昭和61年 7月 衆議院議員 当選(7期)

  • 昭和62年 12月 〜 平成元年6月 内閣官房副長官

  • 平成元年 8月 〜 平成3年4月 自民党幹事長

  • 平成2年 2月 衆議院議員 当選(8期)

  • 平成5年

    • 6月 〜 平成6年11月 新生党 代表幹事

    • 7月 衆議院議員 当選(9期)



  • 平成6年 12月 〜 平成7年12月 新進党 幹事長

  • 平成7年 12月 〜 平成9年12月 新進党 党首

  • 平成8年 10月 衆議院議員 当選(10期)

  • 平成10年 1月 〜 平成15年9月 自由党 党首

  • 平成12年 6月 衆議院議員 当選(11期)

  • 平成15年

    • 9月 26日 自由党が民主党に合流

    • 11月 衆議院議員 当選(12期)

    • 12月 〜 平成16年5月 民主党 代表代行



  • 平成16年 11月 〜 平成17年9月 民主党 副代表

  • 平成17年 9月 衆議院議員 当選(13期)

  • 平成18年 4月 〜 平成21年5月 民主党 代表

  • 平成21年

    • 5月 〜 平成21年9月 民主党 代表代行

    • 8月 衆議院議員 当選(14期)

    • 9月〜平成22年6月 民主党 幹事長



  • 平成24年

    • 7月〜平成24年11月 国民の生活が第一代表

    • 12月 衆議院議員 当選(15期)



  • 平成25年1月〜 生活の党代表

  • 平成26年 12月 衆議院議員 当選(16期)

  • 平成28年10月12日 ~生活の党と山本太郎の仲間たち共同代表


[175]



選挙歴




























































































































































































































当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区
比例順位
/候補者数

第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 岩手県第2区 自由民主党 71,520 26.71
1/6
- -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 岩手県第2区 自由民主党 60,675 19.18
2/8
- -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月05日 岩手県第2区 自由民主党 71,449 21.98
1/6
- -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月07日 岩手県第2区 自由民主党 70,183 21.52
1/7
- -
第36回衆議院議員総選挙 1980年06月22日 岩手県第2区 自由民主党 72,838 22.27
1/8
- -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 岩手県第2区 自由民主党 63,212 18.87
4/6
- -
第38回衆議院議員総選挙 1986年07月06日 岩手県第2区 自由民主党 95,208 24.80
1/7
- -
第39回衆議院議員総選挙 1990年02月18日 岩手県第2区 自由民主党 89,449 24.08
1/7
- -
第40回衆議院議員総選挙 1993年07月18日 岩手県第2区 新生党 142,451 40.82
1/6
- -
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 岩手県第4区 新進党 125,619 64.68
1/4
- -
第42回衆議院議員総選挙 2000年06月25日 岩手県第4区 自由党 119,099 59.70
1/4
- -
第43回衆議院議員総選挙 2003年11月09日 岩手県第4区 民主党 128,458 65.11
1/4
- -
第44回衆議院議員総選挙 2005年09月11日 岩手県第4区 民主党 124,578 59.95
1/4
- -
第45回衆議院議員総選挙 2009年08月30日 岩手県第4区 民主党 133,978 62.55
1/5
- -
第46回衆議院議員総選挙 2012年12月16日 岩手県第4区 日本未来の党 78,057 45.50
1/4
- -
第47回衆議院議員総選挙 2014年12月14日 岩手県第4区 生活の党 75,293 47.79
1/3
- -
第48回衆議院議員総選挙 2017年10月22日 岩手県第3区 無所属[176]
130,229 57.42
1/2
- -
当選回数17回 (衆議院議員17)


栄典


  • 2014/9/4 韓国国民大学 名誉博士[177][178]


家族・親族



小沢家


(岩手県奥州市、東京都世田谷区)

  • 祖父・徳太郎(農業)


田畑をそれぞれ三反歩ずつ所有する、いわゆる中農であった[179]


  • 祖母・トメ

  • 父・佐重喜[180](弁護士、政治家)




1898年(明治31年)11月生 - 1968年(昭和43年)5月没。


岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現奥州市)出身。農家に生まれ、1923年(大正12年)、日本大学法学部を卒業するとその年の12月に25歳の若さで弁護士試験に合格し翌年弁護士事務所を開業する。東京市会議員、東京府会議員を経て、1946年(昭和21年)、衆議院議員に当選する。第2次吉田茂内閣の運輸大臣、第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵政大臣兼初代電気通信大臣、第5次吉田茂内閣の建設大臣、第2次池田内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官等を歴任する。

一郎によれば「父は三十歳の時から東京の市会、府会議員となって、政治の世界に入り、戦後は郷里から衆議院議員として国政に参加した。その長い政治経歴を評価されて、国会運営や党の国会対策の実務を担当し、たびたび選挙対策本部長となって選挙の采配を揮っていた。その父は小選挙区制の導入を持論としていた」[181]、「親父は、じいさまが酒に溺れて身上をつぶして水飲み百姓の小作人のせがれとして食うや食わずで育ったんだ。それで、ものすごく貧乏だったせいかどちらかというと反体制的な考え方だった。戦後の経済万能主義の社会や政治を嫌悪していたし、エスタブリッシュメントというものに対する反発を非常に強くもっている男でした」という[182]


  • 母・みち(元千葉県会議員荒木儀助の四女)



1901年(明治34年)2月生〜 1995年(平成7年)2月没。


千葉県東葛飾郡風早村生まれ。「みちは明治三十四年二月十五日に千葉県の元名主の娘として生まれた。実家はかなりの豪農で、生まれたときからお嬢様として育てられた。九段の精華高等女学校では、のちの鹿島建設会長夫人になる鹿島卯女も同窓だった。

生家は“駅からよその土地を踏まずに家まで帰ることができ、通学には駅まで人力車で往復していた”というほどの大地主だった。父親の儀助も人望家で千葉県の大物県会議員であり、裕福だった。両親はともに教育熱心で、のちに医者や弁護士になっている家族も多くおり、兄弟は軍医中尉で戦死している。



  • (2人)

  • 元妻・和子(新潟県の建設会社福田組会長・福田正の長女)
    • 長年地元の女性団体である「水和会」の会長を務めていた。福田組が大手ゼネコンになる原動力となったのが、新潟県に地盤を持っていた田中角栄の有力後援者としての角栄パイプで公共事業を中心に急成長を遂げた。田中角栄を仲人にして、小沢が衆院議員2期目の1973年に結婚した。2012年に解散が発表された直後に週刊文春が小沢と離婚したという和子の手紙を報道した。両者とも離婚の事実については明確な声明は出していない。なお、正の次女で和子の妹は、竹下登元首相の弟にあたる竹下亘衆院議員と結婚している[183]


  • 息子が3人いる。



親戚




竹下亘(政治家、元首相竹下登の異母弟、妻は福田正の二女・雅子)


金丸信(政治家、金丸の長男・康信の妻・一子は、元首相竹下登の長女)など[184]


(14代)
竹中藤右衛門━━┳寿美

┣竹中宏平━━竹中祐二
┃ ┃
┗竹中錬一 ┃
┃ ┃
米内光政━━━━和子 ┃
(元総理大臣) ┃
(元総理大臣) ┃
┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子
┃ ┃ ┃
┗武永貞一 ┣竹下三郎 ┣まる子
┃ ┃
┃ ┗一子
┃ ┃
┃金丸信━━━金丸康信

┗竹下亘


福田正━━━━━┳雅子
┣福田実
┗和子
┃ ┏男
小沢佐重喜 ┣━━━━╋男
┃ ┃ ┗男
┣━━━━━小沢一郎

荒木儀助━━みち


著作



単著



  • 『日本改造計画』(講談社、1993年5月、ISBN 4062064820)

  • 『語る』(小林泰一郎構成、文藝春秋、1996年4月、ISBN 4163502106)

  • 『男の行動美学』(プラネット出版、1999年9月、ISBN 4939110028)

  • 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編、朝日新聞社、2006年6月、ISBN 4022501634)

  • 『剛腕維新』(角川学芸出版、2006年8月、ISBN 4046210885)

  • 『小沢主義(オザワイズム)―志を持て、日本人』(集英社、2006年9月、ISBN 4797671297)



共著



  • 『日米関係を読む』(アジア調査会編、ジェームズ・ファローズ・松永信雄共著、プラネット出版、1990年11月、ISBN 4881913123)

  • 『ジョン万次郎とその時代』(川澄哲夫編、廣済堂出版、2001年7月、ISBN 4331507963)

  • 『政権交代のシナリオ―「新しい日本」をつくるために』(菅直人共著、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908)



論文



  • 国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所


注釈





  1. ^ 自由民主党時代の派閥は、木曜クラブ(田中派)→(田中派の流れを汲む)経世会(竹下派、現在の平成研究会)→改革フォーラム21(羽田派)


  2. ^ 新潮45の2010年4月号別冊 『櫻井よしこ編集長「小沢一郎」研究』においてノンフィクション・ライター君島文隆が執筆した記事によると、「荒木儀助なる千葉県議会議員は存在しない」という


  3. ^ 奥野修司『小沢一郎 覇者の履歴書』161頁によれば「本格的に弁護士を目指すために佐重喜が学んだ日本大学大学院の法学研究科に通うことになった。司法試験の短答式試験にはパスしたが、次の論述式試験には合格しなかった。」という。


  4. ^ 元秘書の証言では、狭心症ではなく心筋梗塞であったという


  5. ^ なお、小沢がこの一節を持ち出したのはこれが初めてではなく、新進党時代の著作『語る』でも同様のことを述べている


  6. ^ なお、小沢の元秘書の中には、岩手県にある自宅が被災し、家に戻れなくなった者もいた[33]


  7. ^ 大和朝廷のルーツを朝鮮半島とする仮説(4世紀後半に扶余系の騎馬民族が日本列島に入り、征服王朝を立てたとする江上波夫の騎馬民族征服王朝説)は多くの議論を呼んだが、現在ではこれを支持する日本史、考古学の研究者は少数派である[61]


  8. ^ 2002年11月26日付『朝日新聞』インタビューにおいては「終身雇用も年功序列も日本のサラリーマンの既得権益だ。(中略)国家社会のシステムとして機能しなくなっている」と発言していた。


  9. ^ 日本棋院幽玄の間でリアルタイム配信された。また、録画であるがすべてテレビ放送された。棋譜はもちろん主催の週刊碁に掲載。


  10. ^ 小沢は「こっち(与謝野氏)は正統派だしね」、与謝野も「(小沢氏との)最後の一局は、4、5年前、私が負けたんですよ」と互いに勝負の感想を述べた。ただし、これについて、テレビでおなじみの楽天証券経済研究所山崎元は、「与謝野さんが(勝負の手を)緩めて小沢さんに勝ちを譲ったのではないかという印象を持つ。」[1]としている。真相は全く分からない。


  11. ^ この戦績をうのみにすれば、中堅プロ以上の実力があるというほかない。ただし、著名人アマとの対局はいわゆるご祝儀対局であるのが通常で、プロ側が“気を使って”著名人に“花”を持たせる。


  12. ^ 置き碁。初めから小沢の石が盤上においてあるハンディキャップ戦。3子の場合は3目置かれる。


  13. ^ この対局はフジテレビではないテレビ局で放映された。




出典




  1. ^ ab奥野 1994, p. 32.


  2. ^ 奥野 1994, p. 35.


  3. ^ 奥野 1994, p. 156.


  4. ^ 上条昌史「茫洋たる青年時代」新潮45別冊『小沢一郎研究』


  5. ^ 報告書作成「読み書き、計算できればできる」小沢被告、いらだち隠せず【小沢被告第12回公判(7)】、2012.1.10、産経ニュース Archived 2013年10月2日, at the Wayback Machine.


  6. ^ 奥野 1994, p. 162.


  7. ^ 奥野 1994, p. 163.


  8. ^ 新潮45別冊『小沢一郎研究』


  9. ^ 全文表示 | 検察が聴取?「小沢幹事長の妻」 実は新潟ゼネコンの大株主 : J-CASTニュース


  10. ^ 『朝日新聞』、2008年(平成20年)2月22日付夕刊。


  11. ^ 小沢氏の対米関係激変の理由はどこに春名幹男 WEB論座2010年9月6日


  12. ^ 大田弘子 『生活基盤充実の大規模プロを!!--縦割り型の予算配分を乗り越えるには (遷都 展都 重都--国と地方21世紀の日本改造論<特集>) -- (430兆円と平成4年度公共事業予算)』 エコノミスト(毎日新聞社) 1991年10月21日号 p104-107。


  13. ^ 空の隙間 高知新聞2010年5月30日


  14. ^ 平野貞夫『虚構に囚われた政治家―小沢一郎の真実』 講談社<講談社α文庫>、2007年、242頁


  15. ^ 鎌田慧六ヶ所村の記録


  16. ^ ただし、永野茂門・田村秀昭・北澤俊美などのように小沢を支持した議員もいた


  17. ^ 自自連立の合意書とテレホンカード用スナップ写真 ‐ 『★和歌山県選出国会議員 リレー随想「がんばってます」』 ホームページ

  18. ^ abcd「日本国憲法改正試案」文藝春秋1999年9月特別号[2][3]


  19. ^ 民主党・菅代表と自由党・小沢党首が9月末までの合併で合意 民主党公式HP、2003年7月23日(2008年12月7日時点のアーカイブ)


  20. ^ 民主党、ようやく倫選特の場へ 与党2法案も採決 産経ニュース 2009年7月8日(2009年7月11日時点のアーカイブ)


  21. ^ 「小沢代表、シーファー米大使が初会談…テロ特措法で平行線」 YOMIURI ONLINE、2007年8月8日。(2008年9月27日時点のアーカイブ)


  22. ^ 「「信頼関係が完全に崩壊」小沢代表、与党の予算案強行採決を批判」 民主党ホームページ、2008年3月1日(2008年12月7日時点のアーカイブ)


  23. ^ “【鳩山新代表会見詳報】「5人が常に心を合わせていく」” (2009年5月17日). 2009年5月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年5月17日閲覧。


  24. ^ “民主幹事長に岡田氏、小沢前代表は代表代行に” (2009年5月17日). 2009年5月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年5月17日閲覧。


  25. ^ “【鳩山新代表】小沢氏が筆頭代表代行 岡田氏は幹事長に” (2009年5月17日). 2009年5月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年5月17日閲覧。


  26. ^ “小沢氏が民主幹事長、岡田氏は重要閣僚” (2009年9月3日). 2009年9月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年9月4日閲覧。


  27. ^ “民主幹事長に小沢氏 菅・岡田氏の入閣確実” (2009年9月3日). 2009年9月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年9月4日閲覧。


  28. ^ “民主幹事長に小沢氏 岡田氏、重要閣僚で処遇” (2009年9月3日). 2009年9月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年9月4日閲覧。


  29. ^ “民主党:小沢幹事長就任を正式決定 両院議員総会” (2009年9月15日). 2009年9月22日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年9月17日閲覧。


  30. ^ “鳩山首相が辞任表明、小沢幹事長も辞意”. ロイター. (2010年6月2日). http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-15625020100602 2011年1月10日閲覧。 


  31. ^ 民主党常任幹事会の決定全文 産経新聞 2011年2月23日(2011年2月28日時点のアーカイブ)

  32. ^ abc小沢氏はいずこへ 地元入り断念、都内で調整役専念 MSN産経ニュース、2011年3月18日(2011年3月21日時点のアーカイブ)


  33. ^ 小沢氏の元秘書が岩手で被災 SANSPO.com 2011年3月19日

  34. ^ abcd『小沢氏、岩手知事と会談』全国新聞ネット、2011年3月28日。


  35. ^ “小沢氏、3回連続の「敗北」=求心力低下に拍車―民主代表選”. 朝日新聞. (2011年8月29日). オリジナルの2011年11月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111120121223/http://www.asahi.com/politics/jiji/JJT201108290118.html 2012年8月9日閲覧。 


  36. ^ “石川議員が小沢氏に投票=松木氏は海江田氏に-首相指名”. 時事通信. (2011年8月30日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011083000642 [リンク切れ]


  37. ^ “小沢氏、日大理事就任へ 永田町では逆風 母校では2年遅れの「政権交代」”. 産経新聞. (2011年9月10日). オリジナルの2011年9月10日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110910011413/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110910/stt11091000250000-n1.htm 


  38. ^ “震災後初、小沢氏が岩手沿岸被災地を訪問”. 読売新聞. (2012年1月4日). http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20120104-OYT1T00065.htm 2012年1月27日閲覧。 

  39. ^ ab小沢一郎氏の無罪確定、上訴権放棄の申し立て…陸山会裁判 Archived 2012年11月28日, at the Wayback Machine. - zakzak 2012年11月19日


  40. ^ 小沢氏が閣議決定批判 岡田氏は説明責任を要求YouTube ANNnewsCH2012年3月31日


  41. ^ 小沢新党 玉砕覚悟!!反対57人、民主分裂へ - スポーツニッポン 2012年6月27日


  42. ^ “【小沢氏ら50人離党届】週内にも新党結成 首相、除名処分へ”. 47NEWS. (2012年7月2日). オリジナルの2014年2月14日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140214021544/http://www.47news.jp/47topics/e/231239.php 2012年7月13日閲覧。 


  43. ^ 小沢氏ら衆院37人を除名処分へ - 中日新聞 2012年7月3日[リンク切れ]


  44. ^ 小沢氏ら37人を除籍、鳩山元首相は党員資格停止6カ月MSN産経ニュース2012年7月3日


  45. ^ “鳩山元首相、党員資格停止3カ月に短縮 小沢元代表ら37人除籍処分は原案通り 民主党臨時常任幹事会”. 産経新聞. (2012年7月9日). オリジナルの2012年7月9日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120709140751/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120709/stt12070921200005-n1.htm 2012年7月9日閲覧。 


  46. ^ 総務省 (2014年12月26日). “平成26年12月26日 政治資金規正法に基づく政治団体の届出”. http://www.soumu.go.jp/main_content/000329768.pdf 2014年12月26日閲覧。 


  47. ^ “2014.12.26 19:38更新 生活に山本太郎氏入党 再び「政党」に 交付金も支給へ”. 産経新聞. (2014年12月26日). http://www.sankei.com/politics/news/141226/plt1412260032-n1.html 2014年12月26日閲覧。 


  48. ^ “生活が「自由党」に党名変更 小沢氏発表”. 日本経済新聞. (2016年10月12日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK12H4W_S6A011C1000000/ 2016年10月12日閲覧。 


  49. ^ 憲法改正論


  50. ^ “「国会に居てもしょうがない」=若手に地元活動促す-小沢元代表”. 時事通信. (2012年1月23日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2012012300800 2012年1月27日閲覧。 [リンク切れ]


  51. ^ “小沢元代表:「国会休んでも選挙区へ」…当選1回議員に”. 毎日新聞. (2012年1月23日). オリジナルの2012年1月25日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120125063052/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120124k0000m010085000c.html 2012年1月27日閲覧。 


  52. ^ “会議に出るより地元を回れ…小沢氏、若手に指南”. 読売新聞. (2012年1月24日). オリジナルの2012年1月25日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120125090118/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120123-OYT1T01059.htm 2012年1月27日閲覧。 


  53. ^ 「小沢氏の姿勢、党内からも疑問視 代表質問またも登壇せず」 『北海道新聞』、2008年1月22日。


  54. ^ 横田一「おごりたかぶった安倍政権は腐敗する 政治なカネはかかる、1円まで透明化すればいい」、『週刊金曜日』第1076巻、株式会社金曜日、2016年2月19日、 18-19頁、2017年4月27日閲覧。


  55. ^ 政策とオピニオン 文藝春秋 1999年9月特別号 所収「日本国憲法改正試案」小沢一郎(自由党党首) 小沢一郎ウェブサイト


  56. ^ 小沢一郎氏「悪い子供が改憲の火遊びしてる」と日本を不安視


  57. ^ 『週刊新潮』2009年12月31日号


  58. ^ “小沢民主党幹事長が来韓「天皇訪韓、韓国民が歓迎すれば可能」”. 中央日報. (2009年12月13日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=123895&servcode=A00&sectcode=A00 2009年12月19日閲覧。 


  59. ^ 【トンデモ史観】小沢一郎・韓国講演. 日本文化チャンネル桜.. (2009年12月17日). http://www.youtube.com/watch?v=uX7xFMvCly8 2009年12月19日閲覧。 

  60. ^ ab“【小沢氏来韓】「在日韓国人ら外国人地方参政権を現実化させる」”. 中央日報. (2009年12月13日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=123896&servcode=A00§code=A00 2009年12月19日閲覧。 


  61. ^ 『歴史とはなにか』文春新書、2001年


  62. ^ 小沢600人訪中団の不気味 2010年9月14日 朱雀式ニュース。


  63. ^ “「悪しき前例」 天皇陛下面会の一カ月ルールを逸脱した官邸のごり押し”. 産経新聞. (2009年12月11日). http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091211/stt0912112141015-n1.htm 2009年12月14日閲覧。 [リンク切れ]


  64. ^ 「天皇陛下」を中国共産党に差し出した「小沢天皇」の傲岸▼「胡錦濤」総書記への忠誠心を示した「官邸恫喝」 週刊新潮 2009年12月24日号(2009/12/17発売)


  65. ^ “宮内庁長官に辞任要求 特例会見問題で小沢氏「30日ルールは法律ではない」”. 産経新聞. (2009年12月14日). オリジナルの2009年12月17日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091217174651/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091214/stt0912141953011-n1.htm 2009年12月19日閲覧。 


  66. ^ “特例会見に党内外から批判 「政治利用」「要請強硬」”. 朝日新聞. (2009年12月15日). http://www.asahi.com/seikenkotai2009/TKY200912140349.html 2011年2月4日閲覧。 


  67. ^ 天皇を激怒させた“独裁者” 小沢一郎幹事長の大暴走! 現代ビジネス(2010年1月1日)


  68. ^ “小沢氏、皇室と韓国の関係で事実誤認”. 産経新聞. (2014年2月11日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140211/stt14021119370002-n1.htm 2014年2月12日閲覧。 

  69. ^ abc新政権、憲法どこへ 小沢幹事長「法の番人」封じ 朝日新聞 2009年11月3日(2009年11月4日時点のアーカイブ)


  70. ^ 民主党国会改革の内部資料が判明 法制局から「憲法解釈権」剥奪 産経新聞 2009年12月10日(2009年12月13日時点のアーカイブ)


  71. ^ 「自衛隊のアフガン派遣、政府が『合憲』解釈」 『読売新聞』、2007年12月22日。


  72. ^ 世界 2007年11月号


  73. ^ 国際社会における日本の役割に関する特別許査会「国際社会における日本の役割」月刊自由民主1993年3月号所収


  74. ^ “小沢幹事長の記者会見発言…天皇会見問題”. 読売新聞. (2009年12月14日). オリジナルの2009年12月16日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091216185535/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091214-OYT1T00888.htm 2009年12月14日閲覧。 


  75. ^ “小沢氏の「国事行為」発言が波紋 共産委員長「小沢氏は憲法読むべきだ」”. MSN産経ニュース. (2009年12月15日). オリジナルの2009年12月17日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091217235941/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091215/stt0912152055009-n1.htm 2009年12月15日閲覧。 


  76. ^ 「駐留米軍は第7艦隊で十分」 民主・小沢代表 産経ニュース 2009年2月25日(2009年2月27日時点のアーカイブ)


  77. ^ “【民主代表選】小沢氏「海兵隊不要」に防衛省困惑 事実誤認も数々”. MSN産経ニュース (2010年9月3日). 2010年9月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月10日閲覧。


  78. ^ 【民主党解剖】第1部「政権のかたち」(1)「小沢首相」は大丈夫か 産経ニュース 2009年3月2日(2009年3月3日時点のアーカイブ)

  79. ^ ab「小沢代表直撃インタビュー」 ZAKZAK、2008年6月23日。(2008年6月26日時点のアーカイブ)


  80. ^ 2008年7月15日 記者会見 - 民主党ホームページ。(2008年12月7日時点のアーカイブ)


  81. ^ 「小沢代表、チベット問題で中国批判 『独裁政権の矛盾』」 asahi.com、2008年4月17日


  82. ^ 「素人の人が…」と検察審査会に疑問 MSN産経ニュース 2010年9月3日(2010年9月6日時点のアーカイブ)


  83. ^ 平成7年12月22日夕刊フジ


  84. ^ 朝日新聞、2014年衆院選、朝日・東大谷口研究室共同調査


  85. ^ 2017年衆院選、候補者アンケート(朝日・東大谷口研究室共同調査)


  86. ^ 永住外国人の地方参政権について


  87. ^ 民団、民主・公明支援へ 次期衆院選 選挙権付与めざす 朝日新聞 2008年12月12日(2008年12月12日時点のウェブ魚拓)

  88. ^ ab民主党代表選共同記者会見から考える(下) olive news (2010年9月4日) - OLIVENEWS INCよりアーカイブ。


  89. ^ 国の資産を証券化するとどうなる / 小沢構想の波紋 2010年9月21日 NSKねっと。


  90. ^ 「『暫定税率を延長する必要はない。むしろ国民に還元すべき』小沢代表」 民主党ホームページ、2008年3月28日。(2008年12月7日時点のアーカイブ)


  91. ^ 「首相の一般財源化では理解得られない 国民に信を問うべき 小沢代表」 民主党ホームページ、2008年4月20日。(2008年12月7日時点のアーカイブ)


  92. ^ “ガソリン暫定税率廃止せず 公約から転換、小沢氏が予算要望”. 共同通信. (2009年12月17日). http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009121601000524.html 2012年8月17日閲覧。 


  93. ^ “マニフェスト違反は小沢氏が先…岡田氏が皮肉”. 読売新聞. (2012年6月23日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120623-OYT1T00039.htm 2012年8月17日閲覧。 [リンク切れ]


  94. ^ 小沢一郎・菅直人『政権交代のシナリオ――「新しい日本」をつくるために』PHP研究所


  95. ^ 「小沢氏『TPP交渉参加は早計』」『小沢氏「TPP交渉参加は早計」』読売新聞、2011年10月20日。(2011年10月21日時点のアーカイブ)


  96. ^ 「国内対策なければ早計=TPP参加で民主・小沢氏」時事ドットコム(時事通信社)、2011年10月20日。[リンク切れ]


  97. ^ 「TPP、慎重さ必要=民主・小沢氏」時事ドットコム(時事通信社)、2011年10月20日。[リンク切れ]


  98. ^ 「【TPP参加交渉】小沢氏『慎重にやらないとな』――結石はまだ体外に出ていないとも」 - SankeiBiz(産経デジタル)、2011年10月20日。[リンク切れ]

  99. ^ ab「小沢氏、TPP懸念 岐阜市で講演「国民の利益守れるか」」 - 岐阜新聞 Web(岐阜新聞社)、2011年11月15日。(2011年11月16日時点のアーカイブ)


  100. ^ 「小沢氏、TPPに前向き 「自由貿易は日本にメリット」 asahi.com(朝日新聞社)、2011年10月20日。(2011年10月20日時点のアーカイブ)


  101. ^ 小沢一郎事務所『Twitter / @ozawa_jimusho: 今日、一部紙面等で『TPPについて「小沢氏前向き」』 ...』ツイッター、2011年(平成23年)10月21日。


  102. ^ “原発、不可欠と容認 民主が積極推進に転換”. 共同通信. (2006年7月25日). http://www.47news.jp/CN/200607/CN2006072501004336.html 2012年1月27日閲覧。 


  103. ^ 「<民主党>エネルギー戦略まとめる 原発推進の姿勢」 『毎日新聞』、2006年7月26日。


  104. ^ “小沢元代表「民主も自民も動かないのはおかしい」 進まぬ倒閣に不満たらたら”. 産経新聞. (2011年4月30日). オリジナルの2011年5月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110502022907/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110430/stt11043022000004-n1.htm 2011年5月25日閲覧。 


  105. ^ “小沢氏、釣りで魚の安全性アピール 首相退陣論の広がりに期待 菅政権を重ねて批判”. 産経新聞. (2011年5月6日). オリジナルの2011年5月9日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110509065356/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110506/stt11050611300004-n1.htm 2011年5月25日閲覧。 


  106. ^ “原発ゼロ10年後めど 小沢新党が重点政策発表”. 東京新聞. (2012年8月2日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012080202000098.html 2012年8月9日閲覧。 [リンク切れ]


  107. ^ 「PFC供給熱量比率、食料自給率及び飼料需給表」 農林水産省。[リンク切れ]


  108. ^ 「参院選候補選定『直接やる。カギは1人区』 Archived 2007年6月24日, at the Wayback Machine.」 『産経新聞』、2007年4月11日付朝刊。


  109. ^ “小沢氏「俺が作った政倫審」でみそぎ狙う”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2010年5月14日). オリジナルの2010年5月16日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100516102937/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20100105-807334/news/20100514-OYT1T00170.htm 2010年6月3日閲覧。 

  110. ^ ab小沢一郎「壊し屋」の本領発揮 「生活の党」に衣替え、民主党に秋波? J-CASTニュース 2012年12月28日(2013年1月6日時点のウェブ魚拓)


  111. ^ 池上 2008.


  112. ^ 文藝春秋2018年二月号、平成4年 竹下派分裂で小沢総理は幻になった、渡部恒三、247-248頁


  113. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P99~100

  114. ^ ab“【民主党解剖】第1部「政権のかたち」(1)「小沢首相」は大丈夫か (5/5ページ)”. 産経ニュース. (2009年3月2日). オリジナルの2009年3月4日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090304090848/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090302/stt0903020008000-n5.htm 2009年3月2日閲覧。 


  115. ^ 『産経新聞』2008年10月24日朝刊


  116. ^ 『小沢主義志を持て、日本人』 ISBN 4797671297 より


  117. ^ “民・公接近が波紋=参院選にらみ思惑”. 時事通信社. (2010年3月1日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010030100881 2010年3月1日閲覧。 [リンク切れ]


  118. ^ “【ネット中継】小沢幹事長記者会見”. 民主党. (2010年3月3日). http://www.dpj.or.jp/news/?num=17791 2010年3月4日閲覧。 [リンク切れ]


  119. ^ “「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に”. 読売新聞. (2009年11月10日). オリジナルの2009年11月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091113074638/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091110-OYT1T01243.htm 2009年11月19日閲覧。 


  120. ^ “小沢氏「排他的なキリスト教文明、欧米行き詰まる」”. 朝日新聞. (2009年11月10日). オリジナルの2009年11月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091113073415/http://www.asahi.com/politics/update/1110/TKY200911100459.html 2009年11月19日閲覧。 


  121. ^ “小沢幹事長:高野山訪問 松長管長と会談”. 毎日新聞. (2009年11月10日). オリジナルの2009年11月18日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091118054129/http://mainichi.jp/photo/news/20091111k0000m010072000c.html 2009年11月19日閲覧。 


  122. ^ “小沢幹事長発言に「それこそ排他的」と抗議文”. 読売新聞. (2009年11月16日). オリジナルの2009年11月17日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091117150241/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091116-OYT1T01108.htm 2009年11月19日閲覧。 


  123. ^ “「独善的」発言でキリスト教連合会が小沢氏に撤回要求の抗議文”. MSN産経ニュース. (2009年11月16日). オリジナルの2009年11月19日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091119042436/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091116/stt0911161921005-n1.htm 2009年11月19日閲覧。 


  124. ^ 「日本の政治家は失言癖」米メディア、小沢氏「単細胞」発言を皮肉に紹介 産経ニュース 2010年8月26日 09:58(2010年8月29日時点のアーカイブ)


  125. ^ Ozawa: Americans Are ‘Simple-Minded’ The Wall Street Journal. JAPAN REALTIME, August 25, 2010, 8:18 PM JST


  126. ^ 小沢幹事長、最年少の20歳の囲碁名人井山裕太氏と対局


  127. ^ 「ツイッター上で自身の偽アカウント 小沢一郎氏驚きの表情で苦笑い」 - J-CASTニュース(ジェイ・キャスト)、2010年9月4日。


  128. ^ 「TBS:「小沢氏がツイッター開始」と誤報 訂正し謝罪 - 毎日新聞社、2010年9月7日。(2010年9月12日時点のアーカイブ)


  129. ^ 「小沢氏「なりすまし」ツイッターを誤報 TBSが謝罪」 - asahi.com(朝日新聞社)、2010年9月7日。(2010年9月10日時点のアーカイブ)


  130. ^ Yoree Koh, "Fake Ozawa Twitter Reels in Thousands", As Interest in Japan Prime Minister Challenge Grows, Fake Ichiro Ozawa Twitter Account Reels in Thousands - Japan Real Time - WSJ, Dow Jones & Company, September 6, 2010.


  131. ^ 『小沢一郎事務所 (ozawa_jimusho) on Twitter』ツイッター。


  132. ^ 小沢一郎事務所『Twitter / 小沢一郎事務所: 現在、小沢一郎 「 本人 」 は 公式 Twitte ...』ツイッター、2010年9月10日。


  133. ^ 政治家小沢一郎がバラエティー初出演!「そうめん食べ過ぎた。」【ソレダメ!~あなたの常識は非常識!?】 テレビ東京 2017年7月4日閲覧


  134. ^ 「元気の源?かわいい子犬2匹 民主・小沢氏を毎晩お出迎え」 『朝日新聞』、2008年5月22日。


  135. ^ “【Japan’s Election】 Japan’s Democratic Party foreign policy platform prioritizes Korean peninsula” (英語). ハンギョレ. (2009年8月31日). http://english.hani.co.kr/arti/english_edition/e_international/374021.html 2010年1月6日閲覧。 

  136. ^ abc“小沢一郎・民主党代表を補佐する韓国人女性秘書”. 聯合ニュース. (2007年8月9日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2007/08/09/0400000000AJP20070809003300882.HTML 2009年3月2日閲覧。 


  137. ^ “한국 여성、 日 오자와 대표 비서로 맹활약(韓国女性、日本小沢代表秘書として活躍)” (韓国語). 聯合ニュース. (2007年8月9日). オリジナルの2007年11月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071113235252/http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2007/08/09/0200000000AKR20070809140900073.HTML 2009年3月2日閲覧。 


  138. ^ “"사과하라!" 베를린에 울려퍼진 '700회 수요집회'” (韓国語). オーマイニュース. (2006年3月16日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000316972 2009年3月2日閲覧。 


  139. ^ 東北大学公共政策大学院 2009年度大学院案内 2009年3月2日閲覧。


  140. ^ “波紋呼ぶ小沢氏の「済州島買っちまえ」発言”. 産経新聞. (2009年3月13日). オリジナルの2009年3月15日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090315235149/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090313/stt0903130116000-n1.htm 2010年1月6日閲覧。 


  141. ^ “【小沢代表ぶら下がり詳報】「済州島買え? そんなこと言ってない」12日昼”. 産経新聞. (2009年3月12日). オリジナルの2009年3月15日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090315014355/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090312/stt0903121344006-n1.htm 2010年1月6日閲覧。 


  142. ^ “「首相になれば独島放棄」小沢氏が09年に李大統領に語る”. 東亜日報. (2012年8月30日). http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2012083091278 2012年8月30日閲覧。 


  143. ^ 小沢氏が「領有権放棄」表明と韓国のテレビが報道 真偽不明 産経ニュース 2012年8月30日


  144. ^ “小沢氏、韓国紙の「竹島領有権放棄発言」報道を否定”. 産経新聞. (2012年8月30日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120830/stt12083012500005-n1.htm 2012年8月30日閲覧。 


  145. ^ 小沢氏の竹島放棄報道「誤報」韓国、東幹事長に伝える 朝日新聞デジタル 2012年8月30日


  146. ^ 【産経抄】1月20日 - 産経新聞 2010年1月20日(2010年1月22日時点のアーカイブ)


  147. ^ “小沢氏、いっそ社民と合流を 鳩山氏は公私混同の擁護繰り返す”. 産経ニュース (2012年7月12日). 2015年4月1日閲覧。


  148. ^ “フリー記者らが「自由報道協会」を設立”. 田中龍作ジャーナル (2011年1月27日). 2015年4月1日閲覧。


  149. ^ “給油法案スピード通過/早期解散へ無抵抗戦術”. 東奥日報 (2008年10月21日). 2015年4月1日閲覧。


  150. ^ 東京新聞 2008年2月22日 朝刊 政治面


  151. ^ “日米中は世界で最も重要なトライアングル関係 小沢代表、クリントン米国務長官会談で確認”. 民主党 (2009年2月17日). 2015年4月1日閲覧。


  152. ^ 小沢氏、ネットで若者に政権交代アピール - MSN産経ニュース 2008年10月19日(2009年1月23日時点のアーカイブ)


  153. ^ “民主代表辞任から1カ月/鳩山体制で役割明確化”. 東奥日報 (2009年6月7日). 2015年4月1日閲覧。


  154. ^ 海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』新潮新書、2010年、po.101-102


  155. ^ 田崎史郎「小沢一郎との訣別」『文藝春秋』1994年10月号


  156. ^ 田崎史郎『政治家失格 なぜ日本の政治はダメなのか』文春新書、2009年、pp.143-144


  157. ^ 平野貞夫「誰も知らない小沢一郎の行動原理」『新潮45』2008年3月号、p.168


  158. ^ 産経新聞 2009年12月11日 政治面


  159. ^ 東京新聞 2009年12月12日 夕刊 政治面


  160. ^ “小沢氏、皇室と韓国の関係で事実誤認”. 産経ニュース (2014年2月11日). 2015年4月1日閲覧。


  161. ^ 産経新聞 2009年12月14日 政治面


  162. ^ 「世論調査は、あたったことないよ」小沢幹事長会見(3/5ページ) asahi.com 2010年4月12日(2010年4月15日時点のアーカイブ)


  163. ^ 小沢民主党代表発言は事実なのか - 救う会 全国協議会ニュース、2009年3月2日


  164. ^ 記事は「事実無根の報道」と民主党が反論 - 救う会 全国協議会ニュース、2009年3月3日


  165. ^ 記事は「正当な取材の結果」と産経新聞が回答 - 救う会 全国協議会ニュース、2009年3月5日

  166. ^ abcd“民主・小沢氏「米国人は好きだが単細胞」”. 日本経済新聞 (2010年8月25日). 2015年4月1日閲覧。


  167. ^ 朝鮮日報 2010年8月26日記事『小沢氏「日本は急速に劣化、米国人は単細胞」』


  168. ^ 安倍首相の呼びかけで自民議員が一斉に起立・拍手 「北朝鮮か中国」と小沢一郎氏が批判 | ハフポスト


  169. ^ 会計学の専門家、小沢氏側の主張支持…証人尋問 - 読売新聞 2011年12月21日 00時15分[リンク切れ]


  170. ^ 陸山会への貸付などに関する経緯の説明(2010年1月23日)

  171. ^ ab小沢事務所 労働保険未加入も 社民・福島党首も数年間 産経新聞 2009年3月5日(2010年3月24日時点のアーカイブ)


  172. ^ 労災保険料や課徴金、期限までに支払わず…小沢一郎氏の事務所 産経新聞 2009年9月25日(2009年9月28日時点のアーカイブ)


  173. ^ 憲法調査推進議員連盟規約


  174. ^ 東京芸術財団(TAF)とは - 東京芸術財団


  175. ^ http://www.asahi.com/articles/photo
    /AS20161012004434.html



  176. ^ 自由党の党籍を持ったまま、公認を得ず無所属で出馬した。


  177. ^ 小沢氏に名誉博士号「両国関係発展に献身」=韓国・国民大


  178. ^ 国民大、小沢一郎氏に名誉博士学位を授与


  179. ^ 奥野 1994, p. 98.


  180. ^ 衆議院会議録情報 第058回国会 本会議 第33号


  181. ^ 奥野 1994, p. 25.


  182. ^ 奥野 1994, p. 105.


  183. ^ 全文表示 | 検察が聴取?「小沢幹事長の妻」 実は新潟ゼネコンの大株主 : J-CASTニュース


  184. ^ 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 (光文社、2000年、362頁)




参考文献



  • 池上彰、2008、『そうだったのか! 日本現代史』、集英社 ISBN 4087463850

  • 奥野修司、1994、『小沢一郎 覇者の履歴書』、データハウス ISBN 4887182457



関連文献



  • 『小沢一郎の「真実」―金丸、竹下を手玉にとる剛腕幹事長』(アイペック、1990年、ISBN 4870471000)

  • 『平成名勝負物語—橋本龍太郎vs小沢一郎』(小林吉弥著、勁文社、1990年、ISBN 4766912497)

  • 『劇画 橋本龍太郎VS小沢一郎—激闘譜』(さいとうたかを著、日本フローラルアート出版局、1991年、ISBN 4930831008)

  • 『小沢一郎の政治謀略―政界の裏の裏がわかる本』(菊池久著、山手書房新社、1991年、ISBN 4841300228 )

  • 『小沢一郎探検』(朝日新聞政治部編、朝日新聞社、1991年、ISBN 4022563435)

  • 『小沢一郎・全人像』(小田甫著、行政問題研究所出版局、1992年、ISBN 4905786908)

  • 『平成動乱 小沢一郎の野望』(板垣英憲著、DHC、1993年、ISBN 4887240023)

  • 『小沢一郎の秘密』(佐藤淳一著、データハウス、1993年、ISBN 4887181698)

  • 『小沢一郎・日本改造計画の危険性』(本澤二郎著、エール出版社、1993年、ISBN 4753912345)

  • 『小沢一郎の逆襲―ベールに包まれた政界再編のシナリオを読む!』(竜崎孝著、サンドケー出版局、1993年、ISBN 491493809X)

  • 『あの人 ひとつの小沢一郎論』(渡辺乾介著、飛鳥新社、1993年、ISBN 4870311291)

  • 『小沢一郎の腕力ポイント読み』(伊勢暁史著、明日香出版社、1994年、ISBN 4870307081)

  • 『小沢一郎総理大臣待望論』(板垣英憲著、ジャパン・ミックス、1994年、ISBN 4883211541)

  • 『どっこい小沢一郎は生きている 全発言で探る、この男の次の一手』(上之二郎著、ベストセラーズ、1994年、ISBN 4584191131)

  • 『小沢一郎真実の叫び―これだけはいいたい 小沢は日本の未来に危惧を抱き、平和な国と社会のために改革を図る』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620778)

  • 『小沢一郎日本国崩壊をすくう』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620956)

  • 『小沢一郎の日本vs.武村正義の日本―あなたはどちらの国に住みたいか この2人がわかれば日本の将来が見えてくる』(小板橋二郎著、こう書房、1994年、ISBN 4769605080)

  • 『池田大作vs小沢一郎 どうなる日本どうなる両雄の展開』(後藤寿一著、銀河出版、1994年、ISBN 4906436412)

  • 『「小沢一郎日本改造計画」への挑戦状! 20代議員の描くキラリと光る改造計画』(「新党20代議員の会」編著、マネジメント社、1994年、ISBN 4837803431)

  • 『河野洋平と小沢一郎の大戦略―宿命のライバル』(本沢二郎著、総合法令、1994年、ISBN 4893463829)

  • 『悪魔の使者小沢一郎―あの強腕を裏で操るのは何者か 日本改造なんてとんでもない』(ヤコブ・モルガン著・忍野昭太郎訳、第一企画出版、1994年、ISBN 4887190166)

  • 『小沢ウオッチング』(立尾良二著、東京新聞出版局、1995年、ISBN 4808305216)

  • 『小沢一郎の時代』(板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810380300)

  • 『お笑い大蔵省極秘情報』(テリー伊藤著、飛鳥新社、1996年、ISBN 4-87031-293-X)

  • 『小沢一郎―その「恐怖支配」の実態』(久慈力著、マルジュ社、1996年、ISBN 4896161017)

  • 『政治が歪める公共事業―小沢一郎ゼネコン政治の構造』(久慈力・横田一著、緑風出版、1996年、ISBN 4846196143)

  • 『盛岡大学疑惑を追及する―教育を食い物にする紳士たち』(久慈力著、新泉社、1997年、ISBN 4787797158)

  • 『拝啓小沢一郎党首殿』(松沢成文著、ごま書房、1997年、ISBN 4341017748)

  • 『小沢一郎の行動美学』(三菟雅文著 プラネット出版社 1999年 ISBN 4939110028)

  • 『小沢一郎の大勝負 竜馬か!? 悪魔か!?』 (板垣英憲著、リヨン社、2003年、ISBN 4576031910)

  • 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』(板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769)

  • 『政党崩壊―永田町の失われた十年』(伊藤惇夫著、新潮社[新潮新書]、2003年、ISBN 4106100231)


  • 『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体』(松田賢弥著、講談社、2003年、ISBN 4062117061)[疑問点]

  • 『永田町「悪魔の辞典」』(伊藤惇夫著、文藝春秋、2004年、ISBN 4166603884 )

  • 『政治の数字―日本一腹が立つデータブック』(伊藤惇夫著、文藝春秋[文春新書]、2005年、ISBN 4106101173)

  • 『小沢一郎の政権奪取戦略』(大下英治著、河出書房新社、2005年3月、ISBN 4309243347)

  • 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』(大下英治著、幻冬舎、2006年8月、ISBN 4344408217)

  • 『小沢一郎の真実』(平野貞夫著、講談社、 2006年9月、 ISBN 4066213553)

  • 『「小沢一郎」入門―カリスマの原点 小沢一郎は何を考えているのか』(森田実著、三笠書房[知的生き方文庫]、 2006年10月、 ISBN 4837975887)

  • 『政権交代―小沢一郎最後の戦い』(板垣秀憲著、 共栄書房、2007年7月、ISBN 4763410334)

  • 『小沢民主党は信用できるか』(高市早苗編著、PHP研究所、2008年2月 ISBN 9784569697949)


雑誌関連文献抄



  • 『現代』2004年2月号、小沢一郎・横路孝弘・伊藤達美「小沢一郎×横路孝弘―民主党の両極 安全保障論で合意する」

  • 『週刊金曜日』2005年1月14日号、「本多勝一の憂刻ニッポン―小沢一郎(上)現行憲法の下で「無血革命」を目指す」[4]

  • 『AERA』2006年1月23日号、後藤正治「小沢一郎 思想政治家で終わるのか」

  • 『世界』2007年11月号、小沢一郎「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を」



関連項目







  • 生活の党と山本太郎となかまたち

  • 国民の生活が第一国会議員一覧

  • 小沢グループ

  • 金竹小

  • 一龍戦争



人物




  • 竹下亘(政治家)


  • 竹下登(政治家・第74代内閣総理大臣)


  • 田中角栄(政治家・第64・65代内閣総理大臣)


  • 田中眞紀子(政治家)


  • 金丸信(政治家)


  • 野中広務(政治家)


  • 小佐野賢治(実業家・国際興業創業者) - 以前は国際興業との関係は親密で新進党・自由党本部は国際興業所有のビル内にあった。


現在の国際興業は投資ファンドサーベラスが買収して傘下となっており、小佐野家の影響力が低下した為国際興業との関係は薄くなっている。



外部リンク



  • 小沢一郎公式サイト


  • 小沢一郎メールマガジン(公式メルマガ)


  • 小沢一郎すべてを語る - ニコニコチャンネル


  • 小沢一郎(事務所) (@ozawa_jimusho) - Twitter


  • 小沢一郎 公式チャンネル - 公式YouTubeチャンネル


  • Ichirô Ozawa - インターネット・ムービー・データベース(英語)

  • 小沢一郎オフィシャルブログ


  • 新政研-新しい政策研究会-[リンク切れ]












































































































公職
先代:
渡辺秀央

日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
1987年 - 1989年
次代:
牧野隆守
先代:
古屋亨

日本の旗 自治大臣
第34代:1985年 - 1986年
次代:
葉梨信行
先代:
古屋亨

日本の旗 国家公安委員会委員長
第44代:1985年 - 1986年
次代:
葉梨信行
先代:
片山正英

日本の旗 科学技術政務次官
1975年 - 1976年
次代:
矢野登
議会
先代:
山村新治郎

日本の旗 衆議院議院運営委員長
第41代:1983年 - 1985年
次代:
綿貫民輔
党職
先代:
名称変更

自由党共同代表
山本太郎と共同
初代:2016年 -
次代:
現職
先代:
新設

生活の党と山本太郎となかまたち共同代表
山本太郎と共同
初代:2015年 - 2016年
次代:
名称変更
先代:
名称変更

生活の党と山本太郎となかまたち代表
初代:2014年 - 2015年
次代:
共同代表制へ
先代:
森裕子

生活の党代表
第2代:2013年 - 2014年
次代:
名称変更
先代:
結成

国民の生活が第一代表
初代:2012年
次代:
主濱了
先代:
前原誠司

民主党代表
第6代:2006年 - 2009年
次代:
鳩山由紀夫
先代:
中野寛成
増員

民主党代表代行
2003年 - 2004年
2009年(筆頭)
次代:
藤井裕久
減員
先代:
岡田克也

民主党幹事長
第9代:2009年 - 2010年
次代:
枝野幸男
先代:
結成

自由党党首
初代:1998年 - 2003年
次代:
民主党へ合流
先代:
海部俊樹

新進党党首
第2代:1995年 - 1997年
次代:
解散
先代:
結成

新進党幹事長
初代:1994年 - 1995年
次代:
米沢隆
先代:
結成

新生党代表幹事
初代:1993年 - 1994年
次代:
新進党へ
先代:
橋本龍太郎

自由民主党幹事長
第26代:1989年 - 1991年
次代:
小渕恵三
その他の役職
先代:
結成

新しい政策研究会会長
初代:2011年 - 2012年
次代:
活動停止
名誉職
先代:
山口敏夫

最年少衆議院議員
1969年 - 1972年
次代:
上田茂行



















Popular posts from this blog

Human spaceflight

Can not write log (Is /dev/pts mounted?) - openpty in Ubuntu-on-Windows?

張江高科駅