皇居
皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。
目次
1 概要
2 現在の皇居
2.1 皇居内の施設
2.1.1 宮殿
2.1.2 その他の施設
2.2 その他
2.3 皇居の自然環境
2.4 内濠・外濠
2.5 現皇居の歴史
3 皇居・宮の歴史
3.1 飛鳥の宮
3.2 平安時代から江戸時代
3.3 明治時代以後
4 歴代の皇居
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要
現在は、第二次世界大戦後に宮城(きゅうじょう)の名称が廃止された東京の江戸城跡一帯を指して皇居と呼んでいる。公式の英語表記は「The Imperial Palace」。天皇の住居である「御所」、各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。
江戸時代以前には京都にあり、御所[1]、禁裏、内裏などと呼ばれていた里内裏(後述の「皇居・宮の歴史」参照)であった。明治維新後の東京行幸の後に留守となり、明治天皇の指示で保存されて現在に至り、京都御所と称されている(英名は「Kyoto Imperial Palace」)。行幸後に首都機能が東京に移った際、明確な遷都の法令が発せられなかったので、京都御所を現在も皇居とみなす向きもある。しかし明治以降、京都御所に近代的居住機能が付加されることはなく、平安時代の様式を伝える最高格式の紫宸殿(正殿)や日常生活の場である常御殿などが保存されている文化財となっている。長岡京など京都以前の御所は、遺構・遺跡や伝承地が残るのみである。
皇居の呼び名は、史料や古典文学に登場するものの現在では使われない表現を含めると様々ある。内裏(だいり)、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、宮中(きゅうちゅう)、禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。
現在の皇居
明治以降の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭(内堀内)には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火(1657年(明暦3年))以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。
皇室関連施設のうち、宮殿、宮内庁庁舎などは旧西の丸に位置するが、天皇の住まいである御所は江戸城の「吹上」、現在の「吹上御苑」に建てられている。旧西の丸と吹上御苑は道灌堀という堀で隔てられている[2]。城郭としての江戸城は本丸、二の丸、三の丸および西の丸部分のみを言い、道灌堀の西側にある庭園部分は厳密には江戸城には含まれないので、御所は城郭としての江戸城跡に建っているわけではない。皇居と呼ばれる区域は、旧西の丸・吹上御苑と皇居東御苑からなる宮内庁の管理用地の区域を指す場合[3][4]と、この区域に環境省管轄の皇居外苑を加えた区域を指す場合[5]がある。
旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部分は皇居東御苑として、1968年(昭和43年)10月1日以降、一般公開されている。[6]。皇居の一部エリアを一般人が訪問できる機会としては一般参賀と、桜の開花や紅葉の季節に合わせた乾通りの通り抜け[7]がある。
現在、皇居一帯は東京都心にありながら緑豊かな地区で、濠(堀)に沿って皇居を取り巻く歩道はジョギング道や散歩コースとしても親しまれている。皇居の宮内庁管理部分の住居表示は東京都千代田区千代田1番1号(郵便番号100-0001)で、居住していなくても登録できる本籍として人気が高い住所になっている。また、国有財産としての皇居の価値は2146億4487万円である(財務省資料に基づく、2009年5月時点)[8]。
人工衛星パノラマ画像プログラムのGoogle Earthにおいては世界のランドマークの一つとして登録されている。
皇居内の施設
宮殿
皇居 宮殿 | |
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宮殿東庭から見た長和殿 | |
情報 | |
用途 | 皇室・外国元首歓迎の諸行事、国事行為 |
設計者 | 吉村順三 |
管理運営 | 宮内庁 |
延床面積 | 22,949 m² |
階数 | 地上2階、地下1階 |
戸数 | 7 |
着工 | 1964年(昭和39年)6月 |
竣工 | 1968年(昭和43年)11月14日 |
所在地 | 〒100-0001 東京都千代田区・千代田1 |
座標 | 北緯35度40分57秒 東経139度45分10秒 / 北緯35.68250度 東経139.75278度 / 35.68250; 139.75278座標: 北緯35度40分57秒 東経139度45分10秒 / 北緯35.68250度 東経139.75278度 / 35.68250; 139.75278 |
皇居の宮殿は天皇が儀式を行う場であり、1969年(昭和44年)4月から使用されている。焼失した明治宮殿と区別して「新宮殿」とも称する。鉄骨鉄筋造で、地上2階、地下1階、延べ面積22,949平方メートル。基本設計は吉村順三。正殿(せいでん)、豊明殿(ほうめいでん)、連翠(れんすい)、長和殿(ちょうわでん)、千草の間・千鳥の間、表御座所棟、表御座所付属棟の7棟からなり、これらの建物に面して中庭(ちゅうてい)、東庭(とうてい)、南庭(なんてい)がある。
正殿
- 松の間、竹の間、梅の間の三部屋からなる。
- 松の間
- 宮殿内で最も格式の高い部屋で、板張りである。新年祝賀の儀、信任状捧呈式、内閣総理大臣任命式(親任式)、認証官任命式、勲章親授式、講書始の儀、歌会始の儀等の主要な通年の儀式に使用される他、朝見の儀や即位の礼の中心的儀式である即位礼正殿の儀などの皇室の重要儀式でも使用される。
- 竹の間
- 主に、天皇・皇后が外国の元首・外国政府要人と会見し、又は皇居を訪れた日本政府関係者及び民間人を引見する等の儀式並びに行事に使用される。
- 梅の間
- 主に、皇后関係の儀式・行事(皇后誕生日祝賀、皇后引見等)等に使用される。
豊明殿
- 宮殿内で最も広い大広間で、宮中晩餐会、天皇誕生日の宴会の儀や、即位の礼の饗宴の儀等、多人数の宴会に使用される。
連翠
午餐会、晩餐会等の小人数の宴会に使用される。
長和殿
- 南北163メートルにおよぶ細長い建物で、参内者の休所や、もてなし、拝謁等多目的に使用される。部屋名は北から南へ順に、北溜、北の間、石橋(しゃっきょう)の間、春秋の間、松風の間、波の間、南溜。一般参賀の行なわれる東庭に面しており、一般参賀の際には皇族は長和殿ベランダの中央部に立つ。1969年(昭和44年)1月2日、新宮殿完成後初の皇居一般参賀で昭和天皇らが長和殿ベランダに立った際、パチンコ玉で狙われる事件が発生した。皇族は負傷しなかったが、この事件の後、長和殿ベランダ中央部には防弾ガラスが設けられた。
- 春秋の間
- 宮内では豊明殿に次いで広い大広間で、各国賓客の歓迎会や拝謁等に用いられる。平成に入ってからは、各種レセプションに使用される機会も多くなった。
- 石橋の間、松風の間
- 春秋の間に隣接した広間で、参殿者の休所等として利用される。
- 北の間、波の間
- 参殿者の休所等として利用される部屋。
- 北溜、南溜
- 北車寄、南車寄につながる玄関ホール。北溜は記帳所として利用されることもある。波の間と正殿の間には長さ70メートルほどの回廊があり、国賓等は長和殿から回廊を経て正殿に向かう。
- 北車寄、中車寄、南車寄
- 北車寄は長和殿の北端、南車寄は長和殿の南端、中車寄は長和殿の地下にある。長和殿と東庭の地下は、参殿者のための地下駐車場となっている。
- 回廊
- 正殿と長和殿を結び、豊明殿に相対する。
千草・千鳥の間
- 本来は「千草の間」、「千鳥の間」と別々の部屋だが、仕切りを取って一部屋として使用される。
- 庭園(中庭、東庭、南庭)
- 中庭
- 正殿、豊明殿、回廊、長和殿に四方を囲まれた庭園。即位礼正殿の儀の際、威儀物奉持者が居並び、旛旗が立てられる。
- 東庭
- 東庭は外国元首が栄誉礼を受ける場や、新年・天皇誕生日の一般参賀の場として使用される。「松の塔」がある。
- 中庭
表御座所棟
- 天皇が日常の執務をする部屋(表御座所)のほか、侍従の部屋などがある。
その他の施設
御所
今上天皇及び皇后の住居。吹上御苑内にあり、1991年(平成3年)に着工、1993年(平成5年)12月8日から使用されている。設計は内井昭蔵による。
吹上大宮御所
- 吹上御苑内にあり、吹上御所として1961年(昭和36年)に建設され、生前の昭和天皇と香淳皇后の住居として使用された。昭和天皇の崩御後は吹上大宮御所と改称され、皇太后(香淳皇后)の住居として使用されていたが、2000年(平成12年)の香淳皇后の崩御後は使用されていない。
宮中三殿
賢所・皇霊殿・神殿をまとめて宮中三殿と称する。宮中三殿に付随して新嘗祭の行われる神嘉殿、鎮魂祭が行われる綾綺殿等がある。
宮内庁庁舎
- 宮内庁内郵便局
生物学研究所
1928年(昭和3年)、昭和天皇が生物学の研究を行うために建設された施設。- 現在は今上天皇がハゼを始めとする魚類学の研究を行ったり、その年の新嘗祭を執り行う際に用いられる新穀米を栽培したりするなど多岐に亘って供用されている。米の栽培は職員の手を借りつつも、種まきから田植え、稲刈りまでを自ら行なっている。
- かつては「生物学御研究所」とも称されたが、2008年(平成20年)10月に今上天皇の意向により、「御」が外されて現名称に統一されている。なお今上天皇自身は単に「研究所」と呼んでいる。
紅葉山御養蚕所
1914年(大正3年)に貞明皇后の命により建てられ、以来、歴代皇后が蚕を飼育している施設である。
御養蚕所で飼われる蚕から出来た絹製品は、主に皇室の儀典用衣裳等に用立てられる。
皇居東御苑
1968年(昭和43年)10月1日から一般公開されている。
桃華楽堂
1966年(昭和41年)2月に建てられる。香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂。名称は香淳皇后のお印「桃」や画号「桃苑」にちなむ。
三の丸尚蔵館
- 皇室に受け継がれた美術品が1989年(平成元年)6月に国に寄贈されたことから、これを保管・展示・研究するために建てられた。1993年(平成5年)11月3日に開館した。
- 皇宮警察本部庁舎
- 宮内庁書陵部庁舎
- 宮内庁病院
宮殿
富士見櫓
伏見櫓と伏見多聞
坂下門
坂下門。皇居内から望む
桔梗門
大手門
平川門
北桔橋門
半蔵門
桜田門(高麗門)(重要文化財)
田安門(重要文化財 2009年7月13日撮影)
清水門(重要文化財 2010年4月5日撮影)
東御苑内、建物は大番所
東御苑の二の丸庭園
巽櫓
長和殿
諏訪の茶屋
その他
- 皇居の大きさは、宮内庁管理部分の敷地が約115万m2で[9]、東京ドーム約25個分である[10]。濠の面積も含む東京都千代田区千代田の面積は1,425,500m2[11]、皇居外苑も含めた総面積は約230万m2となる[5]。
- 皇居周辺は1周が約5kmで歩道に信号機がなく、森・街路樹や濠の景観も楽しめることから、手軽なランニング(ジョギング)コースになっている(皇居ランニング)[12]。高低差は約26メートル。初心者から上級者まで、幅広く走れる[13]。
- 外国人観光客の東御苑などへの来訪が増えているため、宮内庁は2017年5月16日、スマートフォン向けに皇居や京都御所について日英中韓仏西6か国語の音声で案内するアプリの提供を始めた[14]。
- 皇居近くには、勤皇の忠臣とされる2人の銅像(皇居外苑の楠木正成像と、大手濠の和気清麻呂像)が立っている[15]
皇居の自然環境
江戸時代以降に開発が進んだ東京都心の他地区と異なり、皇居は江戸城時以降の自然が残り、貴重な生態系が維持されている。皇居の森を中心とする広大な緑地と、水中生物が隠れやすい石垣や水草が多い堀(濠)が一体となっているうえ、釣りなど人間による採捕活動が制限されているため、植物と昆虫類、魚介類、鳥類、哺乳類を含む陸上動物などの間で食物連鎖が成立し、希少種を含む生物多様性が保全されている。
吹上御苑と道灌濠周辺で行われた国立科学博物館による1996 - 2000年度と2009 - 2013年度の二回の調査で、植物2077種、動物6375種の生息が確認されている。フキアゲニリンソウ(草)やニホンコシアカハバチ(蜂)のような新種が発見されたほか、イシカワモズク(藻)やヒロクチコギセル(貝)といった絶滅危惧種も保全されている。一方で、アカボシゴマダラ(蝶)やスズミグモ(蜘蛛)のような外来種の侵入も確認された。
大型動物としては、タヌキが1990年代半ばから宮内庁や皇宮警察の職員に目撃されるようになった。今上天皇の発案で、宮内庁と国立科学博物館が2006年度から糞の分析による餌の解明や、6匹を一時捕獲して発信器を付けての行動追跡といった調査を行い、2008年と2016年に今上天皇を共同執筆者とする論文にまとめられている[16]。
こうした調査から、太田道灌の遺徳を偲び道灌時代の遺構に手を加えなかった伝承の信憑性や、明暦の大火後に防火帯として整備した庭園に古い生態系が閉じ込められたこと、2003年に始まった東京都によるディーゼル車規制条例の効果が現れている可能性、地球温暖化(ヒートアイランド)が進行していることなどが示唆された。[17]
皇居周辺の堀では、管理する環境省が桜並木の手入れ、ヘイケボタルの放流といった環境保全・改善を進めている[18][19]。
内濠・外濠
- 内濠
- 清水濠
- 牛ヶ淵
- 千鳥ヶ淵
- 蓮池濠
- 平川濠
- 乾濠
- 天神濠
- 大手濠
- 蛤濠
- 上道灌濠
- 下道灌濠
- 白鳥濠
- 日比谷濠
- 和田倉濠
- 二重橋濠
- 桜田濠
- 凱旋濠
- 半蔵濠
- 外濠
- 外濠
- 牛込濠
- 新見附濠
- 市ヶ谷濠
- 弁慶濠
四谷濠(真田濠)- 飯田濠
現皇居の歴史
1868年(慶応4年)、明治天皇の東京行幸により江戸城が東京城(とうけいじょう)と称され、東京の皇居となる。1869年(明治2年)、2度目の東京行幸で天皇の東京滞在が発表され、東京城は皇城(こうじょう)と称される(東京奠都)。1873年(明治6年)、それまで天皇の御座所とされていた江戸城西の丸御殿が火災のため焼失し、一時、赤坂離宮を仮皇居とした。
1879年(明治12年)西の丸に新宮殿を造営することが決まり、1888年(明治21年)に明治宮殿が落成し、同年10月27日以後、宮城(きゅうじょう)と称された[20]。明治宮殿は、御車寄、正殿、東溜、西溜、豊明殿、千種の間、鳳凰の間など、儀式・応接・政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇の住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿は木造で、外観は和風建築だが、内部は和風の格天井からシャンデリアを下げるなど和洋折衷とし、椅子とテーブルを用いていた。この明治宮殿は太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、空襲による飛び火で焼失した。
1935年頃、宮内省第2期庁舎に鋼鉄扉の防空室(地下金庫室)が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。後に御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇・香淳皇后は空襲警報発令の度に宝剣神璽(三種の神器のうち剣と璽)とともに地下金庫室に避難していた。
1941年(昭和16年)4月12日に御文庫(おぶんこ)が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組。建築費は約200万円であった。建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、便所などがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった[21]。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。
1945年(昭和20年)6月頃に戦況が悪化したため、さらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90 m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330 m2、56 m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1 mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた[22]。この地下壕では後に、終戦を決める2度の御前会議が開かれた。戦後、御文庫附属庫は昭和天皇の意向で修理・保存されることなく朽ちるままになっている。しかし定期的に写真や映像などの記録はとられており、戦後70年にあたる平成27年8月にはデジタル音源化された玉音放送とともに映像や写真が公開された[23][24]。
1948年(昭和23年)7月1日に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった[25]。1952年(昭和27年)からは宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮の宮殿とした。
なお日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令や日本国憲法施行により、戦前・戦中に皇居を管理した宮内省は宮内府を経て現在の宮内庁に改組された。皇居の警備は陸軍近衛師団と宮内省の皇宮警察から警視庁皇宮警察部へ移管された。
戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政によると、「お上(昭和天皇)は戦争終了後、『国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ』[26]と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけていた」と述べている。[要出典]
昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇の御所とは接続させず、御所と宮殿を別々に造ることとなった。まず1961年(昭和36年)、昭和天皇および香淳皇后の住居として皇居内吹上地区の御文庫に隣接・組込まれて建設された吹上御所が完成した。新宮殿は明治宮殿跡地に1964年(昭和39年)着工し、1968年(昭和43年)10月竣工。同年11月14日に落成式が挙行され、翌1969年(昭和44年)4月から使用された[27]。なお吹上御所は、1993年(平成5年)12月9日に、皇太后(香淳皇后)の住まいとして吹上大宮御所と改称された[28]。
今上天皇、皇后は、即位後も暫くは引き続き赤坂御所(現東宮御所)に居住[29]しながら皇居宮殿に通っていたが、皇居内吹上地区の一角に新たな御所が建設され、1993年(平成5年)12月8日から使用している[30]。
皇居・宮の歴史
宮(みや)は家(や「屋」)に尊称(み「御」)がついた言葉である。身分の高い人の住居という意味から出発し、やがて天皇や皇族の宮殿を意味するようになった。古代には、大王(天皇)の住居は一世ごとに移転され、皇居は宮(みや)と呼ばれる宮殿を指した。『古事記』や『日本書紀』には、4世紀から6世紀にかけての宮殿の多くが、現代で言う奈良盆地の東南の地に営まれたと記されている。
飛鳥の宮
592年に推古天皇が即位した豊浦宮から694年持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間は、奈良の南の地飛鳥周辺に宮殿が集中したので飛鳥京と呼ぶことがある。このような宮には、小墾田宮(603年 - 630年)、飛鳥岡本宮(630年 - 636年)、飛鳥板蓋宮(643年 - 655年)、後飛鳥岡本宮(656年 - 672年)、飛鳥浄御原宮(672年 - 694年)などがある。その頃の大規模な居館がいくつか発見されている。それらは地面に穴を掘って柱の根本を固定する掘立柱建物である。これらの建物の内、7世紀以降では、中心建物は南を正面としているのが特徴である。
後には、中国王朝の影響で京(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)に定着し、これを皇居とした。国政の中枢である朝堂院を始めとする中央官衙は内裏に併設され、合わせて宮城と呼ばれる。
京には、難波京(大阪)、藤原京(奈良)、平城京(奈良)、平安京(京都)などがある。
平安時代から江戸時代
平安京は、794年(延暦13年)に桓武天皇によって定められた。960年(天徳4年)に内裏が焼失し、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。976年(貞元元年)にも内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居としている。平安京の内裏はしばしば焼亡したため、摂関や外戚など臣下の邸宅を仮皇居(里内裏)とすることも多かった。平安時代末期からは、内裏があっても里内裏を皇居とすることが一般化した。1227年(安貞元年)に宮城(大内裏)が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。南北朝時代の1331年(元弘元年、元徳3年)、北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿で即位してからは、この御殿が内裏に定められた。これが、現在の京都御所の前身となる。
明治時代以後
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸は東京と改められた。同年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇が東京に行幸して江戸城西の丸(現在は宮殿のみが建っている・現在の吹上御所とは別の場所)に入った際、江戸城も東京城と改称され、天皇の東幸中の仮皇居と定められた。天皇は一旦京都に戻った。
翌明治2年3月28日(1869年5月9日)、再び東京に行幸し、1877年(明治10年)には京都御所が保存され今に至る(東京奠都の項目を参照)。
歴代の皇居
歴代の皇居(宮都)の一覧。飛鳥時代以前の宮号は『日本書紀』(一部『古事記』)を典拠とする。
宮号 | 天皇 | 所在地(推定地含む) | 期間 | |
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畝傍橿原宮 | 初代神武天皇 | 奈良県橿原市畝傍町 | 神武天皇元年1月 - | |
葛城高丘宮 | 第2代綏靖天皇 | 奈良県御所市森脇 | 綏靖天皇元年1月 - | |
片塩浮孔宮 | 第3代安寧天皇 | 奈良県大和高田市三倉堂 または奈良県橿原市四条町 | 安寧天皇2年 - | |
軽曲峡宮(軽境岡宮) | 第4代懿徳天皇 | 奈良県橿原市白橿町 | 懿徳天皇2年1月 - | |
掖上池心宮(葛城掖上宮) | 第5代孝昭天皇 | 奈良県御所市池之内 | 孝昭天皇元年7月 - | |
室秋津島宮 | 第6代孝安天皇 | 奈良県御所市室 | 孝安天皇2年10月 - | |
黒田廬戸宮 | 第7代孝霊天皇 | 奈良県磯城郡田原本町黒田 | 孝安天皇102年12月 - | |
軽境原宮 | 第8代孝元天皇 | 奈良県橿原市見瀬町 | 孝元天皇4年3月 - | |
春日率川宮 | 第9代開化天皇 | 奈良県奈良市本子守町 | 開化天皇元年10月 - | |
磯城瑞籬宮 | 第10代崇神天皇 | 奈良県桜井市金屋 | 崇神天皇3年9月 - | |
纒向珠城宮(師木玉垣宮) | 第11代垂仁天皇 | 奈良県桜井市穴師 | 垂仁天皇2年10月 - | |
纒向日代宮 | 第12代景行天皇 | 奈良県桜井市穴師 | 景行天皇4年11月 - | |
志賀高穴穂宮 | 第12代景行天皇 - 第13代成務天皇 | 滋賀県大津市穴太 | 景行天皇58年2月 - | |
穴門豊浦宮 | 第14代仲哀天皇 | 山口県下関市長府宮の内町 | 仲哀天皇2年9月 - | |
橿日宮 | 福岡県福岡市東区香椎 | 仲哀天皇8年1月 - | ||
磐余稚桜宮 | 神功皇后 | 奈良県桜井市谷 または桜井市池之内 | 神功皇后摂政3年1月 - | |
軽島豊明宮(軽島明宮) | 第15代応神天皇 | 奈良県橿原市大軽町 | (遷都年次不明) | |
難波大隅宮 | 大阪府大阪市東淀川区大隅 | 応神天皇22年3月 - | ||
難波高津宮 | 第16代仁徳天皇 | 大阪府大阪市天王寺区餌差町 または大阪市中央区法円坂 | 仁徳天皇元年1月 - | |
磐余稚桜宮 | 第17代履中天皇 | 奈良県桜井市谷 または桜井市池之内 | 履中天皇元年2月 - | |
丹比柴籬宮 | 第18代反正天皇 | 大阪府松原市上田 | 反正天皇元年10月 - | |
遠飛鳥宮 | 第19代允恭天皇 | 奈良県高市郡明日香村飛鳥 | (遷都年次不明) | |
石上穴穂宮 | 第20代安康天皇 | 奈良県天理市田町 | 允恭天皇42年12月 - | |
泊瀬朝倉宮 | 第21代雄略天皇 | 奈良県桜井市岩坂 または桜井市脇本・黒崎 | 安康天皇3年11月 - | |
磐余甕栗宮 | 第22代清寧天皇 | 奈良県橿原市東池尻町 | 清寧天皇元年1月 - | |
忍海角刺宮 | (飯豊青皇女) | 奈良県葛城市忍海 | 清寧天皇5年1月 - | |
近飛鳥八釣宮(近飛鳥宮) | 第23代顕宗天皇 | 奈良県高市郡明日香村八釣 または大阪府羽曳野市飛鳥 | 顕宗天皇元年1月 - | |
石上広高宮 | 第24代仁賢天皇 | 奈良県天理市石上町 または天理市嘉幡町 | 仁賢天皇元年1月 - | |
泊瀬列城宮 | 第25代武烈天皇 | 奈良県桜井市出雲 | 仁賢天皇11年12月 - | |
樟葉宮 | 第26代継体天皇 | 大阪府枚方市楠葉丘 | 継体天皇元年(507年?)2月 - | |
筒城宮 | 京都府京田辺市多々羅都谷 | 継体天皇5年(511年?)10月 - | ||
弟国宮 | 京都府長岡京市今里 | 継体天皇12年(518年?)3月 - | ||
磐余玉穂宮 | 奈良県桜井市池之内 | 継体天皇20年(526年?)9月 - | ||
勾金橋宮 | 第27代安閑天皇 | 奈良県橿原市曲川町 | 安閑天皇元年(534年?)1月 - | |
檜隈廬入野宮 | 第28代宣化天皇 | 奈良県高市郡明日香村檜前 | 宣化天皇元年(536年?)1月 - | |
磯城島金刺宮 | 第29代欽明天皇 | 奈良県桜井市金屋・外山 | 欽明元年(540年?)7月 - | |
百済大井宮 | 第30代敏達天皇 | 奈良県桜井市大福 または奈良県北葛城郡広陵町百済 | 敏達天皇元年(572年?)4月 - 敏達天皇4年(575年?) | |
訳語田幸玉宮 (他田宮・磐余訳語田宮) | 奈良県桜井市戒重 | 敏達天皇4年(575年?) - | ||
磐余池辺双槻宮 | 第31代用明天皇 | 奈良県桜井市阿部 | 敏達天皇14年(585年?)9月 - | |
倉梯宮(倉椅柴垣宮) | 第32代崇峻天皇 | 奈良県桜井市倉橋 | 用明天皇2年(587年?)8月 - | |
豊浦宮(桜井等由羅宮) | 第33代推古天皇 | 奈良県高市郡明日香村豊浦 | 崇峻天皇5年(592年)12月 - 推古天皇11年(603年)10月 | |
小墾田宮 | 奈良県高市郡明日香村雷 | 推古天皇11年(603年)10月 - 推古天皇36年(628年)3月 | ||
飛鳥岡本宮(高市岡本宮) | 第34代舒明天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | 舒明天皇2年(630年)10月 - 舒明天皇8年(636年)6月 | |
田中宮 | 奈良県橿原市田中町 | 舒明天皇8年(636年)6月 - | ||
百済宮 | 奈良県桜井市吉備 または奈良県北葛城郡広陵町百済 | 舒明天皇12年(640年)10月 - 舒明天皇13年(641年)10月 | ||
飛鳥板蓋宮 | 第35代皇極天皇 - 第37代斉明天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | 皇極天皇2年(643年)4月 - 斉明天皇元年(655年)冬 | |
難波長柄豊碕宮 | 第36代孝徳天皇 - 第40代天武天皇 | 大阪府大阪市中央区法円坂 | 白雉2年(652年)12月 - 朱鳥元年(686年)1月 | |
飛鳥川原宮 | 第37代斉明天皇 | 奈良県高市郡明日香村川原 | 斉明天皇元年(655年)冬 - 斉明天皇2年(656年) | |
後飛鳥岡本宮 | 第37代斉明天皇 - 第38代天智天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | 斉明天皇2年(656年) - 天智天皇6年(667年)3月 | |
朝倉橘広庭宮 | 第37代斉明天皇 | 福岡県朝倉市須川 または朝倉市杷木志波 | 斉明天皇7年(661年)5月 - 7月 | |
近江大津宮 | 第38代天智天皇 - 第39代弘文天皇 | 滋賀県大津市錦織 | 天智天皇6年(667年)3月 - 天武天皇元年(672年)7月 | |
飛鳥浄御原宮 | 第40代天武天皇 - 第41代持統天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | 天武天皇元年(672年)冬 - 持統天皇8年(694年)12月 | |
藤原宮 | 第41代持統天皇 - 第43代元明天皇 | 奈良県橿原市高殿町など | 持統天皇8年(694年)12月 - 和銅3年(710年)3月 | |
平城宮(寧楽宮) | 第43代元明天皇 - 第50代桓武天皇 | 奈良県奈良市佐紀町(位置) | 和銅3年(710年)3月 - 天平12年(740年)12月 天平17年(745年)5月 - 延暦3年(784年)11月 | |
難波宮 | 第45代聖武天皇 - 第50代桓武天皇 | 大阪府大阪市中央区法円坂 | 天平6年(734年)3月 - 延暦3年(784年)11月 | |
大養徳恭仁大宮(恭仁宮) | 第45代聖武天皇 | 京都府木津川市加茂町例幣など | 天平12年(740年)12月 - 天平16年(744年)2月 | |
紫香楽宮(信楽宮・甲賀宮) | 滋賀県甲賀市信楽町宮町 | 天平17年(745年)1月 - 5月 | ||
保良宮 | 第47代淳仁天皇 | 滋賀県大津市国分 | 天平宝字5年(761年)10月 - 天平宝字8年(764年)9月 | |
由義宮 | 第48代称徳天皇 | 大阪府八尾市八尾木・都塚 | 神護景雲3年(769年)10月 - 宝亀元年(770年)8月 | |
長岡宮 | 第50代桓武天皇 | 京都府向日市鶏冠井町など | 延暦3年(784年)11月 - 延暦13年(794年)10月 | |
平安宮 | 第50代桓武天皇 - 第122代明治天皇 | 京都府京都市上京区(位置) | 延暦13年(794年)10月 - 明治2年(1869年)3月 | |
福原宮 | 第81代安徳天皇 | 兵庫県神戸市兵庫区荒田町など | 治承4年(1180年)6月 - 11月 | |
(南朝) | 吉野行宮 | 第96代後醍醐天皇 - 第99代後亀山天皇 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山 | 延元元年(1336年)12月 - 正平3年(1348年)1月 正平23年(1368年)12月 - 正平24年(1369年)4月 文中2年(1373年)8月 - 天授5年(1379年)頃 元中2年(1385年)頃 - 元中9年(1392年)10月 |
賀名生行宮 | 第97代後村上天皇 | 奈良県五條市西吉野町賀名生 または五條市西吉野町黒渕 | 正平3年(1348年)9月 - 正平7年(1352年)2月 正平7年(1352年)5月 - 正平9年(1354年)10月 | |
天野行宮 | 第97代後村上天皇 - 第98代長慶天皇 | 大阪府河内長野市天野町 | 正平9年(1354年)10月 - 正平14年(1359年)12月 正平24年(1369年)4月 - 文中2年(1373年)8月 | |
観心寺行宮 | 第97代後村上天皇 | 大阪府河内長野市寺元 | 正平14年(1359年)12月 - 正平15年(1360年)9月 | |
住吉行宮 | 第97代後村上天皇 - 第98代長慶天皇 | 大阪府大阪市住吉区墨江 | 正平15年(1360年)9月 - 正平23年(1368年)12月 | |
栄山行宮 | 第98代長慶天皇 - 第99代後亀山天皇 | 奈良県五條市小島町 | 天授5年(1379年)頃 - 元中2年(1385年)頃 | |
皇居(宮城) | 第122代明治天皇 - 今上天皇 | 東京都千代田区千代田1-1 (位置) | 明治2年(1869年)3月 - 現在 |
脚注
^ 「御所」は天皇だけでなく、由緒ある武家・公家の邸宅への尊称としても広く用いられる。
^ 現在は上・中・下道灌濠の3つの濠に分かれている。
^ 宮内庁 (2013年7月4日). “皇居全体図”. 宮内庁. 2018年2月2日閲覧。
^ 環境省 (2017年11月20日). “皇居外苑(全域)の案内図”. 環境省. 2018年2月2日閲覧。
- ^ ab森谷美香; モノ・マガジン編集部 (2016年4月27日). “「皇居」の真実をどれだけ知っていますか”. 蘊蓄の箪笥 100章. 東洋経済オンライン. p. 2. 2018年2月2日閲覧。
^ 皇居東御苑宮内庁(2018年10月30日閲覧)。
^ 皇居乾通り一般公開について宮内庁(2018年10月30日閲覧)。
^ 『皇室 Our Imperial Family』43号、扶桑社、2009年、15頁。
^ 宮内庁 (2017年8月1日). “皇室用財産:(別表)皇室用財産一覧表”. 宮内庁. 2018年2月2日閲覧。
^ 皇居へ行ってみよう - 宮内庁キッズページへようこそ!!
^ 千代田区 (2017年9月4日). “千代田区ホームページ - 千代田区行政基礎資料集(平成29年版)”. 千代田区. 2018年2月2日閲覧。
^ 産経新聞2010年1月29日配信記事
^ 皇居ランニングポータルサイト
^ “宮内庁参観音声ガイドアプリの運用開始についてのお知らせ”. 宮内庁ホームページ. 2017年5月18日閲覧。
^ “皇居外苑の魅力(3)”. 一般財団法人国民公園協会 皇居外苑. 2017年5月12日閲覧。
^ 皇居の自然(2)タヌキ調査 陛下の発案で『読売新聞』夕刊2018年10月25日(7面)。
^ 国立科学博物館皇居生物相調査グループ 『皇居・吹上御苑の生き物』 世界文化社、2001年、255ページ。ISBN 978-4-41-801303-6。
^ “千鳥ヶ淵環境再生プランの策定について”. 環境省ホームページ. 2017年5月12日閲覧。
^ “皇居外苑濠に生息するヘイケボタル保護の取組(平成28年度)”. 環境省ホームページ. 2017年5月12日閲覧。
^ 1888年(明治21年)10月27日宮内省告示第6号「皇居御造営落成ニ付自今宮城ト称セラル件」. 皇居御造營落成ニ付自今宮城ト稱セラル件. - ウィキソース.
^ 松浦総三著『天皇裕仁と東京大空襲』、大月書店
^ 入江相政著『入江相政日記』第2巻、朝日新聞社
^ 御文庫(おぶんこ)附属庫(ふぞくこ)関係の資料
^ ここから、戦後は始まった 御文庫附属室と玉音原盤公表
^ 1948年(昭和23年)7月1日宮内府告示第13号「皇居を宮城と称する告示廃止」. 皇居を宮城と称する告示廃止. - ウィキソース.
^ 建て替えられなかった御所
^ 高尾亮一『宮殿をつくる』(求龍堂、1980年)。新宮殿造営を詳しく説明している。著者は宮内庁の担当者
^ 1993年(平成5年)12月9日『官報』第1297号皇室事項「皇太后陛下の御在所の名称変更」
^ 1989年(昭和64年)1月7日内閣告示第3号「天皇皇后両陛下の御在所が定められた件」. 天皇皇后両陛下の御在所が定められた件. - ウィキソース.
^ 1993年(平成5年)12月9日内閣告示第6号「天皇皇后両陛下の皇居へ御移転が定められた件」
参考文献
- 『宮殿』毎日新聞社、1969年
関連項目
- 行宮
- 大宮御所
- 御文庫附属庫
- 宮城事件
- 宮城遥拝
- 皇居外苑
- 御用邸
- 神道の緑性
- 東京都の観光地
- 日本の首都
- 勾玉
- 殯
- 離宮
- 北の丸公園
外部リンク
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