第3師団 (日本軍)
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第3師団 | |
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第三師団司令部 名古屋市 | |
創設 | 1888年(明治21年)5月14日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務/特性 | 歩兵 |
人員 | 約25,000名 |
所在地 | 名古屋-満州-上海-武漢-南寧 |
編成地 | 名古屋 |
通称号/略称 | 幸 |
補充担任 | 第3師管・名古屋師管・名古屋師管区 |
最終上級単位 | 支那派遣軍直轄 |
最終位置 | 江蘇省 鎮江 |
主な戦歴 | 日清-日露-シベリア出兵-山東出兵-日中戦争 |
第3師団(だいさんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
名古屋方面出身者から構成される師団で、その前身は1873年(明治6年)1月に設置された名古屋鎮台。1888年(明治21年)全国に6つあった鎮台が師団へ改編される中、第3師団と名前を変えた。200個を数える陸軍師団でも最も古い師団の一つである。
目次
1 日清・日露戦争・大陸戦線
2 日中戦争
3 歴代師団長
4 所属部隊
5 その他
6 脚注
7 関連項目
日清・日露戦争・大陸戦線
日清戦争では、朝鮮に上陸、平壌攻略、海城・牛荘の戦いに参加。日露戦争では、南山会戦、遼陽会戦(隷下の歩兵第34連隊第1大隊の活躍が著名。橘周太参照。)、沙河会戦、奉天会戦に参加した。
1912年11月30日に第3師団軍楽隊を名古屋市南外堀町に設置した[1]。1918年6月7日、兵器部が事務を開始した[2]。
シベリア出兵では、ザバイカル方面で革命軍と交戦、チェコ軍団の救援にあたり、山東出兵に参加。
1934年(昭和9年)に満州駐剳を命ぜられ4月に渡満、約2年間満州に駐屯し、1936年(昭和11年)に帰国した。
日中戦争
満州から帰国した翌年の1937年(昭和12年)7月に支那事変が勃発、第3師団は第11師団とともに上海の在留邦人救援という名目で編成された上海派遣軍の指揮下に入り、8月23日上海郊外の呉淞に上陸(第二次上海事変)、呉淞の中国軍の抵抗は激しく、第9師団・第13師団・第101師団・重藤支隊の増派と、更には第10軍の増援を仰ぐものの中国軍を撃破、続いて南京攻略に参加した。
1938年(昭和13年)2月14日には、新たに編成された中支那派遣軍戦闘序列に編入徐州会戦に参戦、同年8月22日には第2軍戦闘序列に編入武漢作戦を戦った。同年12月9日には第11軍戦闘序列に編入され、その後戦線が膠着化し占領地の警備を新設師団に委ね多くの師団が復員するなか第3師団は華中方面に駐屯し続けた。
太平洋戦争開戦後も第11軍隷下華中に在り、この方面で行われたさまざまな作戦に参戦した。1944年(昭和19年)には大陸打通作戦第二段の湘桂作戦に参戦して広西省に進攻、9月6日に零陵飛行場を、11月4日には桂林第1飛行場を占領し、11月4日に柳城・柳州北岸を攻略した。作戦終了後は第11軍司令部の置かれた柳州の南側の南寧方面の警備を担当、なお西側の宜山方面は第13師団、北東側の桂林方面は第58師団が担当した。
1945年(昭和20年)になると戦局の変化から広西省方面の日本軍は撤退を開始、4月18日に第13師団とともに支那派遣軍直轄師団となり南寧の警備を第58師団に譲って上海方面に向けて移動中鎮江で終戦を迎えた。
歴代師団長
黒川通軌 中将:1888年(明治21年)5月14日 - 1891年(明治24年)6月1日
桂太郎 中将:1891年(明治24年)6月1日 - 1896年(明治29年)6月2日
長谷川好道 中将:1896年(明治29年)6月6日 - 1898年(明治31年)1月14日
児玉源太郎 中将:1898年(明治31年)1月14日 - 1898年(明治31年)2月26日
大島義昌 中将:1898年(明治31年)2月26日 - 1905年(明治38年)10月18日
松永正敏 中将:1905年(明治38年)10月18日 - 1906年(明治39年)7月6日
大久保春野 中将:1906年(明治39年)7月6日 - 1908年(明治41年)12月21日
渡辺章 中将:1908年(明治41年)12月21日 - 1913年(大正2年)3月1日
上原勇作 中将:1913年(大正2年)3月1日 - 1913年(大正2年)6月9日
岡市之助 中将:1913年(大正2年)6月9日 - 1914年(大正3年)4月16日
仙波太郎 中将:1914年(大正3年)4月17日 - 1915年(大正4年)2月15日
大庭二郎 中将:1915年(大正4年)2月15日 - 1919年(大正8年)11月25日
菊池慎之助 中将:1919年(大正8年)11月25日 - 1921年(大正10年)5月5日
武藤信義 中将:1921年(大正10年)5月5日 - 1921年(大正11年)11月24日
浜面又助 中将:1922年(大正11年)11月24日 - 1923年(大正12年)3月10日
井上幾太郎 中将:1923年(大正12年)3月10日 - 1926年(大正15年)7月28日
安満欽一 中将:1926年(大正15年)7月28日 - 1929年(昭和4年)8月1日
小泉六一 中将:1929年(昭和4年)8月1日 - 1930年(昭和5年)8月1日
坂部十寸穂 中将:1930年(昭和5年)8月1日 - 1930年(昭和5年)11月7日
川島義之 中将:1930年(昭和5年)11月7日 - 1932年(昭和7年)1月9日
若山善太郎 中将:1932年(昭和7年)1月9日 - 1935年(昭和10年)3月15日
岩越恒一 中将:1935年(昭和10年)3月15日 - 1936年(昭和11年)3月23日
伊東政喜 中将:1936年(昭和11年)3月23日 - 1937年(昭和12年)8月2日
藤田進 中将:1937年(昭和12年)8月2日 - 1939年(昭和14年)10月14日
山脇正隆 中将:1939年(昭和14年)10月14日 - 1940年(昭和15年)9月28日
豊島房太郎 中将:1940年(昭和15年)9月28日 - 1941年(昭和16年)12月24日
高橋多賀二 中将:1941年(昭和16年)12月24日 - 1943年(昭和18年)3月25日
山本三男 中将:1943年(昭和18年)3月25日 - 1945年(昭和20年)3月1日
辰巳栄一 中将:1945年(昭和20年)3月1日 - 終戦
所属部隊
鎮台が改編され師団が創設された際の明治21年5月12日勅令第31号と、1937年(昭和12年)の支那事変勃発前の陸軍常備団隊配備表によると、第3師団は次のように配備されていた。また1941年(昭和16年)には歩兵第18連隊を第29師団に転用し三単位編制に改編された(括弧内の地名は衛戍地)。
- 師団創設時
1888年(明治21年)
- 師団司令部(名古屋)
- 歩兵第5旅団(名古屋)
歩兵第6連隊(名古屋)- 歩兵第18連隊(豊橋)
- 歩兵第6旅団(金沢)
歩兵第7連隊(金沢)
歩兵第19連隊(名古屋)
騎兵第3大隊(名古屋)
砲兵第3大隊(名古屋)
工兵第3大隊(名古屋)
輜重兵第3大隊(名古屋)
- 支那事変勃発前
1937年(昭和12年)
- 師団司令部(名古屋)
- 歩兵第5旅団(名古屋)
- 歩兵第6連隊(名古屋)
歩兵第68連隊(岐阜)
- 歩兵第29旅団(静岡)
歩兵第18連隊(豊橋)
歩兵第34連隊(静岡)
- 騎兵第4旅団(豊橋)
- 騎兵第3連隊(名古屋)
- 騎兵第25連隊(豊橋)
- 騎兵第26連隊(豊橋)
- 野戦重砲兵第1旅団(三島)
- 野戦重砲兵第2連隊(三島)
- 野戦重砲兵第3連隊(三島)
- 野砲兵第3連隊(名古屋)
- 高射砲第1連隊(浜松)
飛行第1連隊(岐阜)
飛行第2連隊(岐阜)
飛行第7連隊(豊橋)- 工兵第3連隊(豊橋)
- 輜重兵第3連隊(名古屋)
- 終戦時
1945年(昭和20年)
- 師団司令部(名古屋):辰巳栄一中将
歩兵第6連隊(名古屋):松山良政大佐
歩兵第34連隊(静岡):井上金土大佐
歩兵第68連隊(岐阜):川崎貞弐大佐- 騎兵第3連隊(名古屋):伊藤鉄雄少佐
- 野砲兵第3連隊(名古屋):河合征中佐
- 工兵第3連隊(豊橋):田中益太郎大佐
- 第3師団通信隊:伊藤新平大尉
- 第3師団兵器勤務隊:出口清一大尉
- 第3師団衛生隊:山本角太郎中佐
- 第3師団野戦病院:福留英二軍医少佐
- 第3師団病馬廠:原博獣医少佐
その他
明治9年(1876年)に、岐阜県内に砲兵演習場を開設した。これは後に陸軍の飛行場となり、第二次世界大戦後は進駐軍、駐留米軍の基地を経て、航空自衛隊の岐阜基地となっている。
脚注
^ 『官報』第103号、大正元年12月3日。
^ 『官報』第1759号、大正7年6月14日。
関連項目
- 大日本帝国陸軍師団一覧