ピンク映画
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ピンク映画(ピンクえいが)は、日本のポルノ映画のうち、大手以外の映画製作会社によって製作・配給された作品のこと。現在の製作・配給会社としては新東宝映画、オーピー映画(旧大蔵映画、Okura Pictureより)、新日本映像(エクセス・フィルム)がある。この他に製作のみを行っている国映があり、配給は新東宝映画に委託されていたが、近年の作品は他社が配給している。
ピンク映画の傍流として「ゲイ向けピンク映画」と呼ばれる同性愛者向けのポルノ映画があるが、こちらは同項を参照のこと。
目次
1 概要
2 起源と歴史
3 表現の特徴
4 その影響
5 上映館
5.1 現状
5.2 かつて存在した上映館
6 関連企業
6.1 現存する企業
6.2 過去にピンク映画を製作配給していた企業
6.3 かつて存在した企業
7 関連項目
8 註
9 外部リンク
概要
"ポルノ映画"という名前を日本で初めて使って映画を作ったのは東映である。東映任侠映画の仕掛け人で[1][2][3][4]当時の東映取締役・岡田茂(のち、同社社長)が、1960年代後半から『大奥㊙物語』(1967年)や『徳川女系図』(1968年)といったエロチシズム路線の映画を仕掛けていき[5][6][7]このうち、やはり岡田の企画で始めた"温泉芸者シリーズ"[8][9]第4作『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督、1971年7月3日公開)に於いて[10]プロデューサーの天尾完次が海外の雑誌のグラビアから"ポルノグラフィ"という言葉を見つけて[11][12]同作で主演デビューする当時16歳の池玲子を売り出すため、あれこれ思案し「日本初のポルノ女優」というキャッチコピーを付けた[11][13]。今日SEX映像の代名詞として日本で定着する"ポルノ"という言葉は、このとき東映が作った造語である[14][15]。岡田茂がエロ映画に参入した動機は、当時ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めて、ソロバンをはじいてみると松竹の年間配入よりも総体で上回ることが分かったからといわれている[16]。日活も東映のアイデアを拝借して"日活ロマンポルノ"という言葉を作り[15]、東映の『温泉みみず芸者』公開から4か月後の1971年11月20日に『団地妻 昼下りの情事』『色暦大奥秘話』を"日活ロマンポルノ"第一弾として封切り「ポルノ映画」という名称が一気に普及した[11]。網走番外地シリーズでNO.1ヒットを出していた石井輝男ら一般映画でも一流の監督達が演出し、一般映画でも主演スターである梅宮辰夫、丹波哲郎、吉田輝雄、伊吹吾郎らが登場する。そこからポルノの女王と言われる池玲子や杉本美樹らがスターとなっていき、フランスポルノの女王サンドラ・ジュリアンやクリスチーナ・リンドバーグらがゲスト出演した。豪華な時代劇のセットや衣装を使い、後の日活のポルノとは桁違いの大金を投じていた。当時の日本映画は2本立てが基本であるため、ヤクザ映画と併映されていた。東映ポルノは、1960年代後半から1970年代終わりにかけて作られた。
日活は60年代も後半に入ると石原裕次郎、小林旭の肥満や作品のマンネリのため客足が遠のき、後発のスターも観客動員力がなく経営破綻に陥った。成人映画なら一般映画より一桁少ない制作費でも客入りが見込めると1971年にポルノ専門の会社に転進。日活ロマンポルノを名乗った。ポルノを嫌った日活の既存のスターはテレビドラマや他社の映画の仕事を求めて辞めていった。一方、既に名を成していた映画監督らについては、この機に日活を離れた者が多いが、それ以外のスタッフについては、日活に残ってそのままロマンポルノの制作に従事した者も少なくない。
人材・作風などからピンク映画をスケールアップしたものが多い。ロマンポルノは予算が零細企業が作るピンク映画に比べれば潤沢であり、日活社有のスタジオが利用でき、俳優・監督なども事実上の日活専属が多かったことからピンク映画とは様々な面でカラーが異なっていた。ピンク映画業界のスターだった女優や監督など優秀な人材が日活にヘッドハンティングされることもあり、決して対等・良好な関係とは言えなかった。ただし、1970年代末から三本立てのうち1本をピンク映画を買い取って配給する体制となり、1980年代後半以降、諸般の事情からロマンポルノにピンク映画出身の監督が次々に進出するようになり、垣根は取り払われていった。なお、買い取り作品も現在は日活が著作権を所有し、ビデオなども日活マークをつけて発売されているため、実際に日活映画なのか買い取り作品なのか判別が難しくなっている作品もある。基本的に買い取り作品は日活撮影所も使われず、技術スタッフもすべて社外の人間だが、通常のピンク映画よりは若干多めの予算で外注されるケースが多かった。
日本では「ピンク」という色名が用いられているが、アメリカでの類似映画は、フィルムを青く着色していたことから「ブルーフィルム」と呼ばれる。日本で「ブルーフィルム」とは、温泉街などでの上映会に提供されていた8ミリまたは16ミリフィルムによる短編ピンク映画(その多数は無修正映画)を指すことが多い。
起源と歴史
1950-60年代、テレビの普及で職を奪われたニュース映画や教育映画関係者達が糊口を凌ぐためにお色気をテーマにした短編・中篇映画を制作し、これを同じく衰退しつつあった小規模なニュース映画専門館に供給されていた。
当時は文字通り「お色気」に徹した作品であり、現在の過激な性描写にはほど遠い代物だった。また、作品としての質も決して高くなかった。
しかし、1961年の新東宝倒産が一つの転機となる。新東宝の経営を追われた大蔵貢が大蔵映画を設立。1962年に協立映画製作、大蔵映画配給の『肉体の市場』が公開。「成人指定」「独立プロ製作」「劇映画」という3つの要素を満たした最初の作品として、この『肉体の市場』がピンク映画第一号とされている[17]。
この頃、ピンク映画という言葉は無く、「お色気映画」などとも呼ばれていたというが、夕刊紙「内外タイムス」文化芸能部の記者で、後に映画評論家の村井實(村井実)が1963年に関孝司監督、沼尻麻奈美主演の映画である「情欲の洞窟」を取材した際、「おピンク映画」とこれらの作品群を呼ぶ造語を作り、その後「お」が外れてピンク映画という言葉が誕生したと言われる。
また、新東宝関西支店の有志が新東宝興業(現在の新東宝映画)を設立し、大蔵映画と新東宝興業のピンク映画界の二大会社が成立する。また、一般の劇映画を経験した若松孝二などの監督やスタッフが、次々とピンク映画に参入してきた。特に若松は「若松プロ」を設立し、ピンク映画と言うよりは問題作と言われる作品を発表した。
その一方で業界の淘汰・再編も進み、1960年代中盤には新東宝・大蔵などは全国各地の成人館を一般映画同様、チェーン化していった。1970年には日活ロマンポルノの一定の成功もあって、東映セントラルフィルム、東活(事実上の松竹系)、ミリオンフィルム(後のジョイパックフィルム、現在のヒューマックスシネマ)といったメジャー系のピンク映画製作会社も出現した。
1980年代前半はピンク映画の最盛期であり、これら制作会社が多数発表する一方で、ゲイ・ポルノなども制作が開始される。しかし、1980年代後半はアダルトビデオに市場を奪われ衰退、さらにピンク映画に対する映画業界による自主規制などからメジャー系制作会社は次々に撤退。1988年のロマンポルノの撤退も含めて、1990年代には市場が大幅に縮小した。
21世紀に入り、日本の映画産業もデジタル化が進む中、フィルムによる撮影とアフレコによる録音に拘ったピンク映画も、唯一の頼み綱の富士フイルムが映画用のフィルムの生産中止を受けたことにより、現存するピンク映画製作会社は全てデジタルに移行している。
しかし縮小市場の中でも存続の可能性を求め、「異業種との共同出資」「一般用R15+版と成人用R18+版の2バージョンを作る」といった試みが為されている。
表現の特徴
ピンク映画は文字通り、性描写を第一義とする映画である。しかし、長らく性描写に対する規制が強かったこと、監督やスタッフに映画業界関係者が少なからず存在すること、大学や映画専門学校出身の作家(監督、脚本家)やスタッフ、俳優がそもそも映画業界志望であって一般映画への憧憬が強かったことなどから性描写に力点を置きつつも、一般映画としての質を望むことも多かった。
このため、欧米のポルノ映画ではあまり省みられない映画としての評価と、性描写や女優の美貌などポルノとしてのクオリティが共存する日本独特の物となった。
ピンク映画は低予算、早撮りを特徴としており、一般的な作品の場合300万円程度の予算で撮影期間は3日ほど。従って、多くの場合には二晩徹夜で撮影をし続ける。かつては専用スタジオを用いた撮影も一部で行われていたが、一般的にはオールロケが主流である。限られた予算の補助のために、ロケとして用いられたホテルや飲食店のクレジットを映画の内部に表示するなど、苦心の策も用いられたという。また、この「300万円・3日」という数字は、1960年代から物価が大幅に高騰した21世紀にまで変わっておらず、特にフィルム使用時代末期の現場は窮乏をきわめた。逆に、初期の現場には(制作会社のピンハネにもよるが)余裕があるケースも存在し、60年代末に業界入りした浜野佐知は総勢30人近いロケなども体験したことがあるという。
ピンク映画の作風は作家も影響するが、それ以上に影響が強いのが会社側の要求である。一般的に作家側は芸術的・映画的な作風を望むのに対し、会社側は性描写などポルノとしてのクオリティを望むことが多い。このぶつかり合いの中で作品が生まれると言ってよい。
低予算・短期間で、作家性の強い新人を多く起用することからピンク映画は一種のインディペンデントな作品に思われることもあるが、ピンク映画そのものはむしろかつてのプログラムピクチャーの方に性格は近く、このような制限の中で作家側が独自のカラーを出すことが重要となる。
この「縛り」は会社によってまちまちであり、厳しく条件を要求しアダルトビデオに追随するような作品を求める会社もあれば、作家側に裁量を多く与えている鷹揚な会社もある。作家主義が出やすいのは当然後者であり、ミニシアターや映画祭において上映されて「映画」として評価されるのはこのような作品である。
その一方で会社・ピンク映画に特化した観客に好評なのは前者において制作されたポルノとしての性格が強い作品という場合もあり、時として(ピンク映画に興味を持つ)一般映画ファンとピンク映画ファンにおいて評価の違いを生み出すことがしばしばある。
しかし、このような低予算・早撮りという制作形態はかつてのアメリカB級映画と共通しており、事実大手制作会社が一部の大作を除き自社制作から撤退し、社員監督を雇わなくなってからはアメリカのB級映画がそうであったように、ピンク映画が映画監督の養成機関であると同時に登竜門として重要な役割を果たしていた。
その影響
ピンク映画の出身には若松孝二のような「大家」から、浜野佐知のような「作家主義」の監督までおり、日本映画においてピンク映画の果たした役割の重要性が伺える。
ポルノとしてのライバルは相変わらずアダルトビデオやアダルトコンテンツなどであり、特に若い観客層を奪い続けている。ただ、その一方で映画作品として質の高さが再評価されることにより、作家性の高いピンク映画がロマンポルノと共にDVDなどソフトとして復活したりしており、意外に底堅い一面もある。また、アダルトビデオから人気女優が進出してくるケースも(人材不足も手伝って)90年代以降では盛んになり、そうした作品で優れたものはアダルトビデオファンをピンク映画に取り込むことも多くなっている。
現在では、Vシネマに代表されるビデオ作品が新人養成と監督への登竜門の役割を担いつつある。
上映館
現状
客層としては自宅の個室でアダルトビデオなどのポルノ作品を鑑賞する環境を持つことの出来ない家族持ちの中高年者、出稼ぎ労働者、老人などが主で、過去において常連だった学生などはほとんど見られない。特に冬季に暖気を求めてやってくる客層は開館から閉館時まで居座ることがある。企業のスケジュール管理が緩やかだった時代には、営業マンやセールスマンが時間調整のために来る事も多かったという。
しかし、近年、上映館の相次ぐ廃館やシネマコンプレックスへの転身により上映と制作の機会が激減している。ピンク映画館は個人経営の場合が多く、観客減と経営者の高齢化(後継者問題)、施設の老朽化(耐震基準を満たせず、建て替えも耐震工事も経済的に困難である等)などで閉館する場合が多い。比較的規模の大きいピンク映画館運営会社でも、すでにピンク映画に集客力は無いと判断し、閉館や一般映画館への転換を図っているケースがほとんどである。その一方で、製作側のデジタル化に連動して、フィルム上映からDVD上映に切り替えて上映を続けている成人映画館も存在する。
かつて存在した上映館
- 日本館
- 蒲田パレス座
- 亀有名画座
タナベ国際劇場 - 2012年3月31日閉館
新橋ロマン劇場 - 2014年8月31日閉館
関連企業
大きくわけて、製作会社と配給会社、その両方を行う会社に分類される。
現存する企業
- 配給会社
新東宝映画 - 旧新東宝興業。直接製作している他、国映作品の配給も行っていた。
オーピー映画 - 大蔵映画の関連会社であり、現在の大蔵映画は直営館での興行のみとなっている。大蔵映画は70年代前半まで撮影所も持っていた。- 新日本映像
- 製作プロダクション
映画会社・興行会社系と映画監督の個人企業に近いものに分けられる。代表的なものにとどめてある。
国映 - かつては独自に配給網を持ち、直営館も存在していた。後期は新東宝系のプロダクションとして活動した。
ENKプロモーション(東梅田日活株式会社) - ゲイポルノの製作配給が中心だが、日活ロマンポルノの買い取り作品、新日本映像提供のピンク映画も製作。興行会社でもあり、大阪府の東梅田日活劇場(のちに梅田日活に改称)、京都府のシネフレンズ西陣など直営館を経営していたが、現在は全て閉館している。- 旦々舎
- 加藤映像工房
- サカエ企画
- 多呂プロ
- ネクストワン
- フィルム・ハウス
過去にピンク映画を製作配給していた企業
- 配給会社
ジョイパックフィルム - ミリオンフィルム- 東活
- 東映セントラルフィルム
- 過去にピンク映画を製作していたプロダクション
- 獅子プロダクション
- 若松プロダクション
- 雄プロダクション
- アウトキャスト・プロデュース
明光セレクト - 津谷明治
ワールド映画 - 大野豊
プロダクション鷹 - 木俣堯喬
かつて存在した企業
国新映画 / 日本シネマ / 日本シネマフィルム映画 - 鷲尾飛天丸
オリジナル映画 - 千葉実
ヒロキ映画 - 長崎エイ- 新映フィルム
朝日企画 - 加藤英一
東京企画 - 三田浩
東京アイデアプロダクション - 富田騰夫
- ダイヤプロダクション
- クレンズヒル映画
六邦映画 - 鈴木邦夫- 日本映画 - 高島尚一
- 新三和
アートグループ - 深田金之助
エイコー - 松崎耿三
ミリオンフイルム - 加来章 / 林瑞峰
ヤマベ・プロダクション - 山辺信雄
関東映配 / 大東映画 - 星光一郎
- 中央映画
関東ムービー配給 / 関東ムービー - 桑原正衛
東京芸術映画協会 - 植栗昭雄
青年芸術映画協会 - 舟橋澄一
東京興映 - 小森白
日映企画 - 上松宗夫
- 双映
協映 - 田中忠義
ナオプロダクション - 菜穂俊一
LL企画プロダクション - 糸文弘
内外フイルム - 三木光人
センチュリー映画 - 井上猛夫
- 大興映画
奥脇プロダクション - 奥脇敏夫
葵映画 - 西原儀一
佐野芸術プロダクション - 佐野博重
- 第三プロダクション
武智プロダクション - 武智鉄二
- 光映画
山崎映画 - 山崎福次郎
- 紫水プロダクション
轍プロダクション - 佐藤重雄
NIC[要曖昧さ回避]
シネユニモンド - 本木荘二郎
- Gプロダクション
- 旭映
- 大東放映
東京放映 - 吉野達弥
東京三映社 - 芋野敏郎
- サン企画
新日本映画 / 映画日本新社
関プロダクション - 関孝二
東京プロダクション - 前田鶴男
朝倉プロダクション - 朝倉大介
浅野プロダクション - 浅野辰男
宮西プロダクション - 宮西四郎
シバタプロダクション - 柴田輝二
山陽企業 / ハリマ企画 - 吉岡昌和
新幸プロダクション - 角田陽次郎 / 多田幸弘
サワ・プロダクション - 沢賢介
日米映画 - 佐生正三郎
- 三協プロダクション
日本セントラル映画 - 矢島常二
ゼネラル映画 - 佐藤銀次郎
扇映画 - 斎藤邦唯
国際ビデオ - 建部博
第7グループ映画 - 湯浅浪男
第8芸術映画プロダクション - 南部泰三
宝映プロダクション - 桑田宗太郎
六本木映画 - 藤田潤一
純潔映画研究会 - 池田一夫
- 協立映画
中映プロダクション - 祖父江羊己
東活プロダクション - 八木脩
ワタナベプロダクション - 渡邊輝男(代々木忠)
関連項目
- 若松孝二
- 足立正生
- 浜野佐知
白川和子、宮下順子、谷ナオミ(ピンクから日活へ)- 愛のコリーダ
- ピンク四天王
- ピンク七福神
註
^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕、東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI 、鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん - 日刊スポーツ、NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】、東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4-7頁、『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)
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^ 東映ピンキー&バイオレンス映画再ブーム! 鈴木則文監督独占インタビュー、ポルノ女優第一号を創った男たち/春日太一 - 筑摩書房 PR誌、セクシー女優のあの興奮をもう一度! | アサ芸プラス、日刊ゲンダイ|プレイバック芸能スキャンダル史 池玲子 2度の逮捕で一時活動休止した元祖ポルノ女優
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- ^ ab沢辺有司 『悪趣味邦画劇場〈映画秘宝2〉』 洋泉社、1995年、258-259頁。ISBN 978-4896911701。
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^ 『ピンク映画誕生50周年!お宝発見相次ぐ 桃色伝説』、『映画秘宝』2012年8月号
外部リンク
- PG-Web-Site--ピンク映画の総合情報サイト--