オイゲン・オット




























オイゲン・オット
Eugen Ott

Eugen Ott (ambassador).jpg
陸軍中佐時のオット(1933年頃)

生誕
1889年4月8日
ドイツの旗 ドイツ帝国
Flagge Königreich Württemberg.svgヴュルテンベルク王国
ロッテンブルク
死没
(1977-01-23) 1977年1月23日(87歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ バイエルン州
トゥツィンク
所属組織
War Ensign of Germany (1903-1918).svg ドイツ帝国軍
(1907年-1918年)
War Ensign of Germany (1921-1933).svg ヴァイマル共和国軍陸軍
(1919年-1933年)
Balkenkreuz.svg ドイツ国防軍陸軍
(1933年-1945年)
軍歴
1907年 - 1945年
最終階級
少将
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オイゲン・オット(Eugen Ott、1889年4月8日‐1977年1月23日)はドイツの軍人、外交官。日本では1941年10月のゾルゲ事件に巻き込まれた駐日ドイツ特命全権大使(駐日ドイツ大使)として知られる。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 軍歴


    • 1.2 日本駐在


    • 1.3 ゾルゲ事件


    • 1.4 解任


    • 1.5 余生




  • 2 関連項目





経歴



軍歴


ドイツ帝国の南西部、ヴュルテンベルク王国ロッテンブルクに郡議会議員の息子として生まれる。1907年に士官候補生として砲兵連隊に配属。第一次世界大戦では第26歩兵師団(師団長はウラッハ公ヴィルヘルム2世)に従軍。1917年に大尉に昇進し、前線勤務から参謀本部に転属。終戦後の1921年に結婚し一男一女をもうける。


1923年にヴァイマル共和国軍の有力者クルト・フォン・シュライヒャーの部下となり、側近として信頼されるようになる。その出世はシュライヒャーのそれと重なっていた。


1931年に中佐に昇進し、国防省国防軍局長に就任。その職務から、右翼義勇兵組織である鉄兜団やナチス突撃隊との接触があった。オットもシュライヒャーの唱える、民族主義団体やナチス左派、労働組合、共産主義者による大同団結構想の徒となる。シュライヒャーの代理として国会の審議を傍聴することが多かった。また国防次官だったシュライヒャーの上官ヴィルヘルム・グレーナー国防相の追い落としにも間接的に関与している。


さらに1932年11月にパーペン内閣が辞任表明に追い込まれた後、パーペン首相は軍を使ったクーデターによる政権維持を考え、ヒンデンブルク大統領もそれに賛成したが、オットは局長としてパーペン内閣の閣議で「軍がクーデターを起こした場合は、ストライキや外国軍の介入で収拾がつかなくなり、内戦に陥る」という見通しを述べた。これに意気消沈したパーペンは結局退陣するが、後任となったのはシュライヒャー国防相だった。のちにこれは首相の座を狙ったシュライヒャーがオットを使って策謀したのだと言われた。


シュライヒャーが首相に就任する直前の1932年12月1日、シュライヒャーの代理としてヴァイマルの会議に出席していたナチス党首アドルフ・ヒトラーに面談し、副首相ポストと複数の閣僚ポストを提示してナチスとの連立を申し出ている。しかしヒトラーは峻拒してシュライヒャーに対し首相就任を警告し、交渉は不調に終わった。シュライヒャー首相の退陣とヒトラーの首相就任が確実となった翌1933年1月28日、オットやフェルディナント・フォン・ブレドウ(国防省大臣官房長)、エルヴィン・プランク(de:Erwin Planck 首相府長官)らはシュライヒャーに対し、ヒンデンブルク大統領にヒトラーを首相に任命しないよう最後通告を行い、拒絶された場合は軍事クーデターを起こすよう進言した。しかしシュライヒャーはそれを退けた。



日本駐在


シュライヒャーが退陣してヒトラーが首相になっても、オットは国防省国防軍局長に留任した。しかしシュライヒャーの軍部内での勢力がなくなったことが明らかとなると、オットは1933年6月に日本軍の観察武官に左遷された。


翌1934年2月1日を以てオットは東京にあるドイツ大使館駐在武官に任命された。これと同時に、オットはかつての上司シュライヒャーの身にナチスによる粛清の危険が迫っていると察し、シュライヒャーに対し日本を訪問して長期滞在するよう勧めた。「亡命などしない」と断ったシュライヒャーは、オットの見込み通りその年6月30日に「長いナイフの夜」で粛清された。オットもナチスの粛清リストに載っていたというが、外国に居たため難を逃れた。


当時ベルリン駐在武官の大島浩少将はナチスに心酔して日独同盟を主張しており、オットはそのドイツ側窓口として交渉を担当した。その結果1936年に日独防共協定が調印されるが、二重外交だったためオットは日本の正式な指導者と交渉したことはついぞなかった。


駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクゼン(de:Herbert von Dirksen)が1938年3月に病気を理由に離職すると、日本との接近で外交成果の獲得を図るヨアヒム・フォン・リッベントロップ新外相の指名で、オットが後任の駐日大使となった。これはウィルヘルム・カイテル元帥の推挙とされているものの、実際にはオットの能力を買ってというよりも、オットの交渉窓口である親独派の大島の格を高める目的のみの人事であったといわれる。すなわち、駐在武官であるオットを大使に昇格させることで、当時日本陸軍で構想されながら実現には至らなかった、ナチスに批判的な東郷茂徳駐独大使の更迭と大島武官の大使昇格への動きを側面支援する目的があった。実際にこの8ヶ月後、大島は駐独大使に昇格した。



ゾルゲ事件


この頃、ドイツの有力紙の「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員で、日本の政界に知人が多く日本の政治などに関して豊富な知識を持っていたナチス党員のリヒャルト・ゾルゲを私的(その後公的)顧問とし、さまざまな対日外交政策へのアドバイスを受ける一方、日本政府や日本軍の動きをゾルゲから入手したと言われている。


なお、1939年6月にオットはエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー外務次官に対し「ドイツとソビエト連邦との戦争が勃発すれば、日本はドイツ側で参戦する用意が既にある」と打電した。翌年日独伊三国軍事同盟が締結されたが、この締結交渉にオットは加わっていない。なお、ゾルゲは実はソ連のスパイで、大使の顧問として大使親展の機密情報に近づき易い立場を利用して、「バルバロッサ作戦」の正確な開始日時を事前にモスクワに報告した。


第二次世界大戦中は、リッベントロップの見込みとは違う方向に進んでいく戦争の情勢を正確に伝えることに腐心していた。しかし1941年10月に、オット直々の推薦で大使館情報官となっていたゾルゲが実はソ連のスパイで、数々の機密情報を入手しソ連に送っていたことが発覚し、警視庁特高部特高第1課と同外事課によって逮捕された。当初オットは「不当逮捕」として外務省に抗議し、ゾルゲに面会を求めるもゾルゲは犯行を自白した。



解任


これを受けてオットはフォン・リッベントロップ外務大臣に辞表を提出したが拒否された。さらにその後1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と開戦し、ドイツもアメリカとの間に開戦したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続け、ようやく1942年11月になりフォン・リッベントロップ外務大臣より駐日大使を解任された。


後任は駐南京国民政府大使のハインリヒ・ゲオルク・スターマーとなった。なおその後、駐日公使であったエーリッヒ・コルト(de:Erich Kordt)が駐南京国民政府臨時公使となった。解任され離日が決まったものの、日本政府から信頼の厚かったオットは離日前に昭和天皇から会食に招かれ、その後中華民国臨時政府の北京へと家族とともに向かった。



余生


第二次世界大戦の終結まで、オットは私人として北京に滞在した。ドイツ本国に対して軍への復帰を希望したが、帰国ルートが日本とドイツを結ぶ潜水艦に限られていたことと、万が一危険を冒して帰国する途上で連合国軍に捕まった場合、様々な秘密が漏れる可能性が高い事を理由に拒絶されている。


戦後は連合国軍による戦犯としての追及や、非ナチ化裁判による追及は行われず、1951年以降、西ドイツのバイエルン州トゥツィンクに隠棲して長い余生を送り、シュライヒャーを弁護するため一般向けの講演会をしたり、記事を専門誌に寄稿したりしていた。1977年に同地で死去。



関連項目


  • ヨーゼフ・マイジンガー






先代:

ヘルベルト・フォン・ディルクゼン


駐日ドイツ大使


1938年 - 1942年


次代:

ハインリヒ・ゲオルク・スターマー




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