ヴュルテンベルク王国





ヴュルテンベルク王国

Königreich Württemberg












ヴュルテンベルク王国の国旗

ヴュルテンベルク王国の紋章
(国旗)
(紋章)



国歌 : Preisend mit viel schönen Reden

ドイツ帝国内でのヴュルテンベルク王国の位置












































首都

シュトゥットガルト

君主号
王(König
君主家

ヴュルテンベルク家

面積
19,508 km2

人口
2,300,000人 (1905年)

人口密度
132
成立

ヴュルテンベルク選帝侯の王位獲得(1806年)
消滅

ドイツ革命による君主制廃止(1918年、以後ヴュルテンベルク州へ)
バーデン州と合併してバーデン=ヴュルテンベルク州へ(1952年)

連邦参議院での投票権数
4

ナンバープレート

III A,C,D,E,H,K,M,P,S,T,X,Y,Z



ヴュルテンベルク王国(ヴュルテンベルクおうこく、ドイツ語: Königreich Württemberg)は、19世紀から20世紀初めにかけてドイツ南部を統治した王国。ヴァイマル共和政下でのシュトゥットガルト近辺はヴュルテンベルク自由国民国であった。第二次世界大戦後、旧王国領は旧バーデン大公国領のバーデン州と合併してバーデン=ヴュルテンベルク州となった。




目次






  • 1 公国時代


  • 2 2つの川


  • 3 歴代君主一覧


  • 4 脚注





公国時代


神聖ローマ帝国南部の有力領邦であったヴュルテンベルク公国は、神聖ローマ帝国初期のシュヴァーベン大公領を母体とする。


宮廷ユダヤ人のカウラ一族が残した本によると、ヴュルテンベルクの商圏は中世末期すでに帝国の外へ及んだ。ウルムはストラスブールとコルレス関係にあった。ラーフェンスブルクの大商会の手形はブラバントに十分通用した。またハイトによると、この大商会はスイスのベルンとコルレス関係にありジュネーヴ資本を相手に訴訟を戦うこともあったし、マクシミリアン1世が1488年ネーデルラントに創設した軍(Fähnlein Lindauer)へは大商会のアントウェルペン支店が融資をすることもあった。価格革命と三十年戦争が起こり、ヴュルテンベルクは衰退した。[1]


1534-5年ごろ、ウルリヒ侯が牧羊を奨励し、多くの布告を出した。それらは全頭登録制と牧童ギルド設立を実現し、牧場管理内容とそこでの勤務条件だけでなく羊毛の販売条件まで詳細に定めた。公国の手法は各地へ伝播していった。[2]


このときウルリヒが修道院を破壊したことも、産業が衰退した一因となった。


ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーの生きた時代に、再び公国は世界市場で競争力を得た。1704年、エーバーハルト・ルートヴィヒがシュトゥットガルトに王立銀行を設けた。ヴュルテンベルク家の分家にウラッハ家という名前がある。ロイトリンゲンのウラッハには、ウラッハ・リンネルという繊維産業があった。カルフにも類するものがあった。これらは全君主領で活躍し、公国の金融を担うようになった。ズュースが処刑されたころに、王立銀行と繊維産業は勢いを失った。[1]


スペイン継承戦争中の1707年、シュトゥットガルトはルイ14世のフランス軍に占領された。1721年、ジョン・ローの経済政策が破綻して恐慌が起きた。



2つの川


王国はネッカー川とマイン川に挟まれている。


ナポレオン戦争中の1802年、まだ公爵であったフリードリヒ1世がヘヒンゲンのカウラ夫人をして大貿易商会を組織させた[1]。1803年にヴュルテンベルク公は選帝侯となった。1806年に帝国が崩壊すると公国はヴュルテンベルク王国へと昇格した。この際、教会領など多数の小領邦を併合して、シュヴァーベン地方の大部分と南フランケン地方の一部を支配下に収めた[3]


こうしてホーエンローエ侯国を吸収した王国は、1815年にドイツ連邦へ加盟した。1817年に王立銀行の一部が再興された。このときすでにカウラ一族はロスチャイルドと姻戚関係をもっていた。カウラ夫人の息子Veit Kaulla (1764-1811) はゴールドシュミット・ファミリーと結婚している。カウラ一族の大貿易商会がつくったシュトゥットガルト支店は新生王立銀行の共同設立者であり、カウラ一族は1915年まで新生王立銀行の経営権を握っていた。[1][4]


1848年革命が起きた数年間に、王国の経済がロスチャイルドをはじめとするフランクフルト資本に頼りきっている状況を打破すべく、発券銀行の設立が延々と議論された。ハイルブロンに駐在するベルギー総領事のザイボルトから推進的な干渉を受けたり、堅物の下院議員モリッツがしつこく反対したりした。そして結局、ヴュルテンベルクに発券銀行はできなかった。[1]


王国の経済は南北戦争で非常な活況を呈したが、普墺戦争で敗退した。このころデルテンバッハという一族は、王族とロスチャイルド家の間に家系図を占めて閨閥を成していた。デルテンバッハ一族は閨閥の力で、本社を失ったカルフの繊維産業を再構築した(IHC)。デルテンバッハ商会はロスチャイルドの金融仲介で発行された有価証券を優先して引受けることができた。1871年に王国はドイツ帝国に編入され、1918年のドイツ革命まで存続した。1922年、新生王立銀行はヴュルテンベルク手形交換所組合銀行となり、1924年にドイツ銀行へ吸収された。[1][4]



歴代君主一覧




  1. フリードリヒ1世(1806年 - 1816年)


  2. ヴィルヘルム1世(1816年 - 1864年)- バイエルン王国の王女と結婚


  3. カール1世(1864年 - 1891年)


  4. ヴィルヘルム2世(1891年 - 1918年)



脚注




  1. ^ abcdefArthur Löwenstein, "Geshichte des württembergischen Kreditbankwesens und seiner Beziehungen zu Handel und Industrie, 1850-1870", Tübingen, 1912. (博士論文)


  2. ^ 大内輝雄 『羊蹄記』 平凡社 1991年 72頁


  3. ^ ただし、プロイセン王家=ホーエンツォレルン家の発祥の地である旧ホーエンツォレルン伯領は、プロイセン王国の飛び地ホーエンツォレルン州とされた。

  4. ^ abRudolf Lenz, "Kaulla, Chaile, geborene Raphael", Neue Deutsche Biographie, 11 (1977), SS. 360-362.










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