戦国時代 (中国)
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古代中国の戦国時代(せんごくじだい)(中国語:戰國時期|拼音:Zhànguó shíqī)は、東周時代または春秋戦国時代の後半期に区分される時代であり「晋」が分裂した紀元前5世紀から「秦」が中国を統一する紀元前221年までの期間を指す。七つの大国とその他の中小国がおよそ200年に渡って興亡を繰り広げた。この戦国時代の呼称は前漢期に編纂された歴史書「戦国策」から取られている。
春秋時代と戦国時代の境目を何時とするかには七つの諸説があり、最も広く採用されてるのは、晋が韓・魏・趙の三国に分裂した紀元前453年とする説と、その三国が周王朝から正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説である。なお、由来元である「戦国策」は、晋の分裂前に発生した紀元前455年の晋陽の戦いから書き始められている。
春秋時代の頃は大小合わせて二百以上の諸侯国が存在し、周王朝の権威と秩序が重んじられる風潮が残っていた事から、相手国を征服しても滅ぼさずに属国とする慣わしがあった。しかし、時代が下って周王朝の権威が失われると、小国は次々と滅ぼされて大国に吸収されるようになり、戦国時代に突入した後は七つの大国と十数の小国を残すのみとなった。弱肉強食の乱世を勝ち残った秦・斉・楚・魏・趙・韓・燕の七ヶ国は戦国七雄と称された。
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目次
1 開幕情勢
2 歴史
2.1 魏の新興(BC453~396)
2.2 魏の失速(BC396~369)
2.3 秦と斉の二強化(BC369~330)
2.4 連衡と合従(BC330~316)
2.5 趙の勃興と燕魏韓楚の衰退(BC316~296)
2.6 斉の隆盛と没落(BC296~278)
2.7 殺戮合戦(BC278~258)
2.8 秦の覇権(BC258~230)
2.9 六国滅亡(BC230~221)
3 閉幕短評
4 諸子百家
4.1 百家の分類
4.2 百家の推移
5 主な人物
6 文化
7 政冶
8 経済
9 軍事
10 脚注
11 関連項目
開幕情勢
現在の山西省から河南省(中原)にかけて版図を広げていた晋が、韓・魏・趙の三国に分裂して戦国時代が始まった紀元前5世紀の中国大陸では、現在の山東省一帯を治める「斉」と、長江流域一帯を勢力圏とする「楚」と、陝西省一帯を支配する「秦」が大国として君臨しており、それに次ぐ大国として河南省北部の「魏」と、山西省を占める「趙」があり、更にそれに次いで河南省南部の「韓」と、河北省に広がる「燕」があった。この七国は戦国七雄と称され互いにしのぎを削り合い中国のパワーバランスを左右していた。
それ以外では長江下流域の「越」が中規模の国として存在し、また「宋」「鄭」「衛」「魯」「中山」その他の小国がそれぞれ大国の周辺で独立を保っていた。すでに権勢を失い更に二つの派閥領(周王と西周公)に分裂していた周王朝と、韓魏趙の分離で大きく没落した「晋」も小国の地位に甘んじていた。
中国周辺の異民族では、北に「匈奴」「林胡」「楼煩」「東胡」の北狄が存在し、西では西戎である「義渠」が活動しており、南には長江下流域南方の「百越」といった南蛮がいた。この時代の異民族の力はそれほど強くなかったので、大規模な侵入が起きる事は少なく中国の諸侯は個別に対抗出来ていた。
- 大国: 斉(山東省)、楚(長江流域)、秦(陝西省)
- 中国: 魏(中原北部)、韓(中原南部)、趙(山西省)、燕(河北省)、越(長江下流域)
- 小国: 宋(中原)、鄭(中原)、衛(中原)、魯(山東省西部)、中山(山西省北部)、その他10国程度
歴史
魏の新興(BC453~396)
BC445年に即位した魏の文侯は、法家の李克と西門豹、兵家の呉起などの革新的な人材を用いて魏の国力を高めた。分裂直後の魏・趙・韓の間では争いが頻発したが、次第に落ち着いた関係へと変化した。BC406年に魏は「中山」を滅ぼして黄河北岸の版図を拡大した。この頃には魏・趙・韓の間で互いに同盟が結ばれていた。BC405年に斉で内乱が発生し、敗れた側の貴族が趙に亡命するとそれを追って斉軍が趙領内に侵入した。魏軍は韓軍と共に趙軍の救援に向かって斉軍と交戦した。これは大規模な戦役となって2年間続き、魏・趙・韓連合軍は斉軍を本国に押し戻して斉領内に入った平陰の地で決戦し斉軍を破った(三晋の戦い)。
この戦勝で名声を高めた魏、趙、韓の三国は、BC403年に周王朝から正式に諸侯国として認められた。魏はその後の10年間を韓と連携しながら楚軍との攻防に費やして最終的な勝利を収め、またBC389年に魏の要地・河西に秦の大軍が押し寄せて来ると呉起の兵法でこれも撃退した(陰晋の戦い)。こうして魏は北の大国として名乗りを上げたが、BC396年に魏の文侯が没して武侯が即位すると呉起などの人材が去ってそれまでの勢いは失われた。
魏の失速(BC396~369)
BC386年になると長らく斉の実権を握っていた重臣の田氏一族が国主の座を簒奪した後に周王朝から正式な諸侯として認められて、ここに「田氏斉」が誕生した。また魏を去った後の呉起は楚の悼王に迎えられて数々の政冶改革を行い楚を発展させたが、BC381年に悼王が死去すると貴族達の反乱が起きて呉起は殺され、楚は元の停滞に逆戻りした。
BC385年頃には魏・趙・韓の関係が再び疎遠となり、その中で魏は斉と同盟し、趙は楚と結んだ。BC383年に魏に従いつつあった「衛」を趙が攻めた事で趙軍と魏軍が交戦状態となり、その魏を助けて斉軍も趙へ出兵し、その趙を助けて楚軍が魏の背後を襲った。斉軍の働きで「衛」を囲む趙軍は退いたが、魏軍は趙と楚の連合軍に敗れて複数の城を奪取された(棘蒲の戦い)。これが魏の最初のつまづきとなってBC380年に「中山」が再興して魏から分離した。その後も抗争は続きBC376年に魏が「晋」の都城を攻め落として往年の大国に止めを刺し、BC375年に韓が「鄭」を滅ぼして首都を新鄭に移した。
秦と斉の二強化(BC369~330)
BC369年に魏の恵王が内乱を制して新しく即位すると、その混乱に乗じた趙と韓が共に兵を挙げて魏軍は多大な出血を強いられた(濁澤の戦い)。戦勝後の趙と韓は周王朝に介入して東周君を独立させ、それに脅かされるようになった周王は西周公を頼ったので周王朝は周王を庇護する西周公と、東周君が並立する状態となった。その後の趙と韓はそれぞれ東方の斉と同盟を結んで味方に引き込み、また秦も西方から魏領を攻めていたので魏は四ヶ国から包囲される形となり苦境に陥った。斉はBC356年に即位した威王の優れた治世で国力を伸ばし魏を警戒させていた。BC353年に魏が趙を攻めると、趙に加勢した斉軍の軍師・孫臏の作戦で魏軍は敗退し(桂陵の戦い)、続くBC341年に魏と韓が交戦した際にも、韓の救援に赴いた斉軍の孫臏の計略によって魏軍は大敗を喫した(馬陵の戦い)。この戦勝で斉は強国の立場へと躍り出る事になった。
BC361年に即位した秦の孝公は法家の商鞅を抜擢し、BC356年から法治を軸にした政治改革を断行して富国強兵に成功した。戦力を増した秦軍は魏の要地・河西を巡る30年間の攻防に決着を付けてBC330年にこれを占領した(河西の戦い)。河西の失陥に衝撃を受けた魏の恵王は首都を安邑から大梁に移す事を決め、敗戦が打ち続いた魏は北の大国の座から滑り落ちる事になった。なお、少し時代を遡ったBC334年に魏と斉は共に王号を称していた。斉と秦の圧力が高まるにつれて魏・趙・韓の関係は再び落ち着きを取り戻した。また春秋時代からすでに王を自称していた楚は、BC334年に「越」の軍勢を大破して(浙江の戦い)長江流域一帯をほぼ手中に収めた。
連衡と合従(BC330~316)
秦と斉の二強時代となる中で、他の諸国は斉と秦の間で揺れ動き様々な外交戦が繰り広げられた。秦に仕えた縦横家・張儀は魏・趙・韓・楚・燕とそれぞれ五本の同盟を結ぶ連衡策を成功させて斉を孤立させた。BC323年に張儀が主導する秦軍は魏と韓を盾にする形で斉領へと遠征したが、斉軍に撃退された(桑丘の戦い)。
また別の縦横家・蘇秦が登場し、諸国をまたいで遊説する蘇秦は斉・楚・魏・趙・韓・燕の六ヶ国同盟を立ち上げる合従策を実現させ今度は秦が孤立した。BC318年に斉を除いた五ヶ国連合軍は秦へと攻め込んだが、秦軍の前に敗れた(函谷関の戦い)。その後の蘇秦は趙と斉を行き来しつつ専ら燕に仕えていた。なおこの辺りの時系列は史記の記述と異なっている。
BC325年前後に秦、趙、韓、燕「中山」の五ヶ国はそれぞれ王号を称していた。BC320年には魏が「衛」を属領とした。BC319年に即位した斉の宣王は孟嘗君に国政をまかせ、食客三千人の妙技を活かす孟嘗君の優れた政冶手腕によって斉は大きく発展した。一方、商鞅が築いた法治制度の下で国力を強める秦はBC316年に巴蜀の地を併合して更に勢力を拡大していた。
趙の勃興と燕魏韓楚の衰退(BC316~296)
BC314年に燕で内乱が発生し、これを好機と見た斉の宣王は軍勢を送って燕を属国とした。またBC313年に秦の縦横家・張儀が再び連衡策を用いて斉と楚を離間させた上に、挑発と反攻で翻弄して楚軍に痛撃を加えた後に巧妙な盟約によって楚を束縛した。斉の強盛ぶりと楚の弱体化および張儀の外交攻勢により、蘇秦の合従同盟は解体させられた。更に張儀は秦の権威を高める為に周王朝への介入を献策し、BC307年に将軍・甘茂が率いる秦軍は周王朝を後援する魏と韓を屈服させた(宜陽の戦い)。こうして魏と韓も秦に従う同盟を余儀なくされた。
BC306年になるとほぼ瓦解していた「越」は楚と斉に分割された。同じくBC306年から趙の武霊王が北方の遊牧民族を参考にした胡服騎射と称される弓騎兵部隊の編制を進め、これは戦車(馬車)を多用する中国諸侯の間で画期的な戦法となり趙軍の戦力を大いに高めた。強力な軍隊を持った趙はBC296年に「中山」を滅ぼして領土を広げた。その直後に発生した内乱の中で武霊王が死に一時国が傾いたが、BC295年に即位した恵文王の下には国政面に平原君と藺相如、軍事面に廉頗と趙奢などの人材が集まり、趙は秦と斉に次ぐ中堅国として存在するようになった。
張儀の連衡策で楚と不仲になっていた斉軍はBC303年に楚領へと侵攻し、危機に陥った楚の懐王は太子横を人質に出して秦軍の来援を仰ぎ無事切り抜ける事が出来た。だがその後、太子横が秦で騒動を起こして楚に逃げ戻って来た為、この背信に憤った秦はBC301年に軍勢を動かし魏軍と韓軍を従えて楚を激しく攻め立て、更に斉軍にも侵入された楚は多数の領地を切り取られた(垂沙の戦い)。
斉の隆盛と没落(BC296~278)
BC300年に湣王が即位した斉は、宰相・孟嘗君の政冶の下で隆盛を極めており、秦に脅かされていた魏と韓を味方に引き込むと、斉は魏韓両国と共に大軍を興して秦に攻め込み、BC296年に函谷関の要衝を突破して秦に和議を乞わせた(第二次函谷関の戦い)。この戦いで斉は諸国随一の強勢を示し、秦にとっては始めてのつまづきとなった。だが、BC306年に即位していた秦の昭襄王の下に将軍・白起が登場し、BC293年に斉の後押しを受けて周王朝を旗頭とした魏と韓の連合軍が再度秦に攻め込んで来ると、白起はこれを撃破して二十四万の首を取った(伊闕の戦い)。この結果、斉と秦の力は拮抗して東西の大国を認め合うようになった両国はBC288年に帝号(東帝・西帝)を共に称した。勢いに乗った斉の湣王は、BC286年に「宋」を占領するなどして周辺諸国への圧力を強めるようになり、それを諌める孟嘗君の余りの名声ぶりを倦厭して彼を国政から退かせた。
秦に代わって諸国を威圧する斉への反発が強まる中で、先年の属国化に対する復讐を志していた燕の昭王は縦横家・蘇秦(又は弟の蘇代)の新たな合従策で燕・趙・韓・魏・楚の五ヶ国による斉包囲網を敷く事に成功し、楽毅を将軍とした五ヶ国連合軍を築き上げると、BC284年に大規模な決戦を挑んで斉軍を敗走させた(済西の戦い)。その後は燕軍の単独作戦となり、破竹の進撃を続ける楽毅が首都・臨淄を落とし斉の70城を席巻すると、残り2城まで追い詰められた湣王は家臣に殺害された。だが同時に燕の昭王も逝去し、BC279年に即位した燕の恵王は斉の流言策にかかり、最後の城攻めに長引く楽毅を疑うようになって彼を解任した。陥落寸前の斉に登場した将軍・田単はこの好機を掴み、即墨城を包囲する燕軍に奇襲を用いて撃ち破ると(即墨の戦い)、そのまま斉の70城を奪還して湣王の後を継いだ斉の襄王を首都・臨淄に迎えた。こうして斉は滅亡を免れる事が出来たが国内は荒れ果て大国の地位から転落した。また、斉と秦が共に称した帝号も取り止めとなった。
一方、斉の没落で長江下流域の失地を回復し、その北の淮河下流域まで版図を広げた楚であったが、秦による巴蜀方面からの侵略を受けてBC280年に長江上流域の勢力圏を失った(黔中の戦い)。秦の甘言に翻弄されて斉との関係を反故にし結局領地を奪われてしまう楚の懐王を諌め続けた政治家・屈原も将来を憂いて自害するに到った。
殺戮合戦(BC278~258)
斉が大きく衰退した事で秦の一強化が進み、秦の昭襄王の下で国政を動かす宰相・魏冄は、将軍・白起に大軍を率いさせて諸国への大攻勢を開始した。白起は、BC278年に楚の首都・郢を陥落させると軍民合わせて数十万人を殺害した(鄢郢の戦い)。敗走した楚の頃襄王は淮河上流にある陳に遷都した。また、BC273年には魏を攻めて魏兵十五万人の首を取り(華陽の戦い)、BC264年にも韓を攻撃して韓兵五万人の命を奪った(陘城の戦い)。なお、BC266年に秦の宰相が范雎に交代すると遠交近攻の戦略方針へ転換し、隣接する魏と韓への侵略が激しくなった。
秦に押し潰されつつある諸国の中で、今や秦に次ぐ第二の軍事力を持つ趙だけは善戦しており(BC270年の閼與の戦いなど)、趙の恵文王を支える廉頗、趙奢、藺相如といった家臣達の団結力で秦軍の侵攻を跳ね除けていたが、それぞれが老いて世代交代した後のBC260年に発生した戦国期最大規模の合戦で趙軍は惨敗し、白起は趙兵四十万人を殲滅した(長平の戦い)。
趙の兵力をほぼ消滅させた秦軍は翌年のBC259年に趙の首都・邯鄲を包囲したが、趙の平原君の援軍要請が功を奏して魏の信陵君と楚の春申君がそれぞれ軍勢を率いて救援に駆け付け、魏・楚・趙の連合軍はすでに白起が解任されていた秦軍の撃退に成功した(邯鄲の戦い)。白起は長平の戦いの三年後に宰相・范雎との不和から失脚して自決に追い込まれる事になり、秦の大規模な軍事活動はここで一旦休止した。
秦の覇権(BC258~230)
BC256年から秦は中国統一を視野に入れて、二つの派閥領に分裂していた周王朝の廃立に取り掛かり、その通り道となる韓を討った後のBC255年に西周公を降服させて周王を断絶し、BC249年には宰相・呂不韋が主導して東周君を滅ぼした。一方、弱体化した趙を狙ってBC251年に燕軍が侵攻を始めたが趙軍によって撃退された(鄗代の戦い)。また秦の攻勢から逃れて東に活路を求める楚は淮河下流域へ進出しBC248年に「魯」を占領した。
秦の覇権が間近に迫る中で、人望家であり用兵家でもある魏の信陵君は当代きっての名声を博しており、彼の呼び掛けで結成された魏・趙・韓・楚・燕の五ヶ国連合軍はBC247年に秦に対する最後の大反撃に打って出た。信陵君は黄河中流域で秦軍を敗走させると(河外の戦い)そのまま秦の要衝である函谷関まで突入したが(第三次函谷関の戦い)ここは突破出来ずに攻撃は頓挫して全軍を撤収させる事になった。その三年後に信陵君は死去した。
続くBC242年にも今度は楚の春申君が楚・魏・趙・韓・燕の五ヶ国連合軍をまとめ上げて秦に攻め込んだが、またも函谷関で攻めあぐねて作戦は失敗した(第四次函谷関の戦い)。逆に秦の報復攻勢で首都・陳が危なくなった楚は寿春への遷都を強いられ、失脚した春申君はその四年後に殺害された。反秦連合軍に二度とも加わらなかった斉には厭戦気分が広がっており、もはや傍観者の立場を決め込むようになっていた。
BC247年に後の始皇帝となる秦王政が即位した。秦王政は法家の李斯を重用して法治主義の国家体制を磐石にし、軍事面では王翦、王賁、李信、蒙恬などで陣容を固め、北方の脅威となりつつあった匈奴対策にも当たらせた。また秦北部の荒地に長大な灌漑水路を切り開いて(鄭国渠)農業生産力を飛躍的に高めた。秦の穀物収穫量は一気に倍以上になったと記録されており、これが数十万人規模の遠征を可能にして中国統一を実現した最大の理由となった。以降は一定の戦闘は発生しつつも諸国の勢力図に大きな動きが見られる事はなく、秦は中国統一の大遠征に向けて国力と兵力を着々と蓄えていた。
六国滅亡(BC230~221)
中国統一の機が熟したと判断した秦王政は三つの遠征軍を興し、BC230年に韓と魏に向けた中央軍を進発させ、BC228年に趙・燕・斉に向けた北方軍を派遣し、BC224年には楚に向けた南方軍を出撃させた。中央軍はBC230年に韓を易々と滅ぼした後に、その隣の魏も終始優勢に攻め立ててBC225年にこれを屈服させた。
北方軍は趙の将軍・李牧の巧みな防衛により進撃がままならなかった為、秦は趙宮廷にいた奸臣に目を付けると賄賂を出して李牧を讒言させ趙王との不和を煽り、李牧を誅殺に追い込んだ。李牧がいなくなった趙軍は容易に突破され、BC228年に趙は滅亡した。次の標的となった燕の太子丹は秦王政の暗殺を試みて、BC227年に領土割譲の使者を装った刺客・荊軻を秦王政の下に送ったが、荊軻はあと一歩の所で失敗した。激怒した秦王政の命令で進撃を速めた秦軍はBC226年に燕本土を蹂躙し、辺境に散った燕の残党をBC222年まで追った。
南方軍は楚の将軍・項燕の反撃で逆に押し返されてしまったので(平興の戦い)、秦王政は兵を増やし王翦を将軍にした軍勢を再度侵攻させると今度は楚軍の撃破に成功した(蕲の戦い)。秦軍はそのまま進撃を続けBC223年に首都・寿春を攻め落とし楚全土を平定した。一方、燕残党の駆逐を終えた北方軍がBC221年に針路を変えて斉領内に侵入すると斉はすぐに降伏した。こうして秦による中国統一は成されて戦国時代は幕を閉じ、それまでの封建諸侯連合体とは異なる中国史上初の中央集権王朝が誕生する事になった。BC220年に秦王政は「始皇帝」を称した。
閉幕短評
戦国時代開幕時は凡庸な大国に過ぎなかった秦が中国統一を実現できたキーポイントは、(1)商鞅による法治化、(2)関中の地理地形、(3)鄭国渠の建設、であった。特に孝公が採用した商鞅の政冶改革による法治国家化の影響は大きく、これによって秦は一気に強国化し、以後も他国に対して優勢であり続けた。国家間の競争の中で「法治」の政冶体制を持つ事のアドバンテージは明らかであったが、その徹底は門閥貴族の既得権益と衝突する事になるので実際には実現は難しく、また徳治と称される既存の身分秩序を重視する儒家の影響を受けた政冶環境でも風当たりが強かった。
「魏」は李克による法治化で勢力を伸ばしたが、それを採用した文侯が死ぬと貴族達の利権が幅を利かす旧体制に逆戻りした。同時に法家の呉起も楚へと去らせた。その後の恵王は孟子を始めとする儒家を重んじ、かの商鞅を秦へと去らせた。「楚」は悼王が呉起を迎え入れて法治を断行し大いに成果を上げたが、悼王が死ぬと貴族達の反乱が起き法治は否定され、都で利権を貪る貴族の意向が優先されて広大な地方の発展が進まない旧態依然の国家のままとなった。後年には法家の李斯も秦へと去らせた。「斉」は稷下の学士を抱える先進的な学問地域であったが、ここでも荀子を始めとする儒家が重んじられ、また国内に割拠する大夫(地方領主)の力が強かった事から中央集権的な思想を持つ法治は倦厭された。門閥貴族体制が強固な「韓」は法家の韓非子を自ら手放してその才能は秦で活かされる事になった。
他の諸国と異なり秦で法治が根付く事が出来た要因としては、貴族達の世襲権力と既得権益体制が比較的強固で無かった事が挙げられており、その背景には建国初期から続く「殉死」の風習があった。秦を覇者に押し上げた名君の穆公が死去した際に多数の名臣を道連れにし国家を衰退させたとして悪名高い殉死であるが、他方で権力構造の新陳代謝を促し世襲利権と既得権益の連鎖を断ち切るという効果もあった。秦では繰り返し殉死禁止令が出されているが、名誉と体面に関わる重圧から殉死を決断する家臣は後を絶たなかった。始皇帝が造らせた兵馬俑の一体一体は家臣と思われる者がモデルになってるので、これは殉死の免除を促す狙いがあったとも考えられており、つまり戦国時代末期までこの問題が残っていた事が分かる。君主のリーダーシップで実現した法治を末代まで定着させるには、貴族という既得権益者達の利権構造とその世襲連鎖を弱める必要があり、秦では殉死の風習が結果的にその追い風となっていた。他の国々ではそうはいかず[2]、また当時強い影響力を持っていた儒家の徳治思想は既得権益層を保護したので法治化を妨げる事になった。
法治の徹底は軍隊内の規律も高めて将兵達を精強にし恩賞と懲罰の公平さは士気を引き上げた。秦の領地であった「関中」はその名の通り周囲を山峡に囲まれて守りに適しており、秦の強大化を恐れた諸国連合軍の反攻を幾度となくはね返して「斉」の様な覇権国からの転落劇を回避出来た。こうして秦軍は諸国随一の戦力を持ち、隣接する韓と魏は風前の灯となったが、当時の農業生産力による補給上の問題から更に遠方にある趙、楚、斉、燕を平定するだけの遠征は不可能であり、数十万人規模の軍勢が斉や燕および楚の東端にまで到達する事態は想定されていなかった。これを可能にしたのが秦の首都咸陽北部の荒地を潤して国内の穀物収穫量を倍以上に高めた長大な灌漑用水路である「鄭国渠」の建設であり、膨大な兵糧の備蓄に成功した秦は、大規模な遠征軍を一斉に動かして諸国を文字通りの破竹の勢いで征服した。その間、わずか10年であった。
諸子百家
百家の分類
戦国時代は優れた学者と思想家が数多く登場した時代としても知られている。当時の学問は師の下に弟子たちが集まる形で研鑽ないし伝承され、この師匠と門弟からなる学士集団は「家」と呼ばれた。「家」はより広い意味をも含み、同じ師のルーツを持つ一門を指す場合にも用いられた。互いに共通する思想ないし教義の相関性を持つ「家」の集合体は「流」とされ、これは学派と同義の言葉となった。「流」の開祖的存在であり、また特に後世への影響を残した師は「子」と称えられた。孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子、韓非子といった偉大な思想家の輩出は諸子と呼ばれ、多種多様な学士集団の賑わいは百家と成句された。
後漢時代の歴史家班固はこの百家(多数の家という意味)を九流十家に分類した。道家・儒家・法家・墨家・名家・陰陽家・縦横家・農家・雑家は九流と呼ばれ、これに小説家を加えたものは十家と称されている。小説家は世間の故事伝承を伝える言わば報道書簡の寄せ集めだったので「流」とは見なされなかった。更に兵家と方技家の二つが加えられて、春秋戦国時代の学者ないし思想家たちはこの十二学派に分類されるのが通例となっている。
道家 - 自然哲学の一種。人の在り方を説いた。後に道教の基盤となった。
儒家 - 社会哲学の一種。儀礼と礼節の必要性を説き上下の身分秩序と徳による統治を旨とした。
法家 - 政冶哲学の一種。法律による政冶支配と社会統制を重視した。
墨家 - 社会哲学の一種。平等・博愛・団結・勤労の重要性を説きマルクス主義との親和性が高い。
名家 - 弁論に活かす為の論理学の一種。
陰陽家 - 森羅万象を解析する為の東洋版元素論を軸にした自然哲学の一種。
縦横家 - 外交戦略に活かす為の弁論術および論理学の一種。
農家 - 農学に近い学問。
雑家 - 様々な分野の知識を集めた百科事典的学問。
小説家 - 世間の出来事や伝承を著述した報道的分野。
兵家 - 兵法として知られる軍事学の一種。
方技家 - 当時の医術と化学および仙人の知識などを扱った錬金術的学問。
百家の推移
春秋時代初期には「道」の思想家と「法」の理論家たちがすでに存在していた。自然哲学(natural philosophy)の一種である「道」は人間文化の誕生と共に自然発生し、政冶哲学(political philosophy)の一種である「法」は国家の成立と共に誕生した。国家と軍隊は表裏一体であったので軍を動かし律する為の「兵」も同時に編み出されていた。春秋時代中期に王侯士大夫の身分秩序の乱れが顕著になると、その回復と社会の安定を願って社会哲学(social philosophy)の一種である「儒」の教えが生まれた。「儒」は「法」と反目する部分が多かった。
戦国時代に入ると「儒」と反目する部分が多くマルクス主義との親和性が高い社会哲学の一種である「墨」の思想が広まった。また「道」をベースにして森羅万象を解析する為の元素論(elemental theory)を取り入れた「陰陽」の思想体系が形成された。思想家たちの交流と活動が盛んになるにつれて相手を説得ないし論破する為の弁論(rhetoric)が磨かれる事になり、理屈を組み立てる為の論理学(logic)の一種である「名」が誕生した。更に「名」の技術を外交戦略(diplomatic strategy)に応用した「縦横」の一派が登場した。
戦国時代初期から実学の探求も進められ、現代の農学(agriculture)に近い「農」と、様々な分野の雑学知識(trivia)を収集した「雑」の関連書物が数多く編纂された。「雑」には動物植物鉱物天文などを扱う博物学(natural history)的要素も含まれていた。「道」と「陰陽」をベースにした錬金術(alchemy)的学問である「方技」も体系化された。「方技」はいわゆる仙人に関係した知識群であったが、当時における医学と化学も専門にした。世間の出来事や伝承を記した書物も数多く存在し、当時の報道媒体(report)とも言えるこれらの著述家たちは「小説」と分類された。
彼らの文化活動は戦国時代中期に隆盛を迎えた。紀元前350年頃に斉の首都臨淄に大規模な学問所が開設され、そこに集まった稷下の学士と称される思想家たちが日々自説を競い合い学問文化を発展させた故事は百家争鳴の成句として知られている。
主な人物
文化
政冶
経済
軍事
脚注
^ ”MDBG”, Sökord: 战国策
^ 吉田亮太『春秋戦国政治外交史』三恵社、2014年 ISBN 978-4-86487-176-1 P112-117・121-124
関連項目
- 諸子百家
- 戦国四君
- 戦国七雄
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