草間彌生
草間 彌生 くさま やよい | |
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文化勲章受章に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 | (1929-03-22) 1929年3月22日(89歳) 長野県松本市 |
国籍 | 日本 |
教育 | 京都市立美術工芸学校卒業 (現・京都市立銅駝美術工芸高等学校) |
著名な実績 | 彫刻家・画家 |
受賞 |
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公式サイト | 公式サイト |
この人物に影響を 与えた芸術家 | ジョージア・オキーフ[1] |
草間 彌生[2](くさま やよい、1929年(昭和4年)3月22日 - )は、日本の芸術家。長野県松本市生まれ。
幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めた。1957年(昭和32年)に渡米すると絵画や立体作品の制作だけではなくハプニングと称される過激なパフォーマンスを実行し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。
草間彌生のいくつかの作品は、水玉模様などの同一のモチーフの反復によって絵画の画面や彫刻の表面を覆うことが特徴の一つである。合わせ鏡を用いて光やオブジェを無限に広がるように見せるインスタレーションや、男根状のオブジェを日用品などに張り付ける立体作品も制作している。カボチャをモチーフにした作品もしばしば見られる。
また、ファッションデザインや小説執筆などの活動も行う。
目次
1 来歴
2 年譜
3 主な展覧会
4 主な作品
4.1 平面作品
4.2 立体作品
5 出版物
5.1 作品集
5.2 小説
5.3 詩集
5.4 ノンフィクション
5.5 特集
6 映画
7 テレビ出演
8 その他の活動
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク
来歴
松本駅近くで種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼いころから草花やスケッチに親しむ。その一方、少女時代より統合失調症(医学博士西丸四方が診断)を病み、繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、それら幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める。草間は現在に至るまで水玉(ドット)をモチーフに制作する事が多いが(ドット・ペインティング)、これは耳なし芳一が幽霊から身を守るために全身を経で埋め尽くした様に、彼女が恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉(ドット)で埋め尽くす儀式でもある、とされる。
1945年(昭和20年)、大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中16歳で入選。松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業。後に役立つ絵画技法を身につけるが、旧弊な日本画壇に失望。松本の実家へ戻り、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描き、没頭する。
1952年(昭和27年)、地元の松本市公民館(旧:松本市公会堂)で2度の個展を開く。1度目の折、精神科医の西丸四方[3]が立ち寄り感銘し絵を購入。関東精神神経医学学会で紹介するほか、知人でゴッホ研究で有名な精神科医・式場隆三郎が、東京日本橋の白木屋百貨店などでのつてを紹介される縁を得る。2度目の個展では師と仰ぐ松澤宥に賛助出品してもらい、パンフレットに松澤宥と懇意だった当時著名な美術評論家瀧口修造らの寄稿文も掲載される。西丸博士と瀧口は、その後生涯にわたるよき理解者となった。
1954年(昭和29年)から翌年にかけ、東京で4度の個展。白木屋百貨店ほか、瀧口の関るタケミヤ画廊でも個展。瀧口がニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し、渡米の糸口を作る。この時期、素描のほかにコラージュなども量産している。
1957年(昭和32年)に渡米する。活動の中心をニューヨークに置き、ドナルド・ジャッドやジョゼフ・コーネルらと親しくなる。絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品やインスタレーションを始め、ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行、1966年にはヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。平和・反戦運動にも携わる。1968年(昭和43年)、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。
1973年(昭和48年)、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去した。草間は体調を崩し日本へ帰国、入院した。1978年(昭和53年)、処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表、1983年(昭和58年)、小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞するなど小説家としての活動も行っている。小説もその芸術創作と主題がリンクしており、少女時代の幻視体験をモチーフにしたものもある。
草間の活動が再び活発になったのは1990年代初頭である。1993年(平成5年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表として参加。世界的に再評価熱が高まった。2009年には正方形の絵画群である「わが永遠の魂」シリーズの作成を始める。同年にauのiidaブランドの端末をプロデュース、2012年にはルイ・ヴィトンとの共同コレクション(マーク・ジェイコブスによるディレクション)を発表するなど[4]、商業分野での活動も盛んに行なっている。
「草間彌生美術館」(東京都新宿区)が2017年10月1日に開設されることが、草間彌生記念芸術財団から同年8月10日に発表された。館長には建畠哲が就任する[5]。
現在の取扱代理画廊は、1980年代よりオオタファインアーツ、2007年よりVictoria Miro Gallery、2013年よりDavid Zwirnerである。
年譜
1957年(昭和32年)ニューヨークへ渡る。
1973年(昭和48年)体調を崩し日本へ帰国。
1996年(平成8年)国際美術評論家連盟から2年連続でベストギャラリー賞を受賞する。
2000年(平成12年)第50回芸術選奨文部大臣賞、外務大臣表彰を受ける。
2001年(平成13年)朝日賞を受賞する。
2002年(平成14年)紺綬褒章を受賞する。
2003年(平成15年)リヨン・ビエンナーレに参加。同年、フランス芸術文化勲章オフィシエ、長野県知事表彰を受ける。
2004年(平成16年)大規模個展が日本を巡回。
2005年(平成17年)「草間彌生全版画集(1974年(昭和49年)~2004年(平成16年))」を阿部出版から刊行される。
2006年(平成18年)旭日小綬章。ライフタイムアチーブメント賞。高松宮殿下記念世界文化賞。
2009年(平成21年)10月、文化功労者に選出される。
2014年(平成26年)安吾賞を受賞する。
2016年(平成28年)文化勲章を受章する [6]。女性画家では四人目。
2017年(平成29年)「草間彌生美術館」が開館。- 2017年(平成29年) 名誉都民[7]
主な展覧会
- 『草間彌生展 はじける宇宙』、草月美術館/新潟市美術館、1992年
- 『草間彌生 ニューヨーク/東京』、東京都現代美術館、1999年
- 『クサマトリックス』、森美術館、2004年
- バレンシアビエンナーレ、2007年
- ビクトリアミロギャラリー、2007年
- リバプールビエンナーレ、2008年
- ガゴシアンギャラリー、2009年
- 巡回展『YAYOI KUSAMA』
- マドリッド、ソフィア王妃芸術センター、2011年5月11日 - 9月12日
- パリ、ポンピドゥー・センター、2011年10月10日 - 2012年1月9日
- ロンドン、テート・モダン、2012年2月9日 - 6月5日
- ニューヨーク、ホイットニー美術館、2012年7月12日 - 9月30日
- 『草間彌生展 Kusama's Body Festival in 60's』、ワタリウム美術館、2011年8月6日 - 11月27日
- 『草間彌生 永遠の永遠の永遠』(一部のみ記す)
国立国際美術館、 2012年1月7日 - 4月8日
松本市美術館、 2012年7月14日 - 11月4日
高知県立美術館、 2013年11月2日 - 2014年1月13日
- 『草間彌生展 わが永遠の魂』、国立新美術館、2017年2月22日 - 5月22日
『草間彌生 ALL ABOUT MY LOVE 私の愛のすべて』、松本市美術館、2018年3月3日-7月22日
主な作品
平面作品
立体作品
- 『集合-1000艘のボート・ショー』(1963年)
- 『南瓜』(1994年)-直島に設置されている。
出版物
作品集
- 『クサマトリックス』 角川書店、2004年。
- 『草間彌生全版画集 1974-2004』 阿部出版、2005年。
- 『わたし大好き』 INFASパブリケーションズ、2007年。
- 『草間彌生、たたかう』 ACCESS Co.Ltd、2011年。 - ワタリウム美術館公式カタログ
小説
- 『マンハッタン自殺未遂常習犯』工作舎、1978 角川文庫、1984年。
- 『クリストファー男娼窟』角川書店、1984年 而立書房、1989年 角川文庫、 第10回野性時代新人文学賞。
- 『聖マルクス教会炎上』パルコ出版、1985年
- 『天と地の間』而立書房、1988年
- 『ウッドストック陰茎切り(ファロスカッター)』ペヨトル工房、1988年
- 『痛みのシャンデリア』ペヨトル工房、1989年
- 『ケープ・ゴッドの天使たち』而立書房、1990年
- 『心中櫻ヶ塚』而立書房、1989年
- 『セントラルパークのジギタリス』而立書房、1991年
- 『沼に迷いて』而立書房、1992年
- 『ニューヨーク物語』而立書房、1993年
- 『蟻の精神病院』而立書房、1994年
- 『すみれ強迫』作品社、1998年
- 『ニューヨーク’69』作品社、1999年
詩集
- 『かくなる憂い』 而立書房、1989年。
ノンフィクション
- 『無限の網−インフィニティ ネッツ』 作品社、2002年。 - 自伝
特集
- 『ユリイカ 詩と批評 特集・草間彌生 わが永遠の魂』2017年3月号、青土社
映画
- 「ヤコペッティの残酷大陸」(1971年) - グァルティエロ・ヤコペッティ他監督。(ビルの屋上でボディペインティングのパフォーマンスをしている)
- 「トパーズ」(1992年) - 村上龍監督・脚本映画。
- 「≒草間彌生〜わたし大好き〜」(2008年) - ドキュメンタリー映画
- 「Kusama: Infinity」(2018年) - ドキュメンタリー映画
テレビ出演
たけしの誰でもピカソ(テレビ東京)
ユーミンのSUPER WOMAN(NHK Eテレ、2012年9月21日)
NHKスペシャル「水玉の女王 草間彌生の全力疾走」(NHK総合テレビ、2012年9月28日)
報道ステーション、2017年5月5日
その他の活動
- 2005年、「スヌーピーライフデザイン展 Happiness is the 55thAnniversary」に参加。
- 2008年、ランコムとのコラボレーションで、水玉・ポーチを作成。
- 2009年、KDDIの携帯電話等の移動体通信事業を含む総合ITサービスブランド「au」の新ブランド「iida」とのコラボレーションで草間本人プロデュース、およびデザインした携帯電話 「iida Art Editions YAYOI KUSAMA」シリーズ3種(内訳は「ドッツ・オブセッション、 水玉で幸福いっぱい(TSX01)」「宇宙へ行くときのハンドバッグ(TSX02)」「私の犬のリンリン(TSX03)」。3機種ともベース機はT001)を作成。いずれも同年7月30日に完全限定モデルとして販売。
- 2013年 テイトウワのアルバム「:en:Lucky」のジャケットデザイン、及び同アルバムの曲「RADIO」のPV出演[8]。
- 2015年、アルピコ交通の高速バスに、「草間号 幻の華」ラッピングバスが登場。主に中央高速バスの新宿~松本線で使用されている。
脚注
^ “草間彌生 描くことは生命力の根源”. ZAKZAK. (2006年10月20日). http://www.zakzak.co.jp/people/archive/20061020.html
^ - 草間弥生と新字体で表記されることもままある。
^ 1910年(明治43年) - 2002年(平成14年).
^ ヤヨイ・クサマ コレクションの第2弾が登場|LOUIS VUITTON Web Magazine OPENERS - FASHION NEWS WOMEN
^ 「草間彌生美術館」10月1日に開館 東京・新宿朝日新聞DIGITAL(2017年8月10日)
^ “文化勲章に6人決まる 大隅良典氏や草間彌生氏ら”. 朝日新聞. (2016年10月28日). http://www.asahi.com/articles/ASJBT543RJBTUCVL01D.html 2016年10月28日閲覧。
^ 平成29年度名誉都民候補者東京都生活文化局 報道発表資料 2017年08月25日
^ TOWA TEI - RADIO with Yukihiro Takahashi & Tina Tamashiro - YouTube
関連項目
- 松本市美術館
- 岡本太郎
- 前衛芸術
あべのnini - 壁面アートがある
外部リンク
- ・草間彌生展2018 草間彌生 ALL ABOUT MY LOVE 私の愛のすべて
- 公式サイト
- かぼちゃ美術館 神奈川県足柄下郡湯河原町
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