蕭衍
武帝 蕭衍 | |
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梁 | |
初代皇帝 | |
梁武皇帝(国立故宮博物院蔵) | |
王朝 | 梁 |
在位期間 | 502年 - 549年 |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 蕭衍 |
字 | 叔達 |
小字 | 練児 |
諡号 | 武皇帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 | 大明8年(464年) |
没年 | 太清3年5月2日 (549年6月12日) |
父 | 蕭順之 |
母 | 張尚柔 |
后妃 | ない |
陵墓 | 修陵 |
年号 | 天監 : 502年 - 519年 普通 : 520年 - 527年 大通 : 527年 - 529年 中大通 : 529年 - 534年 大同 : 535年 - 546年 中大同 : 546年 - 547年 太清 : 547年 - 549年 |
蕭 衍(しょう えん)は、南朝梁の初代皇帝。
目次
1 家系
2 生涯
2.1 梁朝の建国
2.2 治世前半
2.3 皇帝菩薩
2.4 侯景の乱
3 後世の評価
4 妻子
4.1 后妃
4.2 子女
5 脚注
6 参考文献
家系
前漢の蕭何の子孫と称した南蘭陵郡(現在の江蘇省常州市)の蕭氏(蘭陵蕭氏)の一門であり、斉(南斉)宗室の支族に当たる。父の蕭順之は高帝蕭道成の族弟であり、丹陽尹となった。
生涯
梁朝の建国
蕭衍は若い頃より文武両面において注目され、文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に「竟陵八友」の一人に数えられた。
雍州刺史であった時、暴政を敷いていた皇帝蕭宝巻が蕭衍の長兄の蕭懿(次兄の蕭敷は早世)を誅殺したこともあり、追い込まれた蕭衍は弟の蕭宏、蕭偉、蕭恢とともに蕭宝融(和帝)を奉じて、皇帝打倒の兵を挙げ、都の建康に軍を進めて蕭宝巻を弑した。彼が代わって擁立した和帝から禅譲を受けて天監元年(502年)に帝位に即き、梁を興した。
治世前半
治世前半、天監年間の武帝は、沈約や范雲に代表される主に名族出身者を宰相の位に就け、諸般にわたって倹約を奨励して、官制の整備、梁律の頒布、大学の設置、人材の登用、租税の軽減等の方面において実績を挙げた。また、土断法を実施し、流民対策でも有効的な施策を実施した。
皇帝菩薩
520年に普通と改元した。それ以降は次第に政治的には放縦さが目に付くようになり、それに反比例して武帝が帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身も仏教への関心を強めた。
ついには大通元年(527年)以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した。その結果、梁朝の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が再現されてしまう。また朱异に代表される寒門出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱の様相を呈してきた。
ただ、武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称された[1]。このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来」との対比において、南朝の仏教の様子を表す称号として評価されている。
また梁は東南アジアや西域諸国、百済との交渉が盛んで、それら諸国からの武帝宛国書では仏教用語を用いて武帝を菩薩扱いし、梁を礼賛していたといわれ[2]、武帝は当時の国際社会において仏教信仰でも高名であった。日本(倭国)へも百済を仲介して影響がある。
545年6月、楊瞟に李賁を討伐させた。李賁は嘉寧城に逃げた。
侯景の乱
太清2年(548年)、東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙城県)で敗れてしまう。
その後、武帝は侯景に軍を保持したまま梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱)、都城の建康を包囲した。
当時建康の外城を守っていたのは、東宮学士庾信率いる文武3000人だったが、鉄面をつけた侯景軍が迫ってくると瞬く間に四散してしまい、浮橋を落とすことにも失敗した。侯景軍は宣陽門から、宗室の臨賀王蕭正徳の手引きの下、ほとんど無血で外城の中へと入ってきた。武帝たちは内城に篭り、侯景たちは彼らを包囲しつつ、占拠した東宮でとらえた宮女たち数百人を将兵に分かち与えて、祝宴を始めた。怒った皇太子蕭綱は兵を派遣して東宮を焼いてしまい、こうして南朝数百年で積み上げられた建康の歴史的建造物も、その蔵書も多くが焼けてしまった。
内城攻略戦は、梁将羊侃の健闘により数ヶ月にわたって一進一退の様を呈し、侯景が木驢を数百体作り城を攻めると、羊侃は葦に油を注いで放火してそれらを焼いてしまう有様だった。業を煮やした侯景は、宮城の東西に土山を築くため、建康の住民を平民から王侯まで貴賎の別なく駆り立てて、倒れる者は土山の中に埋められた。しかし、山は完成を見ぬうちに豪雨が降り、崩壊した。
そこで侯景は、今度は奴隷解放令を出し、宮中の奴で降る者はみな良民にすると宣言した。早速、朱异の家の入墨奴隷が反乱軍に降ると、侯景は儀同の官位を与えた。これに感激した奴は馬に乗り錦を着て城中に叫んだという。
- 「朱异は50年も仕官してやっと中領軍になれただけだが、私が侯王(侯景)さまに仕えたら早くも儀同になったぞ!」
3日のうちに侯景軍の兵力は激増し、一方で内城の防御軍は櫛の歯の抜けるように脱走は相次ぎ、ついに太清3年(549年)3月、内城を統率していた羊侃が死ぬと、いよいよ戦況は最終局面を見せた。内城の兵士や立てこもった男女も、体が腫れて呼吸も困難となり、「爛汁、堀に満つる」有様だった。こうした中、侯景は玄武湖の水を堀に注いで水攻めを開始、ついに城は陥落した。
引き立てられた武帝は、侯景と次のような問答を交わした。
- 「江を渡る時、何人いたのか?」
- 「千人です」
- 「では、建康を囲んだ時は?」
- 「10万人です」
- 「今は何人なのだ?」
- 「率土のうち、己の有にあらざるはありません」
そのまま、武帝は黙ってうなだれた。
侯景に幽閉された武帝は、食事も満足に与えられなかった。憂憤のうちに病気になり、蜜を求めたが与えられず、失意のうちに死んだ[3]。
後世の評価
北宋の司馬光は『資治通鑑』「梁紀」の論賛にて次のように評している[4]。
梁の高祖(武帝)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした。(…)名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(哀れだとさげすみ笑われ)された。哀しいことだ。
妻子
后妃
郗徽(即位前に没し、皇后を追贈された)- 貴嬪 丁令光(皇太后を追贈された)
- 修容 阮令嬴(皇太后を追贈された)
- 淑媛 呉景暉
- 董昭儀
- 丁充華
- 葛修容
子女
- 男子:蕭統(昭明太子)、蕭綱(簡文皇帝)、蕭続(廬陵威王)、蕭繹(孝元皇帝)、蕭綜(豫章王)、蕭績(南康簡王)、蕭綸(邵陵携王)、蕭紀(武陵王)
- 女子:蕭玉姚(永興公主)、蕭玉婉(永世公主)、蕭玉嬛(永康公主)
脚注
^ 『梁の武帝 仏教王朝の悲劇』(森三樹三郎著 平楽寺書店 1956年)(『サーラ叢書』5)
^ 河上麻由子「遣隋使と仏教」『日本歴史』717 号、2008年2月、同「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について : 南海諸国が奉った上表文の検討を中心に」『史学雑誌 』第117編第12号,2008年12月。
^ 「梁武の悲劇―侯景の乱」『世界の歴史 4 唐とインド』中央公論社、1961年、pp.248-254
^ 『中国古典文学大系第14巻 資治通鑑選』(広常人世 新田大作 石川忠久 頼勤惟 山井勇訳 平凡社 1970年)
参考文献
- 『梁の武帝 仏教王朝の悲劇』(『サーラ叢書』5)(森三樹三郎著 平楽寺書店 1956年。全国書誌番号:56014810、NCID BN0364669X。)
- 『中国古典文学大系第14巻 資治通鑑選』(広常人世 新田大作 石川忠久 頼勤惟 山井勇訳 平凡社 1970年。全国書誌番号:75025908、NCID BN00970057。)
- 『世界史大系 中国史2 三国〜唐』(山川出版社 1996年)ISBN 4-634-46160-9
- 『世界の歴史 4 唐とインド』中央公論社、1961年。全国書誌番号:50002456、NCID BN0294016X。
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