瀬戸内海
瀬戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。
古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。
目次
1 概要
1.1 「瀬戸内海」の誕生
2 海域
2.1 IHOが定める範囲
2.2 法令が定める範囲
2.3 区分
3 生物相
3.1 大型生物
4 地理
4.1 地形
4.2 強い潮流
4.3 主要な島
4.4 主要な流入水系
4.5 沿岸主要都市
4.6 橋
4.7 航路
5 歴史
5.1 先史時代
5.2 古代
5.3 中世
5.4 近世
5.5 近代
6 観光
6.1 歌枕の地
6.2 中世日本文学と瀬戸内海
6.3 寺社詣で
6.4 近代観光の目的地へ
6.5 バブル経済と乱開発
6.6 現在の瀬戸内海観光
7 産業
7.1 漁業
7.1.1 江戸以前の漁業
7.1.2 瀬戸内海の漁民の国外出漁
7.1.3 家船
7.1.4 乱獲と漁業資源の減少
7.1.5 ブランド品
7.2 農業
7.2.1 段々畑
7.2.2 出作
7.2.3 柑橘栽培
7.2.4 綿花栽培
7.2.5 除虫菊栽培
7.3 製塩業
7.3.1 製塩業と白砂青松
7.4 工業
8 環境問題
8.1 赤潮
8.2 瀬戸内海の栄養塩問題
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク
概要
東西に450km、南北に15-55 km、平均水深:約38m、最大水深:約105m(豊予海峡および鳴門海峡)の内海である瀬戸内海は複数の島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られている。 医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833年 - 1905年)の『支那旅行日記』により「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と世界中に紹介され[1]、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である[2]。
「瀬戸内海」の誕生
瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされる。それまでは和泉灘や播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかった。とはいうものの、江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記『海陸道順達日記』では尾道と下関の間を「瀬戸内」と呼んでいる。
「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半に広まっていったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。
日本人による最初のまとまった論考は小西和の『瀬戸内海論』(1911年)である。本論の中で、小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。また、小西は「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、後に帝国議会に国立公園の設置を建議した。この建議を容れて国立公園法が制定されたのは1931年で、1934年3月16日の第1回指定で瀬戸内海は雲仙(現・雲仙天草国立公園)、霧島(現・霧島錦江湾国立公園)とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となった[3]。
海域
IHOが定める範囲
国際水路機関(IHO)が1953年に発行した『大洋と海の境界』において、瀬戸内海は英語版でSeto Naikai or Inland Sea、仏語版でMer Intérieure (Seto Naikai)と表記され、その範囲は次のように定義されている[4][5]。
- 西端 - 下関海峡において、名護屋岬から馬島と六連島を通り村崎の鼻に至る線
- 東端 - 紀伊水道において、田倉崎と淡路島の生石鼻、同島の塩崎と大磯崎を結ぶ線
- 南端 - 豊後水道において、佐田岬と関崎を結ぶ線(豊予海峡)
法令が定める範囲
瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり複数の法令で範囲が定義されている。
以下の引用文は一部漢数字を算用数字に直すなどしている。
- 領海及び接続水域に関する法律施行令(領海法施行令)第1条
- 一 紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒、東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒、東経134度44分58秒)まで引いた線
- 二 佐田岬灯台(北緯33度20分35秒、東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分、東経131度54分8秒)まで引いた線
- 三 竹ノ子島台場鼻(北緯33度57分2秒、東経130度52分18秒)から若松洞海湾口防波堤灯台(北緯33度56分28秒、東経130度51分2秒)まで引いた線
- ※国際的にはこの範囲が瀬戸内海とみなされる。
- ※西端は関門海峡の西端である。関門海峡の全域と洞海湾は瀬戸内海に含まれる。
- 瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)第2条第1項
- 次に掲げる直線及び陸岸によつて囲まれた海面並びにこれに隣接する海面であつて政令で定めるものをいう。
- 一 和歌山県紀伊日の御岬灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬に至る直線
- 二 愛媛県佐田岬から大分県関埼灯台に至る直線
- 三 山口県火ノ山下灯台から福岡県門司崎灯台に至る直線
- ※「政令」とは次に挙げる「瀬戸内海環境保全特別措置法施行令」のこと。
- ※西端は関門海峡の最狭部(東端に近い)である。関門海峡の大部分と洞海湾は一~三の範囲に含まれない。
- 瀬戸内海環境保全特別措置法施行令 第1条
- 一 (略)愛媛県高茂埼から大分県鶴御埼に至る直線及び陸岸によつて囲まれた海面
- 二 (略)山口県特牛灯台から同県角島通瀬埼に至る直線、同埼から福岡県妙見埼灯台に至る直線及び陸岸によつて囲まれた海面
- ※瀬戸内法の一~三の範囲に追加される。
- ※早吸瀬戸と関門海峡の外側のかなりの範囲が瀬戸内海に含まれる。
- 海上交通安全法施行令 第1条
- 紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒、東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒、東経134度44分58秒)まで引いた線及び佐田岬灯台(北緯33度20分35秒、東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分、東経131度54分8秒)まで引いた線
- ※西端は言及されていない。
- 漁業法施行令 第27条
- 一 和歌山県紀伊日ノ御埼灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬灯台に至る直線
- 二 愛媛県佐田岬灯台から大分県関埼灯台に至る直線
- 三 山口県火ノ山下潮流信号所から福岡県門司埼灯台に至る直線
- ※瀬戸内法の一~三とほとんど同じ。
区分
瀬戸内海は複数の海域で構成されている。
『領海及び接続水域に関する法律』では東側から順に次に掲げる10区分された海域で構成されている。
- 紀伊水道
- 大阪湾
- 播磨灘
- 備讃瀬戸
- 備後灘
- 燧灘
- 安芸灘
- 広島湾
- 伊予灘
- 周防灘
『瀬戸内海環境保全特別措置法』では前記10区分に次に示す海域を加えた計12区分で構成される。
豊後水道北部- 響灘
上記の12区分された個々の海域を示す明確な基線(境界線)は存在しない。
生物相
汚染と環境破壊が進んだ現在でも天然記念物の節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリやハセイルカ(近年、伊勢湾や大村湾など、瀬戸内海以外にもスナメリの生息地として知られる諸々の海域に本種の再定着が確認されてきている)などの海洋生物や、アユを初めとする400-500種類を越す魚類が生息している。天然記念物に指定されている種類も多く見られ、前述のカブトガニのほか広島県三原市有竜島はナメクジウオの生息地として、また、同県竹原市高崎町阿波島周辺は『スナメリクジラ回遊海面』として1930年に登録されている。
- ナメクジウオは海砂の採取事業が盛んになった昭和30年代から大幅な減少を見せ、昭和60年頃には姿が確認されなかった。しかし、1990年代に再発見され、保護策の向上故か順調な自然回復が見られ始めている[6]。
- 阿波島はスナメリ自体よりも、スナメリを利用したスズキの伝統漁法が記念物指定対象となっており、国内唯一の鯨類関連の指定例であり、海棲哺乳類関連としては南西諸島のジュゴンと本例の二つのみである。なお、2015年現在では、当漁法はスナメリの生息数減少故に廃止されている。スナメリは瀬戸内海全域にて大幅な減少が見られたが、近年大規模な群れの再確認や大阪湾の関西国際空港周辺で個体数の増加が見られている(ターミナルが人工環礁として機能している)[7]。また、岡山県牛窓町[8] や北九州市藍島[9] では、本種の保護および観察事業が施行されている。
鳥類ではとくにカンムリウミスズメが注目されており、長島をはじめ現在でも比較的広範囲にて確認できる。
豊富なアマモ場も本来の瀬戸内海の生態系の重要な一部であり、1960年代に20,000ヘクタールを超す群生域が当海域に広く見られたが、1978年の時点では7,000ヘクタール程度に減少し、環境汚染など様々な要因により、その後の顕著な増加は見られない[10]。近年、各地で藻場復元の動きがあるほか、芸予諸島には比較的良好な分布が残されている。
2015年1月には、新種であり固有種のカタツムリ「アキラマイマイ」が発見されている[11]。
大型生物
過去の状況からは想像しがたいが、かつてニホンアシカやクジラ、ウミガメやサメ類の一大生息地でもあり、沿岸性であるコククジラ[12] やセミクジラ、ウバザメやジンベイザメ、ホホジロザメ、オニイトマキエイ、マンボウなどの大型魚類[13] やオサガメなど、現在では絶滅危惧種となっている大型の生物も多く見られたとされ、たとえば周防灘や別府湾などは鯨類にとって育児海域になっていたとする意見も存在する[14]。瀬戸内海の各地に小規模な捕鯨会社が設立されるなどの狩猟と漁業による圧力や、高度成長期に急速に拡大した護岸ふくむ沿岸開発と環境破壊や汚染などの経緯を経て、これらの動物は瀬戸内海からは江戸時代から昭和時代初期にかけて激減または地方絶滅を迎えた。前述の絶滅危惧種はほぼ消え去ったが、たとえば他種のクジラならば現在でも稀に迷入することがある。
- 土佐湾に定住するニタリクジラ(カツオクジラ)はかつて豊後水道や大阪湾、瀬戸内海にも普通に生息していたとされ、近年でも芸予諸島[15][16] や宇和海[17] などに短期間定着した例がある(瀬戸内海周辺には多数の鯨類に関連する昔話や鯨塚が残っており、芸予諸島には「まんが日本昔ばなし」でも紹介された「くじらのお礼参り」という民話や[18]、豊後水道には「鯨の背比べ」と呼ばれる、鯨類の海面での繁殖行動を連想させる話が伝わっている[19] が、大型鯨類のこれらの地域での過去の生態がどの程度であったのかは不明瞭である)。
- 同じく土佐湾や豊後水道でよく見られるハンドウイルカ、オキゴンドウ等も比較的頻繁に目撃されている。豊後水道には現在、少なくともハンドウイルカ、ミナミハンドウイルカ、ハセイルカの3種類が季節的または年間を通して定住していると考えられている[20]。また、個体数の回復に伴い近年ではザトウクジラやミンククジラの確認や小滞在が微弱ながら増えているほか、マッコウクジラの確認も特に東西両方の太平洋につながる海峡内部にてある。源平合戦(治承・寿永の乱)の折、瀬戸内海を進むイルカの群れの進行方向を使って戦績の吉兆が占われたという逸話も残っている[19]。
- 1957年、明石海峡と播磨灘に夫婦のシャチが漁業との軋轢を考慮して駆除されるまで約2ヶ月間定着しており、かつて瀬戸内海に定着した群れがいた可能性がある。[21][22] 大阪湾では、生存個体の観察例はないがナガスクジラの漂着が相次ぎ、古文上でも大型のナガスクジラ類と思わしき鯨類が同海域にて渡し船上等から度々目撃されていた事が明らかになっているほか、シロナガスクジラも戦前は確認されていた。余談だが、日本国内で近代では唯一のホッキョククジラの迷入例は大阪湾にて発生しており、ツノシマクジラが新種として認定されたのは瀬戸内海の水域からほど近い角島にてである。
鯨類のほか、ニホンアシカは20世紀初頭まで鳴門海峡[23] を含む瀬戸内海各地に見られ[24]、ニホンカワウソも1975年まで棲息が確認されていた[25]。また、陸生ではあるがニホンジカやニホンイノシシが瀬戸内海を泳いで縦横断する光景は古来より見られてきた。
アカウミガメやアオウミガメ[26] も激しく減少したが、現在も回遊は続いている。明石市の望海浜[27] などの産卵場が最も有名だが、戦前は瀬戸内海各地にこのような産卵場が存在し、近年でも大阪府沿岸や淡路島などでも確認されている[28]。しかし、定期的な繁殖場として機能しているのは依然明石沿岸のみである。オサガメは2002年[29] や2003年[30][31] に発見されている。 2002年の確認は産卵との情報があるが、これまで日本で唯一の産卵の確認例は奄美大島のみである。
地理
地形
瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ多島海である。平均水深は31mであり、全体的な傾向としては東に行くほど浅い。瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されている。最深部は豊予海峡(速吸瀬戸)で約195m、鳴門海峡では約200mと考えられている。
強い潮流
瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2m以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。この強力な潮流により「鳴門の渦潮」が発生している。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。
主要な島
瀬戸内海には大小あわせて3,000もの島があり、無人島や、周囲数メートルしかない小さな島も存在する。
主な瀬戸内海の島を以下に示す。
- 東部 : 淡路島、小豆島
- 中部 : 大三島、因島、大崎上島、生口島、向島、ホボロ島
- 西部 : 屋代島(周防大島)(屋代島)、倉橋島、能美島(江田島と一体)、厳島
主要な流入水系
流域面積1,000 km2以上の流入水系は以下の通り
- 紀伊水道 : 紀の川、吉野川
- 大阪湾:淀川、大和川
- 播磨灘:加古川
- 備讃瀬戸:吉井川、旭川、高梁川
- 広島湾:太田川
- 伊予灘:肱川、大野川
沿岸主要都市
大阪府
阪南市、泉南市、泉佐野市、貝塚市、岸和田市、泉大津市、高石市、堺市、大阪市
兵庫県
尼崎市、西宮市、芦屋市、神戸市、明石市、加古川市、高砂市、姫路市、たつの市、相生市、赤穂市、淡路市、洲本市、南あわじ市
和歌山県
和歌山市、海南市、有田市
岡山県
備前市、瀬戸内市、岡山市、玉野市、倉敷市、笠岡市、浅口市
広島県
福山市、尾道市、三原市、竹原市、東広島市、呉市、広島市、廿日市市
山口県
岩国市、柳井市、光市、下松市、周南市、防府市、宇部市、山陽小野田市、下関市
福岡県
北九州市、行橋市、豊前市
大分県
中津市、宇佐市、豊後高田市、国東市、杵築市、別府市、大分市
愛媛県
伊予市、松山市、今治市、西条市、新居浜市、四国中央市
香川県
観音寺市、三豊市、丸亀市、坂出市、高松市、さぬき市、東かがわ市
徳島県
鳴門市、徳島市、小松島市、阿南市
橋
本州と四国を道路・鉄道で結ぶ橋または道路として瀬戸内海上に本州四国連絡橋が架かり、以下の3ルートがある。
- 神戸・鳴門ルート 神戸淡路鳴門自動車道
- 児島・坂出ルート 瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道、JR四国本四備讃線)
- 尾道・今治ルート 瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)
航路
長距離フェリー航路
フェリーさんふらわあ(大阪港 - 別府港、神戸港 - 大分港)
阪九フェリー(泉大津港 - 新門司港、神戸港 - 新門司港)
名門大洋フェリー(大阪港 - 新門司港)
宇高航路
- 宇高国道フェリー
- 四国フェリー
- 各島間航路
四国フェリー・小豆島フェリー(宇野港 - 小豆島、姫路港 - 小豆島、岡山港 - 小豆島)
小豆島豊島フェリー(宇野港 - 豊島 - 小豆島)
両備運輸(新岡山港 - 小豆島)
- 阪高(神高)航路
ジャンボフェリー(高松 - 神戸三宮)
- 本州四国間航路
- 広島港・呉 松山 クルーズフェリー - 瀬戸内海汽船
防予フェリー(柳井 - 松山)
- 広島港・呉 松山 クルーズフェリー - 瀬戸内海汽船
歴史
先史時代
- 1600万年前
- 日本列島がユーラシア大陸から分離。古瀬戸内海と呼ばれる海が出現する。古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていた。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していた。この時期に古瀬戸内海の海底で形成された地層は備北層群と呼ばれている。
- 1,400万年前から1,000万年前
- 二上山、室生、讃岐、周防大島の各地域で火山活動が活発化し、古瀬戸内海は陸地化する。
- 7万年前
ウルム氷期始まる。現在は瀬戸内海である一帯にはステゴドンやナウマン象が住んでいた。また広島県の情島で、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたことがわかっている。- 1万年前
- 氷河期が終わり気温が上昇。海水面も上昇し、6,000年前までに現在のような瀬戸内海が形成された。
古代
古くより瀬戸内海は交通の大動脈として機能した。そのことは『魏志倭人伝』の記述や『日本書紀』の国産みの段でイザナミの産んだ島が瀬戸内航路沿いに並んでいることから推察できる。
古代においては、摂津国の住吉大社の管轄した古代港の住吉津を出発地とした遣隋使、遣唐使の航路であったことから、瀬戸内海は、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられた。またこの頃既に鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置するため汐待ちの港町として栄えていた。
奈良時代には陸上の交通路(山陽道や南海道)が整備されたが、外国使節が瀬戸内海を通った記録が残っており、瀬戸内航路も引き続いて利用されていたと見られる。
平安時代中期は、嵯峨源氏の渡辺綱を棟梁とする摂津国の渡辺党が瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁となり、渡辺氏の庶流である肥前国の松浦氏が九州の水軍松浦党の惣領となる。
藤原純友が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こし(承平天慶の乱)、瀬戸内海は、純友の活動舞台となる。伊予国の警固使の橘遠保が純友を捕らえる。
平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳島神社の整備を進めたりした。
中世
鎌倉時代から戦国時代にかけては、伊予国の越智氏や河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちが瀬戸内航路に勢力を張り始め、河野氏や村上氏らは海賊大将軍を名乗って海賊衆(水軍)を組織し、瀬戸内航路を制御下においた。
近世
豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力が排除され、回船商人らによる西廻り航路の一部(関門海峡~大坂)として、瀬戸内海は流通の主役の務めを果たした。幕末には、長崎港発の外国船が瀬戸内海を経由して横浜港へ航海していた[32]。1864年(元治元年)には,下関砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海が封鎖された際には、これを原因として馬関戦争(長州藩の砲台と英仏蘭米艦隊との戦い)が起きている。
近代
明治時代以降は鉄道開通などの本州・四国内交通網の整備、本州・四国間に瀬戸大橋の開通に至って、以前より交通路としての重要性は薄れたが、大正時代には阪神・別府間などに観光航路が開設され、戦後の観光ブームにも多くのクルーズ客船が往復し賑わいを見せていた。その後航路の主役はフェリーに移行したが、平成に入っても無数の定期航路が存続している。また、環瀬戸内文化圏という観点から、瀬戸内海を文化交流の場としてとらえ直す試みも行われている。
観光
歌枕の地
古代から瀬戸内海は風光明媚な海として知られ、沿岸には『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』などに登場する歌枕が点在している(住吉、難波、須磨、明石、高砂、布引、生田)。
中世日本文学と瀬戸内海
中世になると『伊勢物語』『土佐日記』『源氏物語』『山家集』などの文学作品が瀬戸内海を取り上げたことで、作中に登場する土地が名所となっていく。
寺社詣で
庶民の観光旅行が一般化した近世には、『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などに登場する古戦場(屋島や壇ノ浦、牛窓、藤戸など)が観光名所として注目されるようになる。また金比羅宮、石鎚山、住吉大社、厳島神社、宇佐八幡宮、大山祇神社などへの参拝も盛んになる。瀬戸内海各地の名所は『諸国名所百景』などの浮世絵にも頻出する。さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする観光産業(旅籠、茶屋、土産物屋など)が丸亀や多度津、下津井、宮島などに成立し、繁栄を見せるようになった。
またこの時期、朝鮮通信使が鞆の浦を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されている。
近代観光の目的地へ
19世紀になると、シーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代にはトーマス・クックやユリシーズ・グラントなどの欧米人が来日し、近代的な「観光のまなざし」(この概念についてはジョン・アーリを参照のこと)によって瀬戸内海を再編していった。すなわち近世以前の瀬戸内海観光が文学作品を媒介とした「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝という形式を持っていたのに対し、欧米人は瀬戸内海各地で(当時)当たり前のように見られた風景(多島海、段々畑、白砂青松、行き交う和船など)に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていった。言い換えるならば、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していったのである[33]。
更に1912年(明治45年)5月には、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製の貨客船「紅丸」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となった。1934年(昭和9年)には前述のように日本初の国立公園の一つとなる。
また戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ関西汽船が、1960年(昭和35年)に「くれない丸」を就航、その後3,000トン級クルーズ客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運んだ。
バブル経済と乱開発
1987年の「総合保養地域整備法」制定に伴う日本列島のリゾート開発ラッシュは瀬戸内海も例外とせず、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設された。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもあった。また、バブル経済が崩壊するとこれらリゾート開発は中断され、開発中途で放棄された土地も発生した。
現在の瀬戸内海観光
1996年には広島市の原爆ドームと廿日市市の厳島神社がユネスコの世界遺産に登録された。また1999年に本四架橋が全て完成すると、尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられ、観光ルートとして注目を浴びるようになった。2016年には、瀬戸内海地域の観光地経営を行うせとうち観光推進機構が発足した。
産業
日本の総面積の12%にあたる4万7千km2におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、重工業、石油化学産業などが多く立地している。全国に占める製造品出荷額は鉄鋼業46%、石油化学産業40%、化学工業35%、パルプ・紙産業30%と工業化が進んでいる地域であるが、これら第二次産業の総生産額に対する比率は年々減少している。比率がもっとも高かったのは1970年で42.6%であったが、2002年には25.4%まで下がった。農林・水産業など第一次産業は、1965年には7.4%であったが、2002年には0.8%となっている。比率が増加しているのは、運輸・通信、卸・小売、金融・保険業、サービス業などの第三次産業で、1965年には52.6%であったが、2002年には73.8%となっている。人口の密集度や産業の多さから古代より海運が発達していた。漁業も盛んであったが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少した[34]。
各地で埋め立てが行なわれ、藻場、干潟、自然海岸などの浅海域が減少しており、閉鎖水域であるため下水道や油流出事故などの影響で赤潮発生など水質汚染が憂慮されている[34]。
瀬戸内海は重要な水路として海運や漁業で多くの船舶が運行しており、近年はレジャーボートの数も増し、多島部や狭い水域では海難事故も多発している[35]。
漁業
江戸以前の漁業
瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場となってきた。弥生時代には既にタコツボによるタコ漁が行われていたことも、出土物によって明らかになっている。
江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網や船引き網漁が盛んとなった。またイカやアナゴやキス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていた。これらの漁法は瀬戸内海にとどまらず、房総半島などにも伝播した。また瀬戸内海の内部でも、紀州で考案されたイワシの船引き網漁法が真鍋島、宇和島、安芸草津など各地に伝播したことが知られている。
大物を狙う一本釣り漁も江戸時代に発達した漁法である。これは主に潮流の早い瀬戸を中心に行われた漁法で、鯛、ハマチ、カレイ、サワラなどを対象とした。一本釣りの発達を促したのは、中国から輸入されるようになった天然のテグスの存在である。これを最初に一本釣り漁に用いたのは、現在の鳴門市にある堂浦の漁民であったが、この漁法が17世紀後半に現在の周防大島町にある沖家室島に伝播し、沖家室島は瀬戸内海有数の一本釣り漁の基地として栄えた。現在も大物釣り用の釣り針の基本的なデザインである「かむろ針」は沖家室島で考案されたものである。その他、佐賀関、音戸、三津浜、牛窓、雑賀崎などが一本釣り漁で有名な漁村である。
こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却された。祇園祭の頃に旬を迎えるハモは活け締めにして京まで運ばれた。広島のカキも江戸時代には関西に広く流通していた。
瀬戸内海の漁民の国外出漁
明治維新後には、瀬戸内海の漁民たちが漁場を求めて日本国外に出漁する事例が増えていった。山口県や広島県の一本釣り漁師たちは台湾、ハワイなどに渡り、打瀬網を使う漁民はフィリピンに出漁した。森本孝は沖家室島の漁民がハワイの漁業の屋台骨を担った状況を明らかにしている[36]。また日本国内でも、周防大島の漁民が対馬に集落を建設して移住した事例が宮本常一によって報告されている[37]。
家船
瀬戸内海は、20世紀後半まで家船(えぶね)に乗った漁民が活動していたことでも知られている。家船とは木造の小型の漁船に簡易な屋根を装備し、布団や炊事道具など生活用具を積み込んだ船のことである[38]。瀬戸内海の漁民の中には、こうした家船に夫婦単位で乗り込み、生涯を海の上で暮らす者も多かった[39]。彼らの出自については、豊臣秀吉によって解体された村上水軍の末裔なのではないかとの説もある[40]。
別府温泉では、持ち舟で寝泊まりしながら浜脇温泉や別府温泉に通う湯治の習慣が古くから見られ、戦後しばらくまでは続いていた。春には波止場に係留される舟は100艘近くにのぼり、湯治舟とよばれて季語にもなるほどの別府の春の風物詩となっていた。
乱獲と漁業資源の減少
第二次世界大戦後、瀬戸内海の漁獲量は爆発的に増加し、ピークとなった1982年には昭和初期の4倍にも達した。しかしその後は環境破壊と乱獲によって資源量は減少し、イワシ、タイ、サワラ、トラフグなど主な魚種の資源量は、回復にほど遠い状況である。アサリも埋め立てなどで生育環境が破壊された為に激減しており、ハマグリはほぼ絶滅となっている。
カキ、ブリ、タイ、ワカメ、海苔などは養殖も盛んに行われている。広島でのカキの養殖は室町時代までさかのぼる。
ブランド品
佐賀関で上がる「関アジ」「関サバ」、明石で揚がる「明石鯛」「明石蛸」、鳴門のタイ、日出の「城下カレイ」、下関のトラフグなど、全国的なブランド品となっている品目も瀬戸内海には存在している。
農業
段々畑
瀬戸内海に浮かぶ離島は耕作可能な平地も少ないことから、住民たちは山を開墾して段々畑を作ることが多かった。しかしこうして開墾された段々畑は土壌が痩せていることが多かった為、農民たちは下肥や海藻を人力で運び上げて施肥し、土壌を改良していった。一般に、開墾してからまともな作物が収穫出来るようになるまでに10年かかるとされた。
出作
島内の山を全て開墾し尽くした後には、近くにある島に渡ってそこで開墾を行うこともあった。こうして別の島に農地を持つことを「出作」「出作り「渡り作」などと呼んだ。農民たちは出作用の小さな木造船(農船)を手に入れ、それで農地を持つ島まで行き来していた。
柑橘栽培
このようにして開墾された段々畑は、第二次世界大戦後、多くが柑橘類の栽培に転用された。日照と水はけに優れた段々畑は、糖度の高い柑橘の栽培には適していた。しかし段々畑での農業には非常に手間がかかることから、近年、耕作放棄地が増加しつつある。
綿花栽培
瀬戸内海沿岸の気候は綿花栽培にも向いていた為、江戸期には各地で綿花栽培が行われた。特に綿花栽培が盛んだったのは河内地方、播磨地方、岡山平野、福山周辺、広島周辺、観音寺周辺などである。しかし明治期に海外産の良質な綿が輸入されたことで、これらの地域の綿花栽培は衰退した。
除虫菊栽培
18世紀末に日本に移入されたシロバナムシヨケギク(除虫菊)は、20世紀に入ると広島県で盛んに栽培されるようになり、島嶼部も含めて第二次世界大戦後まで除虫菊栽培は農業の中心となった。
製塩業
瀬戸内海沿岸は少雨で温暖な気候を生かし、古代より製塩が盛んに営まれてきた。弥生期には吉備地方で土器に海水を入れて煮詰める製塩が始まり、奈良期には砂浜を使う「塩尻法」へと移行する。中世には汲み上げた海水を砂浜に撒いて水分を蒸発させたうえで煮詰める揚浜式塩田に移行、更に17世紀前半には姫路藩で潮汐を利用した入浜式塩田が考案され、瀬戸内海は製塩の中心地となる。この時期の瀬戸内海産の塩を「十州塩」とも呼んだ。これは播磨国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国、長門国、阿波国、讃岐国、伊予国の10国で生産された塩という意味である。
瀬戸内の気候を生かした製塩業だったが、天候や気候に左右されないイオン交換膜製塩法の開発により、1972年に一時全て途絶えた。しかし2002年に塩の販売が完全自由化されると、仙酔島などで小規模ながら製塩業が復活した。
製塩業と白砂青松
製塩業は大量の燃料を消費する産業である。瀬戸内海沿岸は製塩が盛んであったため、燃料としての木材を供給した里山は次々にはげ山となっていった(詳しくは里山を参照)。瀬戸内海に白砂青松が多かった理由の一つとして、こうしてはげ山となった里山から花崗岩が浸食により流出し、川を流下して瀬戸内海に入り「白砂」となったという指摘がある。
工業
太平洋ベルト工業地域の一角を担う瀬戸内工業地域を形成し、全工業地域総出荷額のおよそ9%を占める。西部は北九州工業地帯を形成し、東部は三大工業地帯の一つである阪神工業地帯を形成している。
大阪、神戸、堺、和歌山、姫路、倉敷、福山、呉、坂出、新居浜、宇部、苅田、中津、大分などの工業都市が沿岸部に集中する。
石油化学工業、鉄鋼業、造船業、自動車、製紙、セメントなど。
また海の中の離島であることを生かし、亜硫酸ガスによる煙害で批判を浴びていた銅精錬業が瀬戸内海に進出した。三菱マテリアルの直島、住友金属鉱山の四阪島など。
環境問題
赤潮
1970年(昭和45年)から1976年(昭和51年)にかけて赤潮の発生件数は約80件から約300件と上昇し、その後徐々にではあるが減少傾向にあるものの2002年(平成14年)の発生件数は約100件が確認されており、同年の発生海域は大阪湾・紀伊水道・播磨灘の淡路島の対岸域・燧灘の愛媛県域・広島湾・防予諸島・周防灘等である。赤潮の発生に伴い養殖のハマチ・タイ・真ガキの他、天然魚介類の漁業被害が起きている。
1992年(平成4年)8月27日に環境庁告示第67号により、海水中の窒素や燐が海洋プランクトンに対して影響を与え、著しく増殖を生ずる畏れのある海域として閉鎖性海域として指定され、赤潮を始めとして2004年(平成16年)と2005年(平成17年)には発生原因が不明の藻により底引き網漁などの漁獲に打撃を与えている。
瀬戸内海の栄養塩問題
瀬戸内海は1960年代から1970年代にかけて富栄養化による赤潮が発生しており、1973年に瀬戸内海環境保全臨時措置法が制定され、2001年にはCOD、窒素・リンの総量規制が導入された。これにより瀬戸内海の赤潮発生が減少するとともに海の透明度も増してきた。その一方で藻場の減少や養殖海苔の色落ちが頻発し、関係性は不明ながらも漁業資源の減少も起こっておりこれらを「栄養塩の過度な減少」(いわば富栄養化の逆の『貧栄養化』状態)が原因ではないかと主張する研究者も存在する[41]。反論としては漁獲量減少は乱獲が主な原因であるという意見もある。瀬戸内海への栄養塩の減少や干潟の減少は、ダムの建設やコンクリートによる河川の整備による土砂や栄養塩の瀬戸内海への流出の減少が原因であるとも指摘されている[42]。2015年10月2日に瀬戸内海環境保全特別措置法が改正[43]、同年2月に瀬戸内海環境保全基本計画が変更[44] され従来の瀬戸内海の「水質を保全」する考え方から「水質を保全・管理(地域性や季節性に合わせて水質を管理)」する考え方に改め、干潟や藻場の再生を行っていくなど瀬戸内海を取り巻く環境を整備することで生物多様性・文化的に「豊かな海(里海[45])」へすべく調査・研究・対策が行われることになった。
脚注
^ 『瀬戸内 海の道構想』 目次及び構想の理念 (PDF) 広島県、2011年
^ 例えば2007年5月に瀬戸内海を通過したハワイの航海カヌー「ホクレア」のクルーは、公式報告の中で次のように瀬戸内海の美を表現している。「瀬戸内海の風景はまるで夢の中のようでした。柔らかく丸みを帯び緑に覆われた島を、私たちは無数に通り過ぎました。島々を包むように波が立っています。こんな航海をこそ私は夢見ていたのです。もちろん私は福岡も楽しみましたが、この大自然の美は別格です。いや、今日のこの航海の感動は、単なる大自然の美という言葉では言い表せないでしょう。」ホクレア号航海ブログ「5月20日<祝島と大島>」より抜粋
^ 『瀬戸内海事典』南々社、2007年
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^ アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、116頁~
^ 西田正憲『瀬戸内海の発見』中央公論新社、1999年
- ^ ab環境省・せとうちネット 「瀬戸内海の概況」
^ 海上保安庁 「海難の現況と対策について(平成23年版)」
^ 森本他『沖家室瀬戸内海の釣漁の島』みずのわ出版、2006年
^ 宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫
^ 同種の船はフィリピンやインドネシアでも見られる。
^ 羽原又吉『漂海民』岩波書店、1963/2002年
^ 沖浦和光『瀬戸内の民族誌』岩波書店、1998年
^ 兵庫県立農林水産技術総合センター・水産技術センターの反田実所長が実際に瀬戸内海の「貧栄養化」に言及している。
^ 河川から沿岸海域への栄養塩供給とノリの栄養塩利用に関する研究 - 高木 秀蔵
^ 環境省 瀬戸内海環境保全特別措置法の一部を改正する法律について
^ 環境省 「瀬戸内海環境保全基本計画」の変更の閣議決定について(お知らせ)
^ 里海とは「人手が加わることにより生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域」のこととされる。里海とは?|里海ネット(環境省)
関連項目
- 瀬戸内海歴史民俗資料館
- 歴史的水域
- 山陽地方
- STU48
- 瀬戸内海環境保全特別措置法
外部リンク
せとうち観光推進機構 - オフィシャルサイト
瀬戸内国際芸術祭 - オフィシャルサイト
あいらぶ瀬戸内/I ❤️ Setouchi - 瀬戸内ブランド
せとうちネット(環境庁による環境・経済・学術情報提供システム)
社団法人瀬戸内海環境保全協会(環境保全の普及と指導助成、情報の収集と発信、調査研究を行ない前記せとうちネットの管理運営を担当している)
EIC(国立環境研究所の情報交流サイト)- 瀬戸内海環境保全審議会、議事要旨及び議事録
- シークエンスと瀬戸内海(愛媛県)
水産庁瀬戸内海漁業調整事務所(兵庫県神戸市)- 化学物質と環境(年次報告書)
- 港町ネットワーク
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座標: 北緯34度10分 東経133度20分 / 北緯34.167度 東経133.333度 / 34.167; 133.333