新京阪鉄道P-6形電車







































新京阪鉄道P-6形電車

105ほか4連の急行(1953年)
105ほか4連の急行(1953年)

基本情報
運用者
新京阪鉄道
京阪電気鉄道
京阪神急行電鉄
製造所
汽車製造、日本車輌製造、川崎造船所、田中車輌
製造年
1927年 - 1929年
製造数
73両
廃車
1973年
主要諸元
軌間
1,435 mm
主電動機出力
200 HP × 4
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新京阪鉄道P-6形電車(しんけいはんてつどうP-6がたでんしゃ)は、阪急京都本線などの前身となる新京阪鉄道が導入し、以後の変遷によって最終的に京阪神急行電鉄に帰属した電車のグループである。1927年から1929年にかけて、3期に分けて合計73両が製造された[1]


新京阪鉄道当初の形式称号「P-6」のほか、形式記号を付与した「デイ100」、京阪神急行電鉄発足後の「100形」「100系」の名でも呼ばれる。


戦前、大阪・京都府境の大山崎付近における新京阪線と国鉄東海道本線の並行区間において、国鉄の特急列車「燕」を追い抜いたというエピソードがあり、鉄道ファンからは伝説視されている。




目次






  • 1 概要


  • 2 仕様


    • 2.1 車体


    • 2.2 電装品


    • 2.3 台車


      • 2.3.1 ブリル台車の試用




    • 2.4 ブレーキ


    • 2.5 集電装置


    • 2.6 その他装備品




  • 3 製造


    • 3.1 貴賓車




  • 4 形式称号


  • 5 「燕」追い抜き伝説


  • 6 変遷


    • 6.1 両運転台化改造


    • 6.2 300形


    • 6.3 梅田乗り入れ改造


    • 6.4 20年更新工事


    • 6.5 貴賓車の一般車化


    • 6.6 1550形


    • 6.7 特急の復活


    • 6.8 台車の改造


    • 6.9 制御装置換装


    • 6.10 制御車化改造


    • 6.11 第2次更新


    • 6.12 幌・標識灯の改造


    • 6.13 Aブレーキ化


    • 6.14 保安装置の設置


    • 6.15 その他の各種改造




  • 7 運用


  • 8 廃車


  • 9 保存車


  • 10 100形の登場作品


  • 11 脚注


    • 11.1 注釈


    • 11.2 出典




  • 12 参考文献


  • 13 外部リンク





概要


京阪電気鉄道傘下で1922年に設立された新京阪鉄道の本線は、京阪線が軌道法制に基づく「軌道」であるのに対し、高速運転を前提として地方鉄道法に基づいた高規格の「鉄道」[2]であった。大阪京都間の本線は最小曲線半径600m、最大勾配10パーミルで直線主体の線形、線路は1,435mm標準軌で、レールはアメリカ合衆国製の50kg/m(100ポンド/1ヤード)相当の重軌条を採用した[3][注 1]。頻発運転の各駅停車を高速運転の特急が追い抜く構想から、多数の駅で待避線を設ける余地を持っていた[3]


P-6はこの淀川西岸経由で京阪間をバイパスする高規格新線を前提として設計・製造され、「東洋一の電車」とも称された[4]。当時日本の電車では最大の19m級車体を備え、アメリカ合衆国におけるインターアーバン(都市間連絡電車)を彷彿させるスタイルとなった。当時の電車用としては日本初かつ最強の200馬力(150kW)級主電動機を装架、最高速度120km/hでの運転が可能[5]な大型高速電車である。


従前、最大でも17m級車体・100kW級主電動機で充足されていた1920年代中期の日本の電車界に、新京阪100形はかつて例のない19m車体と150kW主電動機を搭載したいわば「モンスター・カー」として登場した。P-6に続いて1930年代中期までに大型高速電車の阪和電気鉄道モタ300・モヨ100形、参宮急行電鉄2200系、20m級車体の大阪鉄道デニ500形が登場するなど、電車大型化・高速化の範となった。ほか阪神急行電鉄・南海鉄道・大阪市電気局など関西私鉄に多数の大出力・大型電車群が輩出し、鉄道省が大阪地区の東海道・山陽本線の電化に際して投入したモハ42系電車(1933年)の設計にも多大な影響を与えた。



仕様



車体


19m級広幅2扉の両運転台車体である。設計寸法はヤード・ポンド法に準拠しており、初期の図面は英語で記載されていた[注 2]。寸法は車体長60フィート(18.288m)、車体幅9フィート2インチ(2.79m)となる。車端部に便所を設置し、P-6を上回る車体長66フィート(20.108m)級車の計画図も存在した[3]


車体は直線基調のリベット組立車体であり、台枠は魚腹台枠を用いている。速度感と重量感に溢れるその強烈な個性的スタイルから「装甲車」とも評された。設計に際しては、アメリカへの視察を行い参考にされた[6]。電動車・制御車ともに両運転台、かつパンタグラフ装備車であった。


製造時期により全鋼製車と半鋼製車があり、同一発注ロットでも担当メーカーによる微妙な仕様・形状差が見られた。全鋼製車は屋根までリベット打ちの鋼板張り、半鋼製車は屋根が木製防水キャンバス張りに変更されている。新造時の扉配置は電動車・制御車共にd1(1)D 10 D(1)1d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)で車体はほぼ完全に共通設計であった。


構体は、鋼製車では台枠の上に柱を立てる設計が後に一般化したが、P-6は台枠の側面に柱を立たせる木造車の手法を用いた[7]。このため柱を固定するガセット(隅当て)が多く、外板と車内化粧板の間の空間には埋木もある。車体だけでも35tの重量となり、正雀工場のクレーンもこの重量を意識して設計されている[7]。特に全鋼製電動車は自重52tの超重量に達したが、公式には全鋼製・半鋼製車ともに自重41.66t(46英トン)として認可されている。この大きな自重は、天神橋 - 淡路間の淀川橋梁(後の新淀川橋梁)では速度制限が課せられるなど走行に制約が生じた。


P-6で確立した19m級車体は、阪急では第二次世界大戦後の710系、810系において3線統一車体寸法として採用された。阪急と同じく神戸高速鉄道へ乗り入れる阪神電気鉄道と山陽電気鉄道でも採用されている[注 3][8]。それ以外でも特に軌道法準拠で開業し20m級車体を備える車両の導入が困難な各社[注 4][9]を中心に普及、京阪電気鉄道・神戸市交通局・北神急行電鉄等の京阪神間各社局ならびに名古屋鉄道においても用いられた[注 5]



電装品


電装品には、主として東洋電機製造製の国産機器が装備された。東洋電機製造はイングリッシュ・エレクトリック社(EE社:English Electric Co.)と提携してイギリス系の技術を積極的に導入し、京阪向けにもEE社製品のデッドコピー品を中心に様々な機器を納入していた。P-6では東洋電機製造の製品としては当時の最上位に位置づけられる高級品が多用された。


主電動機は定格出力200馬力(149kW)の東洋電機TDK-527形[注 6]、歯数比は2.346であった[10]


制御器は東洋電機製造製ES-504形で、多段電動カム軸式自動加速制御器である。高速走行に備え界磁接触器を制御器に搭載、弱め界磁制御に対応している。ES-504系は同時期の京阪本線用1500型(後の初代500型)が搭載したEE社製ES-155制御器を改良・スケールアップの上で国産化したもので、開発元でありEE社に吸収されたデッカー社の名から「デッカー・システム(DICK KERR SYSTEM)」の通称で知られる。



台車


台車は汽車製造製で、ボールドウィンA・AA形台車類似のビルドアップ・イコライザー台車(帯鋼リベット組立構造)である。A・Bの2種が存在し、台車枠の形状が異なっている[11]。細分するとA形が2種に区分され合計3種が存在した。


2両分についてはスウェーデン・SKF社製のローラーベアリングを試験装備したが、当時は普及に至らず、大半は平軸受のまま廃車を迎えている。



ブリル台車の試用


1929年10月、アメリカのJ.G.ブリル社設計の鍛造台車枠イコライザー台車「27-MCB-4X」が、日本製鋼所のライセンス製作によって122・501の2両に試験導入された。日本に輸入されたブリル台車としては最大級のもので[注 7]、乗り心地には定評があった。66フィートの大型電車への本格採用を想定してのものであったが、計画のみに終わっている。


極めて大型の鍛造台車枠や「トラニオン・タイロッド」と呼ばれる、現在のボルスタアンカーに相当する機構の内蔵など、技術的に特徴の多い台車であった。さらに納入に際しては原型の片押し式ブレーキから、より強力な両抱き式にブレーキを変更しているが、端梁の位置が低いブリル台車故に構造上かなり難しい改造であったらしく、同じく両抱き式のブレーキワークを採るアメリカ本国の同系台車と比しても変則的なブレーキテコのレイアウトとなっていた。しかもこの改造の際には上下揺れ枕が新製され、枕ばねの重ね板ばね上のコイルばねを単列式から複列式[注 8]に変更、さらに側受も通常の摺動式からころ式に変更されるなど、本国の正規仕様とは一味異なる独特の形状を呈していた。


122と501は固定編成で運用され、付随台車化を経て廃車まで使用された。これらの台車は戦後も1950年代半ばまでは両車に装着されていたが、晩年は122の分が電装解除されて1502に転用され、その後は同車の廃車までそのまま使用された。この内1台は正雀工場に保存されている。



ブレーキ


自動空気ブレーキには、アメリカ・ウェスティングハウス・エアブレーキ社(WABCO)製のU-5自在弁(Universal Valve)を使用する「Uブレーキ」[注 9]が採用された。U自在弁は従来日本の電気鉄道で主流であった同じWABCO製M三動弁[注 10]の上位互換機種に当たり、長大編成対応と高速度域での応答特性改善を実現した。


このUブレーキは、階段緩め制御などの高度かつ複雑な動作を空気圧だけでコントロールでき、しかも常用部と非常部が完全に分離していて緊急時には非常部で常用部のフォローも可能、と機能面で前世代のM弁(Mブレーキ)から長足の進歩を遂げており、さらに6両から12両の長大編成においても100km/h超の高速度域から迅速かつ確実に制動系を機能させ得る、という高性能を備えていた。しかしその反面、U-5自在弁は自重が132kgと非常に重く大型で、加工も精度維持も難しい摩耗部品を多数用いており、機能維持には高度な技術力が要求された。第二次世界大戦前の段階ではWABCOの提携先である三菱電機や三菱造船所といった三菱財閥傘下の各企業が総力を結集してようやく国産化が実現されていた[注 11]が、その保守作業は1950年代以前の日本では旋盤などの保守に必要な工作機械が充分行き渡っていなかった[注 12]こともあって、難渋を極めた。


ブレーキ機構に空気圧を供給するエアコンプレッサーは、新造時にはU弁にとっての純正部品であるウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社製D-3-Fが採用された。戦後は部品の入手難や梅田乗り入れ対応などの事情から、一部が日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)製のD-3-FやD-3-N[注 13]、あるいは東芝製RCP-78B/D[注 14]などに交換されている。



集電装置


集電装置は東洋電機製造のTDK-D形で[12]、電車には珍しい空気上昇式である[11]。貴賓車500を除いた電動車・制御車の全車に搭載され、奇数車が大阪寄、偶数車が京都寄に設置された[11]。絶縁碍子は竣工当初横型を採用していたが、早い時期に縦型に変更されている[13][注 15]


また、新造後しばらくして屋根上への直流1,500V高圧引き通し線及び高圧単芯電気連結器が設置された。主回路を母線で結ぶことで、制御車のパンタグラフから電動車への供給も可能としている。当時のアメリカでは電車・電気機関車で一般的な装備であったが、日本では他にアメリカ製の国鉄ED10形電気機関車が輸入当初装備していた以外では、直流600V電化かつポール集電の京都電燈系各線[注 16]で連結運転時のポール取り扱いの簡略化を目的に採用された程度であった[注 17]



その他装備品


正面には独特の緩衝器付幌が設けられた。当初は未設置の車両もあったが、1934年頃までに全車に設置されたとされる[13]。幌枠の結合作業が不要なことから、新京阪では特に淡路駅における増解結作業の省力化に威力を発揮した[14]。幌上部の板バネと下部のコイルバネは、幌同士の押し付け用のもので、連結器の緩衝器としては機能していない[15]


全車両にドアエンジン駆動の自動扉が設置されており、開閉時に鳴るブザーも設けられた[13]。主電動機の逆起電力を検知して、走行中に扉が開くのを防ぐ装置も設けられた[16]


運転室仕切り扉上の幕板部には、幕式の駅名表示器が設けられた。左に「次は」、中央に次駅名、右に「です」と黒地に白文字で書かれており[17]、次駅名幕は小型モーターで巻き取る方式であった。1930年 - 1931年頃に設置されたが、1934年に使用を停止したと推定される[17]


前照灯は独立した灯具に格納して屋根中央に1灯搭載され、尾灯は必要に応じてフィルタを回転させて切り替えることで赤・青(緑)・無色(白色)に変更可能な小糸式尾灯が1基、妻面の車掌台側前面窓下に取り付けられていた[注 18]



製造




初期車P-6A 110(日本車輌製造)




増備車P-6B 126(日本車輌製造)


貴賓車1両を含めた73両が製造された。製造は汽車製造、日本車輌製造、川崎造船所(貴賓車は川崎車輛、後の川崎重工業)、田中車輌(後の近畿車輛)で行われた。P-6は路線距離に対して車両数が多く、阪和電気鉄道は羽衣支線含む路線長63kmに48両、参宮急行電鉄は桜井 - 宇治山田間96.1kmに57両を投入したのに対し、新京阪は50.7kmに72両(貴賓車除く)が用意された[3]


1927年 - 1928年製造の1次車は全鋼製で、電動車は101 - 110(日本車輌製造本店)、111 - 120(汽車製造東京支店)の20両、付随車は501 - 510(川崎造船所)の10両の計30両が製造された。1次車は「P-6A」と称し、付随車は「T-1」とも呼ばれた[1]。座席は全車セミクロスシートで、防寒防音を目的に2重窓を設置した[1]


1928年製造の2次車は半鋼製となり、側窓も1重窓に変更[11]、座席も制御車・付随車はロングシートとされた。電動車は121 - 133の13両、制御車は511 - 521の11両、付随車は522 - 526の6両、計29両が製造された。2次車は「P-6B」と呼ばれ、制御車は「付随車甲」、付随車は「付随車乙」、付随車を総称した「T-2」との呼び方もあった。製造は121 - 126・511 - 519が日本車輌製造本店、127 - 129・520 - 522が汽車製造東京支店、130 - 133・523 - 526を大阪の田中車輌がそれぞれ担当した。同時期に貴賓車の500号を製造、付随車乙は1929年7月に制御車に改造されている[11]


1929年製造の3次車はP-6Bの増備で、付随車の527 - 529(田中車輌)、530 - 539(日本車輌製造)の計13両である[11]。これにより貴賓車含む総数73両が出揃った。


3次車の竣工と同時期、製造後1年に満たない制御車の501 - 510が電動車に改造され134 - 143に改番された[13]。制御車の空き番は530 - 539から2代目501 - 510への改番により埋められている[15]。この時点で電動車は101 - 143、付随車は501 - 529となる。



貴賓車


1928年に昭和天皇の御大典が京都御所を中心に行われるのに合わせ、中間付随車として貴賓車の500号が川崎車輛で製造された[15]。P-6の2次車と同時期に製造され、賓客輸送に使用された。


車体寸法はヤード・ポンド法のP-6に合わせながらも、メートル法で設計された。車体は橙黄色で塗られ、車内は貴賓室、随員室、給仕室、調理室、化粧室に分かれていた。貴賓室の定員は6人で、ソファーが並びスコッチウールの絨毯が敷き詰められ、ダミーの大理石製マントルピース上には黒田清輝の「嵐峡」が掲げられた[15]。トイレは洋式、調理室には電気コンロを完備していた。


親会社の京阪で同時期の1928年に製造された2代目16号貴賓車は、その内部仕様が新京阪500号と酷似していた。


記録の残る1933年(昭和8年)以降、運転回数は20数回に留まり、通常は正雀車庫にてカバーをかぶせた状態で保管されていた。500号の貴賓車としての最後の使用は、戦時中の1944年11月3日に、当時の駐日ドイツ大使であったハインリヒ・ゲオルク・スターマー乗車の際の特別列車であった。戦後は桂車庫に移動してそのまま保管が続けられた。



形式称号


新造時には形式P-6(「Passenger car 6」の略)であったが、1929年に3次車の竣工届を鉄道省に提出した際、電動車と付随車を区分する称号を付与するよう照会を受けた[18]。新京阪はこれを受けて1929年6月に形式記号を制定し、P-6では電動車に「デイ」、制御車および付随車には「フイ」、貴賓車には「フキ」の記号が付与された[19]。京阪合併後の形式称号はそれぞれ「デイ100」・「フイ500」・「フキ500」となっている。


P-4・P-5形では電動車に「デロ」、制御車には「フロ」が制定されている[20]。1937年製造の200形以降は、記号が付されていない。


京阪分離後の1950年4月、神宝線車両との車番の重複解消のため、付随車の500形は1500形に改称・改番された[21]



「燕」追い抜き伝説


P-6は、国鉄の東海道本線と並走する大山崎付近で国鉄特急「燕」を追い抜いたという逸話があり、100形の俊足ぶりを象徴する存在として、鉄道ファンの間で伝説視されている[22]


新京阪線では京阪間直通客の誘客に力が注がれ、1930年代前半の京阪の株式年鑑には「燕より早い」「京阪特急丗四分」[23]、1933年の路線図には「燕より速い特急行三十四分京阪電車」というフレーズが記載されている[24]


大山崎付近で新京阪のP-6が急行が国鉄特急「櫻」を追い越す光景は複数の記録があり、高田隆雄は1934年7月に特急「櫻」の車内から追い越してゆく新京阪線急行を撮影[14]、西尾克三郎は新京阪線急行から特急「櫻」の編成後部から順に先頭の機関車まで追い越してゆく光景を撮影している。


新京阪の最速列車「超特急」が「燕」を追い抜いたとも言われているが、当時の上り「燕」の大阪発車は13時であり、当時の新京阪の「超特急」は朝夕混雑時のみ6往復の運転であったことから、両者の併走区間での演出はなかったと見られている[22]。「燕」の走行時間帯に新京阪線を走っていたのは、天神橋 - 京阪京都間所要38分の「急行」であった[注 19]。また東海道本線大阪 - 京都間の距離は、新京阪線の天神橋 - 京阪京都間よりも若干長く、1934年改正以降の「燕」の京阪間の所要時間は「超特急」と同じ34分であり、平均速度の面で新京阪線の「超特急」を上回っていたことが判明している。なお、先に挙げられた西尾克三郎は1935年に新京阪線急行と並走する「燕」の写真を撮影しているが、この一連の写真でも「燕」を追い越すには至っていない。


従って大阪 - 京都間を所定34分から36分で走破する「燕」より実際の所要は遅く、大山崎で抜き去ったのち両線の線路が離れた後は「燕」より遅いスピードで走行していたようである。あくまで偶然国鉄列車と並行した場合に臨機応変のデモンストレーションとして「追い抜き」を見せていたとおぼしい。当時西院に住んでいた男性の回想として、大山崎駅から上り電車(普通電車とみられる)に乗った際に後方から上り「燕」が接近すると運転士が「ぼん、つばめと競走してやろか」と話してノッチを上げ、しばらく併走したのち抜くかというタイミングで線路が離れたという証言が残されている[25]


とはいえ本形式の性能そのものは非常に高く、1928年の試運転時には死重を搭載した状態で天神橋 - 西院間の約40kmを27分で走破した、との証言も残されている。ここから、恐らくは各列車種別とも車両性能に比して相当な余裕を持たせたダイヤ編成であり、作為的に「追い越し」を演出することが容易な状況にあったことが推察される。


これらの事実から、この逸話は史実と見て差し支えないと思われる。



変遷


新京阪鉄道は開業以来利用者が伸びず、不況の影響による経営難から1930年に京阪電鉄本体に吸収合併され、同社の新京阪線となった[26]。1943年には京阪と阪神急行電鉄との戦時合併で京阪神急行電鉄(阪急)の路線となった。1949年12月に京阪神急行から京阪本線系統が京阪電気鉄道として再分離された際、旧新京阪線は阪急の路線として残った。


新京阪線開業以来主力車として本線運用をほぼすべて賄っており、そのため戦中・戦後に至るまで酷使が続き、特に台車や主電動機、あるいはブレーキ弁等の摺動部品には、消耗によるトラブルが続出した。特に主電動機は、ベアリングの整備が充分でない状態で高速運転を繰り返した結果、ケースに変形や歪みが生じたという。


戦時中はクロスシート車のロングシート化改造が行われたが、戦後の特急復活に際しては6両がクロスシートに再改造の上で充当されている。



両運転台化改造


輸送需要に応じた単行運転や折返し列車の設定などに伴い、両運転台の電動車が不足したため[14]、1933年に制御車524 - 529が付随車化され運転台機器を供出、片運転台の電動車128 - 133が両運転台化された[27]


運転台機器を供出した524 - 529は一時休車となった後、1937年に制御車の522・523とともに両運転台で電装化され、144 - 151に改造された[14]。この8両はP-6Cと呼ばれ、従来のP-6A・Bと主電動機の定格回転数と歯数比が異なるが、併結運用は可能である[14]


主電動機はTDK-537-Aで、定格回転数は527形よりも低くなり、歯数比も従来の2.346に対し2.103となった。主制御器は改良型の東洋電機製造ES-516-Aで、機能的にはES-504-Aと同等であるが、一部部品が当時の国鉄制式品と同等となり、保守や部品調達の容易化が図られている[27]。運転台の主幹制御器は弱め界磁段が追加され、従来は並列最終段まで進段した後に自動で弱め界磁段へ進段していたが、明示的に弱め界磁段へ進段可能とした[27]


1937年の時点で電動車は(デイ)101 - 151の51両、制御車が(フイ)501 - 521の21両、貴賓車(フキ)500の1両の体制となり、電動車が最も多い時代となった[14]。この頃には塗り分け塗装も試行され、117では窓周りが黄色またはクリーム色、腰回りをマルーンまたは灰色としていた[14][27]



300形


1943年に千里山線用として製造された300形301 - 305は、戦時中の資材不足から未電装で出場、100形に併結の制御付随車として普通列車に運用された[28]


車体は16m級の半鋼製で、張り上げ屋根・半流線型の形状である。両運転台構造であったが、運転機器は京都方にのみ設けられた。計画では本線のP-6並みの長車体であったが、資材不足から短車体とされたとの推測もある[28]。台車は汽車製造製K-18、自動空気ブレーキはACAブレーキで、新京阪線系統では初のA動作弁使用車となっている。


1950年4月、神宝線車両との車番重複解消のため1300形に1301 - 1305へ改番、後に大阪寄りにP-6方式の幌を設置した[28]。1957年には中間付随車に改造され、700系の中間車750形として転用されている[28]



梅田乗り入れ改造


1943年10月1日、阪神急行電鉄と京阪電気鉄道の合併により京阪神急行電鉄が発足した。翌1944年4月8日より、新京阪車両の梅田駅への直通運転が開始された[29]。対象車は101 - 124と501 - 512の36両である[30]


十三 - 梅田間は架線電圧600Vの宝塚線の線路に乗り入れるため、電動発電機(MG)の分巻界磁を弱めて100Vを確保、扉の靴摺りを削り車幅を縮小、連結器高さの低い宝塚線車両との連結を考慮して、連結器の肘を下部に延長するなど対策を行った(連結器高さは宝塚線車両が700mm、京都線車両が889mm)[30]。乗り入れ対象車には、運転台窓の上角に紺地に白文字の「直」に丸を囲んだラベルを貼っており、関係者は「マルチョク」と呼んでいた[30]


主回路構成は1,500V仕様のままとされたため、600V区間では極端な電圧低下状態[注 20]となって加速性能が著しく低下し、また補機も規定電圧の半分以下で動作したためブレーキの操作に制約が生じるなど、保安上の不安も大きかった。


1945年6月8日、105・509の2両が乗り入れ区間の新淀川橋梁上で空襲により被災[14]、戦況悪化により直通運転は中断された[29]


戦後の1948年8月11日、梅田駅への直通運転を再開した[14]。電動発電機と空気圧縮機を複電圧化対応品に交換、電圧転換器の設置により補助電源回路を切り替え空気圧を確保し、保安に万全を期した[31]。乗り入れ対応車は101 - 144の44両で、145 - 151の7両は対象外となった。戦時中の直通運転時より安定したが、主回路は主制御器のカム軸を改造あるいは交換して直並列切り替えを行う必要から1,500V仕様のままとされ、十三 - 梅田間では主電動機の端子電圧が定格の半分以下となったため速度が上がらず、苦しい運転であったという。



20年更新工事


1948年から1953年にかけて、電動車を対象に「20年更新工事」が施工された[14]。最初の施工車は116である[32]


奇数車は方向転換が行われ、偶数車向きに統一された。方向転換の作業は、当初は神戸線の西宮北口駅まで回送し、今津線と連絡するY線を利用して行われた。その後は正雀車庫の22番線を一時撤去し、心皿部が360°旋回可能な特殊構造の仮台車を装着の上、20番線に片方の台車だけ押し込んでもう一方は分岐線に進入させ、逆順で引き出す手順で行われた[33]


また、混雑時の換気能力改善を目的に通風器がグローブ形に変更されており、更新対象外車も含めた全車に施工された[34]


さらに、制御車についても1954年から1958年にかけて同様の工事が実施されたが、戦後の京都本線の長編成化に伴い、制御車全車を京都方向きの片運転台車へ改造する工事が同時に施工されている[注 21]。またこの頃、車内照明の蛍光灯化も行われた。



貴賓車の一般車化


貴賓車の500号は、1949年2月に一般車に格下げされることとなった[34]。改造はナニワ工機で行い、車内はクロスシート化されたが、車内装飾には、貴賓車時代の名残を留めていた。


1950年のアメリカ博覧会開催の際には、宣伝のため黄色とマルーンの2色で塗装された[34]。また同年4月1日付けで1500号に改番された。


1959年、車体更新工事が実施され、貴賓車時代から残っていた乗務員扉の撤去、妻窓設置の他、車内は全金属化およびロングシートに改造され、車内放送装置も取り付けられた。この結果、貴賓車時代の名残は、広窓や車体下部の飾り帯に残るのみとなった。


廃車は1971年11月で、110号車とともに最初の解体車両となった。なお、車内装飾や椅子など、貴賓車時代の部品の一部は保管され、宝塚電車館で一時期展示されていた。



1550形


1550形は、京都線の輸送力増強でP-6への増結用として1949年に増備された中間付随車で、550形として551 - 555の5両がナニワ工機で製造された[35]。1950年4月、神宝線車両との車番重複解消で1550形1551 - 1555に改番されている[35]


車体寸法は併結相手の100形とほぼ同寸であるが、車体長がやや短くなった。貫通幌はP-6の方式であるが、車体は阪神急行スタイルの1段下降窓を採用、窓の下部が高くなり、車体裾は低くなった。窓の高さが揃わず編成美を損ねるとして、ファンからの評判は良くなかった[35]


台車はウイングバネ式の鋳鋼台車で住友金属製のFS3を採用し、乗り心地は向上している[36]。ブレーキは台車シリンダーのため、自動空気ブレーキは中継弁(Relay valve)付きのATA-Rブレーキとなった[35]


廃車はP-6と同時期で、1971年から1972年にかけて5両全車が廃車となった。FS3台車は神宝線1200系の1250形1253 - 1257に流用されている[36]



特急の復活


1950年10月1日の天神橋 - 京都間特急の復活に際し、100形の115 - 117、1511、1513、1514の6両が特急用に整備された[37]。車内はクロスシートで、塗装は窓周りがオレンジ、腰回りがマルーン、窓下の帯と屋根を銀色とした[37]。主電動機は710系用のTDK536形(230HP)を先行使用した[38]


塗装は1年後にマルーン1色で窓の上下に銀帯を配すのみとなったが、後に帯も消えて一般車と同等になっている[37]



台車の改造


電動車の台車は、戦後に汽車製造会社により新しい防振技術を導入した様々な改良・改修工事が実施された。このうち改造工事を施された汽車製台車、特に汽車改造2次と呼ばれたグループは、ボルスタアンカの追加と揺れ枕の全面的な設計変更により、大幅な乗り心地の向上を実現した。他に、住友金属工業の鋳鋼イコライザー台車(KS-33E)も新製導入された。



制御装置換装


主電動機については大規模な補修工事が台車改造と同時期に実施されているが、この他酷使で傷みの著しかった制御器についても、700系のES-551-A、あるいは710系のES-552を改良したES-553[注 22]への変更が順次実施された。


その他、ES-559[注 23]を装備した車両も9両あり、最終的にはES-553とES-559の2機種が混在することとなった。なお主制御器の換装は、梅田乗り入れ可能な101-144[注 24]と147[注 25]に実施され、残りの車両は換装されなかった。



制御車化改造


急行の4連化に伴う電動車の余剰と制御車の不足から、1957年から1960年にかけて電動車の制御車化が進められた[39]


1957年から1958年にかけては131→1525、149→1626、146→1527、145→1528の4両で、1960年には144→1529で実施され終了した。余剰品は車体新造車の1600系に流用されている[40]。147は主制御器の改造が先行実施されたため電動車として残り、131に改番され空き番を埋めた[39]


1525は全金属化工事を実施し雨樋付きとなり、他の1500形でも半数で内張りの金属化が施工された[39]。1529はパンタグラフが霜取り用として残されたが、のち撤去された[40]。1528と1529は片運転台の電動車であったため、付随車化後に西宮北口で方向転換した[39]


この時点で電動車100形は101 - 143の43両、制御車・付随車1500形は1501 - 1529と元貴賓車1500の30両となり、全廃までこの体制で運用されることになる[39]



第2次更新


1959年から1969年にかけて、電動車の配線・配管の更新を主体とする第2次更新工事が施工された[41]。高圧線が車外を経由するようになり、車内は暖房回路を除き高圧線が一掃された。同時期に運転台撤去工事が行われた車両もあり、撤去跡への客室延長も行われている。


同時期の1958年からは、長らく未使用であった屋根上高圧引き通し線が撤去され、空気上昇式のパンタグラフは、1961年から1966年にかけてばね上昇式のK-1形に改造された[42]



幌・標識灯の改造


1960年から1963年にかけて幌の改造が実施され、従来の緩衝器付き幌から着脱式幌に交換されている[43]。運転台の視界確保と連結部の雨漏り対策が目的であったが、表情の変化に対する落胆の声なども少なからず寄せられた[41]。連結器には1961年から1968年にかけてゴム緩衝器が取り付けられた[43]


1959年より標識灯の埋め込みが行われ、転色は車内から行う方式となった。改造は全車には及ばず、15両が未施工のまま1965年に中断された[43]



Aブレーキ化


U-5自在弁は構造が複雑であり、車両数もP-6のほかは近鉄の一部と阪和電鉄、大阪市営地下鉄の計300両ほどと少なく、保守部品の調達も困難となった[44]。一方、1928年に国鉄・三菱重工・日本エヤーブレーキ社により共同開発された「Aブレーキ」は、WABCO設計のM弁によるMブレーキの欠点を改善し、かつ階段緩め動作などU自在弁の利点の一部を取り込んだものであり、A動作弁はブレーキ動作弁の代名詞的存在となった[44]


P-6では1951年に7両がA弁に交換され、U弁の部品取りに使用した。残る車両も1961年よりA弁への換装が開始され、1964年に全車で完了した[44]。運転台の制動弁は互換性があるため、新造以来のM23弁[注 26]のまま存置された。


また、7両編成での運用を可能とするため、1968年から1969年にかけて1550形3両を含む35両を対象に「AEブレーキ」化を実施[45]、7両編成5本が組成され1971年まで急行に充当された[41]。AEブレーキはA弁に電磁同期弁[注 27]を追加したもので、長編成での応答性の向上を図った。1300系以後の高性能車のHSCブレーキと比較すると、応答性こそ改善されたものの操作は煩雑なままのAEブレーキは見劣りしたが、現場ではHSC方式と比べてAEブレーキの効きが良くないことは承知の上で、長年苦楽を共にした100形という事で、7両編成としての運用に踏み切ったという[46]



保安装置の設置


1967年から1969年にかけて、自動列車停止装置(ATS)と列車選別装置(アイデントラ)が設置された[45]。ATSの導入に伴い、P-6の最高速度は制動距離の関係から102km/hとなった[47]


1969年からは列車無線が100形・1500形の各20両に設置された[45]。両運転台で残った111 - 113、116の4両は列車無線の設置を見送り、中間車扱いとなった[41]



その他の各種改造


1960年代以降も、機会を捉えて以下のような改修が実施された。



  • 電動車への主抵抗器余熱暖房装置の設置(のち撤去)

  • 屋根ダクト取り付け(一部車両は未施工)及び鋼板化



運用


1930年、新京阪は天神橋 - 西院間を34分で結ぶ超特急の運転を開始した。京阪吸収後の1931年には京阪京都駅(現・阪急大宮駅)までの地下線が延伸開業し、距離も42.4kmとなったが34分運転は維持され、表定速度は73.7km/hに達した[22]


1934年10月10日より、急行が淡路での分割併合を行い、京都からの直通による十三駅での阪神急行電鉄と連絡が実現した[14]


戦後の1950年10月1日に天神橋と京都を36分で結ぶノンストップ特急が復活、特急化改造を行ったP-6の2両編成3本により充当された[37]。1956年4月16日には梅田と京都を結ぶノンストップ特急が新設され、同時に天神橋発着の特急は廃止された。主力は710系や1300系であったが、P-6のクロスシート車も1959年頃まで使用された[37]


1969年には地下鉄堺筋線と千里線(千里山線を改称)の相互乗り入れが開始され、天神橋駅の廃止と地下鉄の天神橋筋六丁目駅への代替により、不燃化基準に適合しない100形は千里線淡路以南への乗り入れが不可能となった。


1970年の日本万国博覧会(大阪万博)開催に伴う観客輸送では、老朽化は進んでいたものの19m級で収容能力の大きい100形も主力車両として会期終了まで充当された。


万博終了後も引き続き運用されていたが、1971年4月の事故で被災車の105が休車となり、運用離脱が始まった。続く6月には阪急初の量産冷房車5100系の京都線への配置により、本線急行運用から基本的に離脱した。そこで発生した7両編成2本を組み替えて各駅停車運用に転用した結果、AEブレーキ化改造工事の未施工車両にさらに休車が発生した。


1971年11月28日の梅田駅の移設工事完成に伴うダイヤ改正で、高性能車での運用を前提とした急行のスピードアップが実施されるのに際し、惜別急行運転が11月21・23日に実施された。使用編成は半鋼製車132を先頭とする7両編成であったが、中間に入っていた全鋼製の108を先頭に出して運転した。


以後、本線普通運用や千里線で運用されたが、1972年秋の台風によって京都本線の一部が不通になったのを契機に本線運用からも撤退[注 28]、以後は千里線のみの運用になり、1973年3月に運用を終了した[41]



廃車


廃車は1971年より開始された。当初は各線区の冷房化率均整のため2000系が京都線に移籍[48]、その後は5300系への代替により、1973年までに1550形5両を含む全車の廃車が完了した。


各車の廃車時期は以下の通りである[47][49]



  • 1971年12月13日(22両):105・106・110 - 113・118・125・126・135 - 137・1500・1503・1509・1515・1518・1521・1523・1526・1528・1529・1552・1553

  • 1972年4月17日(13両):102・104・107・116・122・130・131・1501・1505・1507・1516・1519・1525

  • 1972年10月20日(14両):101・117・120・123・128・139・140・142・1504・1508・1517・1520・1522・1527・1551・1554・1555

  • 1972年12月5日(6両):119・127・133・134・1512・1524

  • 1973年3月23日(18両):103・108・109・114・115・121・124・129・132・138・141・143・1502・1506・1510・1511・1513・1514


100形全廃から1週間後の1973年4月1日、京阪神急行電鉄は社名を「阪急電鉄」に改称した[3]



保存車




保存車116号(正雀車庫 2012年)


116が動態保存されているほか、101の前頭部、ブリル27-MCB-4X台車の1台が正雀工場に保存されている[41]


阪急部内では、100形の長年の功績を記念して、1両を永久保存することを決定した。保存車の選定には、貴賓車であった1500やトップナンバーの101などが候補に挙がったが、両運転台車で、車体が原型に近い状態を維持していた全鋼製車の116が選ばれ、しばらく正雀工場で休車留置ののち、1974年に復元工事が実施された。


保存に際しては、極力20年更新工事直後の姿に復元することとし、部品は部内各所や能勢電気軌道などから集められ、クロスシートは710系の流用品を設置[41]、当時の幌や屋根上の高圧引き通しは、図面を参考に復元している[注 29]


当初は、現役当時の機器を生かして動態保存されていたが、その後静態保存となり、車体の手入れもされないまま正雀工場で留置され、塗装も色褪せてやや荒廃しつつあった。しかし、1988年の900号車復元に合わせて、大規模な車体修繕[注 30]を行い、静態保存ではあるが綺麗な状態に再整備された。さらに1997年には、一旦取り外されていた主電動機を再び台車に取り付け、電装機器の整備を行って動態保存に再復元された。その後は、普段は屋根付きの車庫で保管され、毎年春と秋に開催される正雀工場でのイベントで走行展示を行い、正雀工場内のみではあるが実際に乗車体験もできる。


その他、宝塚ファミリーランドのりもの館(旧・電車館)にトップナンバーである101の前頭部が戦前の姿に復元の上で保存・展示されていたが、2003年4月7日のファミリーランド閉園に伴い同館が閉館となったため、現在は他の収蔵品の多くと共に正雀工場に保管されている。


また、1511の車体が千里ニュータウンカトリック教会に引き取られ集会所として使用されていたが、1988年4月に用地難から解体処分された。このほか、大阪市都島の上田佐鋳造所にP-6Aが保存されている。




100形の登場作品


1988年公開のスタジオジブリ作品である「火垂るの墓」(1945年の神戸市が舞台)に、主人公が夜間に電車に乗るシーンで、乗車しているのがこの100形である。ただしその場面は阪急神戸線が舞台であり、制作協力として阪急の社名もクレジットされているにもかかわらず、実際に神戸線を走行していた900形や920系を使わなかった理由は不明である。ただし、劇中では扉間の窓が8個になっており、100形と900形を折衷したスタイルとなっている。


2003年から2004年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説「てるてる家族」(設定は1950年代から1970年代)において、保存車の116を利用した撮影が正雀車庫内の留置線にロケ用の仮設ホームを設置して行われた。車両の全体像は登場しないが、二段窓や車内の様子は画面で確認できる。なおこのドラマの舞台も大阪府池田市であり、厳密に言えば阪急宝塚線の旧型車が登場の部分であるが、同年代で撮影に使用できる宝塚線用車の保存車も皆無(能勢電鉄で保存されていた320形328は解体処分済み)であることから116が使用されたものと思われる。



脚注


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注釈





  1. ^ 100-RE型、AREA(American Railway Engineering Association:アメリカ鉄道技術協会)が制定した断面形状による。


  2. ^ 図面は阪急正雀工場に保管されており、その一部は『新京阪車輛構造図集』(鉄道史資料保存会)として1984年に公刊されている。


  3. ^ 心皿間距離や車体幅などが異なるが概ね同様の寸法を採用。後年の阪神と山陽の梅田 - 姫路間直通特急運転の際には、心皿間距離が短く両端のオーバーハング部の長い山陽車の車体中央部が御影駅2番線ホームと干渉、直通特急に限り入線するホームを1番線に振り替えて対応している。


  4. ^ 特に阪急の場合、宝塚線は三国駅の急曲線が高架化で別線切り替えとなった2000年まで20m級車導入は物理的に不可能な状況にあった。


  5. ^ 京阪神間の各社局でも現代ではラッシュ時の混雑緩和、閑散時のゆとりとバリアフリー対応の車内空間確保などの観点から19m級車体は若干長さ不足であると指摘されている。


  6. ^ 端子電圧750V時。定格回転数805rpm。


  7. ^ 客車用を含めると九州鉄道の「或る列車」の3軸ボギー式台車が最大。


  8. ^ 外見上左右各1本から2本へ変更。ただし、いずれも径の異なるコイルばねを2本組み合わせて使用しており、実際には左右各2本から各4本へ変更されたことになる。


  9. ^ AMU/ACU/ATUブレーキとも。それぞれ順に電動車・制御車・付随車用を示す。


  10. ^ M-1・M-2-A/B/Cなど幾つかの型番が存在した。


  11. ^ それゆえU弁は日本国内生産品としては三菱製のみ存在する。


  12. ^ 第二次世界大戦前には、十分な精度の工作機械が完備している民間工場は少数派であった。


  13. ^ D-3-Fの600/1500V複電圧対応版。神戸線で多用されていた。


  14. ^ ゼネラル・エレクトリック社製コンプレッサーのスケッチ生産品。同じく複電圧対応で元は神戸線用。


  15. ^ 1930年7月17日付の縦型碍子図面が残されている。


  16. ^ 嵐山・叡山・鞍馬の各社。のちの京福電気鉄道系路線。


  17. ^ 1990年代以降、この高圧引き通し方式はATき電化された新幹線電車においてパンタグラフ数削減=騒音減少を目的に本格導入されている。


  18. ^ なお、この内青(緑)は十三 - 淡路 - 千里山間の区間運用時の識別用として長く使用され、戦後、法改正で前部標識灯として(無色)白色以外の灯具点灯が禁じられたことで廃止されている。


  19. ^ 当時の新京阪線急行は支線との接続がある淡路と桂に停車した。また、新京阪線では天神橋 - 淡路間の新淀川橋梁において荷重制限により速度制限が課されていた。


  20. ^ 主回路の直並列切替の構成が変更されなかったため、直列動作時には端子電圧750Vが300Vと公称値でさえ本来の定格値の半分以下となった。


  21. ^ 最初に片運転台化されたのは、戦災復旧車の1509であった。


  22. ^ 共に内部の制御段数がES-504-Aの9段から13段に増えており、特に起動加速時の衝撃が減少することによる乗り心地改善が顕著であった。


  23. ^ 制御段数が、直列11段・並列10段(他に弱界磁起動1段)を持つ多段式制御器で、さらにこの制御器を装備した車両はES-553装備車と比較して主電動機の限流値が引き上げられたため、車両性能が向上している。


  24. ^ 131を除く。131は後に制御車化されて1525となった。


  25. ^ ES-559を装備。後に欠番を埋める形で131に改番された。


  26. ^ ATS設置時あるいは後述のAEブレーキ化に際し、接点箱を追加してME23相当に改造。


  27. ^ あるいは電磁給排弁とも称する。これ自体は元来1920年代に主としてM弁やP弁搭載車で長大編成化を実現するため、アメリカでWABCOによって開発されたものである。日本では第二次世界大戦前に鉄道省の手で台車シリンダー方式と併せて試験が行われたがこの時は試験に留まり、戦後国鉄80系電車で16両編成化を実現する切り札としてこれが導入され、以後急速に普及した。


  28. ^ 9月16日、豪雨により上安威川橋梁(茨木市駅 - 総持寺駅間)の橋台が傾き、19日に復旧したものの重量制限が付けられたためP-6形の京都本線の使用が中止となった。


  29. ^ 一例として、空気上昇式パンタグラフは宝塚ファミリーランド電車館の屋外に保管してあったものを使用。屋上の主回路引通線(ダミー)のジャンパー栓は床下用を流用したため、原型よりもサイズが小さく栓の開き方も異なっている。


  30. ^ 腐食していた屋根板や傷みの進んだ車内内装を取り外し、骨組みの状態にまで分解した上で補修した。




出典




  1. ^ abc山口益生『阪急電車』73頁。


  2. ^ 当初敷設権は軌道特許であったが、1922年に免許に変更した。

  3. ^ abcde吉岡照雄『阪急P-6』4頁。


  4. ^ 阪急電鉄の100年トレインメモリーズ - 阪急電鉄


  5. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻348号 p.13


  6. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』12頁。

  7. ^ ab吉岡照雄『阪急P-6』11頁。


  8. ^ 阪神電車鉄道同好会「阪神~山陽直通特急の運転をめぐって」『鉄道ピクトリアルNo.711 2001年12月臨時増刊号』、電気車研究会、2001年、pp.54-60。


  9. ^ 阪急電鉄(株)鉄道本部鉄道技術第一部「宝塚線における高架化事業について」『鉄道ピクトリアルNo.663 1998年12月臨時増刊号』、電気車研究会、1998年、pp.85-90。


  10. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』29頁。

  11. ^ abcdef山口益生『阪急電車』74頁。


  12. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』47頁。

  13. ^ abcd吉岡照雄『阪急P-6』6頁。

  14. ^ abcdefghijk山口益生『阪急電車』77頁。

  15. ^ abcd山口益生『阪急電車』75頁。


  16. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』28頁。

  17. ^ ab吉岡照雄『阪急P-6』7頁。


  18. ^ 山口益生『阪急電車』88頁。


  19. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』10頁。


  20. ^ 山口益生『阪急電車』71頁。


  21. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』20頁。

  22. ^ abc山口益生『阪急電車』76頁。


  23. ^ 『株式年鑑. 昭和9年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)


  24. ^ 清水祥史『京阪電車』JTBパブリッシング <JTBキャンブックス>、2017年、pp.8-9


  25. ^ 『西院昭和風土記』西院昭和風土記刊行会、1990年、p.70。この個所の筆者は小笹稔という人物で、この話は「小学二年生」のときとある(生年は未記載)。また、文中には「特急だったらもっと速い」という記述がある。


  26. ^ 山口益生『阪急電車』29頁。

  27. ^ abcd吉岡照雄『阪急P-6』14頁。

  28. ^ abcd山口益生『阪急電車』84頁。

  29. ^ ab山口益生『阪急電車』33頁。

  30. ^ abc吉岡照雄『阪急P-6』15頁。


  31. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』16頁。


  32. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』17頁。


  33. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』18頁。

  34. ^ abc山口益生『阪急電車』78頁。

  35. ^ abcd山口益生『阪急電車』97頁。

  36. ^ ab吉岡照雄『阪急P-6』22頁。

  37. ^ abcde山口益生『阪急電車』79頁。


  38. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』23頁。

  39. ^ abcde山口益生『阪急電車』80頁。

  40. ^ ab吉岡照雄『阪急P-6』25頁。

  41. ^ abcdefg山口益生『阪急電車』81頁。


  42. ^ 吉岡照雄『阪急P-6』36頁。

  43. ^ abc吉岡照雄『阪急P-6』33頁。

  44. ^ abc吉岡照雄『阪急P-6』37頁。

  45. ^ abc吉岡照雄『阪急P-6』38頁。


  46. ^ プレス・アイゼンバーン社発行「P-6 デイ100物語」

  47. ^ ab吉岡照雄『阪急P-6』39頁。


  48. ^ 山口益生『阪急電車』132頁。


  49. ^ 『私鉄の車両5 阪急電鉄』168頁。




参考文献



  • 『日本車輛製品案内 昭和三年』、日本車輛製造株式會社、1928年

  • 『P-6 --デイ100物語--』、プレス・アイゼンバーン、1974年

  • 『鉄道ピクトリアル No.348 '78・5月増刊号 <阪急電鉄特集>』、電気車研究会、1978年

  • 『新京阪車輛構造図集』、鉄道史資料保存会、1984年

  • 『鉄道ピクトリアル No.521 '89・12月増刊号 <特集>阪急電鉄』、電気車研究会、1989年

  • 藤井信夫『車両発達史シリーズ4 阪急電鉄 京都線』、関西鉄道研究会、1995年

  • 『鉄道ピクトリアル No.663 '98・12月増刊号 <特集>阪急電鉄』、電気車研究会、1998年

  • 吉岡照雄『RM LIBRARY 110 阪急P-6 -つばめを抜いた韋駄天-』、ネコ・パブリッシング、2008年

  • 『鉄道ファン』1974年12月号 No.164 「よみがえる116 阪急P6復元される」、交友社

  • 山口益生『阪急電車』JTBパブリッシング、2012年。ISBN 4533086985。

  • 飯島巌『復刻版・私鉄の車両5 阪急電鉄』ネコ・パブリッシング、2002年。ISBN 9784873662886。



外部リンク








  • 阪急 100形 - 消えた鉄道写真館(鉄道ホビダス)


  • RMライブラリー『阪急P-6 つばめを抜いた韋駄天』。 - 編集長敬白アーカイブ(鉄道ホビダス)


  • 阪急100系電車(模型店の株式会社北総レール倶楽部のサイト、1963年(昭和38年)撮影の写真 のアーカイブ)





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