フランス革命
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フランス革命 | |
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『サン・キュロットに扮した歌手シュナール』 (1792年、ボワイユ画) | |
種類 | 市民革命 |
目的 | 自由・平等・友愛 |
対象 | 旧体制(アンシャン・レジーム) |
結果 | 王政と旧体制が崩壊 封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立 革命の結果による国有財産の所有者の移動が追認された。 ナポレオン・ボナパルトの台頭 フランス革命戦争の発生 |
発生現場 | フランス王国 |
指導者 | フランス革命関連人物一覧 |
関連事象 | ハイチ革命 フランス7月革命 フランス2月革命 奴隷制廃止運動 |
フランスの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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フランス ポータル |
フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution 1789年5月5日 – 1799年11月9日[1])は、フランスの資本主義革命(ブルジョア革命)[2]。フランス革命を代表とする資本主義革命は、封建的な残留物(身分制や領主制)を一掃し、
資本主義の発展(法の下の平等・経済的自由・自由な私的所有等)
資本主義憲法の確立(人民主権・権力分立・自由権(経済的自由権)等の人権保障を中心とする原理、典型例としてフランス憲法)
を成し遂げた[2][3]。
フランス革命はアメリカ独立革命と共に、資本主義革命の典型的事例である[2]。フランスでは旧支配者(宗教家・君主・貴族)の抵抗が極めて激しかったため、諸々の階級の対立・闘争が最も表面化した[2]。
目次
1 概要
1.1 経緯・展開
2 革命前夜
2.1 時代背景
2.2 深刻な財政危機
2.3 全国三部会の召集
2.4 球戯場の誓い
3 革命勃発
3.1 バスティーユ襲撃
3.2 ヴァレンヌ事件
3.3 革命戦争と8月10日事件
3.4 共和政の成立
3.5 ジャコバン派独裁
3.6 テルミドール9日
4 その後
5 革命思想・制度
5.1 キリスト教との関係
5.2 革命暦
5.3 メートル法
5.4 貴族制について
5.5 奴隷制について
6 フランス革命を扱った作品
6.1 小説
6.2 楽曲
6.3 ミュージカル
6.4 バレエ
6.5 オペラ
6.6 映画
6.7 漫画
6.8 アニメ
6.9 コンピュータゲーム
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 文献リスト
9 関連項目
概要
フランス革命は世界史上の代表的な市民革命であり、前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命。フランス革命戦争を通して、カリブ海から中東まで戦争が波及した。歴史家はフランス革命を世界史の中で最も重要な出来事の一つであると見なしている[4][5][6]。
1787年にブルボン朝の絶対王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱は、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わった。さらに1794年のテルミドール反動ののち退潮へ向かい、1799年にナポレオン・ボナパルトによるクーデターと帝政樹立に至る(1799年11月9日のブリュメール18日のクーデター[注 1])。一般的には1787年の貴族の反抗から1799年のナポレオンによるクーデターまでが革命期とされている。
フランスの王政とアンシャン・レジームが崩壊する過程で、封建的諸特権が撤廃されて近代的所有権が確立される一方、アッシニア紙幣をめぐって混乱が起こった。
経緯・展開
当時のフランスでは啓蒙思想家であるルソーや百科全書派であるヴォルテールにより、社会契約説が多くの知識人に影響を与えた。それに共感した国民が当時の社会体制(アンシャン・レジーム)に対する不満を鬱積させた。ブルボン朝政府、特にルイ16世はこれを緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との乖離を埋めることはできなかった。
1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱が発生し、第三身分(平民)らによる国民議会(憲法制定国民議会)が発足し、革命の進展とともに絶対王政と封建制度は崩壊した。
革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主達はこれに干渉する動きを見せ、反発する革命政府との間でフランス革命戦争が勃発した。フランス国内でも、カトリック教会制度の見直し、ルイ16世の処刑等のギロチンの嵐、ヴァンデの反乱といった内乱、ジャコバン派の恐怖政治、繰り返されるクーデター、それらに伴った大量殺戮などによって混乱を極めた。革命は1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清で転機を迎えたが、不安定な状況は1799年のブリュメールのクーデターや1801年にフランス政府がローマ教皇とコンコルダートを結んで和解するまで続いた。最終的な決着は、第三共和政の成立を待たねばならず、革命勃発より80数年がかかった。
その後多くの国家がフランス革命時に掲げられた理念を取り入れている。民法、メートル法など、フランス革命が生み出した制度も後世に受け継がれた。
革命前夜
時代背景
18世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等主義、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等をアメリカ独立宣言で掲げて独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。プロイセンやロシアでも、絶対君主制の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとした啓蒙専制君主が現れた。アンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家を中心に高まっていたのである。
しかしフランスでは18世紀後半でも、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていた。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていたのである。
深刻な財政危機
1780年代、フランスでは45億リーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来続いた対外戦争の出費と宮廷の浪費、ルイ15世時代の財務総監ジョン・ローの開発バブル崩壊など、先代、先々代からの累積債務がかさんでいたことで、それに加えて新王ルイ16世が後述の財政改革の途中にアメリカ独立戦争への援助などを行い、放漫財政を踏襲したことで破産に近づいた。当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9倍の赤字を抱えていた事になる。
そこで国王ルイ16世は1774年ジャック・テュルゴーを財務長官に任命し、財政改革を行おうとした。第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、テュルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。しかし貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま1776年に財務長官を辞任する。
ルイ16世は次に銀行家ネッケルを財務長官に任命した。ネッケルは反対の大きい税制改革よりも構造改革によるリストラと募債によって財務の改善をめざしたが、失敗して赤字幅を逆に増やし、続いて免税特権の廃止によって税務の改善を図ったが、特権身分の反対にあってやはり挫折し、1781年に罷免された[8]。
また大きな背景要因として、1783年にアイスランドの地で起きていたラキ火山噴火噴煙によるヨーロッパ全域での日照量激減によってもたらされた農作物不作が上げられ、これは収穫量減少と飢饉を引き起こした[9][注 2]。これにより都市部への穀物供給は滞り、食糧事情を悪化させただけでなく、小麦の価格が前年に比べて4割も高騰し[10]パンの価格の上昇による貧困を生み出した。国庫収入も激減し、債務償還も暗礁に乗り上げる。
全国三部会の召集
ネッケルの後任財務長官たちも課税を実現しようとしたが(1783年,カロンヌ-1785年,ブリエンヌ)、特に貴族階級の抵抗で辞職に追い込まれ、1788年、再び招聘されたネッケルは三部会の開催を就任の条件とした(参照:ジャック・ネッケル)。
パリ高等法院[11]は、全国三部会[注 3]のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた[12]。国王は1788年7月に全国三部会の開催を約束した。翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、ヴェルサイユで開会式が行われた。国王は三部会を主導しての問題解決を目論んでいた。しかし税の不平等負担への第三身分の鬱積はすでに頂点に達しており、複雑化・多様化した国内事情ゆえ、従来の身分制では問題を解決できなかった。
三部会が始まるとすぐに議決方法で議論が紛糾した。特権階級である第一、第二身分は利害を同じにするのでほぼ同じ意見を持っており、身分ごとに議決を行う方法を主張した。つまり第一、第二身分の部会が同じ議決を行えば、第三身分の部会が否決しても、2対1で可決されるという方式である。これに対し第三身分は全ての議員1人が1票を持つ、三部会合同の議決を主張した。第三身分の議員の人数(621名)が、第一(308名)・二身分(285名)の合計よりも多かったことから、第三身分の総意が議決を決めるというわけである。議決方法をめぐる討議は40日間も堂々巡りを続けた。
球戯場の誓い
議論が進まない事に愛想をつかした第三身分の代表達は、三部会に見切りをつけ、自分達だけの議会「国民議会」を発足させる。そしてヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集まり、憲法を制定する事と国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しない事を誓った(球戯場の誓い・テニスコートの誓い)。ただし、ミラボーや一部の議員の中には、国王の承認なしに議会をフランスの代表とする事に懸念を示す者もいた。
第一身分、第二身分代表中にも、アンシャン・レジームに無理がある事を理解している者がおり、そうした者たちも国民議会に参加した。国民議会との軋轢を避けたいルイ16世は、国民議会を正式な議会として承認し、王の説得により他の第一身分・第二身分の議員も合流した。承認を得た国民議会は憲法制定国民議会と改称して憲法制定に着手する。内心では議会を承服しかねるルイ16世ではあったが、事態を収拾し、改革の芽を残すには止むを得ない手段であった。しかし特権貴族や王族はこれに反対し、第三身分に圧力をかけるため、軍隊をヴェルサイユとパリに集結させる事を国王に強要した。
革命勃発
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バスティーユ襲撃
国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7月11日に国民に人気のあったジャック・ネッケルが罷免された。これに怒った民衆は、1789年7月14日、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃した。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。
これらの動きを受け、憲法制定国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を宣言し、8月27日に人権宣言を採択した。この時点ではまだ国王が主権者であったので、法律の制定には国王の承認が必要であった。しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を拒絶し、これらの宣言を承認しなかった。王妃マリー・アントワネットが、第三身分を侮蔑していたのを始め、国王の周囲は強硬派で占められていたのである。
政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめると、10月5日、パリの数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求する。一部は暴徒と化したため、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女等に連れられてパリのテュイルリー宮殿に家族と共に移り住む。これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになる。
この時期の革命は、ミラボー、ラファイエットら立憲君主制派によって指導されていた。市民軍は自由主義貴族のラファイエットを総司令官に任命し、1790年、彼の提案により三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となった。
ヴァレンヌ事件
革命勃発により、貴族や聖職者など特権階級の多くが国外へ亡命を始めていた。1791年、国王と民衆との仲介者であったミラボーが死ぬと、過激化する革命を嫌ったルイ16世は、マリー・アントワネットの愛人とされるスウェーデン貴族フェルセンの助けを借り、王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようと企てた。
6月20日、ルイ16世一家はパリを脱出するが、国境の手前のヴァレンヌで国民に見つかり、6月25日にパリへ連れ戻される。この事件はフランス国民に衝撃を与え、同時にルイ16世の反革命思考が暴露される。革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンとがピルニッツ宣言を発表し(8月27日)、ルイ16世の地位を保証しないと戦争をしかけると脅したので、ルイ16世は国王に留まることとなった。しかし、それまでは比較的多数を占めていた国王擁護の国民からの支持を失う。
9月、正式に憲法が制定された(1791年憲法)。この憲法は君主制のもとで、平民であっても一定以上の税金を納めたものには選挙権を認めた。10月になると最初の選挙が行われ、新しい議会「立法議会」が成立した。立法議会では、立憲君主制を守ろうとするフイヤン派と、共和制を主張するジロンド派の2派が力を持った。ジロンド派は裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民(ブルジョワジー)を支持層としていた。
革命戦争と8月10日事件
ピルニッツ宣言や王党派亡命貴族(エミグレ:移民という意味)による扇動活動は、革命政府に対する重大な脅迫であると受け止められた。ジロンド派内閣は革命維持のため対外戦争に踏み切る。1792年4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発した。しかしフランス軍の士官達は貴族階級であるので革命政府に協力的ではなく、フランス軍は各地で戦いに敗れた。マリー・アントワネットは敵方にフランス軍の作戦を漏らしていた。
プロイセン軍が国境を越えてフランス領内に侵入すると政府は祖国の危機を全土に訴え、それに応じてフランス各地で組織された義勇兵達がパリに集結した。このときマルセイユの義勇兵が歌っていた歌『ラ・マルセイエーズ』は後のフランス国歌となった。パリ市民と義勇兵は、フランス軍が負ける原因はルイ16世とマリー・アントワネットが敵と内通しているからだと考え、8月10日にテュイルリー宮殿を攻撃し、王権を停止して国王一家を全員タンプル塔に幽閉した(8月10日事件)。
この事件の際、テュイルリー宮殿において国王一家の身辺警護を行っていたスイス衛兵隊はルイ16世から民衆への発砲を禁止されたためにその多くが民衆に虐殺された。スイス衛兵隊以外にも一部の貴族や兵士が国王一家の身を守るために奮戦したが、その中にはアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランやフランソワ・ド・シャレット、ルイ・ド・レスキュール、ジャン=ニコラ・ストフレなど、後のヴァンデの反乱において指導的役割を果たす面々が含まれていた。その後、ダントンの演説をきっかけに、9月2日から反革命派狩りが行なわれ、数日間にわたる虐殺が行なわれた(九月虐殺)。
フランス軍はヴァルミーの戦い(9月20日)を期に反攻に転じ、敵軍を国境外まで押し戻した。この過程で、義勇兵に参加した多くの下層民階級(サン・キュロット)の政治的発言権が急速に増大した。サン・キュロットは急進的政策を掲げるジャコバン派を支持し、革命は極左化していった。ジャコバン派には、ロベスピエール、マラー、ダントン等が所属していた。このときの革命戦争の開始にともなうアシニアAssignat紙幣(教会の土地などを担保とした不換紙幣)の増発(額面の57%に急落)は、のちに1794年の最高価格令廃止とともに発生した急激なインフレーションの一因となった。
一方、黒人奴隷制プランテーション農業により、全ヨーロッパの需要の半分以上を供給した砂糖やコーヒーの栽培により、フランスに多大な利益をもたらしていたカリブ海の植民地のサン=ドマングでは、人権宣言によってムラート(白人と黒人の混血)の自由人に選挙権が認められるか否かを巡って現地の白人クレオール[要曖昧さ回避]とムラートの間で抗争が発生していたが、1791年8月22日にヴードゥー教の高僧デュティ・ブークマンが黒人奴隷を率い、解放を求めて反乱を起こすと、サン=ドマングはイギリス、スペインの介入を招いて大混乱に陥った。混乱するサン=ドマング情勢の最中、フランスの立法議会は1792年4月4日に有色人自由人の平等を決議し、ムラートを味方につけようとしたが、植民地の大多数を占めた黒人奴隷の不満は収まらなかった。
共和政の成立
9月、1年前に制定された憲法である「1791年憲法」に基づいていた立法議会が廃止された。そして財産や納税額によらず全ての男子に選挙権が与えられる普通選挙が制度化され、選挙によって新しい議会「国民公会」の議員が選ばれた。9月21日、国民公会は、王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言した。これにより「1791年憲法」はわずか1年で廃止された。
共和政府はルイ16世を革命裁判にかけた。国王が戦争の際にフランス政府と国民を裏切っていた証拠が数多く提出され、1793年1月14日の国民公会は賛成387対反対334でルイ16世の死刑を議決した。1月21日、2万人の市民が見守る中、ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑された。10月にマリー・アントワネットも、後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中を引き回された末に処刑された。国王に死刑票を投じた議員たちは、「国王殺し」として後に報復を受けることになる。彼らは、後の復古王政において、権力の座に復帰した王党派から仇敵として白色テロの標的とされるのである。
ジャコバン派独裁
ルイ16世の処刑を機にイギリス、スペイン、サルデーニャ王国などを反革命に立たせることになった。イギリスを中心に第一次対仏大同盟が結成され、各国の軍がフランス国境を越えた。革命政府は「30万人募兵」を布告するが、これへの反発からヴァンデの反乱が発生し、王党派と結びついて拡大した。テロリズムも続発し、国内情勢は不安定になっていた。
これらの危機に加えて、ジロンド派が下層市民の食糧危機に対して何ら政策を講じない事を宣言すると、下層市民の怒りが爆発する。1793年6月2日、下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放し、ロベスピエールが権力を掌握した。
ジャコバン派は独裁政治を開始する。公安委員会・保安委員会・革命裁判所などの機関を通して恐怖政治を実行し、反対派を次々とギロチン台に送った。さらにロベスピエールは、エベール派とダントン派を粛清して、農民に対する土地の無償分配など自己の理想とする独立小生産者による共和制の樹立を目指した。法律による保護や人身の自由、所有の権利をうたった「人権宣言」は、空文にすぎなかった。ジャコバン派は、1793年8月23日に「国家総動員」を布告して徴兵制度を実施し軍備を整え、諸外国の干渉戦争への反撃に成功した。
このように、フランス本土では恐怖政治が進んだが、他方でサン=ドマングでは1793年8月29日にフランス本土から派遣された国民公会議員のレジェ=フェリシテ・ソントナが奴隷制の廃止を独断で宣言し、この宣言を追認したロベスピエールとジャコバン派は1794年2月4日に国民公会でプリュヴィオーズ16日法を可決し、西欧世界初の植民地も含めた全面的な奴隷制廃止が決議された。こうしてルイジアナ、ギアナ、サン=ドマング、マルティニーク、グアドループなどアメリカ大陸の広大な地域で黒人法(フランス語: Code Noir)の下プランテーション農業に縛られていた黒人奴隷は解放され、自由人となった。このことはイギリスに走っていたサン=ドマングの黒人実力者トゥーサン・ルーヴェルチュールのフランス復帰をもたらした。
テルミドール9日
すでに参政権を得た下層市民、無償で土地を得て保守化した農民、さらにはインフレによる生活圧迫や恐怖政治によって自らの生命をも脅かされていた反ロベスピエール派は、密かにその打倒を計画する。1794年7月27日(フランス革命暦テルミドール9日)午前11時、国民公会に側近のサン=ジュストを伴って出席したロベスピエールは、議長デルボワや議員タリアン、ビョーヴァレンヌらによって糾弾される。
場内から「暴君を倒せ」と野次が上がる中、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求し、午後3時、ロベスピエール、クートン、サン=ジュスト、ル・バ、オーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエールの弟)らを逮捕する決議が通過した。翌28日、ロベスピエールら22人はギロチンで処刑された。
その後
ロベスピエール一派の粛清によって革命は転換点を迎えた。過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。1795年10月26日、国民公会が解散されて総裁政府が成立したが、フランソワ・ノエル・バブーフによる陰謀が持ち上がるなど体制は不安定であった。1799年、ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立した。
革命によって生まれたフランス第一共和政は、ナポレオン独裁による執政政府の開始によって約10年で終わった。さらに、ナポレオンによるフランス第一帝政を経て、ナポレオンの失脚後にはブルボン王朝が復活した(フランス復古王政)。
革命思想・制度
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キリスト教との関係
1790年8月3日、政府はユダヤ人の権利を全面的に認めた。1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。こうして、クリュニー修道院やサント=ジュヌヴィエーヴ修道院などの由緒ある教会・修道院が破壊されると共に蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。破壊を免れた教会や修道院も、モン・サン=ミシェル修道院のように、牢獄や倉庫、工場などに転用された。
エベールらは「理性」を神聖視し、これを神として「理性の祭典」を挙行した。ロベスピエールは、キリスト教に代わる崇拝の対象が必要と考え、「最高存在の祭典」を開催した。しかし、ロベスピエールが処刑され、一度きりに終わり定着しなかった。
その後もカトリック教会への迫害はしばらく続いたものの、1801年にナポレオンがローマ教皇とコンコルダートを結んで和解した。
なお、このような経緯を経たが、「革命は宗教を否定するものではない」とする主張もある。
革命暦
暦法として当時から採用されていたグレゴリオ暦は1582年にローマ教皇(グレゴリウス13世)によって制定されたものである。革命政府は、グレゴリオ暦は既存宗教(カトリック)との繋がりが深く、不合理であると考え、1793年にこれに代わるフランス革命暦(「共和暦」とも)を制定した。しかし革命暦は秋分を年始とするほか、10日周期の週や、1日を10時間、1時間を100分とする時間の単位など十進法を用いて合理性を追求しており、これまでの生活習慣と大きく異なるものであった。このため革命暦は不評で、ナポレオンが即位した後の1805年に廃止され、グレゴリオ暦が復活して今日に至っている。
メートル法
当時のフランスでは度量衡が統一されていなかったが、単位制度として1791年にメートル法が定められた。メートル法は定着までには時間を要したが、今日では国際単位系として世界における標準的な単位系となっている。
貴族制について
革命によって貴族が一掃されたわけではなく、貴族達の中にも革命側に加わったものや、一旦は亡命したもののナポレオン時代以後にフランスに復帰した貴族も多い。19世紀中頃以後は彼らの多くは地主や資本家への転身を図り、今日でもフランス各界においてその子孫達は活躍している。ド・ゴールやジスカール・デスタン、ド・ビルパンは、革命以前からの貴族出身である。
奴隷制について
人権宣言が発せられた際に、全ての人間にとって普遍的で権利であるはずの人権は、啓蒙思想などによって「理性を持たない半人間」とされたフランスの植民地に住むムラート(白人と黒人の混血)や黒人(そしてインディアン、インディオ)には認められず、1791年にブークマンに率いられた黒人奴隷が大反乱を起こすまで奴隷制についての真剣な努力はなされなかった。1793年のレジェ=フェリシテ・ソントナによる奴隷制廃止宣言や、1794年のジャコバン派による正式な奴隷制廃止決議は、1791年に始まったサン=ドマングの黒人大反乱による植民地喪失の危機から植民地を防衛するためになされたものであり、決して人権宣言の理念に直接基づいてなされたものではなかったが[13]、それでもジャコバン派による植民地をも包括した全面的な奴隷制廃止は近代西欧世界史上初となる画期的なものであった。この後ナポレオン・ボナパルトはトゥーサン・ルーヴェルチュールが実権を掌握していたサン=ドマングの再征服を計画し、奴隷制の復活を画策したが、解放された黒人の支持を得られなかったため、サン=ドマングは1804年1月1日に世界初の黒人共和国ハイチとして独立を達成した(ハイチ革命)。
この結果として、ハイチ革命後のフランス人の頭の中では、奴隷制の廃止が植民地の喪失とイコールで結ばれることになり[14]、後のフランスにおける奴隷制は1848年に第二共和政下でヴィクトル・シュルシェールが廃止を実現するまで続くことになった。
フランス革命を扱った作品
ラ・マルセイエーズ ラ・マルセイエーズは1792年の革命最中に作成された。 | |
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小説
- 『二都物語』(チャールズ・ディケンズ、1859年)
- 『九十三年』(ヴィクトル・ユーゴー、1874年)
- 『紅はこべ』(バロネス・オルツィ、1905年)
- 『神々は渇く』(アナトール・フランス、1912年)
- 『王妃マリー・アントワネット』(遠藤周作、1979年 - 1980年)
- 『フーシェ革命暦』(辻邦生、1989年)
- 『黒い悪魔』(佐藤賢一、2003年) - 軍人として革命に加わったムラート、大デュマの父トマ=アレクサンドル・デュマの生涯を描く。
- 『小説フランス革命』(佐藤賢一、2008年 - 2013年)
- 『クロコダイル路地』(皆川博子、2016年)
- 『レ・ミゼラブル』(ヴィクトル・ユーゴー、1862年)
楽曲
- 『Nouvelle Vague』
ミュージカル
- 『酔いどれ公爵』(演出・主演:千葉真一、1985年)
- 『マリー・アントワネット (ミュージカル)』(日本初演:2006年)
- 『1789 -バスティーユの恋人たち-』(日本初演:2015年)
- 『眠らない男・ナポレオン -愛と栄光の涯に-』
バレエ
- 『パリの炎』
オペラ
- 『アンドレア・シェニエ』(ウンベルト・ジョルダーノ作曲、1896年初演)
- 『カルメル派修道女の対話』(フランシス・プーランク作曲、1957年初演)
映画
- 『ダントン』(アンジェイ・ワイダ、1983年)
漫画
- 『ベルサイユのばら』(池田理代子) マリー・アントワネットの生涯を描くが、その背景としてのフランス革命を描いている。
- 『ナポレオン -獅子の時代-』(長谷川哲也)
- 『杖と翼』(木原敏江)
- 『静粛に、天才只今勉強中!』(倉多江美) - フーシェをモデルにした男が革命からナポレオン時代までを生き抜く話。
惣領冬実『マリー・アントワネット』 - 「週刊モーニング」(講談社)で連載が開始された全4話の構成の漫画。史上初のヴェルサイユ宮殿による監修。中傷ビラと当時の新聞で捏造された愚鈍で気弱な夫と浪費家の悪妻という汚名を着せられたルイ16世とマリー・アントワネットの事実を描く漫画。
乃木坂太郎『第3のギデオン』 - 「ビッグコミックスペリオール」(小学館)で連載されている漫画。資料・文献提供:山中聡。
アニメ
- 『ラ・セーヌの星』(フジテレビ、1975年) - フランス革命を背景に主人公シモーヌ・ロランが虐げられる民衆を救うべく仮面の剣士「ラ・セーヌの星」と名乗り、義賊「黒いチューリップ」ロベール・ド・フォルジュと共に戦うアニメーション作品。
コンピュータゲーム
- 『アサシン クリード ユニティ』(ユービーアイソフト、2014年)
脚注
注釈
^ その途中の1794年7月27日のテルミドール9日のクーデターの政治変動までの扱いとする場合や、より長く1830年の七月革命で大団円を迎えたという説もある。前者はミシュレやマチエ、後者はカール・マルクス[7]。
^ 1784年4月の平均気温は7.1度で1781 - 1795年の15年間で一番寒い春であり、農作物は大変な不作であった[9]。
^ États généraux, 各身分の代表から構成される身分制議会。
出典
^ フランス版Wikipedia
- ^ abcd『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ブルジョア革命」
^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「ブルジョア憲法」
^ Linda S. Frey and Marsha L. Frey, The French Revolution (2004), Foreword.
^ R.R. Palmer and Joel Colton, A History of the Modern World (5th ed. 1978), p. 341
^ Ferenc Fehér, The French Revolution and the Birth of Modernity, (1990) pp. 117–30
^ 岡本 (1992)[要ページ番号]
^ 高橋誠一郎「古版経済書解題 一千七百七十五年版ジャック・ネッケル著 穀物立法及び穀物商業論」、『三田学会雑誌』第136巻第2号、慶應義塾理財学会、1942年2月、 39頁、 NAID 120005373911。
- ^ ab石 (2012), p. 110。
^ 石 (2012), p. 111。
^ Parlement de Paris
^ ルフェーブル (1998)[要ページ番号],「全国三部会」。
^ 平野 (2002), pp. 28-32。
^ 平野 (2002), p. 34。
参考文献
- 石弘之 『歴史を変えた火山噴火 - 自然災害の環境史』 刀水書房〈世界史の鏡 環境 1〉、2012年1月。ISBN 978-4-88708-511-4。
- 岡本明 『ナポレオン体制への道』 ミネルヴァ書房、1992年7月。ISBN 978-4-623-02150-5。
- 平野千果子 『フランス植民地主義の歴史』 人文書院、2002年2月。ISBN 4-409-51049-5。
- ルフェーブル, ジョルジュ 『1789年 - フランス革命序論』 高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1998年5月。
- 『フランス革命』ポール・ニコル著、金沢誠・山上正太郎共訳、白水社文庫クセジュ
山﨑耕一『フランス革命―「共和国の誕生」』刀水書房、2018年10月。ISBN 978-4-88708-443-8。
文献リスト
さらに理解を深めるための文献を以下に紹介する(発行年順)。
トーマス・カーライル『フランス革命史1〜6』柳田泉訳、春秋社、1947年、48年 [原著1837年]。- モナ・オズーフ『革命祭典』立川孝一訳、岩波書店、1988年7月 [原著1984年]、ISBN 978-4000003223。
ミシェル・ヴォヴェル『フランス革命の心性』立川孝一ほか訳、岩波書店、1992年5月 [原著1985年]、ISBN 978-4-00-003622-1。- 松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『フランス史 2 16世紀 - 19世紀なかば』山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46100-0。)
ハンナ・アーレント『革命について』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1995年6月 [原著1963年] ISBN 978-4480082145。- 遅塚忠躬『フランス革命 - 歴史における劇薬』岩波書店〈岩波ジュニア新書 295〉、1997年12月。ISBN 978-4-00-500295-5。
アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉1998年1月[原著1856年]、ISBN 978-4480083968。- 『フランス革命事典 2』フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ編、河野健二ほか監訳、みすず書房〈人物 1 みすずライブラリー〉、1998年12月 [原著1988年]。ISBN 978-4-622-05033-9。
- 柴田三千雄『フランス革命』岩波書店〈岩波現代文庫 学術 189〉、2007年12月。ISBN 978-4-00-600189-6。
カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』植村邦彦訳、平凡社〈平凡社ライブラリー 649〉、2008年9月。ISBN 978-4-582-76649-3。
二宮宏之「フランス絶対王政の統治構造」(『二宮宏之著作集 3 ソシアビリテと権力の社会史』岩波書店、2011年12月、ISBN 978-4-00-028443-1。)- 柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか 革命史再考』福井憲彦・近藤和彦編、山川出版社、2012年4月。ISBN 978-4-634-64055-9。
関連項目
- ハイチ革命
- 奴隷制廃止運動
- フランス革命の年表
- フランス革命関連人物一覧
- フランス革命戦争
- フランス7月革命
- フランス2月革命
- フランス革命の省察
- ナポレオン・ボナパルト
- アメリカ大陸諸国の独立年表
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