ミック・ジャガー












































ミック・ジャガー
Mick Jagger

Mick Jagger Deauville 2014.jpg
2014年

基本情報
出生名
Michael Philip Jagger
生誕
(1943-07-26) 1943年7月26日(75歳)
出身地
イングランドの旗 イングランド
ケント州ダートフォード
ジャンル
ロックンロール、ブルース・ロック、ブルース、レゲエ、ファンク、ディスコ
職業
歌手
シンガーソングライター
音楽プロデューサー
俳優
担当楽器
ボーカル
ハーモニカ
ギター
ベース
キーボード
パーカッション
活動期間
1962年 - 現在
共同作業者
ローリング・ストーンズ
公式サイト
MickJagger.com

サー・マイケル・フィリップ・ジャガー(Sir Michael Philip Jagger、1943年7月26日 - )は、イギリスのロック・ミュージシャン、俳優。「ミック(Mick)」の愛称で知られる。イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズのボーカルとして世界的に有名。ストーンズのギタリストであるキース・リチャーズと「ジャガー/リチャーズ」の名義で数々のヒット曲を生み出した。また、1974年からはキースと「グリマー・ツインズ」[1]というプロデュース・ユニットを組みセルフ・プロデュースを行っている。身長173cm。


ローリング・ストーンズのアルバム「スティール・ホイールズ」のレコーディングに参加している他、ソロアルバムを二枚リリースしているクリス・ジャガーはミックの実弟である。


「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第16位。




目次






  • 1 人物


  • 2 来歴、デビューから1979年まで


  • 3 私生活


  • 4 1980年以降の活動


  • 5 日本公演


  • 6 資産家


  • 7 その他:健康/趣味


  • 8 ソロワークス


    • 8.1 アルバム


    • 8.2 シングル


    • 8.3 映画


    • 8.4 テレビドラマ


    • 8.5 テレビアニメ




  • 9 関連項目


  • 10 脚注


  • 11 外部リンク





人物


体育教師ジョー・ジャガー(1913〜2006)とエヴァ・ジャガー(1913〜2000)の息子として、ケント州ダートフォードで生まれる。母のエヴァは、イギリス保守党の活動的な党員だった[2]。家庭は上層中流(中流の上)で、ミックは育ちが良くきれいな英語を話す。ストーンズの中ではブライアン・ジョーンズも中流階級の出身である。ミックは、美術学校やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだ。後のローリング・ストーンズのギタリストとなるキース・リチャーズとは幼い頃より知り合いだった。しかし、それは互いに顔と名前を知っている程度のもので、友人同士だったというわけではない。10代でロックに目覚め、「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」というバンドで活動した。18歳の頃に、ダートフォード駅でキース・リチャーズと出会う。キースによれば、この時ミックはマディ・ウォーターズとチャック・ベリーのレコードを所持して佇んでいたという。このエピソードについては、疑問をさしはさむ見方もある。なお憧れのマディ・ウォーターズとは、81年に共演を果たしている[3]。再会によりお互いがロックンロールとR&Bに興味があることを知り、一緒に活動を始めるきっかけとなり、後にローリング・ストーンズの活動へと繋がっていくことになる。二人はその後ロンドンに移り住み、1962年4月にブライアン・ジョーンズと出会い、そのスライド・ギターに衝撃を受けた。こうして彼らはバンドを結成し6月頃に初めてローリング・ストーンズと名乗るようになった。その後ローリング・ストーンズのデビュー・シングル「Come On」は、1963年6月7日にリリースされプロ・デビューした。1968年からは俳優、監督業も行うようになっており、いくつかの映画に俳優として、あるいは監督として映画を製作している。


ストーンズとしてデビューしてからは、数十年にわたってロックの第一線で活動を続けている。元々ブルースなどの黒人音楽から強い影響を受けており、それをベースにしたサウンドを根ざし、また新し物好きでもある。最新の機材や技術はもちろんのこと、流行の音楽などに対しても敏感に反応してきた。それらは60年代から現在まで一貫していて、ストーンズは当然のこと、ソロ・ワークスなどでもいかんなく発揮されている。ミックはブルース、ソウル、R&B、ファンク、レゲエ、ディスコなど、黒人音楽の流行に目配りをし、ストーンズのサウンドに取り入れてきた。そうした努力による成功例も多い。これまでのロックよりもベースを強調した「悪魔を憐れむ歌」(1968)、当時のディスコ・ビートを導入したが、ブルース・ロックの影響も強い代表曲「ミス・ユー」(1978)などはその代表的な例である。これらは名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、相方であるキースのインタビューなどから、ミックのアイディアだとされる。


奨学金を貰ってロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていたミックは、ストーンズとしてデビューした後もしばらくは、プロ・ミュージシャンになるか国税局に就職するか随分迷いがあったという。2010年現在、アメリカ合衆国の反捕鯨団体シーシェパードの後援者として名を連ねている[4]



来歴、デビューから1979年まで


ストーンズのメイン・クリエイターの一人であるキースとともに、「ジャガー/リチャーズ」として数多くの楽曲を生み出している。ミックが初めてオリジナルを書いたのは1964年のことだといわれていて、ビートルズや他のオリジナル楽曲で活動するミュージシャンなどの影響により、オリジナル楽曲を中心に制作するようになっていった。当時のストーンズは初めカヴァー曲を中心に活動し、あるいはレコーディングに及んでいたため、オリジナル楽曲はまだなかったが、すでにビートルズの大きな成功を目の当たりにしていた彼らは、成功するにはオリジナル楽曲の必要性を迫られていた。このために、当時のマネージャーであったアンドリュー・オールダムによって、キースとともにキッチンに閉じ込められるという信じられないようなエピソードもある。この中でオリジナルといえるような楽曲が数曲できあがった。その中に「テル・ミー」や当時ミックの恋人であったマリアンヌ・フェイスフルに提供してヒットし、さらには自身たちでレコーディングし直してヒットとなった「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」などが含まれていた。その後、「サティスファクション」(1965)や「一人ぼっちの世界」、「黒くぬれ!」(1966)などの世界的なヒット曲を生み出していき、ジャガー/リチャーズはレノン=マッカートニーに並ぶ新しいソングライティング・チームとして成長していった。その後も「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「ハッピー」「悲しみのアンジー」「イッツ・オンリー・ロックンロール」「フールズ・クライ」「ミス・ユー」などの優れた楽曲を発表していった。78年までは好調を維持したミックとストーンズだったが、79年に発表した「エモーショナル・レスキュー」は彼らの行き詰まりを感じさせ、不評だった。


ストーンズとして多忙ながらも順調な活動を続けてきたミックであるが、1967年にはキース、ブライアンとともに薬物禍があった。活動の短期間停止を余儀なくされる。このため毎年行われていたツアーなどは一切行われず、公判にて決着がつくまでイギリス国内に留まることを裁判所より命令が下った。1968年5月、ミックは映画に出演することを発表。この映画『青春の罠』(Performance)は同年7月にクランク・インし、1970年に公開された。この作品は裁判のためにバンド活動ができなくなったミックがその機会に、かねてより興味のあった映画業界にも挑戦したいという意向の表れだった。以降ミックは映画業界で俳優、監督業にも手を伸ばすようになった。こうした経緯から同作のサウンドトラックに提供された楽曲「メモ・フロム・ターナー」は、ジャガー初のソロ・シングルとしてもリリースされた。続けて1969年の5月には映画『太陽の果てに青春を』(Ned Kelly)への出演を発表。7月にオーストラリアのメルボルンでロケを行った。同作で彼は西部の殺し屋役を演じたが、映画の出来に関しては酷評している。また、ロケのため、同月のブライアンの死去に際して葬儀に行くことが出来なかった。彼はこのほかにも数々の映画に出演しているが、1997年の 『ベント/堕ちた饗宴』(Bent)では女装の歌手を演じた。



私生活




ニューヨークでの公演にて(1972年7月)


1971年5月12日、ミックはニカラグア人のガールフレンド、ビアンカ・ペレス・モラ・マシアスと結婚した。ビアンカは10月21日に娘のジェイドを出産した。1973年に歌手のマーシャ・ハントが1970年に生まれた彼女の娘の父親がミックであることをロンドンの裁判所に申し立てた。子供がミックの娘であることは6年後の1979年に判明し、ミックに対し、毎週1,500ドルを養育費としてハントに支払うようロサンゼルスの裁判所が命令を下した。その後ミックとビアンカは1979年11月に離婚、ミックは1977年頃からアメリカ人モデルのジェリー・ホールと交際を始め、1984年3月2日に娘のエリザベス・スカーレット・ジャガーが誕生、1985年8月28日には息子のジェームズ・リロイ・オーガスティンが誕生した。



1980年以降の活動


1980年代に入りミックとローリング・ストーンズは、81年にアルバム「刺青の男」を発表した。70年代末の不調を払拭するかのような傑作に仕上がり、「スタート・ミー・アップ」ほかのヒット曲が生まれた。その後ミックは1983年頃までストーンズを中心に活動したが、1984年からは本格的なソロ活動が開始された。その最初にミックはマイケル・ジャクソンとともにリード・ボーカルを担当したジャクソンズの楽曲「ステイト・オブ・ショック」をリリース。翌1985年、ビル・ラズウェルとナイル・ロジャースのプロデュースにより制作された初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を発表した。同年、デヴィッド・ボウイとのデュエットによるチャリティ・シングル「ダンシング・イン・ザ・ストリート」(1985)も発表。86年にはローリング・ストーンズ名義で、ボブ&アールをカバーした曲『ハーレム・シャッフル』を発表し、好評を博した。こうした一連の活動状況にキースは強く反発し、ストーンズとして主だった活動は1986年の『ダーティ・ワーク』を除いて1989年まで行われなくなった。こうした反面で、ミックは2ndソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』を1987年にリリースし、大々的にツアーも行うことを発表した。これにより、ミックは初めて日本の地を踏んだ。このときバンドに参加したリサ・フィッシャーやバーナード・ファウラーの二人は、以降ストーンズの活動にも関わっていくことになる。


1989年、ミックはこれまで停滞していたストーンズの活動を再開させた。アルバム・リリースとその中からのシングルカット、大規模なワールド・ツーを行い、その一環でこれまで実現していなかったストーンズの初来日公演が実現した。このツアーからミックはストーンズの活動を中心にしながら、それを挟む形でソロ活動を展開し1993年に『ワンダーリング・スピリット』、2001年にレニー・クラヴィッツをプロデューサーに迎えて制作された『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』といったアルバムをリリースした。




イタリアのサン・シーロにて(2003年)


ミックは2002年の誕生日の叙勲(英語版)で「ポピュラー音楽に対する貢献」によってナイトに叙勲され[5]、翌2003年12月12日に叙任式が行われた。この授与はすでにこの数年前より当時のトニー・ブレア首相からナイト授与の要請があったことが明かされている。ミックはストーンズやソロ活動を理由にこれを断っていたが、このとき(2003年当時)首相より「ローリング・ストーンズが40年という前人未到の活動を続ける今、あなた以上にこれ(ナイトの称号)を得るに相応しい人物はいない」といわれたという。しかし、ミックの受章に対しキース・リチャーズは「俺は勲章の授与なんて馬鹿げたことだと思ったよ。そんなことはストーンズらしくないぜ。だろ?俺はくそ忌々しい冠を付けてきざなアーミンの白い毛皮を羽織った誰かさんとステージに上がるなんてゴメンだね。俺はミックに言ってやったよ。『そいつは糞食らえの無価値な名誉だ』ってね」[1]とコメントし、これに対してミックは「キースはアイスクリームが欲しくて泣き叫ぶ子供。彼も本当は欲しいんだ」と反論している。2005年にストーンズのアルバム『ア・ビガー・バン』のレコーディングやそれに続くツアーのリハーサルを行う傍ら、ミックはその後も関係が続く元ユーリズミックスのデイヴ・スチュワートとともに映画「アルフィー」の音楽を手がけ、2007年には「ア・ビガー・バン・ツアー」の終了に前後して、自身初となるソロ・ベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』を発表する。これにはそれまでソロ・アルバムには未収録だった他のアーティストとのデュエットしたものなどが収められている。


2011年にはキャリア50年目にして初の別バンド「スーパーヘヴィ」を結成。ジャガーの他に、先の映画「アルフィー」の制作の際に関わったデイヴ・ステュアートと、ジョス・ストーン、ダミアン・マーリー(ボブ・マーリーの息子)、A・R・ラフマーンという5人組。9月21日にアルバム『スーパーヘヴィ』をリリース。さらにこの年、マルーン5がミックを題材にした楽曲「ムーブス・ライク・ジャガー(Moves like Jagger)」をリリースし、ビルボード1位を獲得している。これに制作されたPVでは、60年代から00年代までミックがライヴで着ていた衣装を再現したものを、数多くのモデルや俳優が纏い、動きもミックの真似をするというユニークなものとなっている。制作された当初のPVを閲覧した際、ミックが「自分の映像がフィーチャーされすぎているので、もっと減らしたほうが良い」とマルーン5側にアドバイスしたため。


2014年現在、ストーンズのワールド・ツアーを行っている。しかし三月、日本公演後行われるはずだったオーストラリアに到着後、ミックの恋人で良きビジネス・パートナーでもあったローレン・スコットが死去するという報告を聞いて、ミックは大変なショックを受け茫然自失となった。メンバーは各自が「今はミックを支える時だ」と声明を出し、これに伴って予定されていたオーストラリア、ニュージーランド公演は延期されることが発表された。2001年頃にローレンと出会ったミックはその後付き合うようになったといい、その後はメンバーの衣装も手がけるようになっていた。


2016年には73歳にして八人目の子供が誕生した。



日本公演


1972年に、ストーンズ初の日本公演が翌年1月に日本武道館で行われることが発表され、チケット販売も行われたが、ミックが1969年の大麻不法所持による有罪判決が原因で入国拒否され、中止となった。日本のファンはストーンズの来日公演を17年後の1990年まで、日本武道館での公演は30年後の2003年まで待たなければならなかった。


また、ミック自身はストーンズとして来日する前に、ソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』(Primitive Cool)を引っ提げ、1988年3月に単独で来日し、東京、大阪、名古屋でコンサートを行った。『プリミティヴ・クール』にも参加したジェフ・ベックが帯同するという噂も流れたが、ジェフがこの話を断ったため、ジョー・サトリアーニがリード・ギターを担当。日本人パーカショニストのツトム・ヤマシタが全公演、また東京公演の2日目ではティナ・ターナーがゲスト出演した。なお、このコンサートはフジテレビが主催していたが、テレビ朝日の『ベストヒットUSA』にゲスト出演してしまったため、ミック側の「取材は1メディア1社」の方針でフジテレビの番組には、27日に放送された『Mick Jagger in Tokyo Dome』の冒頭でVTR出演するにとどまった。


「SUNTORY D・R・Y Beer Live "Mick Jagger in Japan."」(※全公演SS席6500円、S席5000円)


3月15日・16日・18日・28日 大阪城ホール(28日は、19日に予定だった公演の本人の急病(風邪)による延期公演)

3月22日・23日 東京ドーム

3月25日・26日 名古屋市国際展示場(追加公演)


メンバー

ミック・ジャガー - ボーカル、ハーモニカ、ギター

ジョー・サトリアーニ- ギター

ジミー・リップ - ギター

ダグ・ウィンビッシュ - ベース
サイモン・フィリップス - ドラムス

フィル・アシュリー - キーボード

リチャード・コットル - キーボード、サックス

シビル・スコビー - バッキング・ボーカル

バーナード・ファウラー - バッキング・ボーカル

リンダ・モーラン - バッキング・ボーカル

リサ・フィッシャー - バッキング・ボーカル
ツトム・ヤマシタ - ゲスト・パーカッション

ティナ・ターナー - ゲスト・ボーカル(東京公演2日目のみ)



資産家


2007年4月、米経済誌フォーブス誌が「過去25年間でもっとも高くついたセレブリティの離婚」のランキングを発表し、ミック・ジャガーとジェリー・ホールの離婚にともなう財産分与金が1500〜2500万ドルで10位にランクインした[6]


2009年4月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドだったことがわかった。ミック・ジャガーは経済危機の影響で16%の資産を失った[7]


2009年11月、カートゥーン・ネットワークが「未来のイギリスのトップセレブ」のランキングを発表し、ミック・ジャガーの娘のリジー・ジャガーの20年後の推定総資産額が3億1000万ポンド(日本円で約462億円)で5位にランクインした。このランキングはセレブの子どもたちの20年後の総資産額を推定して作られたものでスター性、推定相続額、才能、カメラ好き度、ショービジネス性などのいくつかのカテゴリーの総合で順位が決まる[8]


2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドで8位にランクインした[9]。経済に強いせいかミックは、ストーンズ自身の独自レーベル「ローリング・ストーンズ・レーベル」を立ち上げた以降、バンドの運営に大きく関与している。バンドのギャランティはもちろんのこと、印税配分の管理も自身でおこなっている。



その他:健康/趣味


いわゆる、健康オタクとしても知られる。ミックが20代から30代の頃、とりわけ60年代から70年代にかけてロック界では多くのスターが喫煙する様子が写真や映像で確認できるが、その頃から念入りな体力トレーニングを行っていた。60年代の頃までは喫煙家であった。喫煙が健康に害することを知っていながらタバコを吸っていたといい、場合によってはドラッグも嗜むこともあった。しかしある時から、それらがパフォーマンスに影響することに気付いて自発的に禁煙家に転向、ドラッグも一切断つなど、現在至るまで数十年に渡って健康志向となっている。それらはソロ・アルバム『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』のプロモーションの一環で自宅の映像が流れた際、いくつかの健康器具などが見られた。また初来日の際には、ランニングを行っている姿がテレビで取り上げられるなど、いくつかのメディアや映像などから健康志向が窺える。ミックの健康志向は、父ジョー・ジャガーが体育教師を務めていた影響だともいわれる。


ジャガーは熱狂的なクリケット・ファン。 彼は「Jagged Internetworks」を設立したほどである。またサッカーのファンでもあり、イングランドのナショナル・チームを応援している。FIFAワールドカップにおいて、「ミック・ジャガーが応援したチームは負ける」(科学的根拠なし)との、オカルト的なジンクスもある。ミックがブラジル人の息子と共に観戦に訪れた2014 FIFAワールドカップブラジル大会準決勝のブラジル-ドイツ戦でブラジルはドイツに「1-7という大敗」を喫し、ブラジルのTV局はミック・ジャガーが応援したチームは必ず敗北するという「最大の悪運のジンクスがある」のジンクスの犠牲となったと報じた[10][11]。これに対しミックは、イギリスのザ・サンのインタビューに「ドイツの1点目は僕のせいでもいい、あとは知らないよ」と答えている[12]。2018 FIFAワールドカップロシア大会準決勝のイングランド対クロアチア戦でも、ミックは母国イングランドを応援するためにモスクワを訪れ、試合前にはツイッターに「C'mon England」と書き込んでいたが、イングランドは1-2でクロアチアに敗れて決勝進出を逃したため、またも「ミックの呪い」だと英国メディアに報じられる結果となっている
[13][14]



ソロワークス



アルバム



  • 1985 シーズ・ザ・ボス - She's The Boss  (全英6位・全米13位)

  • 1987 プリミティヴ・クール - Primitive Cool  (全英26位・全米41位)

  • 1993 ワンダーリング・スピリット - Wandering Spirit  (全英12位・全米11位)

  • 2001 ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ - Godess in the Doorway  (全英44位・全米39位)

  • 2007 ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー - The Very Best Of Mick Jagger



シングル








































































































































































































































































Year
Single
Peak chart positions

Certifications
(sales thresholds)
Album

GER
[15]

IRE
[16]

UK
[17]

US

US
Main

US
Dance
1970
"Memo from Turner"
23

32





Performance (soundtrack)
1978
"Don't Look Back" (with Peter Tosh)


43
81




Bush Doctor (Peter Tosh album)
1984
"State of Shock" (with The Jacksons)
23
8
14
3
3


Victory (The Jacksons album)
1985
"Just Another Night"
16
21
32
12
1
11


She's the Boss
"Lonely at the Top"




9


"Lucky in Love"
44

91
38
5
11

"Hard Woman"
57






"Dancing in the Street" (with David Bowie)
6
1
1
7
3
4

Single only
1986
"Ruthless People (B side I'm Ringing)"



51
14
29


Ruthless People (soundtrack)
1987
"Let's Work (B side Catch as Catch Can)"
29
24
31
39
7
32


Primitive Cool
"Throwaway"



67
7


"Say You Will"




39


1993
"Sweet Thing"
23

24
84
34



Wandering Spirit
"Wired All Night"




3


"Don't Tear Me Up"
77

86

1


"Out of Focus"
70






2001
"God Gave Me Everything (B side Blue)"
60



24



Goddess in the Doorway
2002
"Visions of Paradise"
77

43




2004
"Old Habits Die Hard" (with Dave Stewart)
62

45





Alfie (soundtrack)
2008
"Charmed Life"





18


The Very Best of Mick Jagger
2011
"Miracle Worker" (with SuperHeavy)


136





SuperHeavy (SuperHeavy album)
"T.H.E (The Hardest Ever)" (with will.i.am & Jennifer Lopez)

13
3
36



Non-album single
"—" denotes releases did not chart


映画



  • 1970年 パフォーマンス - Performance

  • 1970年 太陽の果てに青春を- Ned Kelly

  • 1972年 Umano non umano

  • 1978年 オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ - ALL YOU NEED IS CASH(ラトルズのテレビ映画 - ミック・ジャガー役で出演)

  • 1978年 Wings of Ash: Pilot for a Dramatization of the Life of Antonin Artaud

  • 1992年 フリージャック - Freejack

  • 1997年 ベント/堕ちた饗宴 - Bent

  • 2001年 エニグマ - Enigma  (製作)

  • 2001年 The Man from Elysian Fields

  • 2003年 Mayor of the Sunset Strip

  • 2007年 アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生 - Annie Leibovitz: Life Through a Lens



テレビドラマ


  • 1983年 フェアリーテール・シアター Faerie Tale Theatre


テレビアニメ


  • 2002年 ザ・シンプソンズ - 本人役でゲスト出演


関連項目



  • ブルース

  • ブルース・ロック



脚注





  1. ^ http://www.rollingstone.com/.../glimmer-twins.../the-glimmer-twins-j...


  2. ^ http://www.dailymail.co.uk/.../Mick-Jagger-Rolling-Stones-frontman...


  3. ^ http://www.rollingstones.com/.../muddy-waters-and-the-rolling-ston...


  4. ^ “ハリウッド大物らが支援、資金提供=調査捕鯨妨害のシー・シェパード”. フランス通信社 (時事通信社). (2010年1月7日). http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_cul&k=20100107024278a 2010年1月7日閲覧。 


  5. ^ The London Gazette: (Supplement) no. 56595. p. 1. 2002年6月15日2017年5月14日閲覧。



  6. ^ http://eiga.com/news/20070417/4/


  7. ^ http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-37687720090424


  8. ^ http://www.cinematoday.jp/page/N0020926


  9. ^ http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-20940020110505


  10. ^ “W杯大敗のブラジルのメディア、ミック・ジャガーを「悪運の源」と非難”. RO69 (rockin'on holdings inc.). (2014年7月10日). https://rockinon.com/news/detail/105461 2014年7月10日閲覧。 


  11. ^ “W杯ブラジルが負けたのはミック・ジャガーのせい?”. BARKS (GLOBAL PLUS INC.). (2014年7月10日). http://www.barks.jp/news/?id=1000105535 2014年7月10日閲覧。 


  12. ^ “呪いが叫ばれるミック「ドイツの1点目は僕のせいでもいい、あとは知らない」”. ゲキサカ (14/7/13 23:59). 2017年7月30日閲覧。


  13. ^ 英紙、イングランド代表の敗北は「ミック・ジャガーの呪い」と紹介(Goal.com(英語版) 2018年7月12日)


  14. ^ 「ミック・ジャガーの呪い」は健在だった。ワールドカップで応援チームがことごとく敗退。(ハフィントンポスト 2018年7月12日)


  15. ^ “charts.de”. charts.de. 2014年6月28日閲覧。


  16. ^ “Irish Singles Chart – Search for song”. Irish Recorded Music Association. 2011年7月6日閲覧。


  17. ^ “MICK JAGGER - Artist”. Official Charts Company. 2015年2月11日閲覧。




外部リンク







  • ミック・ジャガー公式サイト


  • Mick Jagger - インターネット・ムービー・データベース(英語)

  • ワーナーミュージック・ジャパン - ミック・ジャガー










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