寺田屋事件
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寺田屋事件(てらだやじけん)は、江戸時代末期の山城国紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)の旅館・寺田屋(北緯34度55分48.8秒 東経135度45分34.5秒 / 北緯34.930222度 東経135.759583度 / 34.930222; 135.759583 (寺田屋事件)座標: 北緯34度55分48.8秒 東経135度45分34.5秒 / 北緯34.930222度 東経135.759583度 / 34.930222; 135.759583 (寺田屋事件))で発生した事件である。以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる。
文久2年(1862年)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。
慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。
目次
1 薩摩藩志士粛清事件
1.1 寺田屋騒動
1.2 騒動の始末
2 坂本龍馬襲撃事件
2.1 事件の影響
3 現在の寺田屋
3.1 現在の寺田屋へのアクセス
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
薩摩藩志士粛清事件
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文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩藩の事実上の指導者・島津久光が薩摩藩尊皇派を始末した事件。「寺田屋騒動」とも言う。
藩兵千名を率い上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負っていた。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。また久光は秩序を重んじる厳しい性格で、すでに西郷隆盛、村田新八、森山新蔵を捕縛して大阪から帰藩させるように命じて粛清しており、京都の志士の思惑とは全く趣を異にした考えの持ち主であった。それで4月13日に伏見に到着した久光は、16日に入京し、朝廷より志士始末の命を授かる。
この展開に驚愕した薩摩藩の過激派は、憂国の念から憤激し、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、諸藩の尊王派志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃してその首を持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促すということに決した。この襲撃の前に、根城としていた薩摩藩の二十八番長屋から出て、伏見の船宿寺田屋に集まることを計画していたが、当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである。
志士暴発の噂を聞いていた久光は、側近の大久保一蔵、海江田武次、奈良原喜左衛門を次々に派遣して説得を命じ、藩士を抑えようと試みたが失敗した。23日、薩摩藩邸では永田佐一郎が翻意し、決起を止めようとしたが止められなかったために切腹した。これによって計画の決行日が迫ったことを知った在番役高崎左太郎、藤井良節(工藤左門)の二人は急ぎ京都に注進した。久光は驚き、出奔藩士を藩邸に呼び戻して自ら勅旨と今後の方針を説明して説得しようと考えたが、一方で従わぬ場合には上意討ちもあると言い含めて、奈良原喜八郎・大山格之助・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助の特に剣術に優れた藩士8名を鎮撫使に選び、派遣することにした。奈良原、道島、江夏、森岡が本街道を、大山、鈴木、山口が竹田街道を進んだ。後から上床源助が志願して加わり、計9名となった。
寺田屋騒動
23日夜、寺田屋に到着すると、奈良原喜八郎ら4名は有馬新七に面会を申し出たが、2階から橋口伝蔵に「いない」と言われて断られたので、江夏と森岡が力づくで2階に上がろうとして押し問答した。柴山愛次郎が応対して1階で面談することになった。有馬と田中謙助、橋口壮介が降りてきて議論に加わったが、埒が明かず、薩摩藩士はともかく藩邸に同行するように求めたが、これが拒否された。そこに大山ら4名が追いつき、寺田屋に入った。奈良原は説得を続けたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、こうして“同志討ち”の激しい斬り合いが始まった。
斬られた田中謙助は眼球が飛び出たまま昏倒。山口も抜刀して背後から柴山愛次郎を斬り捨て、これらを見た有馬新七は激高して道島に、橋口壮介は奈良原に斬りかかった。有馬は剣の達人であるのだが、渡り合っていて刀が折れたので、道島に掴みかかって組み合い壁に押さえつけた。近くにいた橋口吉之丞は狼狽してか加勢できずにいたので、有馬が「我がごと刺せ[注釈 1]」と命じ、橋口吉之丞はその言葉に従って有馬の背中から道島と共々貫いて両名を絶命させた。他方、橋口壮介は奮戦していたが、奈良原に肩から胸まで斬られて倒れ、最期に水を所望して飲んだ後で息絶えた。森山新五左衛門はちょうど厠に降りてきたところにこのような斬り合いが始まり、斬られて重傷を負った。大山格之助は梯子下で待っていて、騒動を聞いて降りてきた弟子丸龍助を刺殺し、さらに降りてきた橋口伝蔵の足を払った。橋口伝蔵は立ち上がって刀を振るい、鈴木勇右衛門の耳を切り落としたが、鈴木昌之助に刺されて絶命した。そこにまた降りてきた西田直五郎を森岡が槍で突き、西田は転がり落ちたが、刀を振るって森岡と相打ちのような形で息絶えた。
2階は下の状況がわかっておらず、美玉三平(高橋親輔)は伏見奉行の捕方が来たと誤解して「捕方だ、防戦せよ」と叫んだことから、柴山竜五郎を先頭に各々抜刀して1階に降りてこようとしたので、奈良原[注釈 2]は刀を投げ捨ててこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と、ともかく剣を収めて同行するように求めて「仔細な話は直接久光公に聞いてくれ」と訴えた。1階の別の部屋にいた(志士側の)真木和泉と田中河内介が出てきてこれに同調して説得したので、ようやく治まった。
騒動の始末
この戦闘によって、鎮撫使側では1名(道島五郎兵衛[注釈 3])が死亡、1名(森岡善助[注釈 4])が重傷、4名(奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門)が軽傷を負った。残りの3名は無傷だった。志士では、6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負ったが、この負傷者2名は後で切腹させられた。
まだ2階にいた尊王派の薩摩藩士の大半は投降し、美玉三平などは逃亡した。岩元勇助・西郷信吾・大山弥助・三島弥兵衛・木藤市助(市之介)・伊集院直右衛門・篠原冬一郎・坂元彦右衛門・森新兵衛(真兵衛)・深見休蔵・吉原弥二郎・永山弥一郎・柴山龍五郎・是枝万助(柴山矢吉)・林正之進・谷元兵右衛門・吉田清右衛門・町田六郎左衛門・有馬休八・岸良三之介・橋口吉之丞の21名が帰藩謹慎を命じられた。
なお、京都藩邸で療養中の薩摩藩士山本四郎(義徳)もこれに加わるところであったので、帰藩謹慎が命じられた、しかし彼はこれを佳しとせず、服さなかったので切腹させられた(彼を含めて9人の殉難者が烈士とされた)。
残りの他藩尊王派志士たちの多くも投降し、何人かは逃亡した。真木和泉とその息子真木菊四郎、酒井伝次郎、鶴田陶司、原道太、中垣健太郎、荒巻平太郎、吉武助左衛門、古賀簡ニ、渕上謙三は久留米藩に引き渡され、他数名は土佐藩等の所属する藩に引き渡された。
引き取り手のない浪人は、鹿児島で引き取ると申し渡された。これは薩摩藩では月照の時と同じく日向への道中での斬り捨てを暗に意味していたが、それを知らない浪人の田中河内介とその息子田中瑳磨介、甥千葉郁太郎、さらには中村主計[注釈 5]、青木頼母、そして秋月藩士だが同行を望んだ海賀宮門はこの条件を受け入れ、進んで船に乗った。4月28日、大坂より二船に分乗して出航。5月2日、田中親子は薩摩藩士によって斬殺されて海へ投げ捨てられた。遺体は小豆島に漂着して同地の農民によって埋葬された。海賀、千葉、中村は7日に日向細島沖で決闘と称して斬殺されて海へ捨てられ、遺体は近くの金ヶ浜に漂着。同じく埋葬され、中村を除く2名は殉死者とされた[3][4][注釈 6]。青木は田中親子と同船で同じく斬られたが、遺体は上がらなかったのか、墓はない。
この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。
坂本龍馬襲撃事件
慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。「寺田屋遭難」とも言う。
龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作からもらった拳銃[注釈 7]で、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし[5]、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。
翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが、拒否した。
この事件に新撰組が関わったとの説もあったが、伏見奉行が「肥後守」であったことから、同じ官位の京都守護職松平肥後守と誤認されて、それにより配下の新撰組の関与が連想されたものであった。現在は間違いであるとされるが、訂正されていない古い書籍やそれをもとにしたものには新撰組が登場する。『三吉慎蔵日記抄』によると、両名は伏見で度々新撰組の検問を無事通過しており、嫌疑を受けていた様子はない。伏見奉行が動いた理由は、薩摩藩士を騙る不逞浪人が寺田屋にいるということだったようである。
龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている[6](ただし、「日本最初の新婚旅行」については、龍馬とも親交のあった薩摩藩家老・小松帯刀が、龍馬・お龍夫妻の旅行より10年前の安政3年(1856年)に、先に栄之尾温泉を訪れていた妻と義父を追う形で訪問した例を「最初」とする見解もあり、小松が龍馬・お龍夫妻が薩摩を訪れた際に薩摩藩の船に同乗し、夫婦を現在の鹿児島市原良にあった小松の別邸に宿泊させるなどしていることから、小松が自らの経験を元に龍馬に勧めたのではないかとする説もある[7])。
事件の影響
箱館戦争後に投降した元京都見廻組今井信郎は、刑部省口書において自らの近江屋事件への関与を認めて、その襲撃動機を坂本龍馬が寺田屋遭難事件で捕り方を殺害して逃走したことを挙げ、龍馬は殺人・逃亡犯であってこれに対する公務執行であったと主張した。この供述には異論もあったが、明治政府は近江屋事件への関与も今井の罪の1つとして禁固刑の判決を出している。これが事実とすれば、つまり寺田屋遭難でお龍は龍馬の命を救ったが、結局はこの騒動が彼の命を奪ったことになる。
現在の寺田屋
現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった[8]。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した[注釈 8][9][10][11]。
京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し、現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している[12][13][14][15]。
大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。
現在の寺田屋へのアクセス
京阪電気鉄道中書島駅から徒歩5分。京都市営バス81系統・6系統・南5系統(一部)・急行105系統(一部)などで「京橋バス停」下車徒歩1分。
脚注
注釈
^ 自分も一緒に突き刺せの意味。
^ 喜八郎が説得したと、山口金之進は報告したとの記述がある[1]。
^ 彼はこの事件で亡くなった人物で唯一、烈士とされていない。
^ 森岡は重創を負って一時危篤に陥ったが、後日快方に向かって生存した。
^ 諱は重義。肥前島原藩藩士有馬太郎および中村貞太郎(北有馬太郎)の弟[2]。
^ 田中は大納言中山忠能の旧臣であるだけでなく後の明治天皇の教育係であって、西郷隆盛はこの久光の暴挙に憤激したと伝えられる。
^ 6発装。スミス&ウェッソンのモデル2であったと伝えられる。
^ 当時の建物の敷地は、現在の建物の東隣にある、石碑や像などが建っていて寺田屋の庭のようになっている場所(京都市伏見区南浜町262番地)であるが、この土地は大正3年(1914年)に所有者(寺田屋主人とは血縁関係にない)から当時の京都府紀伊郡伏見町に寄付され、市町村合併を経て現在は京都市の市有地である。
^ 現在の建物の東隣に建っている石碑「薩藩九烈士遺蹟志」の碑文(拓本)。本文後ろから5行目に「寺田屋遺址」とある。
出典
^ 『大久保利通日記』
^ 長崎県教育会編 国立国会図書館デジタルコレクション 『大礼記念長崎県人物伝』 長崎県教、1901年、43頁。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960654/68 国立国会図書館デジタルコレクション。
^ 宮崎県編 国立国会図書館デジタルコレクション 『日向の聖地伝説と史蹟』 宮崎県、1934年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242699/123 国立国会図書館デジタルコレクション。
^ 徳重浅吉 国立国会図書館デジタルコレクション 『京都の維新史蹟』 京都市教育局文化課、1943年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042175/52 国立国会図書館デジタルコレクション。
^ 『芸西村の歴史を綴る』、門脇鎌久、芸西村教育委員会、2016、P39
^ “龍馬・お龍日本最初の新婚旅行地 霧島市”. 霧島市総合観光案内. 2013年11月14日閲覧。
^ “新婚旅行、日本初は小松帯刀?/かごしま探検の会 龍馬の10年前、霧島へ”. 南日本新聞. (2008年1月27日). http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=8866 2013年11月14日閲覧。
^ 『朝日新聞』 2008年9月26日付
^ “平成の寺田屋騒動で「寺田屋は焼失」と京都市が公式見解”. 産経新聞 (2008年9月25日). 2010年6月14日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2008年9月25日閲覧。
^ “京都市「寺田屋は戦いで焼失」 HP変更へ”. 共同通信 (2008年9月25日). 2013年2月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2008年9月25日閲覧。
^ “寺田屋関係資料9種と若干のコメント”. よっぱ、酔っぱ (2008年10月10日). 2009年1月3日閲覧。
^ いしぶみデータベース
^ 『朝日新聞』南京都版 2008年9月26日付
^ 京都大学附属図書館 維新資料画像データベース[注釈 9]
^ 「南浜町」 『日本歴史地名体系27巻 京都市の地名』 平凡社、1979年。 『御大禮記念京都府伏見町誌』 伏見町役場、1929年。
参考文献
- 寺田屋騒動について
下中弥三郎 国立国会図書館デジタルコレクション 『維新を語る』 平凡社、1934年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223323/109 国立国会図書館デジタルコレクション。
上田景二 国立国会図書館デジタルコレクション 『維新勤王志士活躍史 上巻』 共益社出版部、1923年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971962/222 国立国会図書館デジタルコレクション。
- 寺田屋遭難について
岩崎英重編、国立国会図書館デジタルコレクション 「三吉慎蔵日記抄」 『坂本竜馬関係文書. 第二』 日本史籍協会〈日本史籍協会叢書〉、1926年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917633/57 国立国会図書館デジタルコレクション。
- 現存の寺田屋につて
- 中村武生『京都の江戸時代を歩く』 文理閣、2008年
関連項目
- お登勢
- 近江屋事件
- 池田屋事件
- 三十石
外部リンク
- 寺田屋伊助申立書