文帝 (陳)
文帝 陳蒨 | |
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陳 | |
第2代皇帝 | |
陳文帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵) | |
王朝 | 陳 |
在位期間 | 559年 - 566年 |
姓・諱 | 陳蒨(陳茜とも) |
字 | 子華 |
諡号 | 文皇帝 |
廟号 | 世祖 |
生年 | 普通3年(522年)(諸説ある) |
没年 | 天康元年4月27日 (566年5月31日) |
父 | 陳道談 |
后妃 | 沈皇后 |
陵墓 | 永寧陵 |
年号 | 天嘉 : 560年 - 565年 天康 : 566年 |
文帝(ぶんてい)は、南朝陳の第2代皇帝。初代皇帝・武帝(陳霸先)の甥。姓は陳、諱は蒨。側近の韓子高と男色関係にあったことで知られている。
目次
1 生涯
2 妻子
2.1 后妃
2.2 男子
2.3 女子
生涯
陳霸先の長兄陳道談の長男として生まれた。叔父に従って侯景の乱の討伐に従軍し、呉興郡太守となった。宣城郡から紀機・郝仲らが侵入してくると、これを討って平定した。承聖2年(553年)、信武将軍の位を受け、監南徐州を務めた。承聖3年(554年)、陳霸先が北伐して広陵を攻撃すると、先鋒として活躍した。天成元年(555年)、陳霸先が王僧弁を討つにあたって、王僧弁の娘婿の杜龕が呉興郡に拠っていたため、陳蒨は陳霸先の命を受けて郷里の長城県に帰り、杜龕の進攻に備えた。陳蒨はわずかな兵で杜龕の部将の杜泰と対峙し、撃退に成功した。陳霸先が周文育を派遣して杜龕を討たせると、陳蒨は周文育に合流した。陳蒨は将軍の劉澄・蒋元挙に杜龕を攻撃させて撃破した。東揚州刺史の張彪が臨海郡太守の王懐振を包囲し、王懐振が救援を求めてくると、陳蒨は周文育とともに会稽に赴いて張彪を攻撃した。張彪の部将の沈泰が開門して陳蒨を迎えたため、陳蒨はその兵を併呑して張彪を撃破した。功績により使持節・都督会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍・会稽郡太守に任じられた。また少数民族の山越の乱を討った。
永定元年(557年)に陳霸先が陳が建国すると、臨川郡王に立てられ、侍中・安東将軍の位を受けた。周文育と侯安都が沌口で王琳に敗れると、陳蒨は武帝のもとで軍事を委ねられた。まもなく兵を率いて南皖に築城した。永定3年(559年)6月に武帝が崩御すると、章太后の命により南皖から召し出されて即位した。
在位中は北周とのあいだに和平を結び、王琳を郢州から追放して、北斉の介入を退けた。また各地に割拠する周迪・留異・陳宝応らの独立勢力を撃破して、江南における陳の支配を確立した。その後は賦役の減免・奴婢の解放・倹約令の奨励など、内政に力を注いで陳の国力基盤を固めた。
妻子
后妃
- 文皇后沈妙容
- 厳淑媛
- 潘容華
- 劉昭華
- 王充華
- 張修容
- 韓修華
- 江貴妃
- 孔貴妃
男子
- 廃帝陳伯宗
- 始興王陳伯茂
- 鄱陽王陳伯山
- 新安王陳伯固
- 晋安王陳伯恭
- 衡陽王陳伯信
- 廬陵王陳伯仁
- 江夏王陳伯義
- 武陵王陳伯礼
- 永陽王陳伯智
- 桂陽王陳伯謀
女子
- 豊安公主(留貞臣の妻)
- 富陽公主(侯浄蔵の妻、柳盼に再嫁した)
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