日本橋 (東京都中央区)
日本橋(にほんばし)は、東京都中央区の日本橋川に架かる橋、またはこの橋にちなむ東京都中央区の町丁、および同区北部の広域地名である。
目次
1 日本橋 (橋梁)
1.1 年表
1.2 今後の予定
1.3 道路元標
1.4 文化財としての日本橋
1.5 交通
1.6 日本橋からの距離(国道)
1.6.1 国道1号 横浜・静岡・名古屋方面
1.6.2 国道4号 宇都宮・福島・仙台方面
1.6.3 国道6号 水戸・いわき・仙台方面
1.6.4 国道14号 船橋・千葉方面
1.6.5 国道15号 川崎・横浜方面
1.6.6 国道17号 高崎・前橋・新潟方面
1.6.7 国道20号 八王子・甲府・塩尻方面
1.7 ギャラリー(日本橋)
2 日本橋地域
2.1 歴史
2.1.1 近代以前
2.1.2 近代以降
2.2 観光・街づくり
2.3 創作物
2.4 ギャラリー
3 日本橋 (町名)
3.1 歴史
3.2 地理
3.3 世帯数と人口
3.4 小・中学校の学区
3.5 施設
3.6 観光
3.7 交通
4 名称のローマ字表記
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
日本橋 (橋梁)
日本橋は、東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋である。現在の橋梁は1911年に完成し、国の重要文化財である。また、日本の道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。日本橋の名の由来について、江戸時代の『府内備考』で「此橋江戸の中央にして諸国よりの行程もここより定められるゝ故、日本橋の名あり」との記載がみられる[2]。
現在の橋は19代目[要出典]または20代目[3]にあたるとされる。1903年(明治36年)の市区改正計画により、幅6間以上の橋梁は鉄橋もしくは石橋を架設することに定められたため、木造だった以前の橋(明治5年築)に替わり、大都市東京にふさわしい新たな橋として1908年(明治41年)に着工、1911年(明治44年)に完成した[4][5]。石造二連アーチ橋で、橋の長さ49メートル (m)、幅27 m、設計は米本晋一。橋柱の銘板にある「日本橋」の揮毫は徳川慶喜のもの。大正天皇は、現在の石橋に架け替えられた2年後にあたる1913年(大正2年)の作とされる漢詩「日本橋」のなかで、「日本橋」の名は日本の道路の起点として名に恥じぬふさわしい風格を備えているという意味の橋を賞賛する詩を詠んでいる[6]。
路面電車(後の都電)を通すことが決まっていた路面はわずかにアーチを描き、橋脚と橋台は山口県産の名石、側面は真壁石、アーチ部分と道路の表面は稲田石を使っている。内部は、最も荷重のかかる両端がコンクリートで、さほど荷重のかからない中央部分が煉瓦[3]。推定寿命は1000年程度とされる[3]。
装飾顧問は妻木頼黄、装飾制作は東京美術学校、青銅像の原型製作は渡辺長男が担当した。西洋的な基本デザインに、麒麟と獅子の青銅像や一里塚を表す松や榎木を取り入れた柱模様など、日本的なモチーフを加えた和洋折衷の装飾になっている[4]。麒麟像には日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから翼が付けられ、奈良県手向山八幡宮の狛犬やヨーロッパのライオン像などを参考にした獅子像は東京市の紋章を手にしている[4]。
周辺の企業や住民が、名橋「日本橋」保存会を組織して、橋の清掃などを行っている。
年表
慶長8年3月3日(1603年4月14日)
江戸幕府を開いた徳川家康による全国の道路網(街道)整備計画に際し、初代の橋(木造の太鼓橋[5])が架けられた。北側部分を原寸で復元したものが江戸東京博物館に常設展示されており、東京国際空港(羽田空港)国際線ターミナル内の「はねだ日本橋」のモデルともなっている。ちなみに、大阪の日本橋(にっぽんばし)は大坂の陣後、1619年(元和5年)に建てられた。どちらも公儀橋。
- 慶長9年(1604年)
五街道の基点となる。以降、江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれることが多くなる。
元和4年(1618年)
- 最初の大改架。『慶長見聞集』に長さ三十七間四尺五寸(約68 m)、幅四間二尺五寸(約8 m)との記載あり[5]。
明暦3年(1657年)- 安政5年(1858年)
明暦の大火明暦3年(1657年)により全焼。江戸は火事が多く、日本橋は江戸幕府開府から幕末に至るまでの間に幾度も焼け落ちている。明治維新までに合わせて10回(全焼8回、半焼2回)を数えた[7]。
明治5年(1872年)
- 木造最後となる改架。費用は日本橋魚河岸の魚問屋組合が負担[5]
- 木造最後となる改架。費用は日本橋魚河岸の魚問屋組合が負担[5]
明治初期[要出典]
石造の橋が、肥後の石工である橋本勘五郎によって架けられた。[要出典]
- 明治後期、1898年(明治31年)4月12日落成
東京奠都30年を記念して橋の両端に杉細工の「緑門」と呼ばれる鳥居が建てられた。鳥居の失われた時期は不明)。
1911年(明治44年)4月3日
- 現在の石造二連アーチ橋が架けられた。19代目[8]。
1945年(昭和20年)3月10日
東京大空襲。現在も焼夷弾跡が残っている。
1963年(昭和38年)
- 橋の直上に首都高速道路(首都高速都心環状線)が建設された。
1999年(平成11年)
- 国の重要文化財に指定される。
2005年(平成17年)7月4日
アジアハイウェイ道路網に関する政府間協定発効により、日本からトルコとブルガリアとの国境付近に至るアジアハイウェイ1号線の起点となる。
2010年(平成22年)
- 架橋100周年(2011年4月)を記念し、洗浄再生する「日本橋クリーニングプロジェクト」を11月1日から12月8日まで実施[9]。
今後の予定
国土交通省は、日本橋上空を覆う首都高速道路の地下移設に向け、具体策の検討に入ることを決めた[10][11]。事業費は数千億円かかる見込みで、2020年東京オリンピック・パラリンピック後の着工を目指している[12]。
道路元標
戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていた。その場所は概して市役所や県庁などとされていたが、首都たる東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標とした。道路元標の起源は、1604年(慶長9年)に徳川幕府が日本橋を五街道の起点と定め、全国の里程(りてい)の起点としたことによる[13]。明治以降も、1973年(明治6年)に、日本橋は諸街道の起点と定められ、橋の中央をもって国内諸街道の元標とされた[13]。1911年(明治44年)に現在の日本橋に架け替えられたときに、橋の中央に「東京市道路元標」が設置され、1972年(昭和47年)の道路改修が行われた際に、「東京市道路元標」が日本橋の北西側の袂(たもと)に移設され、その撤去跡に「日本国道路元標」が埋め込まれた[14]。
現行の道路法では道路元標に関する規定はないが、50センチ四方のブロンズ製の日本国道路元標は、現在も橋の中央帯に埋め込まれている[14]。その裏側には当時の内閣総理大臣、佐藤栄作の名前が刻まれている。橋の北西側にある東京市道路元標の近くにレプリカが展示されており、そばに各都市への里程標が刻まれた黒御影石も設置されている[14]。
現在、日本橋を始点としている一般国道は、以下の7本である。
国道1号(終点:大阪市・梅田新道)東海道[15]
国道4号(終点:青森市・青い森公園前)日光街道/奥州街道
国道6号(終点:仙台市・苦竹IC)水戸街道[16]
国道14号(終点:千葉市・広小路交差点)
国道15号(終点:横浜市・青木通交差点)旧東海道
国道17号(終点:新潟市・本町交差点)中山道[17]
国道20号(終点:長野県塩尻市・高出交差点)甲州街道
橋の中央部が上記7本の国道の起点であり、国道1・15・20号が橋の南方向へ、国道4・6・14・17号が北方向へ伸びている。日本橋近辺ではそれぞれ重複しているので、地図や標識では上位路線である国道1・4号の2本だけが案内されている[14]。うち、国道6・14号以外の5路線が江戸時代の五街道を引き継いでいる(区間は完全一致するものではない)。
- 「日本橋からの距離(国道)の項も参照」
江戸時代も古くから道路の始点であった日本橋の周辺には、早くから商店が軒を連ねていた。現在も、三越や高島屋などの百貨店が存在する。
日本橋の中央に埋め込まれている日本国道路元標
日本橋 里程標(東日本方面)
日本橋 里程標(西日本方面)
文化財としての日本橋
現在の日本橋(第19代)は1999年(平成11年)5月13日国の重要文化財(建造物)に指定されている。しかし首都高速道路(具体的には都心環状線江戸橋出入口と呉服橋出入口の間)に覆われてしまっている現状から、都市景観の在り方を含めた多くの議論を抱える。[18]。2006年(平成18年)には奥田碩日本経団連会長らによる有識者会議である「日本橋川に空を取り戻す会(日本橋みち会議)」が、首都高速道路を地下に移設(江戸橋ジャンクションから竹橋ジャンクションまで[19])して周辺を親水公園などに造り変えるという再開発構想をまとめた。小泉純一郎首相(当時)もこの構想を後押しする発言をしているが、試算5000億円といった莫大な費用が見込まれることもあり、石原慎太郎東京都知事(当時)は反対し、「日本橋の方を移転させるべし。橋さえあればいいんだから。これが小説家の発想」と発言している[20]。
交通
- 隣の橋〈日本橋川〉
- (上流)西河岸橋 ― 日本橋 ― 江戸橋(下流)
日本橋からの距離(国道)
国道1号 横浜・静岡・名古屋方面
- 横浜 30 km
- 静岡 197 km
- 名古屋 386 km
国道4号 宇都宮・福島・仙台方面
- 宇都宮 109 km
- 福島 268 km
- 仙台 347 km
国道6号 水戸・いわき・仙台方面
- 水戸 109 km
- いわき 193 km
- 仙台 346 km
国道14号 船橋・千葉方面
- 船橋 25 km
- 千葉 40 km
国道15号 川崎・横浜方面
- 川崎 19 km
- 横浜 29 km
国道17号 高崎・前橋・新潟方面
- さいたま 25 km
- 高崎 104 km
- 前橋 116 km
- 新潟 350 km
国道20号 八王子・甲府・塩尻方面
- 八王子 46 km
- 甲府 141 km
- 塩尻 225 km
(右の「表示」をクリック)
ギャラリー(日本橋)
日本橋中央柱の麒麟、本来伝説には無い翼があり、飛躍する首都を表している。
日本橋親柱の獅子と東京市章
道路元標の直上の首都高速にある道路元標地点碑
アジアハイウェイ1号線の起点である日本橋の上の首都高速に設置されたAH1の標識
日本橋の夜景
旧東京市道路元標(1972年に橋たもとの「道路元標の広場」に移設され保存されている。石に埋め込まれた道路元標はレプリカ。)
日本橋の欄干の焼夷弾跡(2010年12月10日撮影)
同左(2010年12月10日撮影)
日本橋横にある日本橋船着場入口(2011年7月23日撮影)
同左、船着場(2011年7月23日撮影)
日本橋川から見た日本橋(2011年7月23日撮影)
京都市の東映太秦映画村に再現された日本橋
日本橋地域
広域地名としての日本橋は、東京都中央区北部で、旧日本橋区全域を指す。後述の「日本橋 (町名)」以外で、最寄り鉄道駅名や通称で「日本橋」を冠していなくても、行政上の町名が「日本橋~」である地域も多く、八重洲一丁目も含む[21]。日本銀行本店や東京証券取引所の立地する日本を代表する金融街であり、また老舗の百貨店を含む商業施設も多く、他にも問屋街や多くの製薬会社が連なる地域である。
歴史
近代以前
現在の日本橋を中心とした地域は、古くは武蔵国豊嶋郡に相当し、その中の江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だったという。江戸は鎌倉時代の江戸氏の支配から太田道灌、さらに後北条氏を経て徳川家康が幕府を開く。その過程で、早くに町地として開発されたのがこの日本橋周辺の地域であった。さらに上でも触れたように日本橋が架けられ交通の要所として定められてからは、三越の前身である越後屋をはじめとする大店が集まり、また付近には金座や銀座が置かれるなど、江戸を代表する場所として殷賑を極めた。
近代以降
明治元年(1868年)、江戸府内は東京府となり、日本橋の辺りは維新の混乱により一時寂れた。しかしガス灯や鉄道馬車が敷設されるなど程なく息を吹き返し、江戸の昔に変わらぬ繁栄を見せるようになった。1878年(明治11年)施行された郡区町村編制法により、日本橋を中心とした周辺の地域は日本橋区となり、1889年(明治22年)には東京市に属した。1896年(明治29年)には本両替町にあった金座の跡に日本銀行が建てられた。また大店の越後屋や白木屋が百貨店として生まれ変わり、1908年(明治41年)には越後屋こと三越が洋館の店舗を落成させるなど次第に洋風建築も増え、近代的な町並みへと変わっていった。
1923年(大正12年)、関東大震災により日本橋区は甚大な被害を受ける。震災後定められた土地区画整理事業によって河川や道路の改修、拡幅が行われ、昭和通りや浜町公園ができた。古くから日本橋のたもとにあった魚河岸も築地へと移転した[22]。
第二次大戦において、日本橋区は1945年(昭和20年)の空襲により、再び区内の大半を消失する被害を蒙る。終戦後、東京都の主導により日本橋区は南に接する京橋区(現在の中央区のおよそ南半分)と合併することになった。日本橋区会(現在の区議会に相当)では他区との合併に難色を示す議員が多く、統合後も日本橋の名前だけは残したいとの意向から、京橋区との合併決議に町名に日本橋を冠することとする項目が盛り込まれ、中央区発足時に旧・日本橋区内の全ての町名に日本橋が冠称された[23]。現在中央区のおよそ北半分の地区に見られる数多くの「日本橋○○町」という町名は、中央区発足時の町名変更の名残りである。なお、京橋区側の町名はそのままとなった。
その後、戦災復興期の区画整理により日本橋呉服橋は八重洲一丁目に、1970年(昭和45年)以降の住居表示実施に伴う町名の統合により、日本橋芳町や日本橋北堀町などが隣接する既存の町名に変更され、日本橋を冠する町名の一部は消滅した。また、日本橋や東日本橋(旧:日本橋両国など)といった新しい町名が住居表示実施に伴い誕生した。1973年(昭和48年)、住居表示の実施により、「日本橋通」(一丁目 - 三丁目)と「日本橋江戸橋」(一丁目 - 三丁目)の2町を合併し、現在の日本橋となった。
「日本橋の魚市場(魚河岸)」
神田の青物市場と並ぶ東京の代表的な市場。日本橋の東、江戸橋までの日本橋川北岸にあった。明治30年代(1897 - 1906)、市場周辺の問屋数は約500戸。衛生、交通などの面から移転問題が繰り返し起きた。関東大震災で全焼し築地に移転した。魚、蝦などの絵あり。「日時3月2日午後6時開會 會塲 明治座(傍聽無料)魚河岸非移轉演説會 入塲券辯士(イロハ順)磯部四郎君 脇坂甚兵衛君 田口卯吉君 高本益太郎君 角田眞平君 丸山名政君 島田三郎君」と書かれた演説会の入場券が書き写されている。
— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「日本橋の魚市場(魚河岸)」より抜粋[24]
関東大震災前の日本橋川と魚河岸(左の建物)
「日本橋魚市場発祥の地」の碑(2018年2月6日撮影)
昭和初期の町名変更(東京市告示に基づく町区域の対照図)[25]
日本橋地区における住居表示実施前後の町名町域対照地図
- 「日本橋」を冠する現町名
- 日本橋大伝馬町
日本橋蛎殻町一丁目 - 二丁目- 日本橋兜町
日本橋茅場町一丁目 - 三丁目- 日本橋小網町
- 日本橋小伝馬町
- 日本橋小舟町
- 日本橋富沢町
- 日本橋中洲
日本橋人形町一丁目 - 三丁目
日本橋馬喰町一丁目 - 二丁目- 日本橋箱崎町
日本橋浜町一丁目 - 三丁目- 日本橋久松町
日本橋堀留町一丁目 - 二丁目
日本橋本石町一丁目 - 四丁目
日本橋本町一丁目 - 四丁目
日本橋室町一丁目 - 四丁目- 日本橋横山町
- 「日本橋」を冠さない現町名
- 日本橋一丁目 - 三丁目
東日本橋一丁目 - 三丁目
八重洲一丁目
観光・街づくり
- 江戸三大祭り
- 日本橋の地域内に氏子を持つ、社格が高い3つの神社の例大祭で、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」と表した。日本橋北詰大半を範囲とする神田神社の神田祭、日本橋南詰全域を範囲とする日枝神社の山王祭、日本橋北詰東部を範囲とする富岡八幡宮の深川祭と共に規模の大きい祭りで、にぎわいを見せている。
- 三井村
- 現在、日本橋には三越や三井不動産を始めとする三井グループの本社が建ち並び、「三井村」として丸の内の「三菱村」と並び称される[26][27]。2005年には重要文化財である三井本館の隣に大型複合再開発ビル、日本初のマンダリン・オリエンタル東京も入居する日本橋三井タワー(三井新館)が開業した。三井不動産は目抜き通り沿いの大型物件開発を手掛けると同時に、日本橋地区の路地で営業する商店主らと協力しての街づくりにも取り組んでいる[28]。
- 時の鐘跡
- 江戸時代、市中に時を告げるため鐘を撞いた所の旧跡で、本石町三丁目(現:日本橋室町四丁目)にあった。当時は江戸の9か所に時の鐘が設けられ、本石町にあったこの時の鐘は一番初めに置かれたものといわれる。時の鐘は明治6年(1873年)まで用いられた。日本橋小伝馬町の十思公園には、安永8年(1779年)に造られた本石町の鐘が移されて残り、「石町時の鐘」として都の文化財に指定されている。
- 箱根駅伝
- 1999年以降、箱根駅伝の第10区はコースを日本橋経由へ変更している。これは日本橋周辺の商工会からの要請であると同時に、東海道の始点である日本橋を通るということが箱根駅伝のクライマックスを飾るに相応しいと判断されたからである。
- 日本橋美人
- 日本橋を活性化する目的で2005年10月1日より発足した、「日本橋美人プロジェクト」にて外見の美しさだけを求めず内面の美しさも求めた女性を定義する語として誕生。提唱者は日本橋OLクラブ部会長の山田晃子。
創作物
日本橋もしくは同町を題材とした創作作品
- 絵画
- 『東海道五十三次之内 日本橋』:歌川広重の浮世絵。「#日本橋(橋梁)」に画像資料あり。
- 『木曾街道 続ノ壱 日本橋 雪の曙』:渓斎英泉の名所絵(浮世絵)。画像について上に同じ[29]。
- 『熈代勝覧』:作者不明の絵巻物。
- 小説
- 『大番』(1956年 - 1958年):獅子文六著
- 『麒麟の翼』(2011年):東野圭吾著、麒麟像をキーワードに日本橋界隈を舞台とした推理小説。映画化もされた。
- 民謡
- 『お江戸日本橋』
ギャラリー
日本橋付近の航空写真。橋は首都高速道路の真下にあり、空からは見えない。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
高島屋日本橋店本館。百貨店では初めて国の重要文化財に指定された。
三越日本橋本店新館
COREDO日本橋
日本橋三井タワー
かつての三井財閥の本拠、三井本館
東京駅日本橋口
日本橋 (町名)
日本橋 | |
---|---|
— 町丁 — | |
日本橋 日本橋の位置 | |
座標: 北緯35度40分55.75秒 東経139度46分25.79秒 / 北緯35.6821528度 東経139.7738306度 / 35.6821528; 139.7738306 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 中央区 |
地域 | 日本橋地域 |
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[30] | |
- 計 | 323人 |
等時帯 | 日本標準時 (UTC+9) |
郵便番号 | 103-0027[31] |
市外局番 | 03[32] |
ナンバープレート | 品川 |
日本橋は、東京都中央区日本橋地域の町名で、北は日本橋川、南は都道408号に接する。現行行政地名は日本橋一丁目から日本橋三丁目。郵便番号は103-0027[31]。
歴史
- 旧町名
- 日本橋通、日本橋江戸橋
地理
中央区日本橋地域の南部に位置し、日本橋南詰の町として古今賑わいを見せている。
河川・橋
日本橋川
- 日本橋
- 江戸橋
世帯数と人口
2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[30]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
日本橋一丁目 | 47世帯 | 69人 |
日本橋二丁目 | 52世帯 | 71人 |
日本橋三丁目 | 113世帯 | 183人 |
計 | 212世帯 | 323人 |
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[33]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
日本橋一丁目 | 全域 | 中央区立城東小学校 | 中央区立日本橋中学校 |
日本橋二丁目 | 全域 | ||
日本橋三丁目 | 全域 |
施設
- 企業
榮太樓總本鋪本社・本店
たいめいけん本社・本店
オンワードホールディングス本社
コーセー本社- コーセーコスメニエンス本社
- 柳屋ビルディング - 柳屋本店創業の地
日本メナード化粧品関東支社[34] - 東京建物日本橋ビルディング内
第一三共ヘルスケア本社
第一三共東京支店
天藤製薬 東日本営業部- 国分グループ本社
野村證券日本橋本社
東海東京フィナンシャル・ホールディングス本社
東海東京証券東京本部
東日本銀行本店
三菱UFJメリルリンチPB証券本社 - 日本橋一丁目三井ビルディング内
メリルリンチ日本証券本社 - 日本橋一丁目三井ビルディング内
観光
名所・史跡
高島屋日本橋店 - 本館が重要文化財に指定された(日本橋三越本店については日本橋室町参照)。日本橋駅直結。- 東京武田ビル・武田新江戸橋ビル - 武田薬品工業東京本社が、YUITO日本橋室町野村ビル裏手の武田グローバル本社(日本橋本町、2018年3月竣工)に移転。高島屋がこれら2つのビルを購入した[35]。
日本橋一丁目三井ビルディング(COREDO日本橋) - 複合商業施設。日本橋駅直結。
日本橋丸善東急ビル
丸善日本橋本店 - 日本橋駅直結。
- 日本橋西川
榮太樓總本鋪本店
日本橋郵便局 - 日本における郵便発祥の地。
美術館・博物館
- 三井記念美術館
凧の博物館(たいめいけんビル内)
このほか、地方自治体のアンテナショップ集積地としては銀座・有楽町地区と並び、各地の名産品を購入する人も多い[36]。
交通
- 鉄道
東京地下鉄日本橋駅(○銀座線、○東西線) - 副駅名として高島屋前が使用されている。
都営地下鉄日本橋駅(○浅草線) - 旧:江戸橋駅
バス停留所
都営バス東20 日本橋- 都営バス東22 日本橋
- 都営バス東22乙 日本橋
- 都営バス東42甲 日本橋
メトロリンク日本橋 地下鉄日本橋駅 / 日本橋南詰 / 日本橋二丁目 / 日本橋三丁目
- 道路
- 永代通り
- 中央通り
東京都道408号八重洲宝町線(八重洲通り)
首都高速道路・出入口
- 首都高速都心環状線
- 江戸橋出入口
- 江戸橋ジャンクション
名称のローマ字表記
架橋の英字案内および中央区の正式なローマ字表記は、修正ヘボン式に基づいた『Nihonbashi』 が使用されている(これと同様な修正ヘボン式の使用例は千代田区三番町・四番町が挙げられる)。日本橋地域の地名の中には、1つの地名の中に修正ヘボン式と旧ヘボン式のスタイルが混ざっている表記の町名が存在する(例:Nihonbashi-odemmacho)。
ただし、地下鉄の駅名やJRの案内表示など、一部では旧ヘボン式ローマ字での表記 Nihombashi が使用されている。
脚注
^ あけ-むつ。夜明け頃のことで不定時法に基づく名称。
^ 武部健一 2015, p. 165.
- ^ abc奇跡の地球物語 日本橋〜世界に誇る名橋の真実〜. テレビ朝日ネットワーク. テレビ朝日. 2011年3月20日放送.
- ^ abc日本橋の麒麟像東京都公文書館
- ^ abcd日本橋架橋百周年竹内誠(東京都江戸東京博物館館長)、『まち日本橋』第6号、2011年04月
^ 武部健一 2015, pp. 165–166.
^ 日本橋の焼失が記録されているのは明暦3年(1657年)、天和2年(1682年)、元禄11年(1698年)、正徳元年(1711年)、享保元年(1716年)、安永元年(1772年)、文化3年(1806年)、文政12年(1829年)、弘化3年(1846年)、安政5年(1858年)である。そのうち正徳元年(1711年)と安政5年(1858年)が半焼で、残りの8回は全焼であった。 - 西山松之助「火災都市江戸の実体」『江戸町人の研究 第5巻』同編、吉川弘文館、1978年、57頁
^ “日本橋川・日本橋”. 日本橋川・亀島川・隅田川の徒歩と舟の旅. 2011年1月14日閲覧。
^ [けいざいフラッシュ:日本橋を洗って再生]毎日jp 2010年10月25日
^ “日本橋周辺のまちづくりと連携し、首都高速道路の地下化に向けて取り組みます。” (プレスリリース), 国土交通省道路局, (2017年7月21日), http://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000863.html 2017年7月22日閲覧。
^ “日本橋周辺のまちづくりと連携し、首都高速道路の地下化に向けて取り組みます。” (プレスリリース), 東京都都市整備局, (2017年7月21日), http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2017/07/21/05.html 2017年7月22日閲覧。
^ “日本橋の真上を走る首都高が地下に 費用は数千億円(17/07/21)”. ANNニュース(YouTube) ([[オールニッポン・ニュースネットワーク|]]). (2017年7月21日). https://www.youtube.com/watch?v=gShEbB8W1nw 2017年7月21日閲覧。
- ^ abロム・インターナショナル(編) 2005, p. 47.
- ^ abcdロム・インターナショナル(編) 2005, p. 48.
^ 東海道は国道1号途中の京都府京都市終点。
^ 水戸街道は国道6号途中の茨城県水戸市終点。
^ 中山道は国道17号途中の群馬県高崎市から国道18号へ切替。
^ 2005年(平成17年)12月に「美しい景観を創る会」(代表:伊藤滋〈早稲田大学教授〉)によって「悪い景観百景」の第1弾七十選の一つにも選定された。この一方、「日本橋よりも、日本の高度な土木技術史の象徴となった首都高速道路の方が歴史的価値が高い」との五十嵐太郎(東北大学助教授)からの反論がある[2006年(平成18年)11月20日付 読売新聞]。
^ http://www.mlit.go.jp/road/ir/kihon/15/s1.pdf
^ “日本橋の首都高を地下に 首相は具体化検討を指示”. 47NEWS (2006年9月15日). 2011年9月24日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年10月17日閲覧。
^ 日本橋地域中央区役所ホームページ(2018年12月3日閲覧)。
^ 斗鬼正一「橋から見た都市」『情報と社会』(18)、江戸川大学、2008年、11頁。
^ 昭和22年東京都告示第149号。これと同様の町名変更には神田地区などがある。
^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「日本橋の魚市場(魚河岸)」国立国会図書館蔵書、2018年2月10日閲覧
^ 関東大震災の復興計画/震災復興再開発事業により、日本橋区内の全域で土地区画整理事業が実施された。これに伴い1928年(昭和3年)12月以降、大規模な町名地番整理も行われた。
^ 東京の三井村
^ “三井村”に野村不動産が殴りこみ!日本橋再開発で火花
^ 「日本橋の路地に活気呼べ 三井不動産・地元店主ら町づくり/老舗の店構え 雰囲気生かす」『朝日新聞』朝刊2018年8月31日(東京面)2019年2月10日閲覧。
^ 歌川広重・渓斎英泉の木曽海道六拾九次 - 江戸時代の旅について Archived 2011年10月19日, at the Wayback Machine.
- ^ ab“町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2017年12月5日). 2017年12月31日閲覧。
- ^ ab“郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月31日閲覧。
^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
^ “区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2017年12月31日閲覧。
^ 千代田区神田東紺屋町より拠点移動(移動前は東京支社だった。)
^ 高島屋/約500億円で東京武田ビル、武田新江戸橋ビル購入 流通ニュース 2017年12月01日
^ 「江戸文化の情報発信拠点、日本橋で 日本の伝統・感性を学ぶ」『日本経済新聞』朝刊2018年8月31日(25面)。
参考文献
- 武部健一 『道路の日本史』 中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6。
- ロム・インターナショナル(編) 『道路地図 びっくり!博学知識』 河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005年2月1日。ISBN 4-309-49566-4。
関連項目
中央警察署- 同町周辺の管轄にあたる(所在地:日本橋兜町)
日本橋消防署 - 同町周辺の管轄にあたる(所在地:日本橋兜町)- 東京15区
ケルヒャー - 2011年4月の日本橋架橋100周年に合わせ、2010年10月にクリーニングプロジェクトを施行した。
外部リンク
- 中央区ホームページ
八重洲一丁目・日本橋地区 町名の由来 - 中央区ホームページ- 古今・お江戸日本橋 日本橋“町”物語
- 日本橋 - 古今・お江戸日本橋 日本橋“町”物語
- 東京国道事務所
日本橋・日本国道路元標 - 中央区観光協会
日本橋美人“Japan Beauty from Edo-Tokyo” - 東京中央ネット
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座標: 北緯35度41分01秒 東経139度46分28秒 / 北緯35.683734度 東経139.774362度 / 35.683734; 139.774362