フォード・モーター
























































































フォード・モーター・カンパニー
Ford Motor Company

Ford logo flat.svg

FordGlassHouse.jpg
本社ビル

種類
株式会社
市場情報

NYSE F

本社所在地
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミシガン州ディアボーン
One American Road, Suite 1026, Dearborn, MI 48126-2798
北緯42度18分53.1秒 西経83度12分37.8秒 / 北緯42.314750度 西経83.210500度 / 42.314750; -83.210500
設立
1903年6月16日
業種
輸送用機器
事業内容
自動車の製造等
代表者
ビル・フォード(会長)
資本金
15,071 Million US$
(2011年12月31日時点)[1]
売上高
増加 1567億7600万ドル(2017年期)
営業利益
減少 48億1300万ドル(2017年期)
純利益
増加 76億200万ドル(2017年期)
純資産
増加 349億1800万ドル(2017年期)
総資産
増加 2578億800万ドル(2017年期)
従業員数
約202,000人(2017年12月時点)
決算期
12月末日
主要株主
フォード家(株式ベースで1%、議決権ベースで40%)
関係する人物
ヘンリー・フォード(創業者)
外部リンク
www.ford.com
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フォード・モーター・カンパニー(英語: Ford Motor Company)は、アメリカの自動車メーカーである。


フォードは自動車の大量生産工程、および工業における大規模マネジメント(科学的管理法)を取り入れたことで20世紀の産業史・経営史に特筆される。特に1913年、組み立て工程にベルトコンベアを導入し流れ作業を実現したことは有名である。大量の自動車を早く生産できる高効率の工場設備、士気を高める高給料の工員、一台当たりの生産コストの革新的な低減を組み合わせたフォード生産方式は「フォーディズム」の名で世界的に知られるようになった。




目次






  • 1 フォードのマーク


  • 2 フォードグループ


  • 3 歴史


    • 3.1 創業とフォード・モデルT


    • 3.2 フォードの転機


    • 3.3 海外進出


    • 3.4 第二次世界大戦


    • 3.5 第二次世界大戦後


    • 3.6 エドセルの失敗


    • 3.7 アイアコッカ時代


    • 3.8 1980年代


    • 3.9 1990年代


    • 3.10 2000年代


    • 3.11 One Ford戦略


    • 3.12 現在




  • 4 研究開発


  • 5 日本でのビジネス


    • 5.1 第二次世界大戦前


    • 5.2 第二次世界大戦後


    • 5.3 マツダとの提携


    • 5.4 撤退


    • 5.5 現在




  • 6 トラクターの生産


  • 7 モータースポーツ


  • 8 車種一覧


    • 8.1 日本正規販売モデル


      • 8.1.1 フォードブランド


        • 8.1.1.1 Cars


        • 8.1.1.2 SUVs




      • 8.1.2 リンカーンブランド




    • 8.2 その他モデル


      • 8.2.1 北米製


      • 8.2.2 南米製


        • 8.2.2.1 アウトラチーナ




      • 8.2.3 欧州製


        • 8.2.3.1 日産・モトール・イベリカ製




      • 8.2.4 オーストラリア製


      • 8.2.5 タイ製


      • 8.2.6 台湾製


      • 8.2.7 韓国製


        • 8.2.7.1 起亜自動車製


        • 8.2.7.2 現代自動車製




      • 8.2.8 日本製


        • 8.2.8.1 日本フォード製


        • 8.2.8.2 マツダ製


        • 8.2.8.3 日産自動車製








  • 9 日本未投入モデル (一部)


  • 10 脚注


  • 11 関連項目


    • 11.1 著名なエンジンチューナー




  • 12 外部リンク





フォードのマーク



Ford sign in Japan.jpg


フォードのオーバル型のトレードマークは1907年に導入された。1928年に生産開始されたT型の後継車「A型」がオーバル型のバッジの中にフォードという書き文字を入れた最初の車種である。「フォード」という文字はフォード社最初の主任技師C・ハロルド・ウィリスの書いたものとされる。彼は1903年に自分の名刺に書いたフォードという文字をもとに、この書き文字を導入した。


オーバルの背景の深い青色はパントーン249Cで、フィンランドの国旗と同じ色である。オーバルは幅と高さの比率が8対3の完全な楕円形で、現在のセンティニアル・オーバルは2003年6月17日に創業100年を記念して使用開始された。



フォードグループ


フォード社直轄の工場はアメリカ合衆国の他に、イギリスやドイツ、ブラジルやオーストラリアにおかれている。



  • フォード - アメリカ


  • リンカーン - アメリカ


  • Troller Veículos Especiais S/A - ブラジル


かつてはマツダ、ボルボ、ジャガー、ランドローバーといった自動車メーカーも傘下に置いたが、00年代の経営悪化以降売却が進められた。



歴史



創業とフォード・モデルT




フォード(左端)とエジソン。エジソンの隣はウォレン・ハーディング大統領、右端はファイアストン




フォードT型(1910年)


ヘンリー・フォードは2度自動車会社の起業に失敗したが、3度目のこの会社は1903年6月16日の創業から現在まで続いている。当時40歳の彼は12人の投資家から現金2万8千ドルを集めて再起を期した。特に重要な投資家はダッジ・ブラザーズ自動車の創立者、ジョン=フランシス=ダッジとホラティウス=エルジン=ダッジのダッジ兄弟だった。



フォード・モーターは『A型』と名付けた車から製造販売をおこない1908年のS型に至った。S型に続き1908年から製造販売された『フォード・モデルT』は大量生産時代の自動車製造スタイルおよびそれに付随する全米規模でのアフターサービス体制を形作った最初の車となり、現代の自動車産業の原点としての意味で名車といわれている。


フォード開業当時のモデルはデトロイト市内のマック・アベニューにある貸工場で生産され、部品を自動車へ組み上げる作業を1台当たり2・3人の工員が数日かけて行っていたが、フォードではそれまでばらつきのあった部品をマイクロゲージを基準とした規格化によって均質化し、部品互換性を確保することに成功していた。フォード・モデルTは初めての自社工場であるピケットロード工場を利用し、フル生産開始の1909年には1年間で1万8千台もの台数を生産した。廉価なT型への需要が急増すると、フォードはさらに大型のハイランドパーク工場を建設し、1911年の稼働時には年7万台の生産を可能とした。フォード社は流れ作業システムや大量生産に必要な技術・管理方式を開発し、1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。部品の簡素化・内製化、流れ作業による工員の間での分業化により、たとえば車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超え、1920年までに100万台を突破した。


しかし生産技術革新は、工員にとっては、同じ動作だけの単調な労働を長時間強いられる極めて過酷なもので、人員の異動や退職も多く、未熟練工員の雇用や訓練コスト高に結びついた。ただでさえアメリカの労働力が不足する中、フォードは労働力確保を迫られ、1914年には1日当たりの給料を2倍の5ドル(2006年の価値では103ドルに相当する)へと引き上げ、勤務シフトを1日9時間から1日8時間・週5日労働へと短縮する宣言を発し、結果応募者が退職者を上回り続けることになった。合衆国政府が最低賃金や週40時間労働の基準を決める以前にこれを達成したことになる。一方でヘンリー・フォードは労働組合の結成には反対し続けた。


労働力不足と賃金上昇で1台当たりのコストは上がったが、フォードは販売価格に転嫁せず、生産コストを矢継ぎ早に削減することでコスト上昇分を吸収した。またフォードのブランドに忠実なフランチャイズ販売店システムを導入した。ヘンリー・フォードは、従業員が自社の車を買えるように賃金を引き上げたが、こうした厚遇は当時のウォール街の金融機関などから批判を浴びている。しかしフォードは成功を収め、1919年末にはアメリカの自動車生産の半分を担い、1920年には全米の自動車の半分がフォード・モデルTとなった。T型以前のモデルでは黒以外の多様なバラエティがあったが、T型はペンキの乾きが早く済むという理由で黒1色しかなかった。


1915年にはヘンリー・フォードは第一次世界大戦の休戦を模索するために平和使節としてヨーロッパへ渡っている。これは彼への人気を高めたが、一方でフォード・モデルTは連合国の軍用車となって戦争を支えた。



フォードの転機


フォード社はフォード・モデルTだけを製造し続け1927年まで20年近くを一モデルの改良と生産工程の改良、販売サービス網の充実に費やす。当時金持ちのおもちゃといわれた自動車を大量生産によって大幅に値下げし、車は大衆的な輸送手段となった。この成功によって150社程もあった米国自動車会社の中からフォード社はアメリカ市場の5割を占める大会社となった。


1919年にヘンリーの息子エドセル・フォードが社長を引き継いだが、社の実権は創業者ヘンリーが握り続けた。社の経営はヘンリーの個人経営同然であった。彼は安価に大量にT型を供給し続けることしか念頭にない節もあり、より上級の車を求める顧客の需要を無視し、生産性のさらなる向上でT型の価格を下げ続けた。


この隙をついてGMとクライスラーがシェアを伸ばし、アメリカ内外の競合企業がT型より新鮮なデザインと優れた性能の自動車で顧客の需要を奪った。もともと多様な自動車会社が合併して生まれたGMは、大衆車から超高級車までのあらゆる価格帯の自動車を販売しており、さらに矢継ぎ早のモデルチェンジで常に最新型を供給して以前のモデルを時代遅れのものとし、T型しか買えない層よりも裕福な層をつかんだ。またGMほか競合企業はオートローンによる信用販売により、所得の低い層でも分割払いで高い自動車を買える仕組みを築いた。




フォードA型(1928年)


社長のエドセルは早くからT型のモデルチェンジを考えており、それは社内や販売店の意向も同様だった。しかし、ヘンリー・フォードはこれを一顧だにせず、オートローンについても、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者と国家経済を疲弊・荒廃させるとして強く抵抗した。これら固執は後に失政ともいわれた。


しかしT型の性能・デザイン面での陳腐化は明らかだった。1927年12月にはついに、1500万台を販売したT型の生産を中止し、心機一転、モデル名を振り出しに戻し再びA型と名乗る車を導入した。一方、1922年2月4日にはリンカーンを買収し、フォードは高級車市場へ参入している。また1938年には大衆車フォードと高級車リンカーンの中間にあたるマーキュリーブランドを立ち上げ、ようやく中級車市場へも参入した。


1920年代後半から1930年代にかけての大恐慌時には、フォード社の高い月給は労働者を多数集めたものの、工場の労働と規則は厳しいものだった。また大恐慌における自動車需要の収縮でフォードの他社との競争は激化した。なおこの頃航空機製造にも乗り出し、「トライモーター」などの旅客機を世に送り出した。



海外進出




フォード・モデル68(1936年)


GMとの競争は、早くから海外への進出も目を向けることにも繋がった。イギリス・フォードが1911年、ドイツ・フォードが1931年と古くから現地生産が行われ、1967年にフォード・オブ・ヨーロッパ (以下、欧州フォード) が設立されそれ以降はモデルの一元化が推進され、1970年代から1980年代を通して完全に一元化された。欧州フォード車はフォード車であっても欧州車そのものであり、マッスルな北米部門に対し、質実剛健な欧州部門という方向性となっていた。


またアジア進出も早くから行われ、1925年2月には、世界五大国の1つであり、自動車市場の成長が期待されていた日本の横浜市緑町に、日本法人の「日本フォード」が組み立て工場(日本フォード子安工場)を置いた。アメリカで生産されていたモデルを主に生産、販売し、当時の主なターゲットはタクシーなどの営業車市場であったが、その後富裕層を中心とした自家用車市場にも食い込んでいった。


その後GMもこれにつづき日本進出し、この1925年から1940年頃の時期に、フォードとGM、オースチン、そして国産のダットサンやオオタが一般オーナーに広く普及したことにより、自動車販売網やガソリンスタンド、オーナーズクラブなどの日本の自家用車の基礎がつくられている。


1926年にはオーストラリアのジーロングにフォード・オーストラリアを開設し、1970年代以降独自モデルの生産を続けている。1929年にはソビエト連邦の共同事業としてニジニ・ノヴゴロドにNNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場、現在のGAZ)を開設した。



第二次世界大戦




フォードのウィローラン工場で大量生産されるB-24爆撃機


フランクリン・ルーズベルト大統領はデトロイトを「民主主義の兵器廠」と呼んだ。フォード・モーターもこれに深く貢献しており、第一次世界大戦および第二次世界大戦では重要な役割を果たした。ヘンリー・フォードは「戦争は時間の無駄」と言ったと伝えられ、戦争から利益を上げることを嫌悪した。しかしフォードは多くの自動車を軍に納めたほか、1930年代のナチス政権下のドイツにおけるフォード工場の国有化に協力しドイツから勲章を得た。


一方でフォードは第二次世界大戦勃発後の生産増強に際し天才的な才能を発揮し、軍用機・軍用車生産の効率を飛躍的に高めた。コンソリデーテッドB-24爆撃機の製造のために1941年4月にアナーバー近郊で着工したウィローラン工場は面積33万平方メートルで、当時世界最大の流れ作業ラインを持つ工場であった。B-24製造にあたって、飛行機会社では1日1機の製造が精いっぱいだったが、ウィローラン工場では24時間体制で1時間1機のB-24を生産した。


ウィローラン工場建設のストレスで社長エドセル・フォードは1943年春に胃がんで死去し、再び父ヘンリー・フォード1世が経営者となった。ウィローラン工場は1943年8月生産開始し、大量の爆撃機を送り出した。またフォードは他社とともにM4中戦車やジープ(GP/GPW)の生産にもあたっている。


なお、第二次世界大戦中は多くの男性労働力が戦場へと駆り出された他、新型車の開発、発売がストップしたのみならず、鉄やガソリンの調達さえ困難になり、アメリカ国内でガソリンの販売規制が行われたことから乗用車の販売が激減した。



第二次世界大戦後




フォード・カスタム(1949年)




ゼファーシックス(1954年)




エドセル(1958年)


ヘンリー・フォードは最年長の孫であるヘンリー・フォード二世をフォードの社長に据え、1947年世を去った。ヘンリー二世は1945年から1960年まで社長を務め、1960年から1980年まで会長・CEOを務めた。ヘンリー二世は1956年にフォードを公開会社としたが、現在に至るまでフォード家が議決権株式の40%を支配し続けている。


1946年に、ハーバード・ビジネス・スクールを経てアメリカ陸軍航空軍で統計学を用いて戦略爆撃を立案・分析したロバート・マクナマラがフォードに入社し、経営計画および財務分析を担当する重役となる。


マクナマラはヘンリー二世の支持を得て、創業者と大戦特需を失い危機に陥ったフォードを立て直し、トップレベルの経営担当重役を歴任し1960年11月9日にはフォード家以外から初めての社長となった。しかし社長就任から5週間もたたないうちにジョン・F・ケネディ大統領に請われホワイトハウス入りし国防長官に就任した。


アメリカ経済が戦禍から立ち直りつつあった1949年に、フォードは戦後初の本格的な新型車「カスタム」を世に出し、その斬新なデザインによりヒットさせた。


その後も幅広いバリエーションを持つフェアレーンや、名車と称えられるサンダーバードをヒットさせ、併せて第二次世界大戦前から展開していたヨーロッパ市場においても、イギリス・フォードのアングリアやゼファーなどのヒットによりその位置を盤石なものとした。



エドセルの失敗


1958年には、フォードとマーキュリーの間のレインジを担当する、斬新なフロントグリルを特徴とする中級車ブランド「エドセル」を、大々的なキャンペーンとともに発売した。


しかし、亡き社長の名を取って「エドセル」と名付けられた新ブランドは、折からの不況とマーケティングの失敗、そしてデザインが受け入れられなかったために、その後追加モデルの投入を行ったにもかかわらず自動車業界史上記録的な大失敗に終わり、1959年11月に生産中止となり姿を消す。



アイアコッカ時代




フォード・マスタング(1964年型)




フォード・ピント(1971年型)




フォード・トーラス(1985年)




フォード・プローブ(1993年)


エドセルの大失敗で打撃を受けたフォードは、行き過ぎた大型化の反動から中型車や小型車へのシフトが始まった流れをうまくつかむことに成功し、1960年に発表したコンパクトカーのフォード・ファルコンをヒットさせた。


さらに1964年にはファルコンをベースに、第二次世界大戦後に生まれたベビーブーマーをはじめとする幅広い層をターゲットにしたフォード・マスタングを出し、いずれも大成功をおさめた。1967年にはフォード・ヨーロッパが設立された。


マクナマラの部下の一人で、マスタングなど大成功した自動車の開発やリンカーン・ブランドおよびマーキュリー・ブランドの立て直しにあたったリー・アイアコッカは1970年1月に社長となった。


1970年代以降、フォードはビッグ3のライバルのほか、オイルショックの影響を受けて急速に伸びた日本の小型車との競争でシェアを失ったが、アイアコッカは後に安全性をめぐり訴訟へ発展したフォード・ピント(1971年)などを発売し、1978年には史上最高の売上と22億ドルの利益を達成した。


しかし経営方針をめぐって会長のヘンリー二世と衝突し続けたアイアコッカは、ついに同年7月13日に解雇された。アイアコッカは間もなくライバルのクライスラーの社長に就任し、同社を再建することになる。



1980年代


アイアコッカの後は、フィル・コールドウェルが1979年に会長になり、1985年にドン・ピーターセンが継いだ。なお1979年には日本の自動車メーカーのマツダと資本提携し、傘下に置きつつ共同で小型車の開発や生産を行った。


1980年代も日本車との競争が続いたものの、1979年に発売された小型化されたマスタングや、1983年に発売されたテンポやサンダーバードがヒットした。さらにヨーロッパにおいても、フィエスタやシエラがヒットした。


また、日本車やドイツ車を徹底的に研究し、テンポやサンダーバードと同じく空力を意識したエクステリアをまとい、1985年に発売された中型車のトーラスが大ヒットし、久々にフォードブランドのモデルがアメリカのベストセラーの座を得るという快挙を成し遂げた。



1990年代


1990年代には株式市場の盛況とガソリン安で、ピックアップトラックやSUVなど収益性の高い多くの車が売れ安定した経営を続けていた。経営状態の好調を受けて、1989年に経営不振に陥っていたイギリスのジャガーやランドローバーを買収し傘下に収めた。後にスウェーデンのボルボも買収する。これらのヨーロッパの高級車ブランドは「PAG(プレミア・オートモーティブ・グループ)」の名のもとにまとめられることとなる。


なお1990年にはハロルド・ポーリングが、1993年にはアレックス・トロットマンが、1998年にはジャック・ナッソーが会長兼CEOになった。ナッソーの攻撃的な経営は関係企業や社内の不興を買い、2001年に解任された。



2000年代




クラウンビクトリア(2007年)


2001年には久しぶりにフォード家のウィリアム・クレイ・フォード・ジュニアが会長兼CEOになっている。2006年にはフォード再建を期待されてアラン・ムラーリーがボーイングよりフォード入りし社長となった。


しかしナッソー時代の技術停滞と他業種参入、当時の業界再編に対抗するための買収路線のマイナスな影響は2000年代に入っても打開できず、さらに2001年9月のアメリカ同時多発テロ以降の原油価格高騰によるガソリンの値上げなどの影響で、アメリカ国内市場における主力商品のフルサイズSUVやピックアップトラックが燃費の悪さから敬遠される傾向にあり、同様の戦略をとっていたGMと共に経営不振に陥っている。


2007年3月には、PAGグループのアストンマーティンがデビッド・リチャーズ、クウェートの投資会社などで構成される投資家グループに8億4800万ドルで売却されたことが発表された。これによりアストンマーティンはフォード・グループから離脱。ただしフォードモーターは引き続き7700万ドルの資本は持ち続ける。


そして2008年3月26日付でPAGグループのジャガーとランドローバーが、インドのタタ・モーターズへ23億ドルで売却されたことが発表され、フォード・グループより離脱した[2]。売却項目にはデイムラーとローバーの商標も含まれている。


さらに、2007年以降のアメリカ初の世界金融危機以後ますます深刻化する業績悪化を受け、2008年11月にフォード・モーターは、長年株式を保有し傘下に置いていたマツダの株式33.4%のうち約20%を、マツダや広島銀行などに売却した[3][4]


さらに2010年3月には、PAGグループに属していたボルボ・カーズを売却することで、中華人民共和国の浙江吉利控股集団との間で最終合意し[5]、同年8月に売却を完了した。これによりPAGグループは消滅した。



One Ford戦略


大苦境に陥ったフォードを再生させるべく、CEOのアラン・ムラーリーは新経営戦略「One Ford」を策定した。


これまでは各地域で独自に商品開発・生産を行ってきたが世界的に体制を一本化し、重要なセグメントに対してモデルを絞り込み「Quality (品質)」「Green (環境性能)」「Smart (洗練度)」「Safety (安全性)」の4項目を世界トップレベルに向上させて、世界中に流通可能な本格的グローバルプロダクトを開発・販売するという戦略である。



現在




フォード・F-150(2016年)


同時多発テロ以降の原油価格高騰と世界金融危機を受けて、北米自動車業界では低燃費車を求める消費者の意向を受け、車のダウンサイジングが進んだ。フォードも例外なく2010年には北米でのBセグメントのフィエスタの販売開始、欧州フォードとの車種統合、ビッグ3では唯一V8エンジンのDOHC化、フルサイズ車の象徴とされたクラウンビクトリアの生産終了、エクスプローラーのFFベース化、ダウンサイジングコンセプトの小排気量過給エンジン「エコブースト」の採用など合理化を進めている。


また、1990年代後半からブランドの差別化に失敗し販売不振に陥っていた「マーキュリー」ブランドを、2010年10月3日に廃止した。しかしピックアップトラックのF-150はアメリカ国内のベストセラーの座を守り続け、2011年にはGM、クライスラーと同様、業績が好転した。さらに2016年には、進出から100年以上の歴史を持つものの、マツダとの提携も終わり、販売台数が低迷していた日本市場から撤退するなど選択と集中を進めている。


2017年3月には、3Dプリンターによる自動車の部品の製造テストを開始すると発表。将来的にはニッチだった車両の製造実現や、大量生産出来なかったグレードアップ・オプションの製造などを目指すとしている。3Dプリンターで製造された部品はこれまでの金属製部品の半分の重量で燃費性能の向上にも貢献できるとしている。[6]


2018年4月には、北米市場でトーラスなど[7]のセダンを廃止して小型車の生産を縮小、2020年までにトラックやSUV(多目的車)、商用車の比率を90%にする方針を表明している[8]。アメリカの自動車工場では、少量生産のモデルでは工場建設や設備導入の投資分をカバーできない状況になっているため、フォードは生産台数が5万台に満たないモデルを中国からの輸入することでラインナップの維持を検討したが、中国との貿易戦争が激化したことにより2018年度中に白紙化された[9]



研究開発


フォードはフォード研究・改革センター(
Ford Research and Innovation Center)を4カ所、米国ディアボーン、シリコンバレー(パロアルト)[10]、ドイツ・アーヘン、中国上海に開設している。また、開発センターは米国内だけでなく海外で、英国エセックス州(Dunton Technical Centre)、ドイツ・ケルン(Merkenich-Cologne Technical/Design Centre)、オーストラリア・メルボルン(Asia Pacific Product Development Centre)[11]、中国南京[12]および重慶[13]などに持っている。



日本でのビジネス



第二次世界大戦前


日本への輸出は、日露戦争が終結した1905年(明治38年)に開始された。その後第一次世界大戦の戦勝国かつ世界五大国のひとつとなり、当時のアジア最大の経済大国となり、さらに関東大震災後にバスやタクシーの需要が急増した日本を重視したフォードは、1925年(大正14年)に「日本フォード」を設立した。


その後横浜市の子安にアジア初のフォードの製造工場を開設し、フォード・モデルTのノックダウン生産を開始した。1927年(昭和2年)には二代目A型フォード(英語版)の生産を開始し、またローン販売も開始した。


フォードは乗用車やトラックを年間1万台生産し、トヨタ自動車、日産自動車、いすゞ自動車を始め、大阪に工場を置いた日本ゼネラル・モータースをしのぐ国内最大の自動車メーカーとなった。また子安工場製のフォード車は日本の友好国である満州国などにも輸出された。


しかし、日米間の関係が悪化しつつあった1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定した。この法律により、国内資本が50 %以上の企業のみ自動車製造が許可されることになり、100 %アメリカ資本だったフォードは1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされる。



第二次世界大戦後


太平洋戦争中の1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月の期間、工場設備は日本政府に接収されたが、戦後の連合国軍の管理を経て1958年(昭和33年)までにフォードに返還された。現在、この一帯(子安地区)はマツダのR&D(研究開発)センターとなっている。



マツダとの提携




フォード・テルスター


1979年(昭和54年)には日本の中堅自動車メーカーであるマツダと資本提携し、マツダの株式の24.5 %を取得した。マツダにはアジアやオセアニア、またアメリカ向け小型車の開発と生産を委託したほか、「オートラマ」の名で全国にディーラーネットワークを展開し、「レーザー」や「テルスター」、「フェスティバ」など、マツダの工場で生産されたフォードの各モデルや、「マスタング」などのアメリカからの輸入モデルを販売するなど、日本でのフォードビジネスを共同で展開していた。


しかし1990年代に入り、バブル崩壊や販売多チャンネル化の失敗などによりマツダの経営状態が悪化したため、1996年(平成8年)にフォードはマツダへの出資比率を33.4 %に引き上げて自社の傘下におき、最高執行責任者のマーク・フィールズ、最高財務責任者のボブ・シャンクス、欧州担当のスティーブン・オデール氏、エンジン開発担当のジョセフ・バカーイなど役員を多数マツダに出向させた(マツダ・マフィア)[14]


その後マツダの経営再建は進んだものの、2000年代後半に経営危機に陥ったフォードは、資金調達のためにマツダへの出資比率を2008年(平成20年)より段階的に引き下げ、2015年(平成27年)までに所有する全てのマツダ株式を売却した。これにより、30年以上続いたマツダとの資本提携は解消された。



撤退


第二次世界大戦後の日本でのフォードビジネスは「フォード自動車(日本)」、そしてマツダとの提携下で展開した「オートラマ」を経て、その後「フォード・ジャパン・リミテッド」がフォード車の輸入・販売を行っていたが、2016年(平成28年)を以って日本市場から撤退すると発表した。


この理由として本家フォード車の不振と前年のマツダ株の完全売却に併せて、「収益改善への合理的な道筋が見えないこと」「日本市場の閉鎖性」を挙げている。要因として、




  • 2000年以降のマツダOEM車の廃止

  • 1990年代後半の輸入車ブームに乗って低価格路線に切り替え販売台数の大幅増に成功したが、輸入車にプレミアム性を求める日本市場においてブランド価値が毀損し、中古車市場でリセールバリューが下落した。


  • 2007年半ば以降、導入車種や広告宣伝活動などの見直し、全国のディーラーの削減といった収支改善を狙った事業縮小策や、短期間で変わる車種及びブランドマーケティング戦略が裏目に出た。


  • メルセデス・ベンツやBMWなどのドイツ車と比較して、右ハンドル車の著しい不足や日本市場に合わせた小型車種の不足。

  • 日本での少子高齢化や若い世代の車離れによる市場の縮小により販売増が困難になった。


が挙げられる。


日本市場の撤退に伴い、直営販売子会社の「フォード・ジャパン・ディーラーリミテッド」のみならず日本統括法人の「フォード・ジャパン・リミテッド(フォード・ジャパン)」は完全閉鎖となり、全国の販売会社は契約が解除されて正規ディーラー網は消滅し、これにより、1世紀以上(正確に111年)続いてきた、日本におけるフォードによる事業の歴史に幕を下ろした。




現在


2018年現在、正規輸入車に対するアフターサービスは、VTホールディングスグループの「ピーシーアイ」が全国の部品供給・リコール対応およびアフターサービスの保証業務を行っている。


新車販売については、フォード本社は日本撤退以降日本市場についてはノータッチとなっており、日本法人の復活や日本の別会社との総輸入代理契約を交わすなどのアクションを行っていない。しかし、全国の輸入車ディーラー有志が並行輸入で新車販売を行い、日本でのフォードファンの基盤を守り続けている。



トラクターの生産


1907年からフォードの子会社であるヘンリー・フォード・アンド・サン・カンパニー(Henry Ford and Son Company)がフォードソントラクター(Fordson Tractor)の製造を開始した。1920年にこの会社はフォード・モーターに再統合されたが、1917年に発売開始されたフォードソンF型(Model F)はフォード・モデルT同様に流れ作業により大量生産され、その価格と扱いやすさから爆発的な人気を博した。


フォードソン・トラクターはアメリカとイギリス、アイルランド、そしてアーマンド・ハマーが間に入る形でソビエト連邦で生産され、1923年にはアメリカ国内のトラクター市場で77%のシェアを得るに至っている。


フォードソン・トラクターのアメリカでの生産は1928年で終了しているが、その後もイギリスおよびアイルランドでの製造が継続された。なお、1938年から1964年の間に、フォードのトラクターは全てフォードソン名義からフォード名義に変更されている。


1986年に、フォードは農機メーカーのスペリー・ニューホランド(Sperry-New Holland)から一部部門を買収し、1988年からフォード・ニューホランド(Ford New Holland)名義でのトラクターの生産を開始する。


しかし、1991年、フォードは2000年までにフォード名義の製品の生産を停止するという契約のもと、トラクター部門をフィアットに売却した。フィアット傘下のニューホランド(New Holland)はこの契約通り、1998年にはフォード名義のトラクターの生産を終了した。




モータースポーツ




車種一覧





フォード・フィエスタ





フォード・マスタング





フォード・フュージョンハイブリッド





フォード・エクスプローラー




フォード・スーパーデューティー



凡例

★印は絶版モデル。

☆印は輸入中断モデル。

○印は近鉄モータース(後にクインランド・カーズ)が輸入



日本正規販売モデル


※2016年1月現在。



フォードブランド



Cars


  • フォード・フィエスタ

  • フォード・フォーカス

  • フォード・マスタング



SUVs


  • フォード・エコスポーツ

  • フォード・クーガ

  • フォード・エクスプローラー



リンカーンブランド



  • リンカーン・ナビゲーター

  • リンカーン・MKX



その他モデル



北米製




  • フォード・F-150○☆ 1999


  • フォード・LCF [15] 2006-2009 ★


  • フォード・V8★

  • フォード・エッジ

  • フォード・エクスプローラー 1991- (1991-92○)


  • フォード・エクスプローラースポーツトラック 2006-


  • フォード・エクスペディション○☆ 1999-2001


  • フォード・エスコート (北米)★☆ 1981-2003


  • フォード・カントリー・スクワイア★


  • フォード・ギャラクシー(Galaxie)★


  • フォード・クラウンビクトリア★


  • フォード・フェアレーン★


  • フォード・プローブ [16] ★ 1988-1997


  • フォード・ブロンコ★


  • フォード・ブロンコII ○★ -1991


  • フォード・マベリック★

  • フォード・マスタング -2005,2006- (-1993○)


  • フォード・トーラス☆ 1986-1997


  • フォード・サンダーバード★ -1993 (-1989○)


  • フォード・エスケープ[17]


  • フォード・レンジャー(北米) ○★


  • マーキュリー・カプリ○★


  • マーキュリー・クーガー○★ -1999


  • マーキュリー・グランドマーキー○


  • マーキュリー・セーブル○☆ 1986-1988


  • マーキュリー・ヴィレジャー [18]


  • マーキュリー・マーキス○★


  • マーキュリー・マリナー【Mariner】[19]


  • リンカーン・タウンカー○★


  • リンカーン・LS★

  • リンカーン・MKX 2008-


  • リンカーン・コンチネンタル -2003,2017-(-1988○)


  • リンカーン・ナビゲーター 2008-


  • リンカーン・マークVII○★ -1992


  • リンカーン・マークVIII○★ 1993-1998



南米製



アウトラチーナ

かつてフォルクスワーゲン・ド・ブラジルと合弁で「アウトラチーナ (AutoLatina)」という工場を運営していた。この際、フォードとフォルクスワーゲンの車種をそれぞれ相手方のブランドで製造する事で生産コストの低減を狙っていたが、現在は終了。



  • フォード・ヴェルサイユ [20]

  • フォード・ローヤル[21]



欧州製


フォードは第二次世界大戦以前から欧州に生産拠点を作っていた。主なものはイギリス、ロンドン東方のダゲナム(Dagenham)やドイツ西部のケルン(Köln)等。
現在の車種の大半は欧州フォードのオペレーションの元、スペイン東部のバレンシア(Valencia/フォーカスやフィエスタ等)とベルギー北東部のヘンク(Genk/モンデオ等)の工場が担当。




  • フォード・RS200★


  • フォード・アングリア★

  • フォード・エコスポーツ


  • フォード・エスコート (ヨーロッパ)[22]○★


  • フォード・Ka☆


  • フォード・カプリ○★


  • フォード・ギャラクシー (ヨーロッパ) [23]


  • フォード・グラナダ (ヨーロッパ)○★


  • フォード・コルセア (ヨーロッパ)★


  • フォード・コーティナ○★


  • フォード・シエラ○★


  • フォード・タウヌス★

  • フォード・フォーカス

  • フォード・フィエスタ


  • フォード・モンデオ☆

  • フォード・クーガ

  • フォード・トランジット

  • フォード・スコーピオ



日産・モトール・イベリカ製


  • フォード・マベリック(ヨーロッパ) [24]


オーストラリア製



フォード・オーストラリアは1960年~70年にかけて米国フォードのファルコン(英語)をオーストラリアの過酷な道路に対応できるように改良したものを生産していたが、1972年のXAモデルから開発・デザインとも完全にオーストラリア独自になった。EA169 BAファルコンをベースに開発されたSUVテリトリー(英語)もオーストラリア独自モデルとなっている。




  • フォード・LTD (オーストラリア)★


  • フォード・カプリ (オーストラリア) [25]


  • フォード・ギャラクシー (オーストラリア)★

  • フォード・テリトリー

  • フォード・ファルコン (オーストラリア)


  • フォード・フェアレーン (オーストラリア)★


  • フォード・フェアモント (オーストラリア)★


  • フォード・コルセア (オーストラリア) [26]



タイ製




  • フォード・レンジャー(オセアニア・アジア・ヨーロッパ)[27]


  • フォード・エベレスト[28]



台湾製



福特六和汽車(以下、台湾フォード)が台湾におけるフォードブランド車の生産・輸入・販売を手掛ける。プラットフォームレベルでの自社開発は無いが、欧州フォードやマツダ由来のモデルをベースに、主に台湾市場に焦点を当てた車種の開発を行っている。



  • フォード・フィエスタ

  • フォード・モンデオ
    • フォード・メトロスター [29]



  • フォード・i-MAX [30]


  • フォード・レーザー [31]


  • フォード・テルスター ★

  • フォード・エスケープ[32]


  • フォード・エコノバン [33]



韓国製



起亜自動車製



  • フォード・フェスティバ ★

    • 3ドアハッチバック

    • 5ドアハッチバック[34]

    • 4ドアセダン [35]




現代自動車製


会社設立当初のみ。当初は米国フォード・モーターや欧州フォードの車種のノックダウン生産を行っていた。



  • フォード・コーティナ ★

  • フォード・グラナダ ★



日本製



日本フォード製

  • フォード・T型★ 1925-1940 (子安工場)


マツダ製

以下のいずれもマツダ車のバッジエンジニアリング、またはマツダが開発に深く関わっているモデルである。
カッコ内はマツダでの車名。




  • フォード・J80(ボンゴトラック・バン / ユーノスカーゴトラック・バン)★


  • フォード・J100(ボンゴブローニイトラック・バン)★

  • フォード・エコノバン (ボンゴトラック・バン / ユーノスカーゴトラック・バン / ボンゴブローニイトラック・バン)[33]


  • フォード・スペクトロン【Spectron】(ボンゴワゴン / ユーノスカーゴワゴン)★


  • フォード・イクシオン(プレマシー (初代 CP系))★

  • フォード・テルスター(カペラ / クロノス)★

    • フォード・テルスターII(カペラ(6代目 CG系))★



  • フォード・トレーダー (タイタン) [36]


  • フォード・フェスティバ(121(第二世代))★
    • 3ドアハッチバック[37]



  • フォード・フェスティバミニワゴン(デミオ)★


  • フォード・フリーダ(ボンゴフレンディ)★

  • フォード・レーザー(ファミリア)★

  • フォード・エスケープ[38](トリビュート) ★



日産自動車製


  • フォード・マベリック(オーストラリア) [39]


日本未投入モデル (一部)



  • フォード・Eシリーズ

  • フォードGT

  • フォード・エスコート・コスワース

  • フォード・S-MAX

  • フォード・クラウンビクトリア

  • フォード・コントゥア


  • フォード・ファイブハンドレッド→フォード・トーラス


  • フォード・フリースタイル→フォード・トーラスX


  • マーキュリー・セーブル(現在)

  • フォード・フュージョン

  • フォード・フリースター

  • フォード・レンジャー

  • フォード・スーパーデューティー

  • リンカーン・マークLT

  • リンカーン・MKZ


このほか、創業間もない時期からフォードはトラック、バス、トラクターを生産していたが、米国や欧州で生産していたトラック及びトラクター部門はすでに他社に売却されている。



脚注




  1. ^ Ford Mortor>Our Company>Investor Relations>Financial Reports & SEC Filings>Annual Reports 2011>86P>Consolidated Balance Sheet>Total equity/(deficit)


  2. ^ ただし業務提携は継続しており、非公式ではあるが、ジャガー・ランドローバー・ボルボにエコブーストエンジンを供給している。


  3. ^ フォード、マツダ株20%売却=520億円調達、提携は維持


  4. ^ 米フォードからマツダ株1%取得=約26億円で-広島銀


  5. ^ 中国・吉利、米フォードの高級車部門「ボルボ」買収で最終合意 - ロイター電


  6. ^ 『フォード、3Dプリンターでの部品製造テストを開始』 2017年3月7日 Onebox News


  7. ^ フォードのセダンには、ほかにフォーカス、フィエスタ、フュージョンがある。


  8. ^ “フォード、セダン系は2種類のみに トラックやSUVに注力”. CNN (2018年4月26日). 2018年4月29日閲覧。


  9. ^ “フォード、貿易戦争で中国からのSUV輸入を断念 それでも米で作らない理由”. NewSphere (2018年9月13日). 2018年12月2日閲覧。


  10. ^ Ford Opens Palo Alto Engineering Center (The Wall Street Journal, 2015)


  11. ^ Ford Readies Product Development Centre to Drive Innovation; Expands Australian R&D Investment to $450M in 2017 (Ford Australia, 2016)


  12. ^ Ford to Expand China Research-and-Development Facility (The Wall Street Jounal, 2014)


  13. ^ Chang'an Ford in Chongqing invests RMB 800m to expand R&D center (China Automotive News, 2017


  14. ^ “フォードCEOにフィールズ氏 マツダ元社長、要に日本経験者”. (2014年5月2日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM01044_R00C14A5FF2000/ 2014年5月5日閲覧。 


  15. ^ マツダ・タイタンのキャビンを使用したキャブオーバー型トラック。


  16. ^ マツダ・カペラC2 / マツダ・MX-6の姉妹車。ミシガン州フラットロック所在の、マツダとフォードの合弁工場(現在は合弁解消。フォード単独)で生産された。


  17. ^ 初代(左ハンドル圏向け)及び2代目(北米向け)


  18. ^ 開発の主導は日産自動車。生産は兄弟車の日産・クエスト共々、フォードの工場で行われた。


  19. ^ フォード・エスケープの姉妹車。


  20. ^ フォルクスワーゲン・サンタナセダンのフォードブランド版


  21. ^ フォルクスワーゲン・サンタナワゴンのフォード・ブランド版。


  22. ^ アメリカ製とは別の車体)


  23. ^ Galaxy、アメリカ製とは別の車体)


  24. ^ 日産・テラノIIのバッジエンジニアリング


  25. ^ 欧州製とは別物。コンバーチブルのみ


  26. ^ 欧州製とは別物。日産・ブルーバードのOEMオーストラリア市場向け。


  27. ^ マツダ・BT-50と姉妹関係にある。


  28. ^ フォード・レンジャー(オセアニア・アジア・ヨーロッパ) をベースにしたSUV。


  29. ^ モンデオ・Mk3 をベースに、前面のデザイン変更や高級装備を施した台湾市場専用モデル。


  30. ^ マツダ・プレマシー (2代目 CR系)のフォードブランド版。


  31. ^ ティエラ・アクティバ等、台湾での派生車多数


  32. ^ 初代の中期・後期モデルは当社が開発主体となって、アジア・大洋州向け輸出拠点ともなった。

  33. ^ abマツダ・ボンゴ / フォード・J80/J100 の日本国外におけるフォードブランドの姉妹車。マツダからはアジア・大洋州向けに広く輸出された。台湾向けは福特六和汽車による台湾国内向け生産が行われた。


  34. ^ 日本市場での名称は「フォード・フェスティバ5」


  35. ^ 日本市場での名称は「フォード・フェスティバβ」


  36. ^ アジア・オセアニア地域向け。日本国内市場には投入されなかった。


  37. ^ 「フォード・フェスティバ」としては日本国内向け3ドアハッチバックのみ生産されていた。


  38. ^ 初代の初期モデルのみ。右ハンドル圏向けの生産を手掛けた。


  39. ^ 日産・サファリのバッジエンジニアリング。



関連項目



  • 6大グループ


  • マーキュリー:1938年から2010年までフォードが展開した自動車ブランド


  • メルクール:1980年代後半にフォードが展開した自動車ブランド


  • エドセル:1950年代後半にフォードが展開した自動車ブランド


  • アストンマーティン:2007年3月までPAGの一員だった


  • ジャガー:2008年3月までPAGの一員だった


  • デイムラー(Daimler Motoren):2008年3月までPAGの一員だった


  • ランドローバー:2008年3月までPAGの一員だった


  • 起亜自動車:1998年の経営破綻までフォード傘下だった

  • フォーディズム

  • フォード財団


  • ロバート・マクナマラ:1960年フォード家以外の初の社長、1961年-1968年アメリカ国防長官、1968年-1981年世界銀行総裁


  • リー・アイアコッカ:1970年フォード社社長、1978-92クライスラー社社長


  • フォード・ニュークレオン:1958年に設計したコンセプトカー(原子力車)


  • オートラマ:1980年代にマツダと共同で展開したフォード車販売網。第二次世界大戦後の日本でのフォードブランドの認知度向上に大きく貢献した


  • フォード・ジャパン:日本でフォード車の輸入・販売を行う子会社。オートラマから業務を引き継いだ


  • ピー・エー・ジーインポート:プレミアム・オートモーティブ・グループの日本法人


  • 近鉄モータース:日本国内におけるフォード販売店の老舗


  • クインランド・カーズ:近鉄グループから近鉄モータースの経営権を買収した輸入車販売会社


  • ウイルプラスホールディングス:経営破綻したクインランド・カーズを買収した輸入車販売会社


  • サービス:サービス第一主義を掲げたフォードが戦前の日本にサービスの概念を広めた


  • アイク:元系列会社のコンシューマー・ファイナンス会社


  • ニューホランドAg:一時期フォード傘下となり、トラクターを生産していた


  • CNHグローバル:フォードのトラクター部門を買収した


  • フォード・オーストラリア:2016年をめどに自国自動車生産撤退を発表した。現地生産の撤退は1994年の日産自動車から始まり、いすゞ自動車、三菱自動車工業に続くものでライバル関係にあったGMホールデンも撤退を発表。また、2014年にはトヨタ自動車も撤退を発表したことにより結果的にオーストラリアからは自動車生産が消滅する。これはニュージーランド同様である。


  • 福特六和汽車:台湾におけるフォード・グループの拠点。台湾国内及び一部国外向けに自動車の生産・販売を行う。



著名なエンジンチューナー



  • コスワース

  • サリーン

  • シェルビー

  • ラウシュ



外部リンク








  • Ford(英語)


  • Ford Japan(日本語)



















































































































































































































































































































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