鎖国
日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
長崎の出島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた[1]。
対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)[注 1]及びオランダ[注 2](オランダ東インド会社[注 3])との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である[2]。
なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた[注 4]。
目次
1 語源
2 経過
2.1 「鎖国」完成までの歴史
2.2 「鎖国」中の貿易(四口)
2.3 「開国」までの動きと「鎖国」の終焉
3 背景
3.1 南蛮貿易の開始
3.2 キリスト教の禁止
3.3 島原の乱
3.4 貿易の管理
3.5 「鎖国」に対するオランダの認識
3.6 鎖国祖法観
4 最近の研究
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 関連項目
7 外部リンク
語源
「鎖国」という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年〜1806年)が、1801年成立の『鎖国論』(写本)において初めて使用した[3][4]。1690年から1692年にかけて来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、帰郷後にアジア諸国に関する体系的な著作『廻国奇観』の中で日本についても論じ[5]、死後『日本誌』(1727年刊)が編集され英訳出版された[6]。そのオランダ語第二版(1733年刊)中の巻末附録の最終章に当たる『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、1800年頃に長崎の元阿蘭陀稽古通詞であった志筑忠雄が訳出した。その際、あまりに論文の題名が長いことから、翻訳本文中の適当な語を捜し、『鎖国論』と題した[7][注 5]。
この「鎖国」はその際に新造された語だが、本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖国」という語も広まらなかった。なお、国学者の平田篤胤が『鎖国論』を入手して『古道大意』などの著作に引用されたこと、幕末に黒沢翁満が『鎖国論』を『異人恐怖伝』に改題して自らの攘夷論を示した『刻異人恐怖伝論』(1850)を加える形で刊行されるなど、『鎖国論』そのものの社会に対する影響は小さくなかったとする見方もある[8]。
実際に「鎖国」という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年で、本格的に定着していくのは1858年以降とされている[9]。さらに一般に普及していったのは明治時代以降である[10]。したがって、いわゆる「鎖国令」とは後世の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられていたわけではない。
欧米では日本の外交政策については、メルビルの『白鯨』(1851)で「double-bolted」(当時の玄関ドアなどの上下にそれぞれ取り付けられた様式で、天地スライド錠を締めている)、「locked Japan」(鍵のかけられた日本)との言及があるように、「鎖国」として認識されていた。
経過
「鎖国」完成までの歴史
「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。
1612年(慶長17年)幕領に禁教令
1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。
1620年(元和6年)平山常陳事件。英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。
1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
1633年(寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年(寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[11]。
1636年(寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
1637年(寛永14年)〜1638年(寛永15年)の寛永年間の島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助した。
1639年(寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[12]。
1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。
「鎖国」中の貿易(四口)
「鎖国」政策の下、外国に向けてあけられた4つの窓口を、現代になってから「四口」と呼ぶことがある(「四口」という語は1980年頃に荒野泰典が使い始めた。)[13]。
- 長崎口:対オランダと対清朝中国:長崎会所(天領)経由
詳細は「長崎貿易」を参照
長崎は幕府の直轄地として幕府の管理で貿易が行われた。
対馬口:対李氏朝鮮:対馬藩経由
対馬藩の宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ(釜山倭館における交易)、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。
薩摩口(琉球口):対琉球王国:薩摩藩経由
薩摩藩が琉球王国を攻略、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められた。
蝦夷口:対アイヌ:松前藩経由
松前藩の松前氏は蝦夷地で北方貿易を行ってきた。その権限は江戸時代に入っても引き続き認められ、松前藩の収入のほとんどは北方貿易によって支えられている[注 6]。
「鎖国」実施以前から、幕府は貿易の管理を試みていた。1604年には糸割符制度を導入し、生糸の価格統制を行った。糸割符は1655年に廃止され、長崎では相対売買仕方による一種の自由貿易が認められて貿易量は増大したが、1672年に貨物市法を制定して金銀流出の抑制を図り、さらに1685年には定高貿易法により、金・銀による貿易決済の年間取引額を、清国船は年間銀6000貫目・オランダ船は年間銀3000貫目に限定した。のちに、これを超える積荷については、銅・俵物・諸色との物々交換による決済(代物替)を条件に交易を許すようになったが、1715年の海舶互市新例により代物替が原則とされた。また、定高は1742年と1790年の2回にわたり引き下げられたため、代物替による交易が中心となっていった[14]。
いわゆる「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩、対馬藩や薩摩藩では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易(抜け荷)として行い、それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。これに対して、新井白石や徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関わった上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあった(竹島事件)。
「鎖国」中も幕府は唐船風説書やオランダ風説書を通じて海外の情報を受信していた。1840年のアヘン戦争発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした別段風説書を毎年提出するようになった。別段風説書ではジェームズ・ビドルやマシュー・ペリーの来航予告のほか、海底ケーブル敷設といった情報も伝えていた。
「開国」までの動きと「鎖国」の終焉
18世紀後半から19世紀中頃にかけて、ロシア帝国、イギリス、フランス、アメリカ合衆国などの艦船が日本に来航し、交渉を行ったが、その多くは拒否された。しかし、1853年7月8日には浦賀へアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船が来航し、翌1854年3月31日には日米和親条約が締結され、終に「開国」に至った。その後、日米修好通商条約(1858年)を初めとする不平等条約が続々と締結され、「鎖国」は崩壊したのである。
1778年(安永7年)、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンが蝦夷厚岸に到着。松前藩に、交易を求めたが拒否された。幕府には報告されず[15]。
1787年(天明7年)、ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローが日本近海を航海、千島列島、琉球列島を探検した。宗谷海峡の国際名称ラ・ペルーズ海峡は、彼にちなんだものである[16]。
1791年(寛政3年)、米国の探検家ジョン・ケンドリックが2隻の船と共に紀伊大島に到着、11日間滞在した。日本を訪れた最初の米国人[17][注 7]。- ロシアによる開国要求
1792年(寛政4年)アダム・ラクスマンが大黒屋光太夫ら3名を連れて根室に上陸、通商交渉を求めるも徳川幕府は拒否。しかし、長崎への入港許可証である信牌を与えた。
1804年(文化元年)9月、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンが率いたロシアの世界一周遠征隊が津太夫ら4名を連れ、信牌を持って長崎に来航。特使ニコライ・レザノフが交易を求め、翌年春まで幕府と交渉するものの最終的に拒否される。
1806年(文化3年)「文化の薪水給与令」が出される。- 1806年(文化3年)〜1807年(文化4年)、レザノフの部下であるフヴォストフが樺太の久春古丹や利尻島、択捉島の番屋を襲撃(フヴォストフ事件、文化露寇)、中川五郎治と佐兵衛がロシアに連行される。この事件は幕府が蝦夷地防衛に乗り出すきっかけとなり、日露間の緊張が高まった。薪水給与令は1年で取り消される。
1811年(文化8年)ヴァーシリー・ゴローニン大尉が国後島に上陸、捕らえられその後2年間抑留された(ゴローニン事件)[18]。
1812年(文化9年)8月、ディアナ号が国後島に来航する。日露間で捕虜交換交渉が行われるが、日本側の捕虜である中川五郎治と歓喜丸漂流民6名が脱走したために交渉が決裂。帰途、ディアナ号艦長ピョートル・リコルドは報復として附近を航行していた歓世丸を襲撃、高田屋嘉兵衛を拘束し、翌年6月まで抑留する。
1813年(文化10年)9月、ディアナ号がゴローニンの解放交渉と日本人漂流民の久蔵の送還のために箱館に来航する。なおこの時、ロシアに帰化した善六がロシア側の通訳として使節に同行していた[19]。
- フランス革命戦争とナポレオン戦争の余波[注 8]
1797年(寛政9年)から1809年(文化6年)にかけて、本国がフランスに占領されてしまったため、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの依頼で数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行った[20][注 9][注 10]。
1808年(文化5年)、オランダと敵対関係にあった英国の帆走フリゲート・フェートン号が、オランダ国旗を掲げ長崎に入港。フェートン号事件を起こす。その後も英国船出現が相次いだ。
1825年(文政8年)、徳川幕府は異国船打払令を出し、強硬政策に転換。
1830年(文政13年)、徳川幕府が領有宣言をしていたものの無人島となっていた小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸、入植した[21]。
1837年(天保8年)商船モリソン号が音吉を含む漂流民を日本に送り届けるために浦賀に来航したが、異国船打払令に基づき日本側砲台が砲撃した(モリソン号事件)。この事件後、幕府内部でも異国船打払令に対する批判が強まった。
1842年(天保13年)アヘン戦争における清朝の敗北による南京条約の締結に驚愕した徳川幕府は、政策を転換し、遭難した船に限り給与を認める天保の薪水給与令を発令した。
1844年(天保15年)、フォニエル・デュプラン大佐が率いるフランス海軍の遠征隊が琉球王国に来航、通商を求めるが拒否された。しかし、テオドール・フォルカード神父と通訳が那覇に残った。- 1844年8月14日(弘化元年7月2日)、オランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王ウィレム2世の将軍宛の親書を携えていた長崎に入港。この親書はシーボルトの起草によるもので、開国を求めたが幕府はこれを拒否した[22]。
1845年(弘化2年)、捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、マーケイター・クーパー船長は浦賀への入港を許可され、浦賀奉行と対面した。[23]。
1846年7月20日(弘化3年閏5月27日)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将は戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、開国交渉のために浦賀に入港した。しかし、条約の締結は浦賀奉行に拒否され、数日の滞在で退去した。浦賀にアメリカの軍艦が出現したことを受けて、幕府では無二念打払令の復活が検討された。
1846年7月24日(弘化3年6月2日)、フランスのセシル提督が長崎に来航したが上陸を拒否された。このとき、那覇に留まっていたフォルカード神父を伴っていた[24]。
1848年(弘化5年/嘉永元年)、ラナルド・マクドナルドが、日本人に英語を教えたいと自らの意志で、遭難を装って利尻島に上陸した。その後長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。帰国後は、日本の情報をアメリカ合衆国本土に伝えた[25]。
1849年4月17日(嘉永2年3月27日)、ジェームス・グリン大尉が艦長を務める米国の帆走戦闘スループ・プレブル(USS Preble)が、アメリカ捕鯨船員を救出のため長崎に来航、軍事介入の可能性をほのめかしつつ、交渉を行った。結果、船員とラナルド・マクドナルドが解放された。帰国後、グリンは米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させること、また必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出した。彼のこの提案は、マシュー・ペリーによる日本開国への道筋をつけることとなった。
1849年(嘉永2年)、英国海軍のブリッグ・マリナー号が浦賀に来航し、地誌的調査を行った。マリナー号には音吉が通訳として乗艦していた。音吉は日本とのトラブルを避けるため、中国人であると偽っていた。
1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航。開国を要求した。蒸気船の来航はこのときが初めてであった。
1854年(嘉永7年/安政元年)ペリーが再来航し、日米和親条約を締結。下田と函館を開港し、鎖国が終わる。
1858年(安政5年)タウンゼント・ハリスと徳川幕府が日米修好通商条約を締結し、鎖国が完全に終わる。
なお、学問や商業目的の海外渡航が解禁されたのは1866年5月21日(慶応2年4月7日)のことであった。また、外国人の居住が自由になるのは、正式には内地雑居が認められる1899年(明治32年)7月16日である。
当初の「鎖国」の主目的であった「キリスト教の禁止」は、日米修好通商条約において居留地における教会建設と居留アメリカ人の信教の自由が認められたが、明治政府もしばらくは禁教政策を続けており、日本人に対する禁教が解かれたのは1873年(明治6年)であった。
開国後、オランダのバタビア政庁機関紙『ヤパッシェ・クーラント』が洋書調所で抄訳され、『官板バタヒヤ新聞』や『官板海外新聞』として一般、不定期に販売された。やがてアメリカの新聞をソースとする『官板海外新聞別集』が出回った。これは南北戦争の様子を挿絵つきで伝えた。
背景
南蛮貿易の開始
明朝中国は海禁政策を採っていたが、勘合貿易により日明間の貿易は行われていた。しかし、1549年(嘉靖28年)を最後に勘合貿易が途絶えると、両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのがポルトガルであった。ポルトガルはトルデシリャス条約およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年にはマラッカを占領していたが、1557年にマカオに居留権を得て中国産品(特に絹)を安定的に入手できるようになった。ここからマカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。
徳川家康が政権を握ると、オランダ、イギリスに親書を送り、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立した。しかしながら、両国とも中国に拠点を持っているわけではなく、日本に輸出するものはあまりなかった。結果イギリスは1623年に日本から撤退、オランダも日本への進出は商業的というよりむしろ政治的な理由であった[注 11]。なお、当時のスペインの関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年にセバスティアン・ビスカイノが使節として駿府の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。
キリスト教の禁止
ポルトガル船が来航するようになると、「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年のフランシスコ・ザビエルの日本来航以来、イベリア半島(スペインやポルトガル)の宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名や徳川幕府下の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れたため、キリスト教徒(当時の名称では「切支丹」)の数は九州を中心に広く拡大した。当時の権力者であった織田信長はこれを放任、豊臣秀吉も当初は黙認していたが、1587年にバテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)。
家康は当初貿易による利益を重視していたが、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなった。また、1612年の岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。また、国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威となり、締め付けを図ることとなったと考えるのも一般的である。ただこの後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことからこの禁教令は「鎖国」と直結するものではないとする指摘もある[26]。
当時海外布教を積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教の中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革に端を発するプロテスタント勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが海外に活路を求めざるを得なかったという背景がある。一方、通商による実利に重きを置いていたプロテスタント勢力にはそのような宗教的な動機は薄く、特に当時、スペインからの独立戦争(八十年戦争)の只中にあったオランダは、自身が直近までカトリックのスペインによる専制的支配と宗教的迫害を受け続けたという歴史的経緯から、カトリックに対する敵対意識がとりわけ強かったことも、徳川幕府に対して協力的であった理由と言える。
とは言うものの、中国に拠点を持たないオランダやイギリスが直ちにポルトガルの代替にならない以上、ポルトガルとの交易は続けざるを得なかった。
なお、キリスト教に関しては、単に国内で禁止するだけでなく、海外のスペイン・ポルトガルの根拠地を攻撃する計画もあった。当時オランダ商館の次席であったフランソワ・カロンは1637年9月、長崎奉行榊原職直に対して、日蘭が同盟してマカオ、マニラ、基隆を攻撃することを提案した。その後まもなく長崎代官の末次茂貞は、商館長のニコラス・クーケバッケルに対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛を要請している[27]。しかし、この計画は翌年の島原の乱で立ち消えとなった。
島原の乱
徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱である。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した。ポルトガルは1636年以降出島でのみの交易が許されていたが、1639年にポルトガルが追放されると出島は空き地となっていた。1641年、平戸のオランダ商館倉庫に「西暦」が彫られているという些細な理由で、オランダは倉庫を破却し平戸から出島に移ることを強制された(ポルトガルは出島使用料を年額銀80貫払っていたが、オランダは55貫にまけさせている)。また、徳川幕府に対して布教を一切しないことを約束した[注 12]。しかし、島原の乱からポルトガル追放までは2年の間がある。これはオランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸しており、直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなることが理由であった。
貿易の管理
戦国時代から江戸初期にかけて、国内各地で大量に金と銀(特に銀)を産出していたため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。他方、江戸初期においては特に輸出するものもなく圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。このため、幕府は1604年に糸割符制度を設けて絹の価格コントロールを試みた。17世紀も後半になると金銀の産出量が減り、このため1685年には貿易量を制限するための定高貿易法が定められ管理貿易に移行した。また現代的視点では、長崎の出島・堺を始めとした有力港湾を徳川幕府の直轄領(天領)、若しくは親藩・譜代大名領に組み入れることによって、徳川幕府による管理貿易を行い収益を独占した、という研究がある[要出典]。しかし、幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではなく、また「鎖国」成立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけでもない。貿易の管理・統制については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っていた[28]。
「鎖国」に対するオランダの認識
「鎖国」後しばらくの間オランダは、デンマークやフランスのようなプロテスタント諸国が交易を求めてきたとしても徳川幕府がこれを拒否しないのではないか、すなわち「鎖国」は不安定ではないか、と考えていた。このため、元オランダ商館長で滞日期間が20年を超えており1667年にフランス東インド会社の長官に就任したフランソワ・カロンが「日本との通商を求めるのではないか」と危惧している[注 13]。また英国船リターン号が1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前にオランダ風説書にて英国王チャールズ2世がポルトガル王女キャサリンと結婚したことを幕府に対し報告することによって、オランダはその貿易再開を間接的に妨害している。ところが、18世紀の中頃になると、オランダは「日本人はオランダ人が言う海外情勢は何でも信じる」との認識をもつに至った。既にこの頃になると「鎖国」は安定し確固たるものとオランダは考え、オランダ人の貿易独占権は容易には崩れないとも考えていた[29]。
鎖国祖法観
実現はしなかったものの、18世紀後半に蝦夷地開発に関連して田沼意次はロシアとの貿易を考慮しており、松平定信もロシアとの小規模な貿易を考えて、蝦夷地に来航したアダム・ラクスマンに信牌(長崎への入稿許可証)を与えていた。この信牌を持ったニコライ・レザノフが1804年に長崎に来航し、通商交渉が行われたが、幕府は最終的に通商を拒否した。「海外との交流を制限する体制を自己の基本的な外交政策とする」という明確な認識(鎖国祖法観)を徳川幕府自身がもったのは、この事件をきっかけにしているという説もある[30]。ただし、幕閣の中で「鎖国」という言葉が用いられた初出は1853年と指摘されているとおり[31]、「鎖国祖法」というのは後世の研究者による講学上の造語で、当時の資料では単に「祖法」とされている[32]。
最近の研究
1980年代になると、従来の「鎖国」概念を廃し、一連の政策は徳川幕府が中世の対外関係秩序を再編したものとする考え方が提唱された[33]。さらに2000年代に入って、〈鎖されていなかった徳川日本を「鎖国」と呼んできた歴史〉を歴史化し、それを日本人のアイデンティティと密接に関係する言説として捉え、その形成史を解明する研究が登場した[34]。また、その延長で、「鎖国」だけではなく「開国」も言説として捉え、その形成史を追究する試みも展開されている[35]。
このような背景から、2017年2月には2020年度から使用される中学校の次期学習指導要領改定案から「鎖国」という表現が削除され[36]、小学校では「幕府の対外政策」、中学では「江戸幕府の対外政策」とされる予定であるとの発表があった。しかし、パブリックコメント(意見公募)での批判が多かったことから、幕末の「開国」との関係に配慮し「鎖国などの幕府の対外政策」といった表記がなされることとなった[37]。
なお、海外との交流・貿易を制限する政策は徳川日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていたこともあり、現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東北アジア史を視野に入れてこの「海禁」という用語を使う傾向がみられる。その理由としては、1)「鎖す」という語感が強すぎる、2)対欧米諸国の視点に基づきすぎている、3)否定的なイメージがある、があげられている。しかし、「海禁」自体の研究が十分ではないとの指摘もあり[38]、従来の用語を変えることへの批判もある[39][40]。
脚注
注釈
^ 当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。
^ ネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。
^ 本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行っていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている
^ 清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。
^ ケンペルは上述の論文において、キリスト教的立場に反し、いわゆる「鎖国」体制を肯定する立場を採った。それは次のケンペルの背景を踏まえねばならない。まず、ケンペルは三十年戦争直後の荒廃した地方都市レムゴー(Lemgo)に生まれ、また、そこで遅くまで魔女狩りが残っていたことにより叔父が処刑された経験を持っており、戦争に対する思いやキリスト教に対する疑いの眼差しを持っていた。さらにケンペルは、各地を旅行することで比較文化の眼も養っていた。そのような背景を有するケンペルは、短期間の滞在(1690年〜1692年)と限られた情報源の中で、厳格な処罰により〈平和〉が保持されていた第5代将軍徳川綱吉治世の状態を誤解したことから上述の見解(論文)が生まれた。
^ 北方貿易はアイヌとの交易であるが、アイヌは宗谷海峡、間宮海峡を超えてシベリアとの交易をも行っており、間接的にはシベリアにある清の出先機関と繋がっていた。
^ 現在、和歌山県串本町の紀伊大島にはケンドリックの来航を記念した日米修交記念館がある。
^ 1795年、オランダ本国(ネーデルラント連邦共和国)はフランスの侵攻により滅亡し、衛星国バタヴィア共和国が誕生した。オランダ東インド会社の日本支店に当たるオランダ商館の権利もバタヴィア共和国に移ったが、これは英国と敵対関係となることを意味し、アジア地域におけるオランダ船の航行は難しくなった。そこで1797年よりオランダ東インド会社は米国船と傭船契約し、アメリカのセーラムと米国船にて貿易を継続した。なお、当時の国際関係において米国船籍は、中立国の船として英国もその航行を認めた。但し、長崎入港時にはオランダの国旗を掲げ、名目上はオランダとの通商を行っていることとした。1799年、オランダ東インド会社が解散するとオランダ商館は雇い主を失い、米国船との貿易は1809年まで続いた。(詳しくは黒船来航を参照)。幕府はこのあたりの事情は理解していたが、「見て見ぬふり」をしており、本国がフランスに占領されている間(バタヴィア共和国は1806年にナポレオンの弟のルイ・ボナパルトを王とするホラント王国になり、さらに1810年にはフランスに完全に併合された。オランダが再独立は1815年である。)、出島のオランダ商館は世界中でオランダ国旗が掲げられている数少ない場所となっていた。
^ 1797年(寛政9年)、米国船エリザ・オブ・ニューヨーク号の船長ウィリアム・スチュワート(William Robert Stewart)は、バタヴィアから長崎までオランダの荷物を運んだ。エリザ・オブ・ニューヨーク号は出島出港数時間後に沈没したが、引き上げられた。しかし、その後の消息は不明となった。(毎日新聞 1974年2月4日(月曜日、http://www.geocities.jp/kiemon200/219-index.html)。1800年(寛政12年)、スチュワートはエンペラー・オブ・ジャパン号で長崎に入港する。しかし、オランダ商館から、エンペラー・オブ・ジャパン号はエリザ・オブ・ニューヨーク号(要するにスチュワートが船を盗んだ)であると見抜かれ、交易を拒否された上、バタヴィアの牢に入れられたが、脱獄した。
^
他の米国船での貿易の例は以下の通り(東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』、1999年発行)。
- 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
- 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
- 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
- 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号。
- 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
- 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
- 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
- 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
- 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
- 1809年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
^ 当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。
^ オランダ船は聖書や十字架など船に積んであったキリスト教関係の品を、長崎入港前に投棄していた。
^ 実際、カロン自身はフランスと日本との交易を考えており、アジア赴任にあたっては、将軍への献上品として消防ポンプを選ぶなど(江戸に火事が多いことを知っていたため)、その準備も行っていた。しかしながら、他のフランス人幹部がこれに反対したため、実現はしなかった。
出典
^ 『訂正増補大日本時代史 幕末史』 P.183 小林庄次郎 1915年
^ 荒野泰典著『近世日本と東アジア』、東京大学出版会、1988年、など。
^ 志筑忠雄訳『鎖国論』(写本)、享和元年(1801年)
^ 検夫爾著、志筑忠雄訳、黒沢翁満編『異人恐怖伝』嘉永3年(1850年)刊、3冊(鎖国論を含む印刷された最初の本)。
^ ケンペルの「……国を鎖している日本」論 -志筑忠雄訳「鎖国論」と啓蒙主義ヨーロッパ渡邉直樹、宇都宮大学国際学部研究論集 no.39 p.23 -36、2015-2
^ Heutiges Japan. Hrsg. von Wolfgang Michel und Barend J. Terwiel, 1/1, 1/2, München: Iudicium Verlag, 2001. (Textband und Kommentarband) (『今日の日本』[いわゆる『日本誌』]の原典批判版)ISBN 3-89129-931-1。
^ 大島明秀著『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』ミネルヴァ書房、2009年
^ 大島明秀「『鎖国論』から『異人恐怖伝』へ」井上泰至 編『近世日本の歴史叙述と対外意識』(勉誠出版、2016年) ISBN 978-4-585-22152-4
^ 荒野泰典著『海禁と鎖国』(荒野泰典、石井正敏、村井章介編『外交と戦争』、東京大学出版会、1992年所収)、P212-213
^ 大島明秀著『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』ミネルヴァ書房、2009年
^ シリーズ東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜【第4回】「四つの口」と長崎貿易――近世日本の国際関係再考のために――荒野 泰典 【Profile】
^ 東京大学資料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之四(下)
^ 兼光秀郎、「徳川幕府の対外政策 (鎖国) と現代の国境問題に占める意義」 『島嶼研究』 Vol.2006 (2006) No.6 P1-19, doi:10.5995/jis.2006.1
^ 浅田毅衛著『鎖国政策化の日本貿易』、『明大商学論叢』(第82巻第1号、2000年)、P28-p46
^ McDougall, Walter (1993). "Let the Sea Make a Noise: Four Hundred Years of Cataclysm, Conquest, War and Folly in the North Pacific." New York: Avon Books. ISBN 978-0380724673
^ ラ・ペルーズ著『ラペルーズ 太平洋周航記 上・下』 佐藤淳二訳、岩波書店、2006年、ISBN 978-4000088589、978-4000088596
^ Black Ships Off Japan The Story Of Commodore Perry's Expedition (1946), by Arthur Walworth
^ ゴロヴニン著、井上満訳『日本幽囚記』、岩波文庫全3巻、ISBN 978-4003342114、978-4003342121、978-4003342138
^ 大島幹雄著『魯西亜から来た日本人―漂流民善六物語』、廣済堂出版 ISBN 4331505561
^ K. Jack Bauer, A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways, University of South Carolina Press, 1988., p. 57
^ Asia Society of Japan, Long lecture.
^ 松方冬子著『オランダ国王ウィレム二世の親書再考 : 一八四四年における「開国勧告」の真意』、『史学雑誌』(114巻9号、2005年09月20日)、p1497-1528
^ 平尾信子著『黒船前夜の出会い---捕鯨船長クーパーの来航』日本放送出版協会<NHKブックス706>、1994年。ISBN 978-4140017067
^ Polak著『絹と光: 知られざる日仏交流100年の歴史 (江戶時代-1950年代)』、婦人画報社、2002. ISBN 4-573-06210-6; ISBN 978-4-573-06210-8; OCLC 50875162、p.19
^ ウィリアム・ルイス、村上直次郎 編\富田虎男 訳訂『マクドナルド「日本回想記」インディアンの見た幕末の日本』(刀水書房、1981年) ISBN 4-88708-005-0
^ 宮本義己「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992年)
^ 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之三(上)
^ 太田勝也著『鎖国時代長崎貿易史の研究』思文閣出版 (1992年)。ISBN 978-4784207060
^ 松方冬子著『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』 中公新書、2010年
^ 藤田覚著『鎖国祖法観の成立過程』(渡辺信夫編『近世日本の民衆文化と政治』、河出書房新社、1992年)。ISBN 978-4-309-22217-2
^ 荒野泰典著『海禁と鎖国』(荒野泰典、石井正敏、村井章介編『外交と戦争』、東京大学出版会、1992年所収)
^ 大島明秀著『「鎖国祖法」という呼称』、『文彩』第6号、2010年
^ Ronald P. Toby: State and diplpmacy in early modern Japan: Asia in the development of the Tokugawa Bakufu. Princeton University Press, 1984. 論文著者のロナルド・トビは最近、『「鎖国」という外交』 (全集 日本の歴史 9)小学館 (2008年) ISBN 978-4096221099、を著している。
^ 大島明秀著『近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容』、洋学史学会14, 1-32, 2006-03-00
^ 大島明秀著『「開国」概念の検討―言説論の視座から―』、『國文研究』第55号、2010年
^ “学習指導要領「鎖国」が消えた 小中学校の社会科から”. 毎日新聞 (2017年2月14日). 2017年2月21日閲覧。
^ 次期指導要領で「聖徳太子」復活へ 文科省改定案、「厩戸王」表記で生徒が混乱 「鎖国」も復活産経ニュース 3月20日
^ 松方冬子著『オランダ風説書と近世日本』、東京大学出版会、2007年。ISBN 978-4130262156
^ 村井淳志著『この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「鎖国」研究主流は「鎖国」という言葉を抹殺しつつあるが、本当にそれでよいのか?--「鎖国」研究史を追跡して思うこと』、社会科教育 46(9), 116-121, 2009-09
^ 東京新聞2017年2月17日「こちら特報部」:金沢大の村井淳志教授(歴史教育・社会教育論)は、「鎖国」という言葉の歴史も踏まえ、学校教育で「幕府の対外政策」に完全に言い換えてしまうことの弊害を指摘する。「交易があった事実より、貿易が制限されていたなどを重視すべきだ。幕府が悲壮な決意でポルトガル人追放を決断したことなど、歴史のリアリティーが、言葉とともに流れてしまうとしたら残念だ」
関連項目
- 長崎貿易
- 広東システム
- 孤立主義
- 中華思想
- パラダイス鎖国
- ガラパゴス化
- 非武装中立
歴史の終わり(アレクサンドル・コジェーヴ/モーリス・パンゲ)- 侍政
- 明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧
アルバニア - エンヴェル・ホッジャが築いた、1978年から1990年における同国の強い「孤立主義」政策を「鎖国」と呼ぶ場合がある[1]。
外部リンク
- 『鎖国』 - コトバンク
- JAPAN IN EUROPE: A chronological bibliography of Western books and manuscripts - 16th-19th century
|
^ NHK取材班 『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』 NHK出版、1987年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
ISBN 978-4140085356。