ルディ・トムヤノビッチ
2009年2月のトムヤノビッチ | |
引退 | |
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永久欠番 | ロケッツ 45 |
ポジション(現役時) | フォワード |
背番号(現役時) | 45(永久欠番) |
身長(現役時) | 203cm (6 ft 8 in) |
体重(現役時) | 99kg (218 lb) |
基本情報 | |
本名 | Rudolph Tomjanovich, Jr. |
愛称 | Rudy-T |
ラテン文字 | Rudy Tomjanovich |
誕生日 | (1948-11-24) 1948年11月24日(70歳) |
国 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ミシガン州ハムトランク |
出身 | ミシガン大学 |
ドラフト | 1970年1巡目2位サンディエゴ・ロケッツ |
選手経歴 | |
1970-81 | サンディエゴ/ヒューストン・ロケッツ |
指導者経歴 | |
1983-1992 1992-2003 2004-2005 | ヒューストン・ロケッツ(AC) ヒューストン・ロケッツ ロサンゼルス・レイカーズ |
受賞歴 | |
選手時代
コーチ時代
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ルディ・トムヤノビッチ(Rudolph Tomjanovich, Jr.、1948年11月24日 - )は、元NBAのバスケットボール選手で引退後は指導者となる。 ニックネームはRudy-T。アメリカ合衆国ミシガン州ハムトランク生まれ[1][2]。身長203cm、体重99kg。ポジションはパワーフォワード。ヘッドコーチとして1994年、1995年にヒューストン・ロケッツを優勝に導く。
目次
1 キャリア
2 コーチ時代
3 ヘッドコーチ成績
4 脚注
5 外部リンク
キャリア
1967年からミシガン大学で3シーズンプレーした後、1970年のNBAドラフト2位でサンディエゴ・ロケッツに指名される。71年ヒューストンで迎えた最初の試合で28得点17リバウンドを記録。以後ロケッツのスター選手になる。平均17.4得点、通算得点13383得点、平均8.1リバウンド、通算6198リバウンド。FG成功率.501、オールスターゲームには1974-1977年、1979年出場。プロ生活1970-1981年。背番号45はロケッツで永久欠番となる。
コーチ時代
ロケッツでスカウトを2年、アシスタントを9年経験してロケッツの1991-92シーズン中、残り30試合でドン・チェイニーの後を受けてヘッドコーチに就任した。就任後、アキーム・オラジュワンのトレードを思い留めて、インサイドはオラジュワンに、アウトサイドは3ポイントシューターに徹底させる戦術で1994、1995年にロケッツはNBAファイナル2連覇を経験した。チーム史上、初の優勝経験だった。ロケッツのヘッドコーチは1992-2003年まで勤めて、503勝397敗。勝率.559を記録。プレイオフでは、51勝39敗、勝率.567だった。1998年バスケットボール世界選手権代表チームのヘッドコーチに就任する。ロックアウトでNBA選手が参加せずCBAの選手を中心に銅メダルを獲得。2004-05年にはロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチを勤めるが41試合後に健康状態の問題のため辞任。そのあとはレイカーズのスカウトやコンサルタントに転身。2016-17シーズン終了後に退任した[3]。
ヘッドコーチ成績
NBAヘッドコーチ実績表略号説明 | |||||||||
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レギュラーシーズン | G | 試合数 | W | 勝利数 | L | 敗戦数 | W–L % | レギュラーシーズン勝率 | |
ポストシーズン | PG | 試合数 | PW | 勝利数 | PL | 敗戦数 | PW–L % | プレイオフ勝率 |
チーム | シーズン | G | W | L | W–L% | シーズン結果 | PG | PW | PL | PW–L% | 最終結果 |
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ヒューストン・ロケッツ | 1991–92 | 30 | 16 | 14 | .533 | 3rd in Midwest | — | — | — | — | 不出場 |
ヒューストン・ロケッツ | 1992–93 | 82 | 55 | 27 | .671 | 1st in Midwest | 12 | 6 | 6 | .500 | カンファレンスセミファイナル敗退 |
ヒューストン・ロケッツ | 1993–94 | 82 | 58 | 24 | .707 | 1st in Midwest | 23 | 15 | 8 | .652 | チャンピオン |
ヒューストン・ロケッツ | 1994–95 | 82 | 47 | 35 | .573 | 3rd in Midwest | 22 | 15 | 7 | .682 | チャンピオン |
ヒューストン・ロケッツ | 1995–96 | 82 | 48 | 34 | .585 | 3rd in Midwest | 8 | 3 | 5 | .375 | セミファイナル敗退 |
ヒューストン・ロケッツ | 1996–97 | 82 | 57 | 25 | .695 | 2nd in Midwest | 16 | 9 | 7 | .563 | カンファレンスファイナル敗退 |
ヒューストン・ロケッツ | 1997–98 | 82 | 41 | 41 | .500 | 4th in Midwest | 5 | 2 | 3 | .400 | 1st.ラウンド敗退 |
ヒューストン・ロケッツ | 1998–99 | 50 | 31 | 19 | .620 | 3rd in Midwest | 4 | 1 | 3 | .250 | 1st.ラウンド敗退 |
ヒューストン・ロケッツ | 1999–00 | 82 | 34 | 48 | .415 | 6th in Midwest | — | — | — | — | 不出場 |
ヒューストン・ロケッツ | 2000–01 | 82 | 45 | 37 | .549 | 5th in Midwest | — | — | — | — | 不出場 |
ヒューストン・ロケッツ | 2001–02 | 82 | 28 | 54 | .341 | 5th in Midwest | — | — | — | — | 不出場 |
ヒューストン・ロケッツ | 2002–03 | 82 | 43 | 39 | .524 | 5th in Midwest | — | — | — | — | 不出場 |
ロサンゼルス・レイカーズ | 2004–05 | 43 | 24 | 19 | .558 | (resigned) | — | — | — | — | — |
キャリア | 943 | 527 | 416 | .559 | 90 | 51 | 39 | .567 |
脚注
^ Robert Bajruši (2004年3月16日). “Mislio sam da sam Poljak dok mi roditelji nisu rekli sa smo Hrvati [I thought I was Polish until my parents told me we were Croats]” (Croatian). Nacional (weekly). オリジナルの2012年7月4日時点によるアーカイブ。. https://www.webcitation.org/68u03CIWz?url=http://www.nacional.hr/clanak/13762/mislio-sam-da-sam-poljak-dok-mi-roditelji-nisu-rekli-sa-smo-hrvati 2012年7月4日閲覧。
^ Michael Wallis (1978年11月13日). “Severely Injured by a Rival Player's Punch, Rudy Tomjanovich Enjoys An Amazing Comeback”. People (magazine). http://www.people.com/people/archive/article/0,,20072182,00.html 2013年1月19日閲覧。
^ Lakers, Rudy Tomjanovich part ways
外部リンク
ClutchFans.net Profile - Houston Rocket Fan Site- University of Michigan Profile
- ルディ・トムヤノビッチ --- 略歴と通算成績 --- NBA日本, NBA (英語) Basketball-Reference (英語)
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