エジプト第15王朝






エジプト第15王朝の領域


















































エジプト第15王朝(紀元前1663年頃 - 紀元前1555年頃)は第2中間期時代の古代エジプト王朝。いわゆるヒクソス(ヘカウ・カスウト「異国の支配者達」の意)と呼ばれる異民族によって立てられた王朝である。この王朝についての後世のエジプト人の記録は敵意に満ちており、圧制を敷いてエジプト人を苦しめたとされているが、現代ではこのエジプト人の記録が酷く誇張されたものであることを明らかにされている[1][2]。少なくとも第15王朝の支配領域に居住したエジプト人達が「異民族統治」を強く意識したのかどうかはかなり疑わしい[3]。20世紀の調査によってヒクソスが大軍をもってエジプトに侵入した可能性はほとんど否定されているからである[4]。第15王朝はやがて異民族の追放を掲げたテーベの政権(第17、第18王朝)によってエジプトから放逐された。




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 ヒクソス政権の成立


    • 1.2 アジア人の移住


    • 1.3 第15王朝の支配


    • 1.4 第17王朝との戦い




  • 2 歴代王


  • 3 関連項目


  • 4 脚注


    • 4.1 注釈


    • 4.2 出典




  • 5 参考文献


    • 5.1 原典資料


    • 5.2 二次資料


    • 5.3 外部サイト




  • 6 外部リンク





歴史



第15王朝の起源はヒクソスの起源に関する問題でもあるが、ここではヒクソス自体の起源問題には触れず、ヒクソスの政権奪取に関する問題について記述する。ヒクソスの起源問題についてはヒクソスの項目を参照されたい。



ヒクソス政権の成立


ヒクソスによるエジプトの支配権確立の経緯について記す記録は1500年後のマネト[注釈 1]による記録しかない。


「トゥティマイオスの代に、原因は不明であるが、疾風の神がわれわれを打ちのめした。そして、不意に東方から、正体不明の闖入者が威風堂々とわが国土に進行して来た。彼らは、圧倒的な勢力を以て、それを簒奪し、国土の首長たちを征服し、町々を無残に焼き払い、神々の神殿を大地に倒壊した。また、同胞に対する扱いは、ことごとく残忍をきわめ、殺されたり、妻子を奴隷にされたりした。最後に彼等は、サリティスという名の王を1人、指名した。彼は、メンフィスに拠って上下エジプトに貢納を課し、最重要地点には守備隊を常駐させた。」

マネト『エジプト史(AIGUPTIAKA)』より[注釈 2]


この記録に登場するトゥティマイオスは恐らく他の史料に登場するドゥディメス1世の事であると考えられる[5]。彼の名はゲベルアイン(ルクソールの上流30キロメートルあたり)の石碑から発見されている。彼を含む南部の王達は、ヒクソスに従属しながら統治するに過ぎなかったであろうと見られる[5]


マネトによれば下エジプトのナイル川デルタ東部を制圧したヒクソスの王サリティス(またはサイテス)はアヴァリス市(現在のテル・アル=ダバア遺跡[注釈 3]を建設し、そこを拠点にエジプトを支配したと言う。


彼らがエジプトを支配下に置いた時代は現在概ね紀元前17世紀半ばに比定されているが、ヒクソス時代の記録は乏しい。また、ヒクソスがエジプトに複合弓、戦車、新型の剣などを導入したという見解は広く受けられている[7][注釈 4]が、考古学的な調査結果はこうした軍事的に優勢な異民族が大挙侵入してエジプトを占領したと言う見解を必ずしも支持しない。



アジア人の移住





ベニ・ハサンの壁画。アジア人が薄い肌色(左側)で、エジプト人が褐色の肌(右側)で描き分けられている。


ナイル川デルタ地方におけるアジア人[注釈 5]の移住は第1中間期から中王国時代には既に始まっており、第15王朝が成立するよりも前に、高い地位と権力を持つアジア系の人物が登場していた。またヒクソスによって建設されたという記録の残るアヴァリス市は、既に第12王朝時代には存在していたことが確認されており、実際の起源は第11王朝まで遡ると見る学者もいる[9]


アヴァリス市の調査結果はアジア系の集団が権力を握る過程を考える上で重要である。アヴァリス市で発見された中王国時代初期(第12王朝時代)の居住区は、センウセレト2世のピラミッド建設労働者達の都市カフン(ヘテプ・センウセルト)の居住区と構造が酷似しており、極めてエジプト的な都市であった。この居住区は第12王朝2代目のセンウセレト1世時代には放棄されており、第12王朝後期頃に南西に新しい居住区が形成された。この新しい居住区は旧来の居住区と異なり、住居の配置・構造が北シリアのそれと類似していることが明らかとなっており、シリア・パレスチナ地方の文化的影響を受けているのは確実である[10]。この住居跡に付随する墓地からはシリア・パレスチナ地方の武器が発見されており、この都市に多数のアジア系外国人傭兵が居住していたことがわかる。第12王朝末期頃の墓地からは現物の2倍の大きさを持つ人間の石製坐像が発見されているが、その独特の髪型と黄色く塗装された皮膚の表現などから、この像はアジア系の高官を表現したものであると考えられる。第13王朝時代には墓の前にロバを埋葬するシリア、メソポタミア地方と共通の習慣があったことが確認されるようになり、シリア地方のバアル神が崇拝されていた痕跡も残されている。このバアル神はエジプトのセト神と関連付けられ、第14王朝時代にはセト神がアヴァリスの主神となった。このセト神はヒクソスが崇拝した神であり、何らかの関連があるのは確実であると思われる。この時代には恐らくアジア系と見られる王も登場している[11]


このようにヒクソス(異国の支配者達)はエジプトの内部で勢力を拡大したアジア系の人々と関連性が強いと考えられ、エジプトの行政機構などは第15王朝によって引き継がれたと考えられる。強大な異民族の集団が外部から侵入しエジプト国家を粉砕したと言う古代エジプト人の見解は、今日あまり支持されていない。



第15王朝の支配


マネトはヒクソスの支配を6人の王による合計284年間としている。一方トリノ王名表では6人の王、108年間とされている。マネトの記録した統治期間は明らかに過大であり、トリノ王名表の記録が現実的な値に近いとされている[12]。ヒクソス(第15王朝)に関する歴史史料はかなり限られており、個々の王の業績は明らかではない。


第15王朝はメンフィスまでを占領した後、アヴァリスを拠点にパレスチナからナイル川デルタ東部までの地域を直轄支配下に置いてエジプトを支配した。パレスチナ地方における拠点はシャルヘン(現在のテル・ファラ)であった。行政機構は中王国時代に形成された官僚組織を引き継いだと考えられ、エジプト人官僚が多く実務に携わっていた。他の地方に対しては諸侯を封じる一種の「封建体制」を敷いた。これら従属的な諸政権には貢納の義務を負わせて宗主権を行使したが強力な支配体制を敷いた痕跡は見当たらない[13]


テーベに成立していた第16王朝[注釈 6]、第17王朝もまたヒクソスの権威を一時的には承認していたと考えられる。これに関する証拠として、第15王朝の王キアンが第17王朝の首都テーベ近郊のゲベレインに神殿を建設していることがあげられる。ヒクソスの歴代王、特に後半の王達の名前を記したスカラベ等の記念遺物がヌビア地方などからも発見されている。キアン王は手広く交易活動を行っており、彼に関連した遺物はミュケナイ(クレタ島)やアナトリア半島、メソポタミアからも発見されている[13]



第17王朝との戦い


やがてテーベの第17王朝が力をつけてくると、彼らは異民族支配の打破を大義名分として第15王朝を攻撃した。第15王朝と第17王朝の戦いは長期間に渡ったが、初期の戦いの様子は詳らかではない。と言うのも初期の戦いに関する記録が数世紀後に書かれた説話しかなく、しかもこの説話が断片的にしか今日に伝わらないためである[18]。第19王朝時代に記録された説話の1つ『アポフィスとセケンエンラーの争い』によれば、第17王朝が戦いを開始したのはセケンエンラー(前1574頃)の時代であったという。第15王朝の王アペピ(アポフィス)が、テーベのアメン神殿の聖なる池で飼われていたカバの鳴き声がうるさく、安眠ができないので殺すように要求してきたことが戦いの発端であるとされる。このような理不尽な命令を受けてもセケンエンラーは当初アペピの使者を親しく迎え入れ、二心なきこと誓ったが、やがて第15王朝に対する朝貢を取りやめて戦争を開始するに到った。これはヒクソスの支配がいかに理不尽なものであったのかを強調した物語で史実とは見なし難いが、セケンエンラーが第15王朝に対する戦いを行っていたことは確かめられている[14][19]


第15王朝と第17王朝の戦いは長く激しいものであった。少なくとも当初第15王朝は第17王朝に対して勝利を収め、セケンエンラー2世を戦死させ、第17王朝の攻撃を一時頓挫させることに成功した[19][20]。しかし第17王朝側ではセケンエンラー2世の子カーメス(前1573頃 - 前1570頃)が即位し、彼は再び戦端を開いた。第15王朝はクシュ(ヌビア北部)と同盟を結んで対抗しようとしたが失敗に終わり、カーメスによって大幅に領土を奪われたとされる[21]。このカーメス王との戦いに関する流れは、カーメス王の戦勝記念碑の記録に基づいてなされるが、戦勝記念碑という文書の性質上、ある種の誇張を含む点には注意が必要である。カーメスが早世したため、第17王朝ではその弟イアフメス1世[注釈 7](前1570頃 - 前1546)が即位してなおも第15王朝に対する戦いを続けた。第15王朝の首都アヴァリスは断続的な包囲を受けて陥落し、第15王朝はエジプトの支配を失った。これによって第15王朝のエジプト支配は終焉を迎えたのである[22][23]。第15王朝の残存勢力はパレスチナ側領土の拠点シャルヘンに引いたが、イアフメス1世は第15王朝の完全撃破を企図してパレスチナ遠征を敢行し、シャルヘンでの3年間にも渡る包囲戦の結果第15王朝は完全に滅亡し、ヒクソスの時代は終わりを告げた。その時期は紀元前16世紀半ば頃であった[23][24]



歴代王




アペピ王の名前が刻まれたスカラベ。ボストン美術館所蔵。


第15王朝の王はマネト、トリノ王名表の記録では6人であるが、トリノ王名表は損傷が激しく判読困難な状態である[25]。まずマネトの記録では第15王朝の歴代王は以下の通りである。なお、マネトの記した『エジプト史』そのものは散逸して現存しない文献である。このため他の書物で引用された部分などから内容が復元されているが、第15王朝の歴代王について記した部分の引用では文献によって王名に異同がある。

















































マネトによる第15王朝のファラオの一覧
アフリカヌスの引用による王名 ヨセフスの引用による王名 同時代史料に見られる対応する王名[26]
備考
サイテス サリティス シャレク
ブノン ブノン
パクナシ アパクナシ
スターン イアンナス キアン
アフォフィス アポフィス アペピ アケンエンラー=アペピ
アウセルラー=アペピ
ネブケペシュラー=アペピ[注釈 8]
アルクレス アシス カムディ

次に示すのは同時代の遺物や他の史料に登場する王名であるが、王統の復元には問題が多い。特にアペピ(アポフィス)と言う誕生名(ラーの子名)を持つ王が複数の王なのか、それとも第11王朝のメンチュヘテプ2世がホルス名を次々と変更したように、同一の「アペピ王」が次々と即位名を変えていったものであるのか判然としない[注釈 9]。また、それぞれの王の関係も明瞭ではない。


これらの王名の中でもヤコブヘルやキアンなど明らかに西セム系の要素を持った王名はヒクソスの起源などを考える上では重要である。また彼らの即位名が太陽神ラーを構成要素に含む伝統的なエジプトの即位名を踏襲したものであることは注目に値する。なお、この王朝の歴代王について統一的な系譜は復元されていない。以下の表はクレイトンの記述に依るが、ドドソンはキアンとアペピ以外の王についての明確な情報はないとする[28]

















































第15王朝のファラオの一覧
ホルス名[30]
即位名[30]
誕生名 備考
マアイブラー シェシ (シャレク)
メウセルエンラー ヤコブヘル
イネクタウィ セウセルエンラー キアン
アウセルラー アペピ1世
アケンエンラー アペピ2世
ヘテプイブラー
カムディ[注釈 10]



関連項目



  • ヒクソス

  • エジプト第16王朝

  • エジプト第17王朝



脚注


[ヘルプ]


注釈





  1. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。


  2. ^ マネトの『エジプト史』は現存しない史料である。本記録はフラウィウス・ヨセフスの著作『アピオーンへの反論』での引用によって現代に伝わっている。訳文は参考文献『ヒュクソスのエジプト支配』p. 150に依った。また第15王朝(Barbaroi!)にて、全文を読むことができる。


  3. ^ アヴァリス市の位置については長く論争が行われていた。かつてはフランスのピエール・モンテらによって唱えられたタニス遺跡がアヴァリスであるという説が長く有力であった。何よりもタニスがナイル川デルタ地方で最大の遺跡の1つであったためである。しかし1970年代のオーストリアのマンフレド・ビータクらの発掘調査の結果、テル・アル=ダバアがアヴァリスの遺跡であることが確実なものとなった[6]。詳細はアヴァリスを参照


  4. ^ ヒクソスによるエジプトへの戦車導入についてはこれに疑問を唱える学者もいる。セーテルベルクは、ヒクソス時代の墳墓に馬が埋葬されている例が全く見られない事や、徒歩で猟を行う猟師の図像表現が見られる事(このような表現は馬を十分に活用する文化圏ではあまり見られない)などを指摘し、ヒクソスが戦車戦術などの新兵器、戦術を駆使してエジプトを支配したという見解に疑義を呈する。彼はこのような戦術は、ヒクソスがエジプトを支配するようになった後、第17王朝との戦いのために新しく導入したものであるとし、その導入時期はむしろヒクソス支配の最末期の時期であったとしていた[8]


  5. ^ エジプト学の文脈では、アジア人と言う用語はレヴァントやシリア、アナトリア地方南岸の人々を指す意味で使用される。


  6. ^ 第16王朝はヒクソス系の多数の小首長達をまとめたものであるとされていたが[14][13][15]、近年ではロイホルトによる提唱に従い、第13王朝に続く上エジプトの政権と位置付けた見解も強まっている。例えばスペンサー[16]、ドドソン[17]らがその見解に立つ。ただしスペンサーは前提として1文で触れるのみで、この件について考察はしていない。本記事ではドドソン, ヒルトンの見解に従い、第16王朝をテーベの政権とする前提で述べる


  7. ^ イアフメス1世はマネトによって第18王朝の王とされている。イアフメス1世は明らかに第17王朝のセケンエンラー2世の息子でありカーメスの弟であるが、にも関わらず新王朝の初代王とされるのは、彼がエジプトを再統一した王であるとともに、古代エジプト史上最高の繁栄の時代である新王国の創始者として重視したためであると言われている。詳細はエジプト第18王朝を参照。


  8. ^ アペピ(アポフィス)と言う誕生名を持つ、3つの王名の組み合わせ(即位名=誕生名)があるが、同一人物であるのか別の王であるのかは不明である。


  9. ^ フィネガンやドドソンはこれを同一人物と考える[27][28]。一方、クレイトンは2名のアペピ王の存在を想定する[29]


  10. ^ クレイトンはカムディを歴代王に含めていない。カムディの名はトリノ王名表の末尾にある[27]




出典





  1. ^ セーテルベルク 1973, p.150


  2. ^ 屋形ら 1998, pp 452-453


  3. ^ 屋形ら 1998, pp 454


  4. ^ セーテルベルク 1973, pp.150-157

  5. ^ abフィネガン 1983, p. 287


  6. ^ 近藤 1997, pp. 112-114


  7. ^ 屋形ら 1998, p. 452


  8. ^ セーテルベルク 1973, pp.154-155


  9. ^ 近藤 1997, p. 114


  10. ^ 近藤 1997, pp.114-115


  11. ^ 近藤 1997, pp.115-122


  12. ^ フィネガン 1983, p. 289

  13. ^ abc屋形ら 1998, p. 453

  14. ^ abセーテルベルク 1973, p. 161


  15. ^ クレイトン 1999, p.122


  16. ^ スペンサー 2009, p 47


  17. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, pp. 116, 285


  18. ^ セーテルベルク 1973, p. 160

  19. ^ ab屋形ら 1998, p. 456


  20. ^ クレイトン 1999, pp. 122-123


  21. ^ セーテルベルク 1973, pp. 162-163


  22. ^ フィネガン 1983, p. 295

  23. ^ ab屋形ら 1998, pp. 456-457


  24. ^ クレイトン 1999, pp. 122-125


  25. ^ クレイトン 1999, 120


  26. ^ ジャック・フィネガンの推定に依る。フィネガン 1998, p. 289

  27. ^ abフィネガン 1983, p. 290

  28. ^ abドドソン, ヒルトン 2012, p. 115


  29. ^ クレイトン 1999, p. 119

  30. ^ ab“The Second Intermediate Period” (英語). PHARAOH.SE. 2017年5月30日閲覧。 左記サイトを参考にした。




参考文献



原典資料


  • “マネトーン断片集” (日本語). Barbaroi!. 2017年6月24日閲覧。


二次資料



  • T.セーヴェ=セーテルベルク 「ヒュクソスのエジプト支配」『西洋古代史論集1』 東京大学出版会、1973年2月。ASIN B000J9GVX2。

  • ピーター・クレイトン 『古代エジプトファラオ歴代誌』 吉村作治監修、藤沢邦子訳、創元社、1999年4月。ISBN 978-4-422-21512-9。

  • ジャック・フィネガン 『考古学から見た古代オリエント史』 三笠宮崇仁訳、岩波書店、1983年12月。ISBN 978-4-00-000787-0。

  • 近藤二郎 『世界の考古学4 エジプトの考古学』 同成社、1997年12月。ISBN 978-4-88621-156-9。

  • 屋形禎亮他 『世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント』 中央公論社、1998年11月。ISBN 978-4-12-403401-1。

  • A.J.スペンサー 『図説 大英博物館古代エジプト史』 近藤二郎監訳、小林朋則訳、原書房、2009年6月。ISBN 978-4-562-04289-0。

  • エイダン・ドドソン、ディアン・ヒルトン 『全系図付エジプト歴代王朝史』 池田裕訳、東洋書林、2012年5月。ISBN 978-4-88721-798-0。



外部サイト



  • “The Second Intermediate Period” (英語). PHARAOH.SE. 2017年6月24日閲覧。

  • “15th Dynasty (1640-1522)” (英語). The Ancient Egypt Site. 2017年6月24日閲覧。

  • “第二中間期 (紀元前1,650~1,550年頃)(1)” (日本語). 古代エジプト史料館. 2017年6月24日閲覧。



外部リンク



  • ウィキメディア・コモンズには、エジプト第15王朝に関するカテゴリがあります。



Popular posts from this blog

Human spaceflight

Can not write log (Is /dev/pts mounted?) - openpty in Ubuntu-on-Windows?

張江高科駅